杉橋隆夫氏の論考
「牧の方の出身と政治的位置」を読む


 杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む   
          
関連して、駿河牧氏の系譜
  

                                      宝賀 寿男



  はじめに   

  杉橋隆夫(すぎはし・たかお)氏は、京都大学大学院博士課程で学ばれ、現在(2002年8月当時)、立命館学の文学部長・教授であって、日本中世史関連の研究論考を発表されてきておられる。これまでに、系譜・出自関係の論考として、「北条時政の出身−北条時定・源頼朝との確執−」(1987年。『立命館文学』500号)や標記の「牧の方の出身と政治的位置−池禅尼と頼朝と−」(1994年。『古代・中世の政治と文化』所収)などを発表され、共著での『静岡県史 通史編1』(1994年)、『静岡県の歴史』(1998年)に執筆を分担されている。しかも、1998年4〜9月には、「北条時政・政子・牧の方論−人物史論の試み−」を研究課題として、国内留学までされている。また、「日本中世武士論の現状と課題」という発表も、1998年 9月、米国プリンストン大学東洋学部セミナーで行っている。
  ここで標記の論考(以下、「本論考」とする)を取り上げたのは、十年ほど前から杉橋教授が主張・鼓吹されている北条時政の後妻・「牧の方」の出身についての説が、最近、かなり受け入れられつつあるのではないかと感じ、こうした謬説が排撃されるよう、しっかり批判しておく必要を感じたからである。立派な中世史の学究が、こと系譜に関しては甘い分析・検討しか出来ず、その結果、誤った結論に導かれるとともに歴史の流れに対する見方が狂ってしまうことを、私は強く憂いており、真摯に批判を試みる次第でもある。そのため、文責を明らかにする意味で、ここでは執筆者名を明記することとした。

  最近までの北条氏研究は、氏のほか安田元久、奥富敬之氏などの研究でかなり進んできた面がある。なかでも、「野津本北条系図」の史料紹介(『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集、1985年)や、故安田元久氏が編著として出された『吾妻鏡人名総覧』(2000年、吉川弘文館)所載の「北条氏系図考証」(安田ゼミ在籍経験者による北条氏研究会の執筆)は立派な成果といえよう。その後、北条氏研究会(代表菊池紳一氏)では、さらに研究を進めて、2001年6月には、『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社)を刊行している。
  ところが、ここには牧の方について上記の杉橋説と同じ考えが採り入れられている。こうした状況では、同説に対して明確かつ徹底的な批判の必要が出てくると思われる次第である。
なお、上記の研究においていずれも、時政前代の北条氏の系譜については、殆ど批判的分析をしないか、『東鑑』(吾妻鏡)等の記述を基本的に受け入れているという大きな問題点がある。これについては大きな問題があり、別途、掲載を考えたい


  1 問題の所在

  「牧の方」(牧方、牧御方、牧野女房)は、鎌倉初期の女性で、その行動は政治的に見てもなかなか興味深いものがある。『東鑑』(以下、『吾妻鏡』をこの形で記す)等により、その概略を確実な線で述べると、次のようなものとなろう。
  北条時政の後室で、牧三郎宗親の妹とも娘ともいう。元久元年(1204)、将軍源実朝の妻選びに暗躍し、また女婿である源氏一族で京都守護の平賀朝雅が酒宴で畠山重忠の子重保と口論し、これを義母牧の方に訴えたので、翌2年(1205)になって、夫時政に畠山父子が謀反と讒言し、6月に誅伐させた。次いで、閏7月、将軍実朝を殺して朝雅を将軍にたてようとしたが、陰謀が露見して政子・義時姉弟の反対に遭い、夫と共に伊豆北条に流された(牧氏の変)。晩年は、娘たちがいる京都で過ごし、安貞元年(1227)正月に京都で夫時政の十三年忌供養を行い、同年3月の行動まで史料で確認される。
  『東鑑』の記事は北条氏寄りに潤色されている部分がなきにしもあらずであるが、これらが全て事実なら、相当な女傑とも“悪女”とでもいえよう。実際、そうした見方は古来かなり定着していたようである。坪内逍遙の史劇『牧の方』もその一環であろう。これに対し、杉橋氏は、「現代歴史学の問題としては、かかる評価とその前提となる「事実」の認定に誤りがないかどうか、信受しうるとして、ならば、そうした牧の方の行動はいかにして可能であり、また何故にそのような行為に出たのかを考えることであろう。およそ歴史上の人物の性格や行動を論ずるさい、たんに表出した現象を云々するだけでは不十分であって、その人物の出身や社会環境・人間関係などを考慮しつつ評価に及ばねばならない」と問題意識をもたれる。この点に関して、私としても全く異存がない。

