河内の赤坂城守将の平野将監の一族     

              −ある中世系図の検討方法 (1)−

   

  最近では、インターネット上に様々な情報が提示され、歴史史料関係でもネット利用ができるデータベースがかなり整備されてきた。こうしたデータベースを有効に利用することにより、系図研究の新しい展開もありうるように思われる。
 そうした一例として、データベース閲覧のなかで気づいたある中世系図を取り上げて、その検討を加えるものである。


 
 一 はじめに−色川三中と平野氏系図
 
 先般、なんの気なしに東大史料編纂所のデータベースを見ていたら、常陸の中世豪族・江戸氏の配下であった平野氏の系図に気になる個所があった。そこで、少し調べてみるとさらに興味をひきそうなことが分かったので、これをまとめて本稿で提示してみることにしたい。
 
 その系図は『江戸譜』という書のなかに掲載されており、収集・編纂者は色川三中いろかわ・みなか。1802生〜55没)とみられる。茨城県の土浦市(常陸国新治郡土浦)は江戸時代は野田などとならんで醤油醸造業が盛んな土地であったが、江戸末期にこの地で醸造業・薬種商を営む豪商であるとともに国学者として名をあげたのが、色川三中である。色川英恵の子で、名は英明、通称は桂助・三郎兵衛、号は東海・瑞霞園といい、天保年間に橘守部に入門し、古代の田制・税制などの研究を行い、鎌倉・室町期の古文書を多数収集編纂し『香取文書纂』などを著し、『新撰常陸国誌』にも関与しており、中世社会経済史料研究に貴重な足跡を残したとされる(『日本史広辞典』など)。
 色川三中が収集編纂した史料は、多く世田谷区の静嘉堂文庫文庫に所蔵されており茨城県立歴史館が色川三中旧蔵書及び関係する史料を、写真撮影により収集し目録にしている)、また、東大史料編纂所にも数多く謄写されて残る。そのなかには地元常陸の系図関係史料もかなりあり、これら謄写本は一八八〇年代に三中の子孫の色川三郎兵衛が原蔵する史料を基としている。こちらのほうの色川三郎兵衛は明治の政治家で、当時、地域が悩まされていた霞ヶ浦からの「逆流」という水害に有効な対策をうつとともに、常磐線敷設の立役者といわれ、その銅像が土浦市にある。
  
※ 常陸国の総合史誌である『新編常陸国誌』は、徳川光圀が家臣小宅生順に命じて編纂させた『古今類聚常陸国誌』を補なう形で編集された書であるが、その成立に色川三中も大きく関与した。すなわち、塙保己一門下で『群書類従』編纂・校訂にあたった日立出身の中山信名(1787〜1836)が原著(東京の静嘉堂文庫に自筆六一巻が所蔵)を書き、土浦の国学者色川三中がこれに校訂を加え、明治時代に水戸出身の史学者栗田寛が転写したうえ、大幅な増補、修正を加えて完成させたのが『新編常陸国誌』である。中山の原稿は一部にすぎず、大半が栗田寛の増補といわれる。

  さて、ここで取り上げるのは「平野氏系図」で、『江戸譜』という史料のなかにある。同書には江戸氏一族とその配下の諸氏の系図と関係史料が三冊に分けて記載されるが、そのなかで上巻に所収があり、那珂郡菅谷村(現那珂市菅谷で、水戸市の北方近隣)在住の善左衛門家に伝わる系図とされる。

