陸奥・坂東の坂上氏  (付)田村氏の系譜

(問い)『尊卑分脈』には、坂上田村麿の後裔に「石川」が見られるという話を聞きました。もし記載があるとすれば、どこに住んだのでしょうか。
 福島県石川郡石川町の古老が口伝を採譜したという遺稿を見る機会があり、下記のような所伝があるのだろうかと思い立った次第です。
「(1坂上刈田麿、その子2坂上田村麿、その弟の1坂上直弓、2光真、3不詳、4不詳、5安居)、
 五代目の石川小太郎安居の時、陸奥の豪族安倍頼時親子に攻められ、坂上流石川氏は滅びた。
 昔、双里から谷地まで昔は大湖で舟で運搬していたが、坂上直弓が当地を領しその子光真石川太郎が開田するため、湖水を石根から北須川へ流すため、人工に依る今出川を造り水を北須川に抜き流して片見を開田して農民に与へた。湖は谷地より双里まであり、石根から石尊山と源兵衛山が続いていたという。それが明治になり中谷と称され近年まで地名称に使われている。」
 
 又、翁によれば、頼信の副将として従ったのは頼遠で、前九年の役後は出羽に残留して後三年の役に戦死、その後に子の有光が所領を賜ったと書いていますが、相州の武士が前九年役の後、出羽に残留したというような所伝はあるのでしょうか。


 (樹童からのお答え)

1 中世武家に及ぶような坂上氏の系図は数少なく、管見に入った主なものでは、『続群書類従』掲載の坂上系図のほか、『姓氏分脈』廿七坂上姓系図(静嘉堂文庫蔵)、『諸国百家系図』坂上大宿祢系図(西尾市立図書館内岩瀬文庫蔵)くらいで、これらは皆、ほぼ同系のものではないかとみられます。これら坂上氏系図に拠って以下の文を記述します。
 
2 平安初期に蝦夷征討に功績があり、陸奥守、鎮守府将軍、征夷大将軍となった坂上大宿祢田村麻呂の一族には陸奥出羽関係の官職に就く者が何人かおり、そのせいか田村麻呂一族から出たという坂上氏が陸奥坂東にいくつか見られます。具体的には、
(1) 田村麻呂の弟、鷹養の子の氏勝が足立太郎として、武蔵国足立郡に居住、
(2) 田村麻呂の弟、真弓の子の光真(本名千楓)が石河太郎と号、
(3) 田村麻呂の弟、雄弓が出羽国村山郡大領となって村山四郎と号、
(4) 田村麻呂の子、滋野が陸奥国安達郡に住んで安達五郎と号、
(5) 田村麻呂の子、継野が始めて常陸国石河郡に居住、
(6) 田村麻呂の子、継雄が上総国武射郡に住んで武射七郎と号、
(7) 田村麻呂の子、高雄が下総国匝瑳郡に住んで匝瑳九郎と号、
(8) 田村麻呂の子、高岡が越後国沼垂郡に住んで沼垂十郎と号、
と系図に見えます。
ところが、これらの子孫は殆ど史料には現れず、それは子孫が奥州に繁栄し坂上党と呼ばれたという滋野後裔でも同様です。従って、上記系図記事の確認が殆どできないものです。陸奥坂東では、わずかに将門の乱の際に将門与党として坂上遂高が『将門記』に見えますが、この者は名前と地域から下総国匝瑳郡に住んだという高雄の後裔ではないかとみられます。
 