  問題は、牧の方の出自すなわち系譜であり、その総合的な史料解釈である。
  牧の方については、「牧」は駿河国駿東郡の大岡牧に由来し、牧三郎宗親の近親ということが分かるのみで、その具体的な系譜が知られず、生没の年・享年も史料に見えず不明である。こうした場合、どのような接近方法が考えられるのだろうか。
  牧の方について、その出自を記す史料は二つある。一つは『東鑑』であり、もう一つは『愚管抄』であって、この二つは必ずしも合致するとはいえない。それどころか、重要な点で相矛盾するものとなっている。そうすると、その場合、どちらを採るべきものであろうか。杉橋論考は、この点について『東鑑』の記事を全く無視して立論し(当然ご存知のはずであるが、無視する理由を記さない)、所論を展開している。煩を患わないで、その関係箇所を対照的に先ずあげておく。

(1)『愚管抄』(巻第六順徳の段
時正(註:北条時政)ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウト(註:同腹の兄)ゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ。其宗親、頼盛入道(註:池大納言平頼盛)ガモトニ多年ツカイテ(仕えて)、駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ(治めた)。武者ニモアラズ、カゝル物ノ中ニカゝル果報ノ出クル(フ)シギノ事也。

(2)『東鑑』
@ 牧三郎宗親(寿永元年11月10日、12日、14日条
  文脈は、寿永元年(1182)、北条殿(時政)の室家牧御方が政子に武衛(頼朝)の寵姫亀の前のことを密告したので、政子は、牧三郎宗親に命じて寵姫所在の宅を破却して、ひどく恥辱を与えた。その翌々日、頼朝は、この事情を聞いて怒り、自ら宗親の髻を切った。さらに、この頼朝の所業を聞いて、時政が不快を感じてにわかに伊豆へ退去した、というもの。
A 武者所宗親、宗親(元暦二年5月15日、16日条
  文脈は、元暦二年(1185)、捕虜の平宗盛父子を伴った源義経を迎えるため、頼朝の使として時政が酒匂宿に向かったが、それに武者所宗親が随従し、翌日、宗盛主従を連れて鎌倉に戻り、宗親がまず参入してこれを報告した、というもの。
B 牧武者所宗親(文治元年10月24日条
  同年の文治元年(1185)、頼朝が南御堂供養のため出かけたとき、その前後に随った五位六位の者32人のなかに見える。宗親は、総勢のうち第30番目に挙げられるから、当時の地位は六位であったとみられる。
C 武者所宗親(文治元年12月26日条
  義経の叛乱に同意した平時実を生け捕り、これを連れた宗親が参向したとある。
D 武者所宗親(建久二年11月12日条
 建久二年(1191)、北条殿の室家(牧の方)が京都より下向し、兄弟の武者所宗親と外甥越後介高成等がこれに伴ったと記される。宗親と牧の方との関係が明確に兄弟と記されていることに留意したい。この後、12月1日、時政が頼朝に対し飯(饗応)した際、武者所宗親・越後介高成等も陪席したとある。
E 武者所宗親、宗親(建久三年10月30日条
  武者所宗親の浜の家が焼亡した。
F 牧武者所(建久六年3月10日条
  建久六年(1195)、頼朝が東大寺供養の際、南都へ赴いたが、その随兵のなかに牧武者所が見えており、これが『東鑑』に見える宗親としては最後の記事である。

  この両書の記述では、『愚管抄』では牧の方は宗親の娘であり、『東鑑』では宗親の妹とされるが、これは実はたいへん大きな違いなのである。
  杉橋説では、『愚管抄』のいう「宗親の娘」説の立場を採ったうえで、牧武者所宗親は、『尊卑分脈』道隆孫の系譜に見える諸陵助宗親と同人だとする説を採っている。諸陵助宗親とは、平忠盛(清盛の父)の妻・池禅尼の四弟であり、杉橋説では、牧の方は池禅尼の姪ということになる。池禅尼は、忠盛の後妻で大納言頼盛等の生母であり、平治の乱後に捕らえられた頼朝を清盛に嘆願して助命したという所伝でも有名である。その頼朝を挙兵以来支えた北条時政が、池禅尼の姪を後妻としていた事情があったとみるわけである。しかし、話はそんなに上手く繋がるのであろうか。
  要は、(1)牧の方は、宗親の娘か妹か、(2)宗親は、『尊卑分脈』に見える諸陵助宗親と同人か、という二つの問題をどう考えるか、ということになる。多くの史料を見ても、(1)については決め手になるものはない(ただし、牧の方が宗親の妹だった場合には、杉橋説はまず成り立つ余地がないことに留意)。
  (2)についても、決め手はとくになさそうである。そのため、杉橋説が出てくる余地が生まれる訳であるが、仔細かつ丁寧に系図史料を検討して、生身の人間としての「宗親」という人物を具体的に考えていくと、杉橋説が成立する余地は全くないことになる。それを以下に記述していきたい。