 私が興味をもった理由は二、三あって、まずこれらをあげると、次のようなものである。
@ 系図に登場する人物の活動地域が尾張→河内→讃岐→常陸と変遷しており、記事を仔細に見ると、二ないし三の系図が接合されていると判断される。中世系図のある意味特徴的な動向と傾向を示しているともいえよう。そうすると、この系図を検討する方法を示すことにより、中世系図を取り扱うときには、どのような注意とアプローチが必要かを示すことができる。
A 河内時代の系図部分には、鎌倉末期に楠木正成兄弟の配下として討幕の挙兵を行い、赤坂城に立て籠もったと『太平記』等に記される平野将監が見えており、その一族の系譜は他書に見ない貴重なものであるので、これを紹介する価値が大きい。
B 常陸に遷住してからの系図でも、江戸氏の配下として活動して他の史料に見える者が記載されており、信頼性が割合高いと思われる。もちろん、次の二で示すような問題点がないわけではないが、河内以降は、総じて中世系図としては信頼性が高いとみられるうえに、系図に登場する人物から見ても価値が高いと判断されるからである。
 
 つい最近、二〇〇六年三月に東大寺の関係史料からなる「宝珠院文書」ほうしゅいんもんじょ)が公開された。これは、京都大学総合博物館が所蔵する七六〇通あまりの文書で、中世から近世にかけての東大寺の実態を伝える貴重な史料であって、学界で注目を集めている。その文書のなかに河内国の「平野将監入道」も見えており、いわゆる「悪党」としての活動実態が知られる事情もある。そうすると、平野一族の系譜を考えることにより、悪党研究にもつながることになる。
 
 
 二 平野氏系図の概要と検討ポイント
 
 平野氏系図の全体は 系図画像『江戸譜』上巻の第二四〜二六枚に六葉で掲載されるが、ここでは、末尾部分の江戸期に入った二系統の四世代分の記事は省略した)を見ていただくことにして、概要を示せば次のようなものである。
 系図は清和源氏の源満仲・満政兄弟から始まり、江戸中期の十八世紀中葉頃の世代まであげられる。それに拠ると、@尾張源氏のなかから平野氏が出て、A鎌倉期に河内に移り、討幕挙兵の際に楠木方の大将として赤坂城に立て籠もった平野将監を出すが、B叔父たち一族は立籠りをしなかったものの、讃岐に走り、そこで守護の細川頼之・頼元に仕えた。Cその子孫が後に常陸に遷って江戸氏に仕え、戦国末期に江戸氏が滅びたあとは、そのまま常陸の菅谷村に居住したというものである。
 
 こうした平野氏の動向を具体的に見ていくと、
(1) 系図のはじめの部分は、源満政の子の忠重から平野冠者重季まで、九代にわたって尾張源氏の系譜が記される。これは『尊卑分脈』にも同じ内容の記載があり(ここでは五世代の人名を省略して掲載)、ここまでが信頼できるとしても、次の系図部分につながるわけではない。
すなわち、平野冠者重季の子に某をおき、その弟に重則(平野二郎、住河内)をおくが、この個所は別の系図同志を繋げるものである。平野冠者重季の子が尾張から河内へ行く事情が説明されないうえに、重季が十三世紀中葉の建長頃の人(承久討死の重朝の子)とみられるのに対し、平野二郎重則は子孫の平野将監から逆算すると鎌倉初期頃の人とみられるから時代が合わない。従って、本件系図では平野二郎重則より前の系図部分は無意味であり、切り捨てて考えたほうがよい。
尾張の平野氏と河内の平野氏はまったく別の氏であるが、先祖の系図を失った事情がある故か、中世系図にはこうした異系図の接ぎ木がかなり見られる。
 
