松平長忠と小豆坂合戦

      −平野明夫著『三河松平一族』を読みつつ初期の松平氏を考える−

                                   宝賀 寿男
  


一 はじめに
 
 最近の松平氏研究はかなりの発展を見せているが、そのなかで大きな役割を果たしてきた研究者として、新行紀一氏(『新編 岡崎市史 中世2』などの一連の著作)がまずあげられ、次いで煎本増夫氏(『戦国時代の徳川氏』など)、平野明夫氏(『三河 松平一族』など)、所理喜夫氏等の諸氏があげられる。
 それぞれに労作が多いが、彼らのいずれもが新行氏のいわゆる「松平中心史観」(基本的に徳川将軍家〔及びその前身の安城松平家〕の権原・支配を正当化し幕藩体制を維持する立場から描かれた歴史観、及びこれに与する歴史観、と解される)に対して批判的な視点に立っているといえそうである。これは近代歴史学としては当然の立場であるが、従来は多かれ少なかれ江戸幕府により編集・推進された史料・文書に拠る研究が多かったことから、三河を中心とする地域の室町・戦国期の歴史の原像を探るうえで必要な姿勢といえよう。
 私は、幕藩体制下の譜代大名など三河・尾張・美濃など東海地方に出自する大名家の系譜の研究を通じて、『寛永諸家系図伝』(『寛永譜』)、『寛政重修諸家譜』(『寛政譜』)ないしは『藩翰譜』に代表されるこれら諸氏の系図には、後世の造作・仮冒が多いことを実感してきた。この関係の所伝の原型を探り史実を把握するために、安城松平中心史観を適切に批判していかねばならないことである。
 
 さて、平野明夫氏の『三河 松平一族』(以下、「本書」ともいう)は、それまでの同氏の研究を踏まえた立派な労作である。松平本宗の部分が第八代広忠までの記事で終わっていること、十八松平などといわれる松平諸分流や譜代家臣などの検討記事がないことが惜しまれるが、これは出版の量的制約上そうなったもののようであって、いたしかたない。ともあれ、上掲書ともども、今後の松平・徳川氏研究のための基礎的な文献の一つといってもよかろう。こうした評価はほぼ一般的な模様であり、同書の記事に基づいた所見も、このところネット上などで見られている。本書のオビに付けられた「家康の神格化で歪められた松平・徳川家の歴史を正し、真実を描いた労作」という謳い文句にも、あまり誇張はないとさえ、私自身、高く評価しているところである。
 とはいっても、本書の記事の全てが正しいかというと、個別個所では首を傾げるところもないではない。本書における史料の解釈・主張にはいくつかの仮説も当然あり、安城松平中心史観批判という立場を同じくしたとしても、検討の結果、帰結が異なることも当然あるからである。
 以上のような事情の下で、本書の問題点ではないかと感じる二点(及びこれらに関連する諸点)ほどを取りあげ、本書記事の丸呑みが起きないように注意を喚起したいと思った次第でもある。その二点が標題に示す@松平長忠なる人物の位置づけとA広忠のときの小豆坂合戦であり、以下に詳しく考察していきたい。この過程で、『国史大辞典』の高木昭作氏執筆による松平氏の項の記事の批判も当然出てくることになる。

 
二 松平長忠の位置づけと岩津松平家の消長 
 
 親氏に始まり家康の父・広忠までが「松平八代」と一般に呼ばれ、家康が戦国大名へ、さらには将軍へと成長する基礎を形成した。この八代は、松平家督が「(1)親氏―(2)泰親―(3)信光―(4)親忠〔法名西忠〕―(5)長親〔法名道閲〕―(6)信忠―(7)清康―(8)広忠―家康」、という系譜とされており、実系では親氏と信光が親子で、泰親は親氏の弟であったものの、あとは直系とみられている。なお、(4)親忠及び(5)長親については、実名の確認ができず、史料に確認できる法名を〔 〕内に記しておいた。
 
