(物部氏族系譜関係の応答)


  <守屋尚様よりの来信> 08.8.8受け
 
 物部氏総説とでも言える詳細な説明、新しい解釈を施された人物論を拝読しました。

 さて、
(1) ご教示の「同一人物でないか」とご指摘の人物について、貴著『古代氏族系譜集成』掲載の各人の母親名をみると、夫々異なる母となっていますが、これを度外視してよいのでしょうか。勿論、ご承知の上での解釈と思いますが。 
 例えば、@新河小楯姫の生んだ同弟とされる大水口宿祢と大矢口宿祢は、後者の母が淡海川枯彦命の妹・川枯媛となっていて、前者の新河小楯姫と違つている。また、A大祢命と出雲醜大臣は兄弟というのはわかりますが、同一人となれば、違う母親名が掲載されているのは問題となりませんか。同じく、B 大市御狩と石上贄古との関係についてのご解釈には賛意を表しますが、違う母親名が書かれていますが。C大新河命、建新川命の同人視も母親名、後裔氏族も異 なっています。D武諸隅命と大母隅連は同人でよろしいと思いますが、前者と大矢口宿祢の同人説は上記の異母名のことが気になるところです。
 
 朴井連椎子と朴井連鮪の同人説はご指摘の通りです。雄君を守屋大連の子とされているのは年代が合わないこと、ご指摘の通りです。また、太媛など蘇我氏との通婚について、画期的解釈を拝見しました。
 
(2) 目連、金連の混乱については、ご指摘の通りです。第16代 目連、第13代 金連(野間連、借馬連祖)、第15代 金連 (刈田首祖)、同 金古連(三嶋韓国連祖ほか)、金弓、耳連、石弓若子連、目古連(五十琴彦連と同人)についての重複はご指摘の通りです。
従って、第8代(姓氏録に追加)金弓連、第12代 目大連、第14代 長目連、同 目連、 第15代 今木金弓若子連のみが系譜に残ることになると理解しましたが、よいでしょうか。
 
 以上、質問いたします。
 

 
 <この関係の解釈・考え方>
 
 当方の記事が必ずしも書き分けていない点もあり、分かりにくかったかと思われます。そこで、先の文との重複もあると思いますが、以下のようにもう少し書き込んでみました。ご指摘をうけて、再考した内容もあります。
 
(1) 古代氏族の「母系」に着目することは、たいへん重要だと思われますし、かつ本問は鋭いご質問であり、答えに窮するところもかなりあって長考しましたが、いま考えられることを以下に記します。
 
 そのなかでも、議論の最も核となる人物が「大矢口宿祢」となります。神武天皇から崇神天皇にいたる中間四代の うちで、三代も続けて物部氏が近江の三上祝の娘と婚姻を重ねます。これが記されるのが『諸系譜』第28冊所載の「三上祝家系」であり、中田憲信編の『諸系譜』のなかで、この系譜記事が同書で数少ない鈴木真年翁の自筆でなされているという特徴があります。その当該部分を文章にしますと(少し分かりにくいかもしれませんが、一応記してみますと)、神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の@川枯彦・川枯姫、次の世代のA坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代のB国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、物部氏の「@大祢−A出石心−B内色許男」の三代に各々世代対応し、いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。
 『諸系譜』や『百家系図』には三上祝の家系について数本記載がありますが、そのなかで最も詳しい記事があるのが上記の『諸系譜』所載の「三上祝家系」です。鈴木真年が原本を書写して上掲書に記したとき、上記の記載が原本そのままだったのか確かめようがありませんが、「大矢口宿祢」を除いては、 とくに問題ありません。ところで、この「大矢口宿祢」は十市部首系の中原朝臣姓である「押小路家譜」には、出石心の弟に記載されており、これに影響されて位置づけが変えられたのではないかと疑われる要素がないわけでもありません。
 一方、「天孫本紀」系譜には、彦湯支命が淡海川枯姫を妻として「一男出石心のこと)」 を生み、出石心が新河小楯姫を妻として大水口・大矢口兄弟を生んだと記されて、この系譜からは大祢・内色許男の二代が欠落しています。この関係では、「三上祝家系」は「天孫本紀」系譜に比べて、総じて内容がすぐれていると思われますが、「大矢口宿祢」についてだけは「天孫本紀」系譜のほうが妥当だと考えま す。
 というのは、@大水口・大矢口という形の名前の対応は、上古の同母兄弟の名づけ方に頻出する傾向であったこと、A大水口宿祢は『書紀』崇神段 に見えており、大矢口宿祢のほうは崇神朝の出雲討伐に参加し西伯耆や因幡にも後裔を残したことで、ともに崇神朝という同時代人であったこと、B淡海川枯姫が生んだのは「一男出石心のこと)」と「天孫本紀」に見えること、があげられるからです。
 
