丸子部と丸部2 

     (丸及び丸子については、検討点が多く、引き続き議論を続ける)
 

  <上田收様よりの第三信> 08.10.6などで受け
 
 ご指摘をうけ『常陸国風土記』を読みました。同時に,前記の長谷川芳夫氏の著書に転載されている倭建命東征図を見直しまし た。「吉田東伍:日本読史地図」は、房総沖、鹿島灘を通る海上ルートのみで、霞が浦を渡っていません。これは『風土記』行方郡の記述を見落とした結果であり、吉田東伍博士千慮の一失と言わざるを得ません。一方、「上田正昭:日本武尊」の方は、風土記参照とした上、陸上ルートを載せていますが、肝心の霞が浦を省略しています。霞ヶ浦渡海地点の比定に慎重を期した結果でしょう。
  渡海の際、大きなる鏡(安本美典氏のいう吉備武彦が持参した三角縁神獣鏡)を船に懸けたと『日本書紀』にありますが、洋上の船では効果がありません。倭建軍団は陸行に際してもこの鏡を掲げて進軍したと思われます。
 
 ワニ氏系図の彦国葺につながる各人物についての詳細な分析はたいへん参考になりました。系図研究における留意点を具体的に知 り得たと思います。それにしても、彦忍人の武佐国造家に関する史料がほとんどないのは残念です。出雲臣系が多いと思われる総の国造の中で、武佐国だけが異色の存在です。また、「臨川書店:山武郡郷土史」が「初めて武佐国造に任ぜられしを彦忍人命といふ。国造は世襲なり、その裔幾世を継続せしか詳らかにする に由なし。」というように、後裔の武射臣、春日臣を名乗る人物もほとんどなく、国造家の奉斎する神社があるのかないのか分かりません。
 
「丸」がもともと自然地名である可能性は、やはり薄いように思われます。「自然地名とは考えられない」とする当初の見解でよいということです。
 
 先日の第一信の中に「紀州西牟婁郡に麻呂村があるが、詳細不明」と記しましたが、樹童氏からの回答の中には、「丸」と「牟婁郡」との関係を示唆する部分がありました。まだ、いくつかの検討を要しますが、「鏡味完二:日本の地名」のMuroの項の(1)に次の説明があります。
『ムロ <朝鮮語>Maru(山)より、山で囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地をいう。[室生(ムロー)、牟婁(ムロ)] 』。
  なお、(2)神社またはその森、(3)古墳の石室、竪穴居住、という「ムロ」の別の意義も示される。

 こうした点の検討をはじめ、全国各地の「室・牟婁」の地名検討もさらに必要かと考えています。大伴連の近畿地方での故地が「紀州名草郡」だとして、それがどのように熊野などの各地へ展開し、マロあるいはマロコと名乗ったのか、どのように地名を伝えたのかを検討したいということです。
  いま、熊野の田辺湾の形状が牟婁の起源であること、牟婁郷の中に、麻呂王子のもとになった地名の麻呂があることを知り、関心を持ち始めておりますが、この辺を含め、さらに調べてみたいものです。

  いま、一応の結論としては、「丸子連一族が、日本武尊に随行して(或いはそれ以前に黒潮に乗って)東国に足を踏み入れ、最終的に安房朝夷郡丸山郷の上流の彼らの居住地に似た小盆地に入植した。丸子一族はこの土地を彼らの氏の名に因んでマロと命名した。(丸氏が丸と呼ばれた土地に入ったとするのはいかがなものか。)」。
 以上、ややこしくなりましたが、いずれにしても、大伴一族から丸子氏が派生した、その説明になるのではないかと思います。
 

 
  <樹童の感触>
 
1 「丸」と「丸子」の意義
 日本の地名が朝鮮語に通じる点はままあると思われますし、地名専門家の鏡味完二氏の指摘に示唆深い点も多々ありますが、安房の「丸」は姓氏か ら来ていると考えた貴殿の最初の見方を妥当だと考えます。「牟婁郡」のマロも、やはり大伴一族の丸子連・仲丸子連の居住によりもたらされたとみられ、牟婁郡の熊野新宮三氏のなかに宇井(鵜井)氏がおり、本姓が丸子連といわれます(その後の検討では、紀州那賀郡にいた仲丸子連の後とするのが妥当なようです)。ただ、こうした見方でよいのか、より検討を深める必要は感じています。
 さて、地名や苗字の「丸」は総じて丸子に由来したとみられ、繰返しになりますが、元来「丸子」とはