大伴氏族と久米氏族 大伴氏族概観 ○ 大伴氏族は、天押日命の後裔とされ、神武天皇より早い時期に紀伊に遷住してきた天神の一派で、山祇系の流れである。その系譜は、より具体的には神武創業の功臣、道臣命の後裔である。 (03.11.23 掲上、08.10.2 修補)
道臣命は紀州名草郡片岡邑の人であり、その功により大倭国築坂邑(高市郡北部。現橿原市鳥屋町辺り)に宅地を賜ったという。その祖天押日命について、瓊々杵尊の天降り随行という伝承があるものの、この氏族の遠祖には紀州土着の色彩が相当強い。この氏族の紀州在住時代に紀国造氏族(紀伊氏族。天御食持命後裔)を分岐した、というより、むしろこの氏族の方が紀国造氏族の一支族と位置づけられよう。 こうした出自の影響か、大伴氏族の榎本連、丸子連、仲丸子連、宇治大伴連等が紀伊国で繁栄した。 ○ 大伴氏族は、その発生段階から久米部や靫負を率いて宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であり、倭建命の東征にも武日命とその子弟等が随行したが、何故か国造家は全く創出されていない。この氏族の分布は、中央では畿内及び紀伊などその周辺にあり、地方では東征随行の影響で陸奥にかなり広範にみられる。大伴氏族から神代に分岐したかのような系譜をもつ久米氏族は、実際には崇神前代に分岐した近い氏族だったとみられる。 ○ 中央の大伴氏族では大伴連、佐伯連が代表的な存在であり、大伴連では雄略朝の大連室屋、その孫で武烈・継体など四朝の大連金村の時代が全盛期であったが、任那割譲問題の失政から勢力を失った。その後は、金村大連の子・阿被布古連の流れが大伴本宗家の地位にあり、金村の後の一時の低迷期から脱して、大化改新後の右大臣長徳の存在や壬申の乱の活躍などで、奈良朝には宮廷人として相当栄え参議以上の官職に昇る者もかなり見られた。阿被布古の兄・狭手彦の流れも、大和に根強く残った模様である。 平安期に入ると、延暦の藤原種継暗殺事件で、死後間も無い家持ら大伴一族が主謀者とされて大打撃をうけたが、やっと立ち直った形の大納言伴宿祢善男が貞観八年、応天門の変で失脚し、平安中期以降は下級官人化して長く存続した。伴氏最後の参議保平とその兄弟が平安中期に朝臣姓を賜ったが、官人としては狭手彦の流れも平安中期まではみられる。 この二流も含め大伴氏族で「大伴」の名を冠する姓氏は皆、弘仁十四年四月淳和天皇の諱を避けるため「伴」に改められた。大伴氏族の支族が改賜姓して単に伴宿祢姓となる類例があり、伴大田連、伴良田連、山前連、林連、伴林宿祢からの改姓が史書に見える。 ○ 平安中期以降、中央の大伴氏族が地方に土着化したという伝承がいくつかみえるが(ないしは、そのように称されるが)、これら地方の大伴氏族は、実際にはその殆ど全てが系譜仮冒であろう。 その中では三河(駿河麻呂あるいは善男の後裔と称。後に三河から近江の甲賀に分かれたものがあり、両国で繁栄する。