 松平長忠という呼び名について、歴史辞書等の取扱いも含め、あまり知られているとはいえないが、新行氏や平野氏は、松平家第五代(家康からみれば四代祖先)の家督(惣領)とされる松平長親がその名前では史料に見えず、現存する発給文書では長忠と記されるとして、この長忠が長親と同人と考えており、平野氏の本書では、「第五代 松平長忠」という項立てがなされている。しかし、これは正しい取扱なのであろうか。実際のところ、「長忠=長親同人説」は仮説にすぎないのである。
 新行氏や平野氏(以下、「両氏」ともいう)はまだ安城松平家中心史観から抜け切れていないのではないか、と私は感じる。結論から先に言うと、長忠は、長親と同様に第四代親忠の子で松平家の当主であるが、それは安城家ではなく岩津家であって、長親とは別人と考えられる。以下に、具体的な検討を加えていくことにしたい。
 
 松平長親という名が史料に見えず、同時代に長忠という名が松平氏の代表者として史料に見えることは、両氏の指摘のとおりである。といっても、長忠が現れる史料は管見では三個にすぎず、長親については入道して名乗った法名の道閲という期間が非常に長く、その名で史料に多く現れるから、本書は正確さを期そうと思うのなら、史料に長忠で現れる個所は長忠と記し、道閲の名前で現れる個所はそのまま道閲で表示すべきであった。これが同人説でも別人説でも穏当な取扱いだと思われるが、読者の読み易さを考えてか、すべて長忠の名で本書は記述されるから、当然長忠が正しいという錯覚に読者を導くことになる。おそらく別人説は平野氏の念頭にまったくないと思われ、この点で安城松平中心史観にとらわれていると感じるものである。
 私は松平氏関係の多くの系図・史料集を見てきたが、それらにおいて長親を基本として「初名忠次」という記事は見たものの、長親を長忠として本書きで記載するものや長親の別名を長忠と記載するものは一件ですら管見には入っていない。そうした事情があることから、系図研究の大家・太田亮博士や明治の鈴木真年翁ですら、「長忠=長親同人説」では記載していない。すなわち、『姓氏家系大辞典』の記事にはこの説は記載されず、松平氏を含む『新田族譜』などの鈴木真年翁の膨大な系図史料集にも同様に記載されていない。
 管見に入ったかぎりでは、大学頭林述斎が監修し天保十二年(1841)に完成した『朝野旧聞襃藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)では、始め忠次あるいは長忠で、のちに長親と改めたとする。江戸末期に系譜研究家・田畑吉正生没が1770〜1845が編纂した『参陽松平御伝記』にも長親の名を基本として、その別名として長忠があげられる。偽書ともいわれる『東栄鑑』には、「明応八年(1499)十月長忠君御剃髪有テ出雲守入道道閲(始号次郎三郎蔵人)と称セラル」と記される。次いで、柴田顕正氏編纂の『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』(1926刊)や阿部猛等編『戦国人名辞典』、新行氏でも田畑吉正と同様の取扱いがなされる。そして、平野氏の長忠を前面に出した取扱いにつながってくる。
 
  そこで、具体的に史料に当たって考えてみよう。長親の生年はa文明五年(1473。「関野済安聞書」)とも、b寛正三年(1462。鈴木真年『新田族譜』)ともされるが、天文十三年(1544)八月に死去したことはほぼ確かであるから、aの場合は享年72歳、bの場合には享年83歳ということになり、当時でもかなりの長寿であったことが知られる。『朝野旧聞襃藁』では、a説のほか康正元年(1455)以前説もあげ、本書では、平野氏は、弟の超誉存牛が文明元年(1469)の生まれであれば、文明五年説は成り立たないとして、康正元年頃の生まれと考える。長親にはほかに97歳説もあるようであるが、これらは父親忠の生年(永享十年〔1438〕ないし同十一年〔1439〕等の諸伝があり、前者が最も有力かつ妥当の模様)から考えると、康正元年以前の誕生説は取りえず、b寛正三年(1462)説が最も穏当ではあるまいか。それは、次に記す長親出家の時期から見ても、二十代末年で出家したとすることに疑問を感じるからである。
  長親は、比較的早くに出家して道閲を名乗るが、この法名の文書の初見では父西忠(第四代親忠)の遺言状に見える明応十年(1501。文亀元年)五月とされる。それ以前の約40年(ないし29年)の期間にこの者がどう名乗ったかということになる。一方、長忠の名が文書に見えるのは、@長享二年(1488)九月、西忠(親忠)・長忠という連署で発給文書を出したのを初めとして、AB「松平蔵人長忠」と見える明応五年(1496)十二月二十日及び同月二六日の妙源寺文書二通まで、その名の文書がある。
  ところで、長忠の名は系図に見えないわけでもない。例えば、中田憲信編の「徳川家譜」(『好古類纂』二篇第六、七集に所収)では長親の弟に長忠を掲げて「松平右京亮、居額田郡岩津」と註する。『中興武家系図』所収の徳河家系図では、岩津の太郎親長を右京親正(信光二十男)の子に置いて「親忠嫡男」と註し、その子に小太郎長忠をあげる。前者については中田憲信が何に拠ってこうした系図を編纂したのか不明で、若干の混乱もあり(長忠を、その弟の右京進張忠と混同して、子に甚六郎康忠をあげる点など)、後者の『中興武家系図』にも若干の混乱もあると思われるが(岩津太郎親長は信光の嫡男であって、右京親正の子に置くのは誤り、また「親忠嫡男」という註は長忠に係るものか)、長忠が岩津に居て「小太郎」と名乗ったという記事は重要である。長忠が親忠の子から子のない伯父岩津親長の養嗣になったにせよ、太郎の子の太郎を意味する「小太郎」という称は注目される。「参州本間氏覚書」が長忠を親忠の子としていない、と平野氏が記述している。
 
