杉橋隆夫氏の論考をめぐって

                                          小林 滋

.最近掲載の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』を拝読しました。該博な知識に裏打ちされた緻密な論理の運びを味読できたところです。なかでも、第4節の「駿河の大岡・牧氏の系譜と後裔の行方」では、貴才能が如何なく発揮され実に素晴らしいと思いました。
  以下に、少しばかり感想めいたことを申し述べます。といいましても、中世史とか中世系譜学等にはあまり知識もありませんから、例によってごく常識的な感想にすぎないかもしれませんが、暫くでもお付き合いいただければ、と思います。

.さて、貴論考では、様々の論拠が十二分に記載されているために、その主張にほとんど説得されてしまい、杉橋氏の所説はほぼ完璧に論破されていると思えてきます。
  ただ、貴議論が素人に近い私でも理解でき、よく説得されるということであれば、杉橋氏は、それらの基本的とも思える事柄をよく弁えないままに、このような論考を発表してしまったのだ、ということにもなりかねません。
  そうだとしますと、今度は逆に、立命館大・文学部教授という地位にある「立派な中世史の学究」が、「こと系譜に関しては甘い分析・批判しか出来ず、その結果、誤った結論に導かれるとともに歴史の流れに対する見方が狂ってしまう」ようなことを、一体何故わざわざ行なったのか、どうしてもその点が気になってしまいます。
  そこで、次のステップとして、『古代・中世の政治と文化』(思文閣、1994)に収められている杉橋氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」自体にアクセスせざるをえなくなり、結局は貴兄と杉橋氏の論考とを読み比べる仕儀になります。

.一読しただけで、両者の間には、表現の上で興味深い相違点が見受けられることに、どなたも気付くことでしょう。すなわち、
イ)貴論考においては、たとえば、
・「若い娘が嫁してくるのは、きわめて不自然であると考えられる。」
・「武者所から諸陵助に任じることはなかったと考える方が自然であろう。」
・「宗親の弟とみるほうが自然である。」
・「あの記事が書かれたとするのが自然である。」
・「時政と牧の方との成婚は時房が生まれた1175年以降の時期とみるのが自然である。」
・「上代の珠流河(駿河)国造一族の系譜を引くものと考えるのが自然である。」
・「「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。」
というように、「自然」という言葉が多用されているのが目に付きます。

ロ)他方、杉橋氏の論考では「自然」という語句の使用は見られず、むしろ次のような記述の仕方が注目されます。
・「五位に達した可能性も否定できない」(P.179)(注1。以下「P」は杉橋氏論考のページ数)
・「同じ人物とする判断を妨げない」(〃)
・「影響も無視できないように思われる」(P.183)
・「一種のアジールと認識されていた可能性は否定できない」(〃)
・「池禅尼による頼朝助命工作自体の存在は疑えない」(P.184)
・「仮名本の記述に反しない」(P.187)
・「絶対不可能とは断言できない」(P.188)
・「八十四の高齢に及んだとしても不思議はない」(〃)
すなわち、幾許かの可能性を残した否定形の文末が散見されるように思われます。

.どうしたわけで、こうした表現上の差異が生じてしまうのでしょうか?
  私の素人判断では、貴論考は杉橋氏のそれを批判するものであるといった立場の違い等に拠るというよりも、むしろ、二つの論考の狙い(問題意識)が基本的に異なることに拠るところが大きいのではないか、と考えられます。
  杉橋氏の問題意識は、あくまでも、「夫を指嗾して主殺しをはかる悪女の典型と認識され」るような「牧の方の行動はいかにして可能であり、また何故にそのような行為に出たのかを考えることであろう」(P.173〜174)という点にあるでしょう。
  他方、貴考によれば、「問題は、牧の方の出自すなわち系譜であり、その総合的な史料解釈であ」り、更に言えば「要は、(1)牧の方は、宗親の娘か妹か、(2)宗親は、『尊卑分脈』に見える諸陵助宗親と同人か、という二つの問題をどう考えるか、ということにな」ります。
  勿論、杉橋氏も論考の冒頭において、「本稿は、主として、鎌倉幕府の初代執権北条時政の後妻牧の方の出自を明らかにすることによって、彼女の政治的位置や役割を吟味」(P.173)する、と述べていますし、元々貴論考は杉橋氏に対する批判を意図しているのですから、取り扱っている事柄自体につき、両者の間で隔たりがあるわけではありません。ですが、問題意識の違いから、議論の仕方、アプローチの方法の面でかなり相違してしまうのではないか、と考えられるところです。