3 上記には「石河(石川)」を名乗るものが光真、継野と二者見えますが、そのうち継野については、常陸国石河郡(那珂〔茨城〕郡吉田郷辺りをこのように表現)とも記されており、陸奥の石河郡の誤記かとも考えられますが、この確認ができません。光真についても、ほかに手がかりがないので、諸国に石川の地名は多く、具体的にはどこの石川であったのか分かりません。おそらく、陸奥、常陸、越後、武蔵のいずれかではないかと思われます。
太田亮博士は、「苅田麿−直弓−光真−安居」の石川氏が「白河郡石川郷より起る」として、この地の中世の石川氏は「或は此の流か」と記しますが、とくに根拠をあげませんし、私には不審に思われます。坂上一族が陸奥石川郷にあったという証拠も管見になんら入っていませんし、上記所伝もきわめて弱い、むしろまるで当てにならないものだと思われます。年代的にも活動地域的にも、安倍頼時親子が坂上安居を攻め滅ぼすことなどありえません。中世石川氏については、清和源氏出自が疑問だと考えますが、その祭祀状況からみても、確定的なことまでは言えませんが、古代白河国造の末流とみるのが割合自然です。
また、一方の石河氏の祖にあげられる「光真」については、『百家系図稿』巻九所収の東漢直系図には見えず、「真弓−安居」と記されますので、光真の存在自体が不確かのようでもあります。
 
4 「頼信(ママ。頼義の誤か)の副将として従ったのは頼遠で、前九年の役後は出羽に残留して後三年の役に戦死した」という所伝については、まず信頼できません。源頼親の子の頼遠が前九年の役に従軍したことも、その後出羽に残留したことも、また裏付けがありません。前九年・後三年の両戦役は、清和源氏でも頼信流のみが行ったものと考えられます。ほかに、相模武蔵の武士で陸奥や出羽にこの両戦役後に土着したものは、管見に入っていません。
 
5(付記)田村氏の系譜
中世の奥羽で、坂上田村麻呂の後裔と称した氏で有名なのは、磐城の田村郡に起った田村氏であり、その後裔は幕藩大名としても存続しましたので、その検討もあげておきます。俗にその家系は、田村麻呂の子の浄野の子孫と称し、その子の「内名−顕麻呂−古哲」と続けて、古哲の十五世孫が北畠顕家に属して活動した田村荘司輝定だと伝えます。
しかし、浄野の子には当宗・当岑・当道などが知られますが、内名の名は見られず、仮に内名が実在の人物だとしたら、安達郡に居住したという滋野(浄野の弟)の子ではないかと推されます。しかし、古哲系の系図は歴代の官位官職や世代数・命名法などで疑問が大きく、信頼できません。それよりも、鈴木真年翁は、浄野の次兄広野の後裔とする系図を是としており、奥州藤原氏の初代清衡の祖父にあたる頼遠の実兄、太郎大夫有遠が田村郡領になったが、その子孫が中世の田村氏だと記します。私も当初、この説を採っていましたが、何度か検討を加えるうち、これもまた疑問だと考えるようになりました。
疑問の大きな理由は、白河文書に見える田村荘司宗季が系図に見えないこと、南北朝期頃に田村氏は平姓ないし藤原姓を名乗っていたことがあげられます。すなわち、白河文書には、延元四年(1339)に田村の族宗季が北畠親房に請い田村荘司となったことが見えており、この宗季が年代的に田村荘司輝定に当たるものといえそうです。姓氏については、元弘三年の相馬文書に藤原氏と見え、応永十一年(1404)の奥州大名連署起請文には田村支族諸氏が平姓で見えていて、永禄二年(1559)の守山大元明王奉納のお経奥書にも平朝臣義顕と見えます。
以上の事情と、南北朝〜室町前期の田村一族が「季」を通字としていたこと、田村一族諸氏の分布などを考えると、太田亮博士が転載する『門沢村志』に「岩城次郎平忠清の子六郎建季は、源頼朝に仕へ、門沢に在住」とある記事は、きわめて重要であることが分かります。すなわち、田村氏は平姓と称した岩城一族の分流であって、磐城から夏井川に沿ってその上流に遡る磐城街道を通じて門沢村(現田村郡船引町大字門沢)に移住してきたものと考えられるのです。中世の岩城一族が古代の石城国造の嫡流であったことは言うまでもありません。
 
6 こうして見ていくと、奥羽坂東には坂上一族は殆ど残らなかったことが分かります。田村氏などが坂上田村麻呂を祖先としたのは、奥羽に関係ある「田村」という名前を共通にしていただけの話であったものとみられます。

    (04.2.29 掲上)
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