  2 武者所宗親と諸陵助宗親は同人か

  牧の方の近親・宗親が大舎人允であったことは、『愚管抄』にしか見えないが、これ自体は否定することまではないと考えておく。次に、大舎人允と諸陵助との官位比較でいうと、前者は令制以来七位相当、後者の諸陵助は当時正六位下相当と考えられる(『拾芥抄』)。
  杉橋氏は、「宗親は大舎人允から諸陵助に進んだと解されるし、この時期一般にみられる位階の「インフレ」状況や、『官職秘抄』が寮助の任例に関して「五位例」とすることなどから、宗親の実際の位階が官職相当以上、五位に達した可能性も否定できない」とし、『愚管抄』に牧の方の同腹の兄と記される時親が「五位尉」になったと記すのも参考になるとして、官位の面から考えて、「大舎人允宗親」と「諸陵助宗親」とが同じ人物とする判断を妨げない、と考える。「何より、平頼盛領大岡牧の知行者として、母池禅尼の弟「諸陵助宗親」は任に相応しいのである」、と記述される。この結論を踏まえて、諸陵助宗親の「姻戚・縁者には、鳥羽・後白河両法皇の寵臣として鳴らした藤原家成・成親父子、後白河側近の高階泰経などがみられ、池禅尼とその息頼盛を通じて鹿ヶ谷事件の中心人物俊寛、そして八条院の乳母や女房と結びつく」と考え、「要するにこの家は、平安末期には院近臣グループを形成していたのだといえよう。牧の方の政治的手腕とその資質は、おそらくこうした系譜・環境によって養われたのであろう」と結論づけられる。
  しかし、実際にそうなのだろうか。院の近臣グループを構成し平忠盛の妻(池禅尼は崇徳院皇子の重仁親王乳母でもあった)すら出した藤原一族から、草深い東国伊豆のしかも本宗家当主とはいえない、当時官職もなく単に「北条四郎」とのみ『東鑑』に記される人物の後妻として若い娘が嫁してくるのは、きわめて不自然であると考えられる。治承四年(1180)の頼朝挙兵当時、43歳の時政はまだ一介の「北条四郎」だったことを銘記すべきである。だからこそ、従来の定説は、牧の方は駿河土着の武士の娘と考えたわけである。

  先に、杉橋氏は、1987年の発表の「北条時政の出身」という論考で、治承四年の挙兵前後の時政の位置について考え、「挙兵以前、北条氏本来の家督は時定の系統に属し、時政はいまだ北条氏嫡宗の地位を確立しておらず、むしろ庶流の立場に甘んじていたとみられること、またそう考えてこそ、従来不審なままに放置されてきた諸現象に明快な説明を施しうること、等を主張する拙文」を既にいくつか発表してきたが、これらを整理統合したものであるとの記述をする。
  この論考は、@北条時政が平直方の五代孫だという『東鑑』の記述に疑いをもっていないようにみえること(北条氏の平姓は実際には系譜仮冒である)、A「朝臣」がカバネ()としての表記なのに、「五位以上」の官位をもっていた者に付けられる表記と考えること、などの問題があるものの、「北条介時兼・平六左衛門尉時定親子」のほうを北条氏嫡流と考え、挙兵以前の北条氏は、『吾妻鏡』の記述とは異なり、伊豆国内でも第二級の武士団にすぎなかったとみるなど、幾つかの卓見をもち、総じて穏当な結論となっている。
  この所論に、私も基本的に賛意するものであるが、そうしたとき、東国在住小豪族の庶流の無位無官の者のもとに、どうして京の廷臣の娘が嫁していくのだろうか。時政に関する上掲の自己所論と大きく矛盾し、おおよそ無理な設定といわざるをえない。しかも、杉橋氏は、本論考所載の「表1 時政・牧の方年譜(含シュミレーション)」のなかで、保元3年(1158)に「時政(21歳)・牧の方(15歳)結婚」と記述する。保元3年といえば、池禅尼の嫁した平氏一族が上がり調子の時期である。そんなとき、身分的に成立可能な婚姻とは到底思われないうえに、抑も時政が平氏に仕えて上京する機会があったとも思われず、両者の接点が全く考えられないのである。