(2) 平野二郎重則から平野将監重吉(及びその従兄弟たち)までの六世代が、次の部分である。年代的には鎌倉初期から南北朝初期までの時期に対応するとみられ、この部分が平野氏系図で最も重要な系図部分と考えられる。
@ まず、平野将監重吉については、「太郎後号将監、母八尾別当女、正慶二年属楠正成守赤坂城降敵被誅」と記される。この話は『太平記』巻六の赤坂合戦条に見えており、元弘二年・正慶元年(1332)末に楠木正成が第二次挙兵をした際、金剛山麓の千早城とともに赤坂城(桐山城)に楠木方が拠った。幕府の八万余という大軍の包囲下で、赤坂城の大将は平野将監入道がつとめ、副将は正成の弟七郎正季で、兵力約三百人が立てこもって自然の利を生かして奮戦したが、翌元弘三年・正慶二年(1333)二月に飲み水の路を絶たれたことで、翌閏二月に大将平野将監は降参し捕えられ、京の六条河原で捕虜全員が首をはねられたが、その際に、正季のほうは金剛山に落ちのびた。これは、鎌倉幕府が滅びる三か月前の事件である。
 「宝珠院文書」により、平野将監入道が持明院統に近侍する西園寺家の家人として一定の地歩を京都に築いていたこと、その一方で大覚寺統ゆかりの僧を通じて長洲荘乱入中止の申入れをうけた際に、多額の裏金要求が拒否されたため乱入に加わったことが明らかとなった。交通の要衝平野の地を苗字にもつ彼は、諸方の「悪党」と組んで各地を闊歩していたとされている。楠木氏の悪党活動も知られるから、そうした連携があったということになる。(この辺の記述は、宝珠院文書の紹介記事による
A 平野将監重吉の叔父や祖父も史料に見える。正慶元年(1332)末に正成は赤坂城を奪回し、翌正慶二年一月には六波羅勢を摂津の天王寺などで撃破した。上記の二月の赤坂籠城及び落城はこれらに続く事件であるが、『楠木合戦注文』には、正慶二年一月十九日の摂津の天王寺合戦について、次のように見える。
 「大将軍四條少将隆貞、楠木一族、同舎弟七郎、石河判官代跡百余人、判官代五郎、同松山并子息等、平野但馬前司子息四人四郎ハ天王寺ニテ打死ス、平石、山城五郎、切判官代平家、春日地、八田、村上、渡邊孫六、河野、湯浅党一人、其勢五百余騎、其外雑兵ハ数知レズ
 すなわち、天王寺合戦には平野但馬前司の子息四人が参加し、そのうち四郎が天王寺にて討死したというものである。平野氏系図には、平野将監重吉の祖父に重時(前司)をあげ、その子に重紀(玄蕃允)、重用(二郎)、重連(草鹿三郎)の三人をあげるが、系図にはたんに「前司」と見える重時が平野但馬前司に当たり、系図に見えない四郎が天王寺で討死した者に当たることになる。この辺も、平野氏系図と『楠木合戦注文』とがほぼ符合しているといえよう。
B 系図では、二郎重用と草鹿三郎重連は籠城しなかったものの讃岐に走ったといい、そこで子孫が足利方の細川頼之に仕えることになったと記される。草鹿三郎重連の子孫は讃岐にあるといい、その子の平野太郎重音の子孫は西国にあって菊池に属し、のちに鍋島に仕えたと記す。平野太郎重音の弟は平野又二郎音有というが、この子孫が讃岐に残ったものか。讃岐の平野氏はその後あらわれない。
 
(3) 讃岐から常陸への移遷時期にも、系譜の大きな混乱が見える。この移遷の事情も明らかではなく、動向には疑問点があるが、さりとて、現存史料では否定すべきほどの事情も不明である(後述するが、通称に疑問が見られる)。
@ 常陸の平野氏につながるのは二郎重用の後裔であって、その子の又三郎音正が細川頼之に仕えるというが、「又三郎」という通称と「音正」という実名からは、音正は本来は三郎重連の三男で又二郎音有の弟であり、伯父の二郎重用の養子になったのではないかと推測させる。本系図において、この音正の記事分量がもっとも多いのは、初めて細川氏に仕えたということで、中興の祖的な位置づけがあるものか。その意味で、音正から新しい系図が始まっているともいえよう。
A 系図では、又三郎音正の曾孫に善次郎宗重をおき、明徳二年(1391)に細川頼元に仕え討死したと記され、さらにその孫に応永二三年(1416)に江戸但馬守道勝に仕えた次郎兵衛重勝がおかれるが、讃岐守護の細川宗家では、頼之の養嗣は実弟の頼元であるから、この辺の系図には世代的にみて系線等の大きな混乱がある。
B 年代と名前を考え併せると、おそらくは、又三郎音正と右衛門兵衛重正とは同人であって、その孫が善次郎宗重、その子ではなくて弟が善右衛門宗忠であって、次郎兵衛重勝・官兵衛敦勝兄弟の父は善次郎宗重か、ということではないだろうか。
  ただ、異なる系図が接合されていて、又三郎音正から別の系図が始まる可能性も残ることに留意される。その場合には、音正と重正とは親子でよいことになる。
 