  ここで、岩津松平家の位置づけとその系譜が、問題として浮上してきたのが分かる。
  新行氏などの研究を通じて、多くの松平系図では、岩津松平家が相対的に貶められた形で記載がなされていることが分かってきた。すなわち、岩津松平家の始祖とされる親長には、京都における金融等の活動が史料に見えて具体的な活動年代が知られること、『三河物語』に信光が岩津の城を惣領に渡したと記されること、親長は初め修理亮を称し後に父信光と同じ和泉守と名乗ったことなどの事情からみて、親忠の子ではなく兄であって、第三代信光の嫡子として第四代の松平惣領に位置するというのが史実であった。これに関連して、親長同様に親忠の子とされる源次郎乗元(大給松平の祖)も、実際には信光の子であり、これは平野氏の本書でもそうした理解が記述される(他の所伝も併せ考えると、実際には信光の養子であって別氏の荻生氏から入るとするのが妥当か)。親忠は分家の安城松平家の祖であるから、この辺から早くも安城松平中心史観が顔を出していることになる。
  史料に見える親長の活動は、寛正三年(1462)正月から始まり、確実なところでは永正元年(1504)十月十六日までであると新行氏はみている(『新編岡崎市史 中世2』)。その後の永正七年(1510)三月九日*1には、債務廃棄の関係で「松平和泉守」の名が見える記事が『大日本史料』9-2「古証文」にあるが、新行氏も指摘するようにこの年の新しい徳政令ではないため、当時存命かどうかは不明である。
 親長の生没年は不明なものの、親兄弟から一応の推定ができる。父の信光は応永十一年(1404)の誕生でほぼ異説がないようである。没年は長享二年(1488)であるから、その場合は享年85歳だが、私は、その父・親氏が応永同廿七年(1420)頃に死去した可能性があること(足助八幡宮の『大般若経』奥書)から、信光の生年は上記所伝より五,六年ほどの範囲で引き下げても良さそうだと感じている。中田憲信編「徳川家譜」では享年が79歳とされているから、応永十七年(1410)生となり、信光諸子との関係からいえば、憲信記述が妥当ではなかろうか兄弟でいえば、次弟とみられる弥次郎親則(長沢松平を継ぐ)が「妙心寺本尊仏像記」の記事から1436年生まれとみられ、三弟とみられる次郎三郎親忠が1438年頃生まれだとすると、親長は1430年代の前半ないし半ばの頃に生まれたと推される。
 親長の没年も不明であるが、確実な史料に見える年からそれほど遠くない時期に、しかも1501年の弟・親忠の死亡より前の時期に、京都で死去したのではないかと推される。長く本領を離れてほとんど三河に帰らないまま、父信光の死後にあってもさらに在京を続ける理由は考え難いからである。年齢的にも上記1504年頃まで生存していれば、そのときには70歳ほどであって、この老年に到るまでに出家もしないで「和泉守」の称号を名乗ってそのまま在京で活動していたとは考え難い。ちなみに父・信光の出家は寛正二年(1461)の妙心寺創建頃とみられており、生年が上記1404年だとすると58歳のとき(1410年生のときでは52歳で出家)であったし、弟・親忠も長享二年(1488)九月には法名の西忠で見えるから、50歳頃には出家していたものとみられる
 『朝野旧聞襃藁』には、「松平九郎左衛門親以家伝」により延徳元年(1489)正月という親長の没年を記しており、新行・平野両氏は永正元年(1504)十月十六日付け文書に「松平和泉守親長申」とあることから延徳元年説を否定するが、これは実際には「松平和泉守親長()申」の意味ではなかろうか。ただし、延徳元年説をそのまま肯定できる事情もないので、おそらくは次代の長忠の活動が単独で見える1496年頃までには親長は死去したのではなかろうか。明応六年(1497)七月の西忠の大樹寺への寄進状(「大樹寺文書」)には、西忠が一族に対する命令権を保持していた様子が窺われるので、このときには西忠が松平一族のなかで最高実権者となっていたとみられる。いずれにせよ、弟・西忠(親忠)の死亡時にも松平惣領がまったく出て来ず、松平氏存亡の危機であった永正三年(1506)に始まる今川氏の侵攻、新行氏のいわゆる「三河大乱」にも松平惣領が我関せずでいたということは、まず考えられないことである。
 惣領の親長には実子がいなかった模様であり*2、次弟の親則も早世した事情にあったことから、三弟・親忠の嫡子の長忠が岩津惣領家を継いで、その後まもなく親忠(西忠の実名は新行氏は確認できないとされ、それが実際に親忠であったのなら、父と同名となる)と名乗ったとみられる。すでに長忠の時代の長享二年(1488)九月に、その実父は西忠を名乗って長忠と連署で文書を発給しているから、この頃から長忠は松平惣領として活動を始めたものであろう。
 