  武者所宗親と諸陵助宗親とが同人と考える杉橋説では、当該論考で何ら積極的な立証をしているとは思われない。同人の認定は、かなり難しいうえ、この論考でたいへん重要なポイントであるのだから、様々な角度から十分な検討がなされるべきものである。そこで、ここでは具体的に両者が同人かどうかを氏とは別の目で考えてみよう。
  まず、官位官職からみると、『東鑑』では元暦二年(1185)から建久六年(1195)まで宗親は六位の武者所であったことがしられる。これは、『愚管抄』が宗親を「武者ニモアラズ」と記述することと明確に矛盾する。この辺にも、『愚管抄』の牧の方関係記事に疑問を感じる。同書に息子とされる時親も、五位尉でやはり武官であった。牧宗親は武者所の官職が示すように、間違いなく武者(しかも東国駿河の)であった。『東鑑』に見える牧宗親の行動は、殆どが北条時政等北条一族に随従するか指示をうけてのもので、京の廷臣が取る行動ではないといえよう。京の中級の文官公家が武者所の官職を得ることなど、まず考え難いことでもある。
  従って、同じ六位相当の官とはいえ、武者所から諸陵助に任じることはなかったと考える方が自然であろう。上掲のように、杉橋氏は、「宗親は大舎人允から諸陵助に進んだと解される」と記すが、『愚管抄』の記事が何時の時点で書かれたのかの問題でもあるが、極官を示したものなら、氏の解釈はありえない。大岡時親について「五位尉」との記載があることから考えると、13世紀初頭頃の記述とみられ、その場合には、武者所から大舎人允となった程度であろう。また、宗親が建久六年以降に叙爵(従五位に叙位すること)した記録も全くない。
  寿永元年(1182)11月、『東鑑』に宗親が初見したときには、たんに牧三郎宗親として無位無官のように記述することも十分留意しておきたい。すなわち、駿河の無位無官の武士の娘が近隣伊豆に在住の無位無官の武士の後室として嫁しただけの話しだったわけである。後日、牧の方の近親の宗親や時親が叙位任官するのも、北条氏との所縁・支援に拠るものと考えられる。同書、建久二年(1191)9月条には、牧の方は氏神奉幣のため上洛したと記事があるが、一族が藤原姓を称していれば、近親とともに春日明神に奉幣しても不思議ではない。この記事をそのまま出自に直結して考えるには無理があろう。

  次に、『尊卑分脈』記載の諸陵助宗親の周辺を見てみよう。同書では、関白藤原道隆の玄孫、正四位上近江守隆宗(1046生〜1103没)の子、従四位上修理権大夫宗兼(1141出家)の子として、十人の子女をあげる。その第一番目に女子(平忠盛後室で家盛・頼盛等母、すなわち池禅尼)、第十番目に女子(若狭守高階泰重室、正三位泰経母)をあげ、その間はみな男子であって、@従五位上宗長、A下野守宗賢、B諸陵助宗親、以下…(中略)…、G忠兼までの兄弟八人を記す。これら男子のうち、管見に入った限りでは、史料に見えるのは宗長のみであり、『兵範記』仁平二年(1152)8月14日に「前下野守宗長」と見える。これらの家族事情等から、諸陵助宗親の生年を推測してみると、1105年前後くらいで、その兄弟姉妹の生年も概ね1095〜1110年頃とみるのが比較的穏当な模様である。この頃生まれた人間が少なくも建久六年(1195)まで、六位の武者所として活動できるはずがない。諸陵助宗親の長姉の池禅尼は、生没年不明だが、頼朝助命の時期は平治元年(1159)であり、長兄の宗長は上述のように仁平二年(1152)には極位の下野守の任期を終えていたわけである。
  ちなみに、長姉の池禅尼が生んだ二番目の男子、大納言頼盛は史料によると1131生〜86没であり、末の妹の生んだ高階泰経は1130生〜1201没であって、牧宗親は彼らとほぼ同じ世代(頼盛や泰経よりも生年は少し遅いか)に属したものと考えられる。だからこそ、牧宗親は平頼盛入道に多年仕えたものであろう。要は、諸陵助宗親と牧宗親とは、世代が少なくとも一つほど明確に異なるということであり、同人のはずがない。寿永元年(1182)に寵姫亀の前の件で、宗親の所業を聞いて怒った頼朝は、自らの宗親の髻を切ったという話を先にあげたが、この時点で髻をもっていたことを考えると、当時宗親は中年ないし壮年であったものとみられる。

  また、後でもう少し取り上げたいが、牧の方の兄弟とされる大岡(藤原)時親は、元久二年(1205)三月十日に備前守に補任されており(『明月記』)、この任官は『東鑑』(元久二年6月21日条等)の記事でも確かめられる。こうした人物が諸陵助宗親の子であったなら、『尊卑分脈』に人物記載が漏れたことも考え難い。その意味でも、公家藤原氏関係の『尊卑分脈』の記載は、かなりの信頼度をもっているとみて良いのではなかろうか。
 『東鑑』には、牧六郎政親という人物も見える。政親は、文治五年(1189)11月2日条に見えて、奥州藤原氏討滅後に泰衡と通じた風聞により、頼朝の怒りをかい時政に預けられている。この政親について、杉橋氏は、三郎宗親の子と考えているが、この頃に牧太郎ないし牧五郎という人物が『東鑑』等鎌倉初期関係史料に全く見えず、三郎と六郎という呼称の対比からいって、宗親の弟とみるほうが自然である。牧宗親と諸陵助宗親とを同人と考える杉橋説にとっては、なかなか厄介な人物のはずであり、同説では、政親は宗親の子としか考えられないであろうが。