(4) 常陸で活動が記される次郎兵衛重勝以降は、あまり問題がなさそうである。系図では、応永二三年(ママ。同年の上杉禅秀の乱を契機に、その十年ほど後に大掾氏はいったん討滅される年代は数説ある)に江戸但馬守道勝(彦五郎通房のこと)が常陸大掾を滅ぼしたときに道勝に仕えたとあり、その五代後の将監重国まで子孫の代々が江戸氏に仕えたと記される。この期間の記事がもう少し多ければ、戦国期の常陸の江戸氏の動向が分かると思われるのだが。
@ 次郎兵衛重勝の曾孫の与七郎・豊前重資は、『姓氏家系大辞典』ヒラノ第24項の記事に見え、「那珂郡菅谷の士に平野豊前守重資あり。江戸氏配下の将にして、江戸但馬の女を娶り、鷹場の地を与へられる」とあり、その文書には、永禄十年(1567)丁卯、菊月六日の日付があることも記される。系図には、主家との通婚も見えない。
A 豊前重資の孫の将監重国は、江戸重通に仕え、天正十八年(1590)の江戸氏没落の時に若年で討死し、その後に女子しかいなかったので、平野本宗家はここに絶えたことになる。
B 四郎右衛門・庄右衛門兄弟が将監重国の弟におかれるが、重国の譜に「懐胎時父卒」と記されるから、重国には弟がいないはずであり、四郎右衛門兄弟の父は、重国の従兄弟の玄蕃道宗ではなかろうか。また、重国懐胎の時に父が卒していたのなら、重国の父の豊前重友が永禄九年(1566)に卒していて、その翌年の永禄十年に豊前重友の父の豊前重資の文書があって不自然ではない。
以上の諸事情から、将監重国の生年が永禄九年か翌十年ということで、天正十八年(1590)の討死の時に享年が二四歳か二五歳となるから、娘一人しかいなくて家が絶えたことも理解できる。
C 常陸の平野氏においては、室町前期の善次郎宗重、善右衛門宗忠以降、通称に「善」を用いる者が多く見える。善九郎秀円・善七郎秀隆や江戸前期の四郎右衛門の孫の善兵衛・善左衛門親房などがそうであり、通常「善」が三善氏に出る氏の者の通称に用いられるから、常陸の平野氏は河内や讃岐の平野氏とは別流であった可能性も示唆する。那珂郡には三善邑があったから、この地に起った一族から出たことも考えられる。讃岐から常陸への移遷時期において、系図に世代や系線の混乱があるのも、そうした事情を示唆するのかもしれない。
  その一方で、河内以来、「二郎」や「将監」の通称が多く見える事情にあるので、河内以降は一系としてもよいのかもしれない。この辺は、判断に迷うところである。
このほか、常陸には佐竹氏に仕えた平野氏もあり、出羽秋田に遷った佐竹藩の家中には平野丹下家、平野左源太家が見えるが、これら両平野家との関係も明らかにしえない。常陸には、那珂郡に平野の地名があり(現那珂市平野)、菅谷の北西六キロほどに位置するため、この地との関係もありえよう。
 