*1 新行氏が永正七年(1510)三月九日と記す文書の日付について、本書では永正十七年(1520)三月九日と記されており、『大日本史料』の記事から見て、平野氏の単純な誤記ではないかとみられる。そのうえで、このときまで親長は存命であったと平野氏は記すが、本文で述べた事情からいって、とても採りがたい。

*2 「松平九郎左衛門親以家伝」には、親長が延徳元年(1489)正月に死去して、幼少の子の四郎左衛門忠勝が残され、伯父親忠のはからいで大代・小代(現岡崎市〔もと額田郡額田町〕東端部の大代町辺り)の二村分与を受け塩平を居所としたという所伝がある。しかし、親長の死亡年齢からすれば、忠勝が幼少であったとは考えられず、忠勝が実在の人物としたときでも、別途岩津にいた松平一族(正則後裔の五井系統か)の子弟であろう。忠勝の後はその子の「親重−勝次……」と続くとされるが、これらの事績ははっきりしない。
 
  明応五年(1496)七月に、「親忠」という者が菅生の満性寺に寺領一カ所を寄進している(「満性寺文書」)。安城家初代の親忠は、この当時既に出家して西忠となっていたうえに、花押も異なっているので、同文書が偽造でない限り、親忠という同名であっても、両者は別人とみざるを得ない。問題の親忠については、花押の酷似を理由に岡崎松平の左馬允親貞と同人で一時的に称したという説(新行紀一説)もあるが、これではなぜ親忠と記したのか説得的ではない。『系図綜覧』上巻所収の「御当家系図」には、安城城主で法名西忠をもつ親忠の子に、また再び同じ名の親忠を掲げて「岩津麁子(ママ。養子の誤記か)、右京亮」とし、その子に張忠を置いて「助十郎、右京亮、或作長家弟」と註する。この点で、子のほうの親忠は長忠に重なる面がある。張忠は弘忠とも書かれ、長親・長家などの弟に当たる人物である。
  ただ、問題は、五か月後の明応五年(1496)十二月の妙源寺文書に、また松平蔵人長忠」と見えることである。これを上記満性寺文書との関係で適切に説明することはできないが、どちらかが改名を失念したか後記なのかもしれない。
 