  3 牧の方の生没年

  杉橋氏の牧の方の生年についての見解にも、疑問が大きい。氏は、池禅尼に助命された頼朝が配流地で姪の夫たる時政の監視と庇護を受けることになった、と考えるが、そもそも時政は庇護を与えたのであろうか。頼朝が最初に伊東祐親の娘に接近したのは、事実がそうではなかった故であろう。そして、牧の方は池禅尼の姪ではなかった。そうすると、氏の所説のそれ以降は想像論でしかなくなる。
  氏は、時政と牧の方との成婚について、仮名本『曾我物語』に政子の結婚譚「夢買い」が見え、そこには、ときに先腹の娘(政子)21歳、当腹(牧の方?)の娘二人が19歳・17歳として記事があり、これに依拠して両者の成婚時期は保元三年(1158)で、時政21歳、牧の方15歳のときと推定する。しかし、仮名本の『曾我物語』が読み物としてはともかく、史料としては信頼性が低いことは、多くの研究者の指摘するところである。その原型とされる真名本のほうには、「夢買い」の話は見えない。そのかわりに、政子と頼朝とが通じたのを知った継母の女房は二人の仲を割き、自分の腹の娘を頼朝と娶せようと図ったことを記す。
  この辺の政子成婚の所伝は、どこまでが事実か不明であるが、政子と頼朝が通じたのは、その間の長女大姫の生誕が治承二年(1178)だから、その前年くらいとみられている。このときの継母が牧の方であったが、その所生の長女が政子と二歳しか違わないこと(すなわち、義時よりも四歳年長)は婿の年齢等からみて先ずあり得ない。政子を時政の長女として、以下に続く妹たちは、仮に政子と同母ではなかったとしても、牧の方所生ではなかったのである。後世の読み物を歴史分析の史料とすることは、研究者は十分に慎重でなければならないはずのものである。
  杉橋氏は、時政21歳・牧の方15歳の組み合わせは、一見したところ、『愚管抄』にいう「時正ワカキ妻ヲ設ケテ」という記事にそぐわないのではないかと自問して、ワカキ妻とは成婚時の「妻の絶対年齢を表す」と解している。しかし、この説明にも無理が大きい。なぜなら、『愚管抄』の記事が書かれた当時、時政と牧の方とは現実に相当、歳の差があったことが著者に分かったので、そのように書かれたものと解されるからである。時政が若かった昔にあっては、若い女性を娶るのは当然のことであり(しかも六歳くらいなら、「ワカキ妻」と敢えていうことか)、執筆当時でも、年の差が大きな、相対的にかなり若い女性が時政の後妻だったからこそ、あの記事が書かれたとするのが自然である。

  北条時政に何人の妻妾がいたかは不明であるが、少なくとも政子の母と牧の方の二人はいた(間にもう一人くらいいた可能性もあろう)。「野津本北条系図」などの北条氏系図等や『東鑑』などの記事をみると、時政には成人近くまでなった子女としては、男子四人(三郎宗時、四郎義時、五郎時房、右馬助政範)、女子十人(政子、足利義兼妻、阿波局〔阿野全成妻〕、稲毛重成妻、畠山重忠後妻、平賀朝雅妻、三条実宣妻、宇都宮頼綱妻、坊門忠清妻、女子。この順序は一応の推測)がいたことが知られる。このうち、牧の方所生では、男子は右馬助政範のみ、女子はA平賀朝雅妻が嫡女であって、B三条実宣妻、C宇都宮頼綱妻、D坊門忠清妻、の少なくとも四女があげられる。稲毛重成妻を牧の方所生の娘にあげる説もあるが(菊池紳一氏)、嫡女とされる平賀朝雅妻との関係で問題が大きい。
  このうち、『東鑑』等の記事から政子の生年が1157年、義時が1163年、時房が1175年、政範が1189年と知られており、政子が義時や時房と同腹だったかどうかは不明である。生年や協調状況から考えて、政子は義時と同腹であったものか(義時の母として「伊東入道女」と伝える系図もあるが、真偽不明)。時房の母については不明であるが、牧の方所生ではないようだから、時政と牧の方との成婚は時房が生まれた1175年以降の時期とみるのが自然である。牧の方所生の子女では、平賀朝雅妻が嫡女とされるから、その誕生の年も概ね1176年以降1190年頃までと推される。この娘たちの誕生の年は明確な記述がないが、その夫たちの生年からみて、こう推されるのである。
  すなわち、嫡女Aは当初は平賀朝雅(生年不明も1170〜75頃生か)の妻、後に中納言藤原国通(1176生)の妻となり、B女は大納言三条実宣(1177生)の妻で早世、C女は当初宇都宮頼綱(1172生)の妻で、後に関白松殿師家(1171生)の妾となり、D女は近衛中将坊門忠清(生年不明も1177年頃生か)の妻となっている。こうしてみると、牧の方所生の娘たちの婿は皆、1170年代の生まれとなっている。牧の方は時政と結婚後、二年毎くらいのペースで続けて子女を生んでいたことが推される。牧の方の最後の所生が1189年生まれの政範だとして、このとき仮に35歳(満34歳)とすれば、結婚したと推定される1176年には彼女は22歳となり、その生年は1155年となる。また、牧の方の結婚年齢がそれより2歳くらい若かったとすれば、生年は1157年となる。
  このように、牧の方の生年を1155〜57年とすれば、その場合、時政より17〜19歳年下で、義娘の政子とほぼ同年齢となる。この辺が、上述の「時正ワカキ妻ヲ設ケテ」の解となるのではなかろうか。小説ではあるが、永井路子著でテレビドラマ化された『草燃える』では、牧の方は政子とほぼ同年か多少年若いとされていて、このほうが学究の杉橋氏の説より実態に近いのではないかと思われる。