なお、この三河の伴氏について景行天皇後裔の大伴部直姓と太田亮博士はみているが、祭祀の継承等も含め、その可能性もあろう)や、甲斐(金村の子・磐の後裔と称)、伊豆(大納言善男が配流されて彼地に遺した胤の後裔と称)、薩摩(肝付等の諸氏で善男の子・中庸の後裔と称するが、おそらく当地の古族の末か)などの地で繁栄しており、このほかでも甲賀の鶴見氏、平松氏や出雲の朝山氏、伊予の大野氏等も大伴姓を称した。 逆に、大和の大伴氏族の流れは、大和源氏(清和源氏頼親流)のなかに入り込んだ模様で、源姓を称した中世大和南部の大族越智氏も実際には大伴氏族の流れをなんらかの形でうけたものか。 ○ 大伴氏族及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り (1) 本宗家……大伴連(録・左京、河内未定雑姓)、大伴宿祢(録・左京)、伴宿祢(関係の主要苗字は後掲)、伴朝臣(小野、石塚、豊田、畑−京官人、主殿寮。尾崎−桂宮諸大夫。大伴−相模国鎌倉の鶴岡八幡宮神主家。小林−相模国鎌倉郡小林郷より起る)。 伴宿祢については、支族から改姓してきたものも上掲のようにかなりある。本宗家の伴宿祢から発生したと称する主要苗字には、疑問ありのものも含めて掲げると、 ●伊豆国人の石井、吾曽、阿美、大川、入江、住友。この系統は大納言善男の後とされるが、豊前守伴朝臣為国の近親から出た可能性もある。 ●三河系統は、三河国碧海・幡豆郡に起った大伴部直(景行天皇後裔と称したが、実際には鴨氏族で三野前国造族裔か)の後裔という可能性が大きいが、伴朝臣姓を称。三河では東部の八名・設楽郡に移って発展した。また、近江国甲賀郡にも分れて繁衍したといい、甲賀武士として知られる。その一族としては、 大屋、幡豆、冨田−三河国幡豆郡人。中条、大林−同加茂郡人で、中条は加茂郡猿投神社祠官にもあり。長沢−同宝飯郡人。八名、宇利−同八名郡人。設楽−設楽郡人で大族、菅原朝臣姓とも称。富永、黒瀬、塩瀬、野田−設楽郡人。三木−同碧海郡人。土井〔土居〕−三河国額田郡針崎土井村より起る、武家華族。夏目−設楽郡に起り幡豆郡に遷、幕府旗本にあり、称清和源氏伊那一族。寺部−同宝飯郡国府八幡神主、また称源姓。高松、沢田、伊与部、八椚、宮永、柴山、栗田、種田−三河人。桑原−遠江人。 甲賀の伴氏一族は、平安末期に三河伴氏から分れたといい、系図でも甲賀郡大原村に住んだ資乗を祖とするが、再考を要する。立川氏文書の応和三年四月の甲賀郡司解状に甲賀郷長伴宿祢資守等が見えており、この文書が正しければ早い時期から伴宿祢氏が甲賀地方にあったことが知られる。その場合、資乗が三河出自とはいえず、また甲可公族裔の仮冒の可能性もあろう。 伴、大原、小佐治、笹山〔篠山〕、柏木、勝井、広森、向山、繁見、岡、中井、上田、馬杉、滝川、高屋、鷹水、毛牧、上野、大鳥居、山岡、垂井、滝〔多喜〕、沢、小谷、和田、中上、木全、奈良崎、櫟野〔市野〕、内田、関野、市場、増井、亀井、岩野、増田、竹林、木村、小泉、大口、石部−近江国甲賀郡及びその周辺に住。池田−尾張人で滝川一族、武家華族。中村−甲賀郡人で、中村一氏の家か。 ●薩隅系統の肝付〔肝属〕の一族で、文書等には伴朝臣姓を称。おそらく実際の出自は葦北国造族の伴部姓とみられるので、吉備氏族の葦北国造関係を参照のこと。 梅北〔梅木田〕、救仁郷(源姓渋川一族と称するのも同じか。