  松平長忠は永正の今川軍の侵攻のさい、岡崎などで戦ったが、結局、滅ぼされてしまって岩津家が絶えたか大きく衰えた模様であり、そのため、撃退に功績のあった安城家の信忠がこれに替わって松平氏の本宗(惣領家)となったのではないかとみられる。こうした事情に加え、長忠の名前や続柄などの複雑さで、後にその存在が混乱したものではなかろうか。
  なお、『三河物語』では、長親について、命が危ないという状況に遭ったことでは松平歴代で他にいないと記しているが、当時の松平惣領は本当に敗死したのではなかろうか。同書では、伊勢宗瑞以下の軍勢が岩津城に押し寄せたが、迎え撃つ「岩津殿」は戦上手の戦いぶりであったとして、今川勢に対峙したのが岩津の松平惣領家であったことを記している。この時期には既に親長は死去していて、その次代(ないし次々代)が当主となっていたとみるのが自然である。
  どの程度信頼がおける記述かどうかが不明であるが、『東栄鑑』には、文亀元年(1501)の今川軍勢の侵入に際して、岩津の「城主松平大膳入道常蓮、同修理亮長則」や松平刑部丞親光等が対処したという記述があり、注目される。仮に同書の記事が信頼されるとした場合に、岩津の太郎親長が修理亮という通称を持っていたことからみて、長則は親長の嫡孫ではなかったろうか。そうすると、同記事とその記載順序からいって、城主と記される松平大膳入道常蓮*3はその父で岩津の松平本宗家の当主だったのではないか、と推される。常蓮の城は、『三州古城記』に拠ると、「妙心寺裏の古城」とされており、松平源次郎(親則)の古城も同書に「岩津村西北妙心寺裏」と記されていて、これが同じもので信光の岩津城だったのではなかろうか。
  岩津の親長の母が一色刑部大輔常義女と伝えられ、常蓮は常義(おそらく法名)と関係するのかもしれない。文亀元年の西忠(親忠)の死亡のときの大樹寺警固の連判状署名十六人のうち、岩津大膳入道常蓮だけが、その系譜が不明であり、ただ一人が「入道」とあってなかでも長老格を示している。親長の跡が長忠(常蓮入道にあたるか)、その子が長則とすると、命名でもつながりが良いように思われる。
  長則のその後の消息は不明であるが、永正十四年(1517)閏十月の大樹寺文書に土地の売主として岩津弥太郎が見えるから、通称と年代からすると、長則かその子にあたる可能性がある(素直に考えれば、弥太郎は比較的若年で、長則の子となろう)。仮にそうであれば、この時点まで岩津家は存続していたことになる。本書には、「親長の系統が天文年間(1532〜1555)に絶え」という表現が見られるが、その根拠が不明である。
 
*3 岩津大膳入道常蓮については、滝村の万松寺所蔵の薬師如来画幅の裏書に見える文明十三年(1481)七月八日付け銘文は、「岩津入道常蓮」が識したものと記される。しかし、その記事には「我君信光卿御子孫」という奇妙な表現も見られ、柴田顕正氏編纂の『岡崎市史』第壱巻の割註にあるように「実はこの文、その当時のものか否か、甚だ疑問とせられて居る」という評価でよさそうである。新行氏も同様で、「内容に疑問があり、同時代史料とするには問題がある」と記される(『新編岡崎市史』)。
 
  以上に、安城家の初代西忠及び二代道閲に関わる系譜の問題点を岩津家に関連して記してきたが、その後の安城家についてもまだ系譜上の問題は残る。具体的には、二代道閲と三代信忠の関係である。
  管見に入った松平関係系図の全てで、道閲の子が信忠となっているが、これに疑問がないではない。明応十年(1501。実は改元して既に文亀元年)五月付けの西忠遺言状には、三郎(信忠を指すとみられる)は初七日までで城に返すものの、道閲その他の兄弟(すなわち西忠の諸子)は二七日喪服で大樹寺に居るのがよい、と記されていて、この時点で信忠が家督となっていたと推定され(新行説に同旨)、信忠も西忠の子(末男)ではないかとみられるからである。後年、道閲が子の信定(桜井家の祖)を愛し、信定が惣領の広忠と岡崎を争ったのも、血統上の理由があったのかもしれない。
  新行氏は、西忠・道閲(本書の表現では「親忠・長忠」)の確執を想定したが、私も新行説同様、この二人が親子であっても、両者間になんらかの確執があって、西忠は早くに道閲を無理矢理引退させて愛する信忠に家督を譲らせたのではないかと推定している。私は、信忠が道閲の子ではないことは、信忠とその子弟の通称からも傍証されると考えている。文亀三年(1503)八月には松平信忠禁制写(称名寺文書)があって、このときには既に信忠が安城家家督になっていたものとみられる。
 