  牧の方が史料に最後に見える安貞元年(1227)には、ここでの推定で71〜73歳となっており、その直後に死去したとしても当時としては長寿を享受したといえよう。杉橋氏の推定では、1144年生まれとしたとき、安貞元年には84歳にもなり、疑問が大きくなる。氏も、「年齢の点で気になるのは、四十六歳でなお男子を儲け、八十四歳にして厳寒の中の諸寺詣でが可能かどうかだ」と自問し、そのうえで「しかしこれとて、絶対不可能と断言できない」と記述する。しかし、その当時、46歳の高齢出産はまず無理だったのではあるまいか。「八十四歳にして厳寒の中の諸寺詣で」も、同様にまず無理であろう。「絶対不可能ではない」という答では、答にならないはずであろう。
  以上のように考えたときでも、宗親と牧の方との関係は定めがたい。『東鑑』と『愚管抄』の記事のどちらを採るかという問題でもある。後者がほぼ同時代史料で一般に信頼性が高いとしても、東国関係はどうしても伝聞に拠らざるをえず、現地事情に詳しい『東鑑』に重きをおいたほうが無難ではあるまいか。その場合、多少年の離れた妹(その場合、育て親が宗親だったか)ということもあろう。牧三郎宗親の子に大岡時親・牧の方兄妹がおり、牧六郎政親は宗親の弟と考える余地もあるということであるが、とりあえず、これら四人が全て兄弟妹だったと考えておくことにしたい(後ろで更に検討する)。


  4 駿河の大岡・牧氏の系譜と後裔の行方

  ここまでに、牧の方とその近親がやはり駿河土着の武家であったことを論述してきた。上述の『愚管抄』の記事「其宗親、頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ、駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ」も、池大納言平頼盛に仕えてその所領・大岡牧の支配人として京から派遣されたということではなかった。開発領主として自ら(ないし近親祖先)が開発した大岡牧を、仕えてきた平頼盛に寄進して領家職とし、その実質的な安堵を得たと解するほうが妥当であろう。『静岡県の地名』(日本歴史地名大系)も、この解釈を採っている。その場合、大岡・牧氏の系譜や位置づけはどうなるのだろうか。

  「大岡牧大岡荘)」とは、駿東郡の大岡を中心地とし、現在の沼津市街地辺りから黄瀬川に沿って上流の長泉町・裾野市南部に及ぶ地域に設けられた荘園であり、大野牧(『日本逸史』)や岡野牧(『延喜式』兵部省)の後身とされる。庄内には牧御堂、浅間宮(岡宮)等があった。大岡は現在、沼津市街地の東端にあり、『和名抄』の駿河郡駿河郷の地であった(『沼津市誌』『静岡県の地名』)。平安後期、この地に展開して開発領主になっていく大岡・牧氏とは、上代の珠流河(駿河)国造一族の系譜を引くものと考えるのが、各地の例から考えて自然である。為憲流藤原氏の系図のなかには、後裔諸氏として牧氏をあげるものもあるが、これは系譜仮冒であろう。それが伊豆の牧氏という説もあるが、伊豆の武家であってもやはり仮冒であろう。
  珠流河国造は物部氏族の出であり、「国造本紀」には「志賀高穴穂朝世(成務朝)、以物部連祖大新川命児片堅石命、定賜国造」と見えるが、その具体的な系図をはじめ国造の歴代もまったく不明であり、その子孫を名乗るものは中世史料に見えない。それでも、平安末期にはその後裔が絶えてしまったとみるのは、全国各地の古族存続の例からして疑問が大きい。奈良・平安初期には、駿河郡の郡領として金刺舎人・壬生直が史料(正税帳、続日本紀、出土木簡)に見えており、これらは古代国造の嫡流的な存在だったとみられる。『和邇部系図』には、承和〜貞観の頃の富士郡擬大領和邇部宿祢国雄の姉が嫁した駿河郡大領金刺舎人道万呂が見えるから、この一族がその後も永く存続したことが考えられ、平安後期には武士化していたものであろう。