中世、諸県郡飯隈山別当を世襲)、北原、馬関田〔馬瀬田〕、検見崎、萩原、前田、安楽、津曲、永田、岸良、橋口、野崎、河南、鹿屋、三俣、山下、川北、川南、頴娃、加治木、小野田、薬丸、荒川、城ケ崎、内之浦、榎屋、慶田、二方、窪田、小城、柳田など−大隅国肝属郡人の肝付とその一族で、薩隅日に広く分布。出水〔和泉〕など−薩摩国出水郡人。宮里、高城−薩摩国高城郡人。武光〔武満〕、寄田−同州薩摩郡人。白坂−日向人。武雄−肥前国武雄社大宮司。 (2) 大伴支族……大和南部の高市・葛城郡から紀伊国にかけての分布が濃密。 大伴山前連(録・和泉)、山前連、家内連(録・河内)。 大田部連、大伴大田連、大伴大田宿祢(録・右京)、伴大田宿祢、大伴良田連、伴良田連、宇治大伴連、伴連(同上族。和佐−紀伊国名草郡和佐より起る。小倉−紀州那賀郡人、両者とも称大伴姓。那賀郡の大伴姓の三毛、奥氏や伊都郡の竈門明神祠官の竈門も同族か)、神私連(録・左京)、大伴櫟津連、大伴若宮連。 大伴朴本連、榎本連(録・左京。榎本−紀伊国牟婁郡熊野人で新宮党、武蔵下総相模に分る。田井−紀州牟婁郡人)、榎本宿祢(榎本−江戸期に蓮華光院門跡の坊官・侍、称越智姓。なお、山城国乙訓郡の鶏冠井は族裔か、土佐陸奥に分る。なお、室町期の大族上杉氏も族裔か)、榎本朝臣(有馬−牟婁郡有馬に起る、産田神社祠官)、丸子連(石垣−紀伊国熊野新宮の人。宇井〔鵜井〕−熊野人、下総国香取郡に分る。前田−紀伊国人、また伊勢国安濃郡前田村より起るのもあり。三河の鳥居も同姓という)、丸子宿祢(片岡−常陸国人。丸〔麻呂〕−安房国朝夷郡丸郷より起る。安房の丸一族として、珠師ケ谷、原、宮下、石堂、岩糸、前田、神子上〔御子神〕などがあげられる)、仲丸子(録・大和)、仲丸子連(紀州牟婁郡林浦の仲、別当は族裔か)、仲宿祢。ただ、丸子連及び仲丸子連は、その氏の名からも海神族の色彩が強く、系譜仮冒があって、実際には高倉下系か和邇部氏族の出であったのかもしれない。(この辺り、要検討。本HPの「丸子部と丸部」を参照) 佐伯連(米多比−室屋大連末流で佐伯姓というが、筑前居住か)、佐伯宿祢(録・左京。佐武−紀伊国鷺森人。佐伯、笠原−武蔵国埼玉郡人、実際には武蔵国造族後裔かその跡を襲ったか。武笠−武蔵国足立郡女躰社神主、笠原同族か。なお、相模国大住郡の大族で藤原北家流を称した糟屋〔糟谷〕氏も、佐伯氏の出かという説もあるが、これには疑問もないではない。あるいは称小野姓横山党と同族か。糟屋は播磨国加古郡に分れたが、その一族としては、相模に大山、朝岡、四宮、城所、大竹、櫛橋、善波、関本、新開、白根など。相模の波多野・松田・河村の一族については、後掲)。 林連、林宿祢(録・河内。林−紀伊国藤並庄に住)、伴林宿祢、高志連(録・右京、大和。高志−三河人)、高志壬生連(録・右京)、日奉連(録・左京。なお、夫婦木は室屋大連後胤で日奉姓と見えるが、居住地等不明)、佐伯日奉造(録・右京)、佐伯造(録・右京)、佐伯首(録・河内)、佐伯部。 大伴直、伴直(大伴直の改姓というが、別族の甲斐国造族後裔の可能性が大きい。古屋〔降矢〕−甲斐国八代郡浅間明神神主家。 