  この問題については、一応この程度にとどめるが、官撰書ともいえる『朝野旧聞襃藁』を基礎に、松平氏歴代の生没年や系譜関係を考えることは、松平中心史観にとらわれることに通じよう。柴田顕正氏や平野氏の記述を見ても、同書に記す生没年が必ずしも妥当ではない例がままあるからである。上記以外の問題点について少し概観しておくと、第六代信忠の生没年については、確認しがたいとして『戦国人名事典』が記載しない事情にもあるなど、これまで通行してきた清康や広忠の享年についても疑問が大きい(清康の若年死亡は、その偉大化及び父信忠の生年引下げにつながる)と私はみている。また、大樹寺警固の連判状署名者の系譜関係についても記述したい点が多少あるし、これに関連して、大樹寺の松平氏における位置づけについても、新行・平野両氏に対して異議がある。
  両氏は、二級史料とはいえ、松平氏の一族・家臣やその周辺にあった諸氏の系図資料にもっと留意してもよいのではないか、多くの資料を総合的に考察して妥当なところに接近するよう努める必要があるのではないかと感じる次第でもある。
 
 
三 安祥城をめぐる攻防と小豆坂合戦の時期
 
  室町期及び戦国期の歴史を追っかけていくと、この合戦は実際に起きたのだろうか、またその時期はいったい何時だったのだろうかと考えさせるほど、諸伝・諸説が多いものがある。松平氏についても、その例に漏れず、松平広忠のときの安祥城(城を示す意味で、この表現とする)をめぐる攻防とそれに関連する小豆坂合戦の時期が問題になってくる。
 
  一般に通行する説に反対して、平野氏は本書で、北条氏康から織田信秀宛の書状などに拠り、安祥城をめぐる攻防は一度だけで、天文十七年(1548)のことだと強調するが、これは採用しがたいと考える。根拠とする書状そのものに問題がないとはいえないほか、このときの三河・尾張の動向を見ると、次のようなものが自然であるからである。
  天文四年(1535)十二月五日に、いわゆる「森山崩れ」で尾張へ侵攻中の松平清康が殺害されると、桜井家の松平信定は次期当主たるべき広忠を追放して実権を握る動きを見せたが、松平家臣団の支持が得られず、広忠は岡崎城に戻った。この内訌によって松平氏は弱体化し、逆に尾張の織田信秀は三河に侵攻して来て、刈谷の水野忠政と共に安祥城を攻めたので、守りの松平一族の多くが討死して、天文九年(1540)六月には城を奪った。織田軍は城代に織田信広(信長の庶兄)を置いたが、同十八年(1549)の三月に広忠が暗殺された後の十一月に、今度は松平・今川連合軍によって攻められて織田氏の守る安祥城は落城し、捕虜となった守将の信広は松平竹千代(家康)と人質交換された。こうした経緯を経て今川氏の将が安祥城に入った。
  この間、三河での織田・松平両軍の合戦は数次に及んだ。天文十一年(1542)八月に今川義元勢が小豆坂で織田信秀と戦い(第一次小豆坂合戦)、このときは織田勢が勝ち、信秀の兄弟などが小豆坂七本槍と讃えられた。次いで同十四年(1545)九月、松平広忠は安祥城奪還を図ろうとして織田信秀軍と激突し敗れたが、このとき大軍に囲まれて窮地に陥った広忠は、家臣本多忠豊の働きで血路が開かれ助かったと伝える。同十六年九月には広忠は三河田原の戸田康光を攻めて落城させ、翌十七年(1548)三月中旬には再び小豆坂合戦(第二次小豆坂合戦)があり、今度は太原雪斎が率いる今川・松平勢が勝利をおさめた。同年四月中旬には、岡崎城を攻めようとした織田方の松平信孝(広忠の叔父で三木城主)がその南方の明大寺で討死している。
  こうした動向が通説的なもので自然であり、関係する諸武家でもそのように伝える。天文九年六月六日の安祥合戦に参加した松平一族やその配下の諸氏(渡辺氏など)では、その被害が大きかっただけに、この年月日をそれぞれの家で伝えていてなんら争いがなく、『戦国人名辞典』や河出書房新社刊の『日本史年表』でも同日の出来事だと記され、数の問題ではないが、きわめて多数の研究者が小豆坂合戦二回説をとっている。
 
  平野氏は小豆坂合戦は二度ではなく、天文十七年の合戦が一度だけだと主張するが、諸家の家伝と異なる。例えば、松平一族でも、松平郷松平家の隼人正信吉は天文十一年八月十一日の小豆坂合戦(第一次)に長子伝十郎とともに討死したと伝える(『寛永譜』)。『三河物語』でも、天文十一年の第一回小豆坂合戦に今川義元が生田原に陣を取り、同十七年の第二回小豆坂合戦では今川勢の総大将太原雪斎が同じく生田原から攻め上がると見える。
  天文十一年合戦で勝った織田一族と家臣となると、もっと顕著に複数回と伝える。『信長記』は勿論二回と伝えるが、そのほか、下村信博氏は、小豆坂合戦で活躍したとされる織田与二郎(信秀弟)は天文十六年(一説に天文十三年)の稲葉山城下の戦いで戦死しているので、天文十七年の合戦に参加することはありえないとしている(『新修名古屋市史 第二巻』)。
  織田一族のほうは、第一回目に勝って戦功があったものだから、所伝は多く残っている。ある織田系図では信康(津田与二郎)について、天文十五年九月廿二日に美濃で戦死したことだけの記事であるが、鈴木真年本『織田系譜』では天文十六年九月廿二日に美濃稲葉山城下で戦死と記すとともに、その弟の津田孫三郎信光について詳しい記事をのせている。
  それによると、天文十一年八月十日に今川義元が尾張を奪おうと三州生田原に到ったとき、信秀のために武者の大将となって安祥城から防戦に出て、同十四日には三州小豆坂で戦ったところ味方は敗北したものの信光は峠から退却せずに勇戦し、ここに信秀家人の織田造酒丞・下方弥三郎・岡田助右衛門・佐々隼人正・同孫介・中野権兵衛とともに津田信光が大いに武勇をあらわし利を得たので、以上七人を小豆坂七本槍というと記される(もっとも『羽前天童織田家譜』では天文十七年八月と記す)。
  『美濃国諸家系譜』三所収の「岡田系譜」でも、岡田助右衛門尉直教(信雄に殺害された岡田長門守善直の父)について、春日井郡小幡城主で、織田備後守信秀に仕えて天文十一年壬寅  日( は欠字)に今川義元と小豆坂で合戦して武功を立て七本槍の高名をたてたと記載される。『尾藩諸家系譜』第五冊に記載の「下方系図」では、下方弥三郎貞清の記事に、天文十一年寅八月、織田信秀に従って三州小豆坂で今川家と戦うとき、世にいわゆる小豆坂七本槍の一人で時に十六歳であったとし、上記七名の名をあげて信秀から感状を賜ったと記される。
  以上のことから、歴史の流れとしても合戦参加者・関係者の諸伝としても、織田氏と今川・松平連合軍との間における二度の小豆坂合戦は否定しがたいと考える。

 ※
上記文章を書き上げてから気づいたが、安田元久編『日本史小百科18 戦乱』(1984年)でも145頁に「小豆坂の戦い」を取り上げて、2回の合戦とこの合戦を巡る経緯を記述しており、内容的には上記とほぼ合致するものである。
 
 (06.9.25 掲上)



 <川部正武様の岩津松平氏についてのコメント>  06.10.14及び10.18受け

 松平長忠関係の記事を興味深く拝見いたしました。私なりに岩津松平氏について考えたことを記してみます。議論の活性化に繋がれば幸いです。
 
『中興武家系図』所収・徳河家系図の「岩津の太郎親長を右京親正(信光二十男)の子に置いて「親忠嫡男」と註し、その子に小太郎長忠をあげる」という箇所について
 
 ここの右京親正の官途は系図によっては「修理進」となっています。「右京」は長忠との共通性があり、「修理」は親長との共通性があります。親正が信光の実子かどうかはともかく、「親正−親長−長忠」という流れは有り得るのではないでしょうか?
 ここで、親長が親正の実子で信光の養嗣子ならば、年齢的に「親長が延徳元年(1489)正月に死去して、幼少の子の四郎左衛門忠勝が残され」ということも有り得ると思います。
 
 岩津大膳入道常蓮について
 
 にあるように、もともと岩津城主であった中根大膳の跡に松平親長が入ったとすれば、中根氏の系図から検討できませんでしょうか?
 