.貴論考の議論を少しだけ詳しく見てみましょう。そこでは、上記の事柄(4の第3パラグラフ)につき、「多くの史料を見ても、(1)については決め手になるものはな」く(注2)、そこで(2)について(「決め手はなさそうである」としながら)検討を深めていくことになりますが、その際には、「仔細かつ丁寧に系図史料を検討して、生身の人間としての「宗親」という人物を具体的に考えてい」こうとしています。
イ) まず、「大舎人允宗親」と「諸陵助宗親」とが同じ人物であるとする杉橋説については、院の近臣グループを構成する「藤原一族から、草深い東国伊豆のしかも本宗家当主とはいえない…人物の後妻として若い娘が嫁してくるのは、きわめて不自然である」とし(注3)、「何ら積極的な立証をしているとは思われない」と述べています。

ロ) ただ、「武者所宗親と諸陵助宗親を同人と考える杉橋説は、…論考でたいへん重要なポイントであり、様々な角度から十分な検討がなされるべきものであ」るから、この点につき「氏とは別の目で考えてみよう」として、議論が進められます。
  その際には、牧の方の出自を記す史料である『東鑑』と『愚管抄』とは、「重要な点で相矛盾するものとなっている」が、「後者がほぼ同時代史料で一般に信頼性が高いとしても、東国関係は伝聞に拠らざるをえず、現地事情に詳しい『東鑑』に重きをおいたほうが無難ではあるまいか」として、
.「官位官職からみると、『東鑑』では元暦二年(1185)から建久六年(1195)まで宗親は六位の武者所であったことがしられる」のであって、「牧宗親は武者所の官職が示すように、間違いなく武者(しかも東国駿河の)であ」り、「従って、同じ六位相当の官とはいえ、武者所から諸陵助に任じることはなかったと考える方が自然であろう」と記されています。
.更に、「『尊卑分脈』記載の諸陵助宗親の周辺を見」た上で、「これらの家族事情等から、諸陵助宗親の生年を推測してみると、1105年前後くらいで、その兄弟姉妹の生年も概ね1095〜1110年頃とみるのが比較的穏当な模様であ」り、「この頃生まれた人間が少なくも建久六年(1195)まで、六位の武者所として活動できるはずがな」いと述べられております。
.結論として、「諸陵助宗親と牧宗親とは、世代が少なくとも一つほど明確に異なるということであり、同人のはずがない」と述べられます。

ハ)以上のような議論の進め方を見ますと、貴論考では、あくまでも史料批判を十分に行ないながら、極めて正統的な(「自然」な)論理にしたがって、「問題」として把握している点につき慎重に判断を重ねていくという歴史学の王道を粛々と歩いていることが分ります。こうした歴史学的分析によって獲得される知見は、分析者の問題意識に拠って大きく左右されるものではなく、客観的な歴史的事実として厳然と存在するのだ、という考えが背後にあるものと思われるところです。

.それでは、もう一方の杉橋氏はどのように述べているのでしょうか?
イ) たとえば、杉橋氏は、「牧の方は、将軍暗殺未遂という大事件の主犯とされながら、関東において何らの処分を被った明徴がないどころか、…きわめて羽振りの良い、かつは勝手気ままな行動を取」っているが、「そのあたりの事情を彼女の出自までさかのぼって検討してみたい」(P.176〜177)と、問題の所在するところを述べます。
  そして、この問題に対する解答として、「牧の方の家系」は、「平安末期には院近臣グループを形成してい」て、「牧の方の政治的手腕とその資質は、おそらくこうした系譜・環境によって養われたのであろう」(P.180)、つまり「牧の方はけっして駿河土着の者などではなく、京都にしかるべき基盤を有する家柄の出身」(P.182)であり、「後年、娘のほとんどを公家に嫁がせ、なかんずく坊門家との所縁によって実朝の結婚問題に奔走しえたのも、とどのつまりは貴族社会における牧家の地位と、牧の方自身の手腕に負うところが大きかったのである」(P.182)と結論づけております。