以下は古屋同族で、甲斐国内に繁衍も、南朝の宮将軍等に従い西国に赴いた支族も見られた。伴、寺尾、清野、坂、印沢、岩間、八代、祝、井戸、成田、井上、高部、萩原、轟、大鳥居、百々、皆井、宮原、岩下、市部、丹沢、田部、八田、矢作、藤井、金丸、一宮、平井、大久保−同州八代郡人。岩崎、青島、清田、西保、野田−同州山梨郡人。西内−信濃国小県郡西内村より起る。大谷−周防国玖珂郡大谷に住。坂−安芸国安芸郡に住)。 ●佐伯氏関係の苗字の殆どが、相模の波多野一族出自のものであるが、これには疑問も残る。波多野をはじめ、以下にあげる一族は秀郷流藤原氏の猶子となった祖先をもつことで藤原姓も称するも、実際には相模の古族の出の可能性もありか。 波多野〔秦野〕−相模国大住郡波多野邑より起り、一族多く丹波、因幡、能登、石見、陸奥等に分る。石見から長門に遷住した波多野氏からは広沢伯爵家を出す。松田−相模国足柄上郡松田庄より起り、相模、備前、丹波、出雲等にあり。広沢−武蔵国足立郡広沢郷に起り、備後国三谿郡に遷。その一族は和智〔和知〕を本宗として、湯谷〔柚谷〕、江田、余谷、辻子、玉松、宮地、末永、上村、廻神、得尾、黒川、尾越、有福、新見、安田、上原、太田、国富、田利−同じく三谿郡の広沢一族。横尾−肥後人、波多野男爵家を出す。柳川、葉山、岩原、西嶋、松本−甲斐人。佐藤、大友、薗部、沼田、鮎川、平沢、栢山、曽木、菖蒲、荒川、牧田、金村、大槻、小磯、餘綾、松方、緑野、川尻、中嶋、酒井、石田、白川、渋沢、野尻、四井−相模等に住。安木−出雲国能義郡に住。河村〔川村〕−相模国足柄郡河村郷より起り、陸奥、越後、伯耆等に分る。荒河、垂水−越後国岩船郡の河村一族。関原−同州三島郡人。 河島〔川島〕−山城人。茂庭−陸奥名取郡の河村一族。大萱生〔大ヶ生〕、栃内、日戸、玉山、下田、沼宮内、川口、渋民−河村一族で陸奥の紫波・岩手郡等に住。松並−上北面、斎藤道三を出す。中嶋−伊勢人。荒木−摂津国人荒木村重の一族、伊勢の荒木田神主の族人が入る。石尾−摂津荒木一族。木曽−信濃国木曽人、源義仲末裔と称するも、実際には沼田の族かと推される。信濃の木曽一族には、三富野、野路里、上松、清水、高遠、安食野、上野、黒川、馬場、贄川、三尾、古幡、千村、立石、奈良井、小野川、妻籠などの諸氏で、千村は上野国に起る。 ●大和国高市郡の大族越智氏は、散在党の刀禰で鎌倉後期から現れ、同郡越智の貝吹城を本拠として源姓を称した。その出自については古来、大和源氏説、物部一族越智姓説(河野一族説も含む)、紀ないし橘姓説などがみられるが、その一族分布や祭祀行動(九頭竜神奉斎)などを考察すると、大伴氏族の出自(狭手彦流大伴大田連改姓の伴宿祢姓か)とみるのが比較的妥当なようである。 越智一族は高市・葛城郡に多く分布して、米田、堤、弓場、吉岡、下、楢原、鹿野園、南郷、玉手、坊城、鳥屋、加留〔賀留〕、大嶋、添田、出垣内、根成柿、高取。大和源氏と称した麻生、太田〔大田〕、二河、楊梅、竹田、峯田も早く分れた一族か。また、散在党の池尻、五条野、興田〔奥田〕、松山、脇田、曲川、南脇、小嶋〔子嶋〕、江堤、庭田などの諸氏も同族かそれに近い存在であったとみられる。 (3) 奥羽の大伴支族では、牡鹿郡本貫の本姓丸子氏で恵美押勝の乱に大功をたて陸奥大国造となった道嶋宿祢が著名であるが、その後裔は知られない。 この関係の大伴支族(そう称するものも含む)では、 大伴部(陸奥名取郡の名取熊野三社社家の大友氏は族裔か)、靱大伴部、靱大伴連、靱伴連(陸奥黒川郡の式内行神社神主家千坂氏は族裔。なお、同郡の大族で、称源姓の黒川氏も族裔か。黒川一族には相川、大衡、八谷)、大伴行方連、大伴苅田臣(苅田〔刈田〕−陸奥刈田郡人。白石−同族で、途中伊達氏からの入嗣もあって、江戸期には伊達を号し登米伊達家という)、大伴柴田臣、大伴白河連、五百木部、大伴亘理連、丸子部、大伴安積連(安積−陸奥国安積郡飯豊和気神社祢宜。鈴木−同上族。陸奥の鈴木氏は熊野の鈴木氏の後と称するものの、実際には殆どがこの同族ではなかろうか)、大伴山田連、大伴宮城連(会津耶麻郡の宮城氏は族裔か)、丸子、牡鹿連、牡鹿宿祢、道嶋宿祢(陸奥桃生郡の照井は族裔か)、大田部、白髪部。 なお、栗原郡の駒形根神社の祠官鈴杵氏は、大伴武日命の子の阿良比を祖と伝えて大伴姓を称したが、姓氏不明も、同族の末裔であろう(遠田郡の丸子部改姓の大伴山田連の族裔か)。出羽の平鹿郡式内の波宇志別神社神主大友氏も、藤原姓を称するも、陸奥の大伴部後裔とみられる。出羽の留守所職で飽海郡大物忌神社社司の丸岡、今井氏は丸子部(道嶋宿祢)の族裔ではないかとみられる。陸奥亘理郡の鞠子氏も同様か。 また、上野国住民で大伴部を賜姓した邑楽郡の小長谷部、甘楽郡の竹田部・糸井部も早くに分岐した大伴支族か。 久米氏族概観 ○ 天津久米命後裔が「久米氏族」として一括される。この氏族は大和国高市郡久米邑を本拠とし、大伴氏族と警衛等の職掌上も、系譜・分布のうえでも密接な関係をもつ氏族であり、大久米命(道臣命と同人か)から出たと伝えている。大和朝廷における古氏族の一つであり、本来の姓氏は久米部か。また同国宇陀郡にも分岐して門部・漆部の職掌を、伊予・播磨等に分岐して山部の職掌を伝えた。 ○ 久米氏族所伝の系図では明確ではないが、崇神前代ごろに大伴氏族と分岐した可能性が強く、それまでの各世代の先祖の名は大伴氏族の祖先の名と異なるものの、おそらく異名同人であろう。これらは安牟須比命の後裔とも称され、紀伊国造とも同族である。 倭建命の遠征に随行した影響か、西国の国造家を多く出しており、久味国造(伊予国久米郡)、大伯国造(備前国邑久郡)、吉備中縣国造(備中国後月郡説があるも疑問。美作国とするのが妥当か)、阿武国造(長門国阿武郡)、淡道国造(淡路国)、天草国造(肥後国天草郡)の六国造があげられるが、いずれも神魂命(神皇産霊命)の後としてのみ「国造本紀」に記される。 これら諸国造家では、淡道国造を除くと中世まで子孫を残したことは知られないが、伊予の久味国造の族裔は中世、東方の阿波西部の山間部に展開・遷住して、戦国期の三好長慶一族を出したとみられる。備前の大伯国造あるいは吉備中縣国造の族裔も、吉井川上流部の美作国英多郡さらには久米・苫田郡に定住し、その地を中心に立石・漆間の一族を出したとみられる(その場合、姓氏は漆部直か。大分国造及び物部氏族と称する漆部連も参照のこと)。