 大祢命の母は「日下部阿野姫」(この名と父の名には若干の不自然さがある。後述)、出雲醜大臣の母は出雲色多利姫と「天孫本紀」に見えており、各々の母の名は通じ合うところがないので別人とみざるをえず、その意味では兄弟とするほうが自然です。一方、事績を見れば、初めてなったという「大祢」という官職は「大臣」に通じますし、物部氏歴代に大祢命をあげずに出雲色大臣をあげるものがあり(「伊福部家譜」)、大祢命も出雲色大臣も共通の姓氏を後裔にもつ点があること、出雲色大臣の後裔の系譜には種々の疑問があり(先に指摘)、大祢命と別人の存在だという心象がえられません。この辺は判断が難しいのですが、「日下部阿野姫」が彦湯支命の妻妾のなかにいたとしても、出雲色多利姫の生んだ出雲醜大臣が物部(穂積)の嫡統を受けたと考えてみました。
 
 大市御狩と石上贄古の母について、「天孫本紀」では違う母の名をあげますが、その両者は姉妹の関係にあります。すなわち、物部尾輿大連が弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹を妻として、前者に四名、後者に三名の子女を生ませたと記されますが、七人のうち確かなのは守屋・贄古・布都姫(御井夫人)の三名だけで、今木連・屋形連及び榎井連の先祖は後から付合された可能性があることを先にあげました。
 ところで、@守屋が長子(嫡子)として生まれたからこそ、外祖父の氏の「弓削」を名前にいれた名乗りをしたとみられること(領地の引継もかなりあったか)、 かつ、大連の地位を引き継いだことがあげられ、A大市と石上とが地理的に近いこと、贄と御狩との名前も意味が近いこと、B贄古と御井夫人とが兄と異母妹との関係にあたるのなら、かつ、守屋の同母妹とされる御井夫人を贄古が妻としたのならば、贄古と御狩とが同人のときには、守屋の同母兄とされる後者のほうが実像として消しやすいこと、が理由にあります。
 
大新河命と建新川命とは、美称を除くと語幹「ニヒカハ(新河、新川)」が同じです。こうした場合、上古の命名法としては、@同人、A兄弟、B親子、という三ケースが考えられます。『姓氏録』で建新川命を祖とするのが大宅首(左京・右京の神別)だけですが、『百家系図稿』所載の系図に見るように川上首・春道宿祢など因幡に所縁の物部もその後裔となります。建新川命の娘(刀自)が蘇我石川宿祢と羽田八代宿祢(両者が応神紀に見える) の母となったという所伝も中田憲信編『皇胤志』に見えており、これに拠る場合には、建新川命は垂仁・景行朝頃の人となります。「天孫本紀」には、建新川命は「倭志紀県主等祖」と記されますが、志紀県主の祖は大売布命だとして「押小路家譜」は具体的に歴代の名を伝えます。
 一方、大新河命と大売布命と後裔氏族が共通しており(先に記した本文参照)、両者は同人か親子かとみられます。大売布命は『高橋氏文』に見えて景行朝の人と分かり、大新河命のほうは大矢口宿祢に引っ張り上げられて崇神朝の人になると、両者の関係が親子になります。大売布命の母親は、その後裔に志紀県主が出ることから、倭志紀彦の娘の真鳥姫とするのが妥当とみられます。