ロ) 問題は、そうした結論に至る議論の進め方です。
  確かに、杉橋氏の言うように、「牧の方と池禅尼の関係が問題の核心であり、これを確定するためには、『愚管抄』にいう「大舎人允宗親」が『尊卑分脈』にみえる「諸陵助宗親」と同一人か否か、根本にさかのぼって検討を加え、いっそう確実にしておく必要がある」(P.179)でしょう。しかしながら、
 .まず、「いっそう確実にする」とありますが、それ以前の記述の中では、日本古典文学体系『愚管抄』の頭注(赤松俊秀氏による)が拠り所とされています。ですが、そこでは「「宗親」を「…諸陵助宗親と同一人か」と推定」(P.178)しているだけで、推定の根拠はなんら示されてはおりませんから、とても「確実」な証拠とはいえません。従って、何をもって「いっそう」と杉橋氏が述べているのかうまく理解できないところです。
 .更に、「大舎人允宗親」が「諸陵助宗親」と同一人か否かという肝心要な問題については、「官位の面から考えても、…同じ人物とする判断を妨げない」と消極的な判断を述べるに留まり、杉橋氏が「根本にさかのぼって検討を加え」て積極的な判断を行なうのではないかと期待した読者は、かなりはぐらかされてしまいます。

ハ) そうした問題点は直ちに見付け出せるとしても、以上のような議論の進め方をみますと、杉橋氏は、史料批判を十分したり正統的な論理を追求したりすることよりもむしろ、牧の方という日本史上でも極めて特異な女性の行動を説明しようとの強い問題意識を持ち、ある事柄がそれを説明する要因として説得力を十分持っているのであれば、その事柄が成立する可能性がたとえ低くともマッタクのゼロでないのであれば、歴史的事実として採用してしまおうというような姿勢を取っていると考えられます。

.杉橋氏の議論の仕方に対して、貴論考では、「こうした謬説が排撃されるよう」、「同説に対して明確かつ徹底的な批判の必要が出てくる」と述べていますが、それでは貴「批判」は果たしてどこまで有効に杉橋氏に作用しているのでしょうか?
  ここでは、牧の方の成婚時期に関する両者の議論をみてみることとします。
イ) まず、貴論考は、「牧の方は池禅尼の姪ではなかった。そうすると、氏の所説のそれ以降は想像論でしかなくなる」と、結論的に述べています。歴史記述に対して、このように「想像論」であると決め付けることは、通常であれば、歴史学の検討対象に値しない文章であると宣言するに等しい大変厳しい批判であるはずです。
  ですが、杉橋氏は、「池禅尼による頼朝の助命嘆願が歴史的事実に合致」するとした上で、「尼に助命された頼朝が、配流地では姪の夫である時政の監視と保護を受けるに至った事実にこそ、解明の糸口が潜んでいると私は想像するのである」(P.186)とか、「池家の側に、頼朝の身を確保することによって、将来にわたる政治的取引のカードとしての温存をはかったと、おそらくは想像できるのではなかろうか」(P.190)というように、自分の議論が想像論であることをむしろ積極的に強調しております。
  とすれば、杉橋氏としては、そうした想像論の成立する余地が少しでもあるのかどうかを検討しているのであって、いくら想像論にすぎないと批難されても、「尼が何故かかる行動に出たのか」という自分が設定する問題を解決するのに、そうした想像論が不可欠であり、かつそれが成立する可能性が僅かでも存在するというのであれば、何ら痛痒を感じないかもしれません。

ロ) 次に、貴論考では、杉橋氏が仮名本の『曾我物語』を典拠としていることに対して、それが「読み物としてはともかく、史料としては信頼性が低いことは、多くの研究者の指摘するところであ」り、「後世の読み物を歴史分析の史料とすることは、研究者は十分に慎重でなければならないはずのものである」と批判します。
  ただ、杉橋氏は、仮名本の『曾我物語』における政子の結婚年に「とくに難点は認められない」ことから、「牧の方の娘の年齢にも信を措いてよい道理」であるとして、「時政が牧の方を迎えたのは、(平治の)乱より約1年以上前であろうとの計算が成り立つ」(P.186)と述べているところです。
  ここでも、杉橋氏は、「尼が何故かかる行動に出たのか」という問題を解決するのに、牧の方の成婚時期が「平治の乱の当時、ないしは乱からさして降らない時期」であることが重要な要因となることから、その可能性の有無(ゼロではないかどうか)を検討しているものと考えられます。そうした杉橋氏の特殊な取り組み手法に対して、貴論考の論理的・正統的な批判がどこまで通じるのかは、若干ですが疑問に思えてきます。