  大岡牧に近隣して、黄瀬川の中上流域に設けられた大沼鮎沢御厨には、平安後期以降、葛山・大森一族が繁衍した。この一族は、藤原道隆後裔と称し、また同御厨が伊勢神宮領であったことに因んでか大中臣姓も称したが、その実、珠流河国造の末流だったとみられる。
  頼朝挙兵に際して、葛山一族から「四郎惟重、八惟平」兄弟が参加し、8月23日の相模国石橋山の合戦に臨んでいる(『東鑑』)。伊豆から少し離れた地域に居たこの兄弟がなぜ当初から頼朝挙兵に参加したのか、ということに疑問もあったが、あるいは北条氏後妻との所縁が事情としてあげられるのかもしれない。すなわち、牧の方の実家たる大岡・牧一族と葛山・大森一族とが近い同族であったのではないかと考えられる。居住地域の近隣性のほか、名前の通字に「親」をもち(大森氏初期の人物などに多く見える)、藤原姓ないし大中臣姓(上記の「中」の意味)を名乗ることなどの共通点をもっていたからである。
  牧一族の後代としては、『東鑑』に数人あげられる。同書の承久三年(1221)6月18日条には、同月13・14日の宇治橋合戦で手負いとなった人々として、「牧右近太郎、同次」があげられる。この両人はおそらく兄弟で、牧右近太郎は、建暦二年(1212)3月16日条に見える「牧小太郎」、寛喜三年(1231)1月19日条に見える「牧右衛門尉」とも同人ではないかと推される。牧氏が「中」という通称を用いたことにも注目される。
  牧小太郎の父として考えられるのは、五位尉の経歴をもつ大岡時親が最も蓋然性が高い。この者が、「牧小太郎」の父・「太郎的な存在」に当たるとしたら、牧の方の長兄であったことが傍証されよう。その後でもまだ牧氏は『東鑑』に見えており、正嘉元年(1257)の牧左衛門尉次郎、その翌二年の牧左衛門尉入道はおそらく同人で、寛喜三年条に見える牧右衛門尉の子であろうか(※本頁末尾の附記を参照のこと)

  さて、大岡時親は、宗親が『東鑑』の記事から消えた建久六年(1195)の後に、ごく短期間だけ登場する。すなわち、同書の建仁三年(1203)9月3日条に初出で大岳判官時親と見え、比企合戦(比企能員の乱)の鎮圧に際し、時政の命により派遣され比企一族の死骸等を実検したと記される。次いで、その二年後の元久二年(1205)6月21日条に畠山父子誅殺に際し、備前守時親は、牧御方の使者として北条義時の館に行き、重忠謀反を鎮めるように説得したことが記される。その二か月後の8月5日条には、時政の出家に応じ、大岡備前守時親も出家したと記され、これが『東鑑』最後の登場となった。終始、時政の進退に殉じたわけである。以降、牧氏が歴史に再浮上することはなかった。
  『愚管抄』の記事により牧の方の兄とされる時親であるが、突然に判官(五位尉)として現れ、その二年後(1205)には備前守に任じている。備前は上国で守は従五位下相当とされるが、北条時政ですら従五位下遠江守に任じたのが正治二年(1200)、義時が従五位下相模守に任じたのが元久元年(1204)、その弟・時房がその翌年の元久二年(1205)に時親に少し遅れる8月に従五位下遠江守に任じた(当時31歳)ことからみて、なぜか異例の昇進を時親が遂げたといえよう。
  これらの動向を見てみると、建仁三年(1203)には判官になっていたのは、建久六年(1195)の武者所を承けて官位昇進したものとみられ、「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。すなわち、時親は宗親の改名であり、牧宗親が判官補任を契機に「大岡判官」と名乗り、名前も北条氏に名前に多い「時」を用いて時親に改名したのではないかと推するのである。そう考えないと、父が六位で卒去したのに、その八年ほどしか経たないうちに息子が最初から五位で登場するという不可解なことになるからである。『東鑑』の記事を見ていくと、例えば頼朝挙兵に参加した宇佐美平次実政は、大見平次実政とも記すとともに、大見平次家秀の名でも現れる。北条時政の子・五郎時房の初名は時連であったなど、『東鑑』には改名の実例がいくつか見えるので、牧宗親の改名の可能性を考えておきたい。なお、「大岡」を苗字として名乗る者は、その後の『東鑑』に見えないから、時親は牧という苗字を依然として維持したものであろう。
  このように、『東鑑』のほうから『愚管抄』の記事を見ていくと、後者にはいくつかの混乱・誤記があると考えざるをえない。それらは、著述者の居住地・環境による情報源や問題意識の差異により生じるものでもあり、当時としてはやむをえないものでもあろうが。
  大岡牧は、平家討滅後、平家没官領とされたが、のち平頼盛に返付され、文治四年五月当時は当牧の地頭は北条時政であった(『東鑑』文治四年六月四日条)。鎌倉後期にも北条氏が当庄地頭職を保持していたから、牧氏の勢力が急速に衰えたことが知られる。それでも、牧氏の後裔が細々と駿河にあって続いた模様で、今川氏の家臣に牧氏があり、弘治年間には牧四郎右衛門が『言継卿記』に見えている。
 (※このほか、後裔に関する系譜が後日見つかったので、本頁の末尾に付記する)