久米の地名に併せ、美作二宮とされる高野神社(苫東郡。もと高野本郷鎮座か、高野丹生明神を祀るか)や天石門別神社(英多郡)の奉斎等から、このように考えられる。 ○ この氏族の姓氏としては、 久米直(録・左京、右京。久米−尾張熱田神人。坂田−大和国高市郡人)、久米連(長門国阿武郡の大井八幡宮祠官阿武氏は族裔か)、久米宿祢(松岡−尾張国山田郡松岡より起り、美濃国不破郡・近江・肥後に遷。秋山−尾張人。阪田、日野−近江人。久米、清渕、黒川−肥後人)、山部連(山部−近江国日野大宮人。市川、塩見、吉田−播磨人)、山部宿祢、山宿祢(三木、淡河−播磨国三木郡人)、門部連(録・大和)、門部直、興道宿祢、三使部直(安芸国高宮郡人で中縣国造末流)、浮穴直(録・左京、河内)、春江宿祢(浮穴−伊予人)、村部、田部直。 淡道ノ凡直、波多門部造(録・右京。波多〔秦〕−淡路国三原郡波多郷人、大和大国魂社年預。阿間−住同郡阿間郷人、分れて遠江にあり。安間−遠江国引佐・長上郡人。矢部、長田、賀集、穴賀、庄田、広田、白山−波多同族で淡路国三原郡人。河上−同族で津名郡人)。なお、淡路史生で見える榎本直も淡道国造同族か。 床石宿祢の後裔とされる漆部連は、「天孫本紀」に物部氏族出自とされるが、実際には大和の門部連支流とみられる。この一族には、漆部連、漆部造、漆部宿祢(和州宇陀郡の豪族で阿紀神社神主の秋山はその末流か)。 ●美作の立石・漆間の一族には、漆間〔漆島〕、稲岡、市−美作国久米郡人。立石−美作二ノ宮高野神主家。間島〔真島〕、片山、安東−同上族。久米−同州人、後三河に遷。南条、小鴨−伯耆人、称平姓)。 ●阿波国名方郡の久米氏は平姓(ないしは源姓)を称するが、もと伊予国喜多郡久米庄の居住といい、久味国造久米直の族裔とみられる。その一族には鳥野のほか、名方郡で平姓を名乗り同紋(立二引竜十文字)の宮任、浦、白鳥、高川原、箕局、徳里、行万の諸氏。 また、阿波三好一族で摂津島上郡に居城の芥川氏等の関係系図では、阿波の久米氏と同族で南北朝後期に分離したのが三好氏と伝え、阿波三好氏の成立時期(十四世紀後半の三好義長の曾祖父の代のころ)からも貴重な所伝と考える。そうすると、清和源氏で阿波守護小笠原氏の後とされる三好氏は、実際には久味国造の族裔で、阿波三好郡に遷住して起ったとするのが妥当となる。三好一族には、養嗣で入った氏も含めてあげると、前掲の芥川のほか、淡路の安宅、野口、讃岐の十河(その後に村田)や、板野郡の吉永、齋田、武田、馬詰(その後に亀田)、高志、美馬郡の大久保、岩倉、麻植郡の川田、那賀郡の椿、吉野や笹川など。名東郡の吉田、阿波郡の板東は十河の後と伝える。また、所伝・命名・分布などからみて、土佐嶺北長岡郡の雄族の豊永・小笠原も三好同族ではないかとみられる。三好郡祖谷山の喜多氏も、早くに分れた同族か。 これに関連して、喜多郡久米郷から出た大野氏は、大伴宿禰姓(称家持弟高多麻呂後裔)とも嵯峨天皇末裔ともいうが、内容的に疑問が大きく、おそらく久味国造末流であろう。大野は浮穴郡久万の大除城にも分れた河野氏の重臣で、喜多郡の一族には城戸〔木戸〕、菅田。この一族というものが伊予に多く、喜多、久米、今窪、伊賀崎、相津、一木など。 |