 
 三 河内の平野氏の出自−草鹿と悪党の意味するもの
 
 平野氏系図を終わりまで見てきたが、姓氏は清和源氏と称しており、それ以外の姓氏としては、通称の「善」が出自・系譜を示唆するものかと記した。ところが、河内の平野氏は、明らかに清和源氏ではなく、その一方、別の姓氏を系図の記事が示唆している。それが「草鹿」である。
 草鹿の記事が見えるのは、平野将監の叔父の草鹿三郎重連についてであって、「善く草鹿を射る」から草鹿と号したと見えるが、これは牽強付会である。草鹿(くさじし)とは草で鹿のような形を作った騎射の的であるが、こう表記したのは、通例は同音の日下部に出自した故としてしか考えられない。現に日下部氏族には、草鹿酒人宿祢水女という者が『続日本紀』に見える。

 河内には上古から河内郡日下郷に日下部を名乗る氏族が居住しており、それが開化天皇の皇子と称する彦坐王の子の狭穂彦の流れである。その系図は、鈴木真年編纂の『百家系図稿』巻六に日下部連の系図としてあげられる(『古代氏族系譜集成』548頁も参照のこと)。この一族は平安期までは近衛の下級官人として仕えたといくつかの史料に見えるが、平安末期には武力をもち、保元の乱に際しては、日下部十郎大夫貞直は平清盛に属して軍功があった。『保元物語』には、清盛に相従う人々のなかに「草刈部十郎大夫定直」と見える。
 十郎大夫貞直の子は日下部太郎信直といい、その子が中太郎重直と系図に見えるが、この者の時代が鎌倉初期の鎌倉殿頼朝将軍の時代にあたりそうである。してみると、平野氏の祖とされる平野二郎重則とは、中太郎重直の弟にあたる可能性がある。この「中」の意味がはっきりしないが、地名に由来するものだとすると、赤坂城の北方近隣に「中」という地名(現南河内郡河南町大字中)が見えることに留意したい。
 しかも、太郎重直の子孫は代々「重」を通字として、七世孫の日下部六郎重氏に至るが、重氏は南朝に仕え楠木氏の幕下に属して武功があったと上記系図に見える。こうした相通ずる傾向からも、平野氏の日下部連姓出自は疑いない。
 
 こうした上古以来の有勢の土豪が悪党化しているのだから、平野一族の長が「但馬前司」を名乗るのも不思議ではない。「宝珠院文書」が示すように、西園寺家の家人として実際に任官した可能性すらある。
 関連して、臨川寺領の和泉国大鳥郡若松荘(現堺市)などに関して、同じような悪党活動を行った楠木氏がおり、「悪党楠木兵衛尉」正成その人かと元弘元年(1331)秋頃の史料に見られる。これより早く、永仁三年(1295)に東大寺領の播磨国大部庄の百姓らにより提出された申状には、楠河内入道らの非法が記される。この楠河内入道は年代などから正成の父の正玄にあたるものとみられるが、上記「但馬前司」に通じる「河内入道」という呼称に着目される。
 楠木氏の系譜所伝はいくつかあるが、熊野国造家の末流で本姓は熊野宿祢、通例は橘朝臣姓を称したものとするのが最も妥当であり、これは紀ノ川流域の五條市あたりから山越えして河内に入ると千早赤阪村となるから、地理的にみても妥当しよう。こうした事情から、「悪党」という呼称と活動だけで系譜・出自の下賤さを考えてはならない。
  なお、日下部氏の本拠は河内郡日下郷(現東大阪市)とされようが、河内の平野氏の苗字の地は疑問が残る。河内に有力な「平野」の地名がないことからいって、摂津国住吉郡の平野郷(現大阪市平野区)と考えておくのが無難なところか。平野氏と八尾別当との通婚も河内国若江郡八尾との近隣性につながる。
 
 ここまでの検討を通じて、「平野氏系図」は、系図も記事(譜註)も比較的簡単なのが惜しまれるが、部分的には比較的信頼性のある系図であったことが分かった。なかでも重要性の高い河内の平野氏については、日下部氏との関係など解明されない事情がいくつか残るが、この後は「宝珠院文書」などの新史料によりそれらが解明されることを期待したい。
 
(07.9.2 掲上)


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