ハ) また、杉橋氏の論考の表1に記載されているシュミレーション(注4)に従えば、「四十六歳でなお男子を儲け、八十四歳にして厳冬の中の諸寺詣で」(P.188)となりますが、貴論考では、「その当時、46歳の高齢出産はまず無理だったのではあるまいか。「八十四歳にして厳寒の中の諸寺詣で」も、同様に無理であろう。「絶対不可能ではない」という答は、答にならないはずであろう」と批判されておられます。
  しかしながら、杉橋氏にとってここでも重要な点は、「絶対不可能とは断言できない」(そのような行為がなされた確率がゼロではない)という点だと思えます(P.188)。なお、この点については、更に「そうした精力絶倫のさまが、…定家の癇に障ったとも想像できよう」というように、またもや「想像論」が飛び出してきます。

.少し脇道に逸れてしまうことをお許しください。
  以上のような議論仕方の違いを見ますと、唐突ですが犯罪捜査法でみられる差異にあるいは類似するのではないかと思えてきます。すなわち、
イ) 貴論考の方法は、警察による実際の捜査で行われているような、偏った先入観をあらかじめ持たずに、犯人の遺留品であるとか、目撃者の情報などを一つ一つ丹念に慎重に洗い出して、犯人に至る道筋を地道に見いだしていく正攻法に、もしかしたら近いのではないかとも考えられます。
  犯人の遺留品とか目撃情報に相当するのが、『愚管抄』とか『東鑑』、『尊卑分脈』などの史料といえるのかもしれません。貴論考としては、こうした史料の記載事項などを一つ一つ子細に着実に検討して、矛盾無く受け入れることのできる事柄を総合して歴史的事実として取り扱おうとしているもの、と思われます。
  いってみれば、帰納法に基づく科学的・実証的な捜査方法でしょう。

ロ) 他方、杉橋氏の方法は、こう申し上げると持ち上げ過ぎになってしまいますが、ある意味で、探偵小説における探偵の推理に近いのではないか、と思えます。といいますのも、シャーロック・ホームズの推理法について、演繹的な推理とか帰納的な推理ではなく、「アブダクション」といわれるものを使っているとする主張があるからです(注5)
  ここで、アブダクション(abduction)とは、帰納法(induction)や演繹法(deduction)と並んで昔から認められている推論法で、近年になって米国のプラグマティズム哲学者C.S.パースが取り上げたようです。そのごくおよそのところは、「ある特異な事象()が事実として観察され、それを成り立たせていると考えられる原理を仮説()として導くと、その事象()が大変上手く説明される場合に、当該仮説()は真であろうと推定する」といったような内容になるものと考えられます。ここでは、仮説()の検証もさることながら、それが如何に事象()を説明するのか、といったことに重点が置かれるようです。
  これを杉橋氏の議論に単純に当て嵌めてみますと、「牧の方の特異な行動」が事象()に相当し、それを説明する「牧の方の政治的人脈」が仮説()に該当して、仮説()が事象()を十分上手く説明しているのであるから、仮説()は歴史的事実であろうと考える、といったことになるでしょう。
  そして、杉橋氏にとっては、仮説()の検証とは、「何より、平頼盛領大岡牧の知行者として、母池禅尼の弟「諸陵助宗親」は任に相応しいのである」(P.180)との記述で十分なのかもしれません。ですが、この推論方の問題点もそこ(仮説(B)の検証)にあるのではないか、と考えられるところです。