  おわりに

  牧の方をめぐる事情について検討を加えてきたが、安易な結びつけとそれを基にした推測や想像は、決して歴史研究にとって決してプラスになるものではないことを感じる。
  ここに杉橋隆夫氏の論考を検討してみようと思った事情がほかにもある。それは、『静岡県の歴史』の担当部分第2章で、牧の方の系譜で上掲の所説を展開しているほか、為憲流藤原氏と称する入江氏の先祖藤原維清について、疑問な認定をしているからでもある。すなわち、榛原郡相良町の般若寺に所蔵の『大般若波羅蜜多経』奥書に見える「願主正五位下藤原朝臣維清」をどう考えるかの問題であるが、これについては久野氏関係の応答のほうに記述したのでご覧いただきたい。このほか、源平争乱時に活動する「橘公長、同子息公忠・公成」について、「あるいは遠江の出身と推定される」という誤った記述(実際には伊予住人)も同書に見える。

  これら系譜に関する杉橋氏の見解は、立論の基礎となる史料の信頼性などについて的確な史料分析をしなかったことに起因するように思われる。また、系図検討に際しては、具体的な活動、舞台、時代等を様々な角度から考えていく必要があろう。勿論、当方の分析・批判自体も現存する乏しい史料に基づくため、誤解もあろうが、読者の忌憚のないご意見を賜り、今後さらに検討を深めてまいりたい。

  (2002.8.9記)



 畏友小林滋様より、本稿についてのコメント「杉橋隆夫氏の論考をめぐって」が寄せられましたので、併せてその応答をご覧下さい。
 (2002.8.25掲上)



 (付記) 牧氏後裔の系譜

  実に思いがけないところで、牧宗親の後裔という系譜を目にしたのでここに追記する次第である。

  宮内庁書陵部には所蔵の『続華族系譜』があり、その第32冊に男爵真木長義の系譜が記載される。同家から、大正八年に宗秩寮総裁井上勝之助に対して提譜したものである。真木長義はもと佐賀藩士で、海軍中将や宮中顧問官を歴任して明治二十年に男爵に列した者であり、その関係でこの提譜が行われた。

  その系譜によると、真木氏の先祖は藤原秀郷流の近藤武者所景頼であり、その子に牧武者所宗親があげられ、以下は真木長義までつながっている。
  はじめの部分を概略紹介すると、牧武者所宗親は文治中に源右大将(頼朝のこと)に仕え、その子の「牧左衛門次郎親季−次郎左衛門尉季景(康元〔1256〜57〕中に北条時頼に仕う)−孫次郎・右馬允宗景−弥次郎宗有−彦次郎親有−藤七親景」と続いて、藤七親景には建武中に尊氏に従い大宰少弐に到り筑前に住むと記される。その後裔は少弐氏に仕えて、それが肥前鍋島家に仕えることになったとみられる。
  牧武者所宗親が近藤武者所景頼の子というのはもちろん疑問であるが、それ以降の藤七親景までは世代的にも命名的にもとくに不自然なところがないから、この真木系譜は一応信じてよかろう。そうすると、上記の検討で記した『東鑑』に見える正嘉元年(1257)の牧左衛門尉次郎、その翌二年の牧左衛門尉入道は、真木系譜の次郎左衛門尉季景にあたりそうである。
  なお、近藤武者所景頼は、『尊卑分脈』の秀郷流系図では豊前の大友氏や筑前・筑後の少弐氏の先祖とされるから、牧(真木)氏がその主君の少弐氏の系譜に附合させる形で系譜を編んだものとみられる。

  真木系譜のはじめの部分は直系的に記載され、兄弟姉妹を記さないから詳しい事情はしれないが、上記の系図を編成した時点で、牧武者所宗親の先祖は不明になっていたと推され、このことも、宗親が京都の官人の出自ではなく、駿河土着の武家であったことの多少の傍証となろう。

  (2006.3.5掲上)


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