 結論的なことを書くと、要するに「松平親長は松平信光の孫世代ではないか」ということです。
 系図類でも松平親忠や親正の子とされることがありますが、松平親長の年齢を考えると信光の長子とするのは難しいと感じました。松平親長の娘は深溝好景(1516年生まれ)・定政の母です。
 松平親長を親忠(1538年生まれ)や親則(1536年生まれ)の兄とするのはどうでしょうか?
 
 <樹童の感触>
 しばらく松平氏について頭が回りませんでしたので、掲載や返答が遅くなりました。
 さて、ご指摘ないし問題提起のの諸点については、あまり決め手がないのですが、とりあえず次のように考えます。
『中興武家系図』所収の徳河家系図については、あまり問題意識がない時期にメモしてきたものなので、今となってはきちんと写してこなかったことが悔やまれるのですが
 信光の子におかれる親正については、「修理」とあり、その子に正親をあげています。その一方、信光の弟におく岩津筑前家弘(泰親の子)の子に親正をあげて「信光二十男」と記されます。官職名の右京・修理からいえば、「親正−親長−長忠」という流れは(三者それぞれ実子関係ではない形では)有り得るのだろうと思われます。ただし、「親忠嫡男」という註は、本文でも述べたように、本来、小太郎長忠に係っていたことが考えられます。
 
2 もともと岩津城主であった中根大膳の跡を松平氏から襲った者がいて、それが岩津大膳入道常蓮(の先祖)につながる可能性もあると思われます。ただ、中根氏の系図もいくつか見ましたが、この関係を具体的に示す系図は管見に入っていません。
 
3 岩津の松平親長など岩津を名乗る松平一族について
(1) 史料などに見える「親長」は、二者いた可能性もあるのではないかとも考えます。すなわち、@信光の子で、親忠(1538年生まれ)や親則(1536年生まれ)の兄というのが本来のものですが、A親忠の子の長忠がその前身で、伯父の親長の養嗣となり、後になんらかの原因で混乱して、養父同様に親長とも、父同様に親忠とも記された者もあって、これが「松平信光の孫世代」ということです。深溝家の好景(1518年生〜1561死)や定政の母となった女性は、こちらの長忠〔親長〕の娘ではないかと考えるわけです。
岩津家から安城家への松平家督の変更などの事情もあって、十五世紀後半及び十六世紀前半の松平氏の系図には多大な混乱があり、現存する系図などの史料からは判断しがたい状況でもあります。
 
(2)『深溝松平系図』(東大史料編纂所所蔵)では、深溝松平の好景らの父・忠定の御室は岩津太郎親長女と記しますが、この親長は信光の嫡子親長というよりは、その養嗣を指すのではないかともみられます。そうでない場合は、岩津太郎親長女を妻をしたのは、忠定の養父忠景ではなかろうかとも考えられ、そのいずれかにせよ、五井・深溝両家あたりの初期段階の系譜関係は混乱が多く、実態は不明です。
 
(3)『寛政重修諸家譜』巻四十四に見える松平氏は、四郎左衛門忠勝の流れで、岩津太郎親長の子孫という系図を称しますが、初期段階に疑問があるように思われます。五井松平の弥三郎元芳(正則)の子孫が多く岩津を号する事情からみて、実際にはこの系統であった可能性があります。
同書によると、「修理亮親長―四郎左衛門忠勝(初、宮内左衛門正勝)―雅楽助親重―宮内左衛門勝次」と続き、勝次は家康に仕えたが、天正三年(1575)、奥平信昌に属して長篠城に立て籠もり討死した。その子三人は、父の死後、外家に養われて林佐左衛門勝成・明石四郎左衛門宗正・鳴海頼母助知勝といい、次男宗正の子の宗親の系統がこの松平氏である、と記されます。
同書に記す解説では、官庫の記録では親長に嗣なしということから、この系を疑問視しています。元芳の子には、弥九郎長勝(則忠。五井家の祖)・八郎九郎親勝・又八郎忠景(深溝家の祖)など多くの兄弟がいたという事情があり、初め正勝のちに忠勝を名乗るというこの系統の祖は、世代や活動年代を考えると、所伝のいうように正勝・忠勝の両者が同人なら、正勝は八郎九郎親勝かその兄弟の子に位置するのではなかろうかとみられます。
 
    (07.6.2 掲上)



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