9.閑話休題
  こうしてみてきますと、確かに貴論考の議論の仕方は、真っ当であり歴史学的分析の御手本のように素晴らしいものではありますが、自己の設定した問題を解決するための仮説を提起して、立証する史料に乏しくとも成立する確率がゼロでなければ、その仮説を歴史的事実と考えてみてはどうかとする研究者に対しては、その有効性がともすると薄められてしまうのではないか、と思われるところです。
  もう少し検討してみましょう。
イ) 貴論考の議論に対しては、おそらく杉橋氏は、「牧の方は駿河土着の武士の娘」というのであれば、牧の方の「きわめて羽振りの良い、かつは勝手気ままな行動」とか、「池禅尼による頼朝の助命嘆願」とかは到底説明が付かないではないかと疑問を呈し、「牧の方の政治的人脈」を想定せずにこの問題の解決は考えられず、そうだとしたら「牧の方が池禅尼の姪に当」たると考えてもオカシクはないのではないか、とあるいは主張するかもしれません(注6)
  すなわち、ある歴史上の人物の極めて特異な行動を説明するのであれば、正統的な論理が見出す「自然」で「穏当な」要因ではなく、例え可能性が低くとも特殊特別な事情(説明要因)を見付けださなければならない、と杉橋氏は考えるのではないか、と思われるところです。

ロ) とすれば、杉橋氏の説に対して、「渾身の批判」により大打撃を与えるよう試みて、ダウンを奪っていることは確かなように私には思われるものの、それでもなおカウント・テン以内に起き上がるのかもしれません。ここでその説を徹底的に打破しようとするためには、杉橋氏の問題設定自体を打破するか、その設定された問題を解決する別の要因を探し出すかする必要が、あるいはあるのではないかと思われるところです。
  ただ、貴論考では、牧の方の行動について、「その概略を確実な線で述べると、次のようなものとなろう」として、「元久元年(1204)、将軍源実朝の妻選びに暗躍し、…翌2年(1205)になって、夫時政に畠山父子が謀反と讒言し、6月に誅伐させた。次いで、閏7月、将軍実朝を殺して朝雅を将軍にたてようとしたが、陰謀が露見して…、夫と共に伊豆北条に流された(牧氏の変)。晩年は、…安貞元年(1227)正月に京都で夫時政の十三年忌供養を行い、同年3月の行動まで史料で確認される」と述べています。
  従って、杉橋氏の問題意識の前半部分、すなわち、「そうした牧の方の行動はいかにして可能であり、また何故にそのような行為に出たのか」(P.174)という問題設定自体に関しては、ある程度共有されていると考えられます(注7)
  そうであれば、杉橋説を根底的に打ち破るには、問題設定自体の否定という道を採らずに、杉橋氏のように「牧の方の政治的人脈」を想定することなく、牧の方の特異な行動を説得力をもって説明できる別途、別の要因を探し出す必要があるのではないでしょうか?私にはこれ以上とても突き進むことはできませんが(注8)、如何、お考えでしょうか?

ハ) こう申し上げても、杉橋氏の問題意識の後半部分、すなわち「池禅尼による「頼朝助命嘆願」の真相究明」(P.183)については、ロと同じような議論はできないのではないかと考えております。
  といいますのも、杉橋氏は、この問題の解明に当たっては、「池家の側に、頼朝の身を確保することによって、将来にわたる政治的取引のカードとしての温存をはかった」(P.190)という要因を「想像」していますが、別段そのような「想像」などわざわざしなくとも、たとえば杉橋氏自身が挙げる『平治物語』のように、「頼朝の風貌が早世した池禅尼の実子家盛に酷似していたため」(P.183)としても説得力は十分ではないかと思えるところです。
  つまり、「池禅尼が何故かかる行動に出たのか」(P.186)の解明に、牧の方の出自が「京都にしかるべき基盤を有する家柄」、もっといえば「池禅尼の姪」であることの必要性は余りないのではないかと考えられます。杉橋氏の論考が記載する要因は、単に、牧の方が池禅尼の姪であると想定するところから派生してくるところに過ぎないと思えます。

ニ) なお、貴論考での議論は、取り上げている『北条氏系譜人名辞典』などで、杉橋氏の所説が採用されている現況に対しては、実に有力な批判になりうるのではないかと考えます。といいますのも、そうした一般的な著作物では、あくまでも正統的な論理に基づいて獲得される確実な知識が記載されてしかるべきであって、個人的な問題意識に基づくかなり偏った推測や想像が採用されるべきではないと考えられるからです(そうした推量自体は、自身の著作の中で自由に行なえば良いはずですから)。

10.以上の感想について、若干でもご意見を頂ければ幸いです。

〔注〕なお,以下に見える(お答え)とは,小林滋様の問に対する筆者〔宝賀〕からのお答えです。
(注1) 以下括弧書きで記載されているページ数は、杉橋氏の論考が収められている『古代・中世の政治と文化』のものです。

