越後の長尾一族

(問い)

  越後長尾氏の祖・豊前守景廉(景恒)には新左衛門尉長景、蔵王堂豊前守景晴、勘解由左衛門依景、筑前守高景の諸子が有り、長景が上田長尾氏の祖、景晴が栖吉・古志長尾氏、高景が三條・府内長尾氏の祖とされています。

 この内、上田長尾氏の系譜に関しては良く分からない部分が有ります。
 一般に上田長尾氏の系譜は、長景・・・(中略)・・・房長‐政景‐景勝とされていますが、別の系譜には為景(上杉謙信の父)の兄・房景‐政景(一に義景)‐政景とする物も有り、混乱が激しいです。一方、『古代氏族系譜集成』収録の系譜では、景廉‐宗景‐房景‐景良‐憲長‐景隆‐房長=政景(弟)となっています。

 ところで、『姓氏家系大辞典』の上田長尾氏の項に於ける『群誌』からの引用記事に拠りますと、豊前守景恒の跡を末子の新左衛門宗景が継ぐも、息子の憲景の代に跡取りが無い為に重景の息子である房長を養子に迎え、その息子の政景に至り、重景の孫の房景が跡を継いで息子の政景に続くとされています。
 長尾氏(と言うより、鎌倉党全体)は一族内で頻繁に養子縁組を行っていたので、この記述は傾聴すべきだと思われます。
 以上の事から、世代関数や称号を合わせてみますと、上田長尾氏の系譜は、長景の跡を弟の景晴の息子である宗景が継ぎ、その息子の憲景の跡を重景の息子である房長が継ぎ、さらにその跡を重景の孫で為景の兄である房景の息子である政景が継いだと私は考えていますが、どう思われますか。
 
  (大阪在住の方から。07.1.17受け)


 (樹童からのお答え)

1 長尾氏にかぎらず、鎌倉党諸氏では養子縁組がかなり多いうえに改名も多かったようで、異伝が多くあって系譜関係はきわめて錯綜しています。そのため、越後の長尾氏については良本というべき系図はよく分かりません。『古代氏族系譜集成』所載の長尾系図は、『信濃史源考』第一巻に所載の雙林寺本を基本としたものです。

2 上田長尾氏の系譜については、米沢市の上杉記念館所蔵の長尾氏系図のなかに「越後長尾系図」があり、景廉から始まって、その子の高景・宗景兄弟をあげ、「宗景−房景−景良−憲長……」として雙林寺本と同内容を記載します。宗景が明徳元年(1390)九月卒、房景が応永十八年(1411)正月卒、景良が文安二年(1445)正月卒、憲長が永正六年(1509)八月卒、景隆が大永六年(1526)三月卒、房長が享禄三年(1530)五月卒、一に天文二一年(1552)八月卒、その弟の政景が永禄四年(同七年1564の誤記か)七月卒、と続く記載は、比較的信頼がおけそうです。ただし、景良と憲長との間に一世代欠落の可能性も考えられます。
 また、肥前守景隆かその子の越前守房長が越前守房景にあたる可能性がないとはいえません。その場合はおそらく「房長=房景」であって、景隆の没後に養嗣として入り、短期間、上田長尾氏を継いでいたことになります。

3 よく分からないのは、栖吉・古志長尾氏の系譜であり、上杉記念館所蔵の安田本長尾系図では、三条・府内長尾氏の祖の高景の父を豊前守景春として古志長尾と註し、その弟に蔵王堂豊前守の某及び勘解由某をあげています。豊前守景廉(景恒)と豊前守景春との関係は判断しがたいのですが、別人だと理解が割合簡単です。しかし、年代的に見て、両者が同人だとするほうが妥当なようで、そうだとしたら、その近親に豊前守某(おそらく子で、名は景晴か秀景か)がいて、それが蔵王堂、栖吉・古志長尾氏の祖になったと、とりあえず考えておきたいと思います。
 上記の宗景を古志長尾の祖とする系図もあり、これが正しければ、備中守宗景は「豊前守某かその子」ともなります。蔵王堂も古志も、後に一族から養子が入ったようで、その意味でも系譜がたいへん混乱しています。

4 上杉記念館所蔵の長尾氏関係諸系図をじっくり検討したところまでいかないので、これらを突合させれば、もう少し分かってくる事情があるかもしれません。当方としても混乱が多く、議論をかえって混乱させたのかもしれませんが、とりあえずの試論を書いておきました。

  (07.2.19 掲上)


 (大阪在住の方からの返信) 07.2.22受け

 越後長尾氏についての概説どうも有り難うございました。

 豊前守景廉(景恒)と豊前守景春は同一人物で、その息子に蔵王堂、栖吉・古志長尾氏の祖である豊前守某(名は景晴か秀景)が居たと言う考えには私も賛成です。実際、長尾氏の系譜には越後長尾氏の祖を景春とするのも幾つか見る事が出来ます。長尾氏では、養子縁組が頻繁に行われた事に加えて、同じ称号・官職を持った人物が幾人か居た事も、同氏の系譜の混乱に拍車を掛けている原因だと考えています。

 上田長尾氏に関しても、景廉の嫡子・新左衛門尉長景の跡を弟で古志・栖吉長尾氏の祖である豊前守景晴の子・宗景が養子として継いだと見るのが妥当だと思われます。

 蔵王堂長尾氏が後に一族から入ったの事ですが、以前に述べた上田長尾氏の房景=房長を上杉謙信の父・為景の兄弟であると記述した系譜には、同時に為景の弟の為重が蔵王堂長尾氏の祖とする記述も見られ、仮にそうだとすれば、為景の兄弟達は夫々、上田・蔵王堂長尾氏を継いだ事になります。

 いずれにせよ、長尾氏では養子縁組及び同じ称号・官職を持った人物が幾人も居た事が同氏の系譜混乱の要因だと考えられます。

 (樹童の見方)

 長尾氏について、詳しい史料があればよいのですが、どうもそれが望めないので、管見に入ったところで判断せねばなりません。改名などの事情はほんとうに難儀です。
 ところで、新左衛門尉長景と宗景との関係ですが、宗景も新左衛門尉を名乗るので、後継者ないし同人と考えられます。そして、宗景の没年が明徳元年(1390)、その子の房景のそれが応永十八年(1411)と伝えられるところからみて、宗景と長景は同人とするほうが良さそうです。
 これらも含め、さらに検討をしたいと思っております。

  (07.3.1 掲上)

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