 こうした諸事情を見ると、「大新河命−建新川命(若新川命の意で、大売布同人か兄弟か。この辺はどちらとも判じがたい)」とするのが穏当なところと思われます。
 また、武諸隅の位置づけですが、崇神朝晩年の登場時期ですから、むしろ垂仁・景行朝が主な活動期とみることができ、そうすると、矢田部系統の世系は、「E大矢口宿祢(大新河命)−F大母隅(武諸隅。その弟に大売布)−G多遅麻−H印葉−I大別−J鍛冶師」として、崇神朝から履中・允恭朝までの六世代を続けるのが自然ではないかと考え直しました。
 なお、「天孫本紀」には、伊香色雄命が山代県主祖長溝の娘・真木姫を妻として二児(建胆心大祢、多弁宿祢)、同じく長溝の娘・荒姫を妻として二男(安毛建美、大新河)、その妹の玉手姫を妻として二男(十市根・建新川)を生んだとありますが、この辺の記事でも真木姫と荒姫とが重複する可能性があり、おそらくは長溝の二人の娘を妻として四男(建胆心大祢、多弁宿祢、安毛建美、十市根)を生んだとするほうが原型に近いのでしょう。
 
(2) 「天孫本紀」に見える重複的な名前を排除・整理した場合の一試案的な考えですが、系譜に残るのは、物部嫡系のほうで「第8代(姓氏録に追加)金弓連、第12代 目大連」、矢田部・榎井系のほうでは、同じく第12代 金古連、第13代 長目連、第15代 今木石弓若子連」(両系いずれも調整後の世代数)ではないかと解してみました。
 ただ、「第12代の金古(金)連、第13代の長目連」の両者の関係は微妙であって、これが逆転する可能性もあります。この辺はもう少しなんらかの資料がほしいところです。
 
(3) 物部氏と母系氏族・通婚先について、もう少し補足しておきます。
 まず、志紀(磯城)県主は、物部氏祖の饒速日命が妻とした御炊屋姫の族裔で海神族系の三輪君の一族であり、この県主家は崇神前代に絶えて、その跡に物部氏大売布の子孫が入り、後世に伝わりました。磯城県主は、神武朝の弟磯城(黒速、鴨主命、櫛日方命)の後で、崇神前代の后妃を輩出した大和土豪第一の名門ですから、この流域を手中に収めた意味は大きいとみられます。
 近江の三上祝は、物部氏族と先祖・天目一箇命(天御影命) を共通にする近江の名門で、野洲郡の御上神社を歴代奉斎し、琵琶湖の東側地域を広く領域にしていました。後に、支族が関東に分かれてその地の国造家を多く出した鍛冶氏族です。中臣氏の先祖も三上祝家と通婚を重ねています。近江の式内社を見ると、甲賀郡に川枯神社・水口神社・矢神社があり、野洲郡に上新川神社(三上山の西北麓近辺)と下新川神社がありますから、物部氏族の近江所縁が顕著です。伊香色雄命の母とされる高屋阿波良姫についても、太田亮博士は近江国神崎郡高屋郷かとみており、「伊香」が近江国伊香郡だとすると、これも妥当ででしょう。そうすると、系譜不明な高屋阿波良姫も、新河小楯姫と同様に三上祝一族であった可能性が高まります(異母妹か従姉妹くらいか)。
 伊香色雄が妻としたと記される山代県主は、後に山背国造となる山城南部の古豪族で、三上祝の同族です。物部氏族の妻妾ばかりではなく、垂仁天皇や彦坐王の諸妃を出したと伝えます。
 物部尾輿大連が妻として、守屋大連らを生んだのが弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹です。この弓削連が本来の弓削連で、河内の弓削神社を奉斎した一族です。守屋が阿刀の別業を手にしたのはこの通婚・血縁に因ると思われます。もともと河内には物部氏の基盤があったとはいえ、物部本宗の根拠地は大和にあったとみられます。弓削連の系譜は、天目一箇命の弟・天日鷲翔命(少彦名神のこと)の後であり、その系譜は『古代氏族系譜集成』の936頁に見えます。
 この系統は弓矢製造や繊維・衣服などの手工業を担った重要な部族です。大和の葛城国造とも同族であり、倭文連・長幡部や三野前国造・伯耆国造などを出しましたが、この関係の系譜が伝わらず長いこと探索してきました。最近になってようやく、葛城から山城北部の葛野・愛宕郡一帯に遷住した鴨県主と近い系譜をもつことが分かってきました。
 