(注2) この点に関して、貴論考では、「ただし、牧の方が宗親の妹だった場合には、杉橋説はまず成り立つ余地がないことに留意」と但書きを付していますが、その意味するところは、杉橋説のいうように牧宗親が諸陵助宗親と同一人であるとしても、後者の兄弟姉妹として『尊卑分脈』では、「第一番目に女子(平忠盛後室で家盛・頼盛等母、すなわち池禅尼)、第十番目に女子(若狭守高階泰重室、正三位泰経母)をあげ、その間はみな男子であって、@従五位上宗長A下野守宗賢、B諸陵助宗親、以下…(中略)…、G忠兼までの兄弟八人」の全部で十名が記されているところから、「牧の方」の入り込む余地が無いということ、と理解して宜しいでしょうか?
 (お答え) その通りです。『尊卑分脈』に牧の方に当たる女性が不記載のうえ、その姉妹の嫁ぎ先から考えて、東国の中小武家に嫁ぐことなどもありえないとみられます。どうして、「牧の方」のような重要な人物がいたとしたら、同書の記載から脱落したのでしょうか。

(注3) この点については、貴論考ではさらに、「東国在住小豪族の庶流の無位無官の者のもとに、どうして京の廷臣の娘が嫁していくのだろうか。時政に関する上掲の自己所論と大きく矛盾し、おおよそ無理な設定といわざるをえない」と述べておられますが、杉橋氏の論考では、「時政と牧の方との成婚が、きわめて政治的な意図に出る行為であった事実」と述べ、その「政治的意図」とは、「すでに旧稿で論じたように、…北条氏の家督の地位さえおぼつかない状況に」あった時政が「家督争いを自己に有利に導く」ことを指しているものと考えられ(P.191)、杉橋氏としては、二つの論考の間に矛盾があるとはどうも考えていないように思われます。
 (お答え) 時政の政治的意図から希望するような結婚があっても、そもそも京都の先方の家に認められるのだろうか、という問題です。

(注4) 「シュミレーション」という用語がここで使われていますが、確かに、一定の仮定的な事実と他の確実な事実との兼ね合いを見るということで、誤った用法とまではいえないにせよ、一定の仮定を置いて作られた模擬モデルを使って、色々の変数の時間的動きを見るといった通常の用法とはかなりかけ離れているものと考えられます。
  関連で申し上げますと、「大岡牧」について、杉橋氏は、「頼朝方の将兵にとり一種の「アジール」と認識されていた可能性は否定できない」(P.183)と述べています。確かに、その意味するところは「避難所」ですから、「万一の場合の集合地」(P.182)を「アジール」と規定しても用法として誤っているわけではないでしょうが、網野義彦氏の『無縁・公界・楽』(平凡社選書58)等で述べられているような、公権力の介入のない、世俗の縁と切れた無縁の場所としてのアジール、という意味合いとはかけ離れているのではないかと思えます。「シュミレーション」にせよ「アジール」にせよ、そのような流行語など使わなくとも全然かまわないところで、なぜ杉橋氏はことさら奇を衒った表現をとるのか、よく理解できないところです。

(注5) ここら辺りは、推理小説・SF作家の笠井潔氏の『探偵小説論序説』(光文社、2002.3)に拠っております(そのP.109〜P.113)。
  なお、最近読みました『逸脱する絵画』(宮下誠著、法律文化社、2002.5)は美術論を取り扱っているレッキとした著書ですが、その冒頭の章において、参考文献としてこの笠井潔氏の矢吹駆シリーズが麗々しく記載されているのには驚きました。そこで、『バイバイ、エンジェル』(創元推理文庫)を読んでみたのですが、笠井氏は、主人公の矢吹駆の方法を「現象学的推理」とよんでいて、探偵は、観察と推論と実験という合理的な思考手続きによって犯人を知るのではなく、最初から「本質直観」(フッサールの)によって知っていた、などと書いているところです(同文庫P.41〜45)。

(注6) この場合には、杉橋氏はおそらく、貴論考が指摘する「『東鑑』に見える牧宗親の行動は、殆どが北条時政等の北条一族に随従するか指示をうけてのもので、京の廷臣が取る行動ではないといえよう」といった『東鑑』にかかる点は無視し、また諸陵助宗親等の生年に関する貴論考の実に精緻な分析も、単なる推測にすぎないと無視することになるでしょう。
 (お答え) 時政と牧の方についての「シュミレーション」を作成された杉橋氏であれば、池禅尼の兄弟姉妹の生没年について、その推定の労を惜しむはずではないと考えています。こうした常識的なチェックが欠けている系譜論が、残念ながら散見します。

(注7) 現に貴論考は、「杉橋氏は、「現代歴史学の問題としては、…そうした牧の方の行動はいかにして可能であり、また何故にそのような行為に出たのかを考えることであろう。…」と問題意識をもたれる。この点に関して、私としても全く異存がない」と述べているところです。

(注8) 野村育世氏の著『北条政子』(歴史文化ライブラリー99、吉川弘文館、2000.8)には、「平安時代から、室町時代にかけて、女性全般が政治機構から排除されていった時代の中で、女性が政治権力を握ることができたのは、多くの場合、妻であり、母であり、そして後家という立場に立った時であった」(P.151)と書かれております。もちろんこれは、北条政子とか日野富子といった女性を想定して書かれていて、牧の方のレベルとは異なってはいますが、何らかの参考にはならないでしょうか?


(小林滋様に対するお答え)

  いつもながら、別の視点から冷静な分析・指摘、ありがとうございます。
  以下に、私見をとりあえず記述してみますが、更なるご指摘もお願いします。なお、(注)についてのお答えないし私見は、便宜上、上掲のように当該箇所の末尾に記してみました。

 歴史学とは「想像」で成り立つ科学のはずがなく、歴史上の個人行動の説明としても論拠のない(薄い)想像は許されることではないと考えます。本件については、牧の方の出身が池禅尼の姪でないということが明確に否定される場合は、それ以下の杉橋氏の所論展開は全くありえないことになります。そもそも論理的に考えても、「幾許かの可能性」の何乗かは、殆どゼロに近づくという可能性になるのではないでしょうか。
  歴史的事件は、常に個別性があり、一般論で解釈できないことは当然のことですが、それにしても、積極的な立証をしないで、「幾許かの可能性」を次々に重ねていくというのは、異説を新たに立論する立場としては、きわめておかしな姿勢ではないでしょうか。これでは、論証になりません。新説の提示は、あくまでも積極的な立証に基づくものであるべきです。

次に、具体的な問題として考えていけば、池禅尼がなぜ頼朝救命に尽力したのかは、現在までの研究では、解明されているとは思われません。「夭折した我が子家盛によく似ている」という事情は、『平治物語』に所載の所伝ですが、話として面白くても、本当にそれだけだったのでしょうか。
  池禅尼という女性は、平家勃興の時期にかなり大きな政治的な役割を果たした先見の明がある人物とみられるからです。すなわち、保元の乱に際しては、崇徳方は必ず負けるからと読んで、自分が乳母であった重仁親王(崇徳上皇の一宮)すら見捨てて、本来崇徳方に加わるべき立場の我が子頼盛に対し後白河天皇方に加わるように指図した、と『愚管抄』に記されています。この辺の事情は、河内祥輔著『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002年)77頁(及び注113)に詳しく記されます。こうした判断ができる人が、死んだ我が子に似ているというだけで助命活動をしたのでしょうか。また、それが決定的だったのでしょうか。
  保元・平治の乱では、長い間途絶えていた死刑が復活したものですが、前者では、武勇名高い源為朝が捉えられて伊豆大島に流されています。後者でも、公家の首謀者とされる藤原信頼が死刑とされた以外では、源義朝は逃亡途中に討ち取られて梟首され、その長子義平は平家要人を狙うのを捉えられて死刑となったくらいで(このほか、武者の源季実は死刑と『尊卑分脈』に記載されるものの、必ずしも確認できない)、頼朝の同母弟希義も流罪となっています。後年、頼朝は救命の恩義により池禅尼の子の平頼盛一族を厚遇していますから、池禅尼の頼朝救命の動きは現実にあったものでしょうが、それだけで頼朝が助命されたかどうかもやや疑問です。当時の政治情勢と法的裁きの慣行が、全体的に頼朝助命の方向に働いたものではないかといえそうです。