  初期物部本宗家が通婚した活目邑の古豪族を仮に「活目氏」としますと、これは系譜不明ですので、推定を試みました。
  活目(活馬・生馬とも書くが、平群郡生駒のこと)の地名が「生馬郷、式内社生馬神社」として出雲国島根郡にあり(現松江市生馬)、『出雲国風土記』の生馬郷条にその先祖らしき者(八尋鉾〔美称か〕の長依日子)が見えますから、物部氏とともに出雲から到来した部族(物部同族か)という位置づけになるようです。この氏族の五十呉桃の娘や長沙彦の妹を物部氏が妻としたと伝えています。高天原神話のなかでは天安河でスサノヲ神が天照大神の剣ないし自分の瓊玉から出現させた神々として、『書紀』一書に見える活目津彦根命(活津彦根命ともいうが、実体は天津彦根命〔天若日子〕に同神か) に関係し、垂仁天皇の名の「活目入彦五十狭茅」もなんらかの縁由があったことが窺われます。
 従って、平群郡での相当有力な部族であったことがうかがわれますが、子孫は現れませんから、通婚などにより領地が物部氏族(地域的には、そのうちの矢田部氏系統)や平群氏などに受け継がれた可能性があります。いま五十呉桃にあたるとみられる「伊古麻都比古」を祀る式内大社の比定社(徃馬坐伊古麻都比古神社)が、生駒山東麓の生駒市壱分町に鎮座しております。
 ところで、「日下部阿野姫」も親の名は見えますが、出自が不明です。当時は御子代の日下部がまだできていませんから、「日下」 という表記は疑問ですが、河内の日下地方の古豪族の家ではないかともみられます。物部氏族には『姓氏録』河内神別に日下部があげられ、彦湯支命の後とされますので、詳細不明ながら、この女性が子孫を残したことも考えられます。この女性について、「天孫本紀」には系譜が「早部馬津名久流久美」の娘と記されていて、この「早部」が他書の表記転訛の例により「日下部」と解されてきたわけです。しかし、「早部馬津名久流久美」は不自然に長く、意味も分かりにくいことから、この表記には なんらかの誤記もあった可能性があります。その場合、不自然な「部」の字を除外した形から、表記の原型は「生馬邑(あるいは屯)の名はクルクミ」、すなわち「活目邑の五十呉桃(イクルミ)」ではないかとみられます。また、河内の日下は、生駒山の西麓にあって、この山を挟んで生駒と対峙しますから、生駒山の周辺に居た氏族が先祖の名前を二様に伝えたことも考えられます(いずれにせよ、同一人とするのが妥当か)。なお、「伊福部家譜」には「伊古麻村の五十見命」と見えますが、これは「五十見」の訛伝ではないでしょうか。
 生駒山は、饒速日命の降臨伝承がありますから、この意味でも「活目氏」は物部氏族とするのが自然です。活目の長沙彦の妹・芹田真稚姫の「芹田」も比定地不明ながら近隣地であって、芹田物部が「天孫本紀」などに天物部二五部の一として見えることから、物部氏族を傍証するものといえます。
 
 以上、崇神・垂仁朝頃までに物部本宗が通婚した氏族を中心に取り上げて見てきましたが、それぞれが大和・近江・山城・河内の古族の家とみられます。しかも、磯城県主を除くと、ほとんどが遠祖を同じくする天孫族の諸氏であったという特徴も見えます。これら以外の地域でも、紀北の紀伊国造家一族と も大新河命が通婚したと見えます。
 これらの通婚は地域的にも自然だと思われますから、一応信拠してよい古伝だとみられます。そうすると、こうした初期大和朝廷を構成した主要氏族の通婚先や母系氏族関連の検討も、天皇家に限らず、重要になってくると思われます。
 有益なご示唆、ありがとうございました。
 
  (08.8.21 掲上、8.25些細な修補)
 
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