 平安末期の伊豆の豪族では、源為朝討伐事件に見るように工藤介茂光一族や伊東祐親一族のほうが、北条一族より遥かに優勢であり、かりに池禅尼がその姪を伊豆に嫁がせようとしたことがありえたとしても、北条一族以外を選ぶほうが常識的です。 北条時政だけが平頼盛一族に親しく、特別に臣従していたという事情があったとは、どの史料に見えません。
  当時の伊豆で平氏を称していたのが北条一族だけであったとしても、その出自・系譜が正しかったか、京都の平家(清盛一家)がそれを認めていたかどうかは全く別問題なのです。

 頼朝がなぜ伊豆に流されたかは不明ですが、神亀元年(724)に遠流の国として指定されたという古代からの事情があるものと考えられます。その後の頼朝の歴史的展開は運命の悪戯としかいえないものです。

 「牧の方の特異な行動を説得力」ある説明することに関してですが、牧の方が政治的にほんとうに異能であったかどうかは、現存史料から見ると、実のところ良く分かりません。当時の流動的な政治情勢の中で、陰謀家の夫・時政と行動を共にして養われた政治感覚があったともみられます。彼女が後年、京都で悠々と過ごせたのは、時政の死没により許され、娘たちの殆ど全部が居住する京都で暮らすことを認められたからではないでしょうか。牧の方の政治手腕を鎌倉幕府上層部のほうで恐れたり高評価していた場合には、こうした野放しは許されなかったとも考えられます。
  結局、結論としては比較的平凡なところに落ち着いたわけです。従って、この晩年事情の辺りを、牧の方の出身と絡めて推測することは、行き過ぎだと思われます。

以上の2〜5の個別問題について、歴史学的に解明できるものなら解明するに越したことはないのですが、無理に想像ないし推測することは、却って問題が大きいものと考えられます。分からないものは、当面、そのままにしておかざるをえないものもあるからです。具体的に着実に合理的に論理を展開したうえで、歴史問題の検討をする必要を痛感する次第です。


 (小林滋様からのお返事)

イ) 昨日(02.8.24)、「ジュンク堂」に行きましたら、『裏方将軍北条時政』(叢文社、2000.1)という本があり、立ち読みしましたら、そこでも杉橋氏の説がそのまま記載されていました(著者の小野真一という方は、昭和4年生まれということで、現在は何もポストには就いてはいないようです)。
  言われるように、かなり杉橋氏の説は受け入れられているようですから、本来ならばモット読者数の多い雑誌に貴論考が掲載されると、ズット効果的ではないかと思えるところです。

ロ) 貴回答は、すべて納得の行くところです。特に、4番目の「池禅尼の頼朝救命の動きは現実にあったもの」かもしれないが、「それだけで頼朝が救命されたかどうかも疑問」とか、5番目の「牧の方が政治的にほんとうに異能であったかどうかは、……実のところ良く分か」らない、という点は杉橋説の根底を崩す事柄ではないかと思います。
  といいますのも、杉橋氏の問題の設定自体が実にアイマイな確実ではない事柄に拠っているわけですから。

  (以上、02.8.25掲上)



 (本論の総括)

 
牧の方の出自を考える場合、夫である北条時政の系譜も併せて十分、考えていかねばならないことはいうまでもない。本HPでは、そこまで手が回らなかったが、『東鑑』にこう書いてあるから正しいと決め込まずに、冷静に実証的に系図研究をする必要がある。同書では、巻1に「上野介平直方朝臣五代孫北条四郎時政主」とあり、また「平政子」という表現も見られるからである。『東鑑』が北条氏を喧伝する書であることは、まず基本的な認識であろう。
  一方、『尊卑分脈』は、南北朝頃までの有力諸氏の系図所伝を記載するものとして重要な史料である。とくに、公家藤原氏の系図としてはかなり確実な史料と評価されよう。その書に記載がないことの意味(
=事実として存在しなかったこと、ないし殆ど存在しなかったこと)を十分認識すべきであろう。このことは、逆に「記載があるから正しい」ということを直ちに意味するものではないことにも、また十分注意したい。杉橋氏の問題提起が、こうした『尊卑分脈』という史料の性格をきちんと把握しなかったことに由来していると考えられる。
  同氏が歴史学者とはいえ、系図研究の専門家ではないことによる限界であろうが、仮名本『曾我物語』といい、立論の基礎に用いる史料吟味の甘さはどうしたものであろうか。

  (以上、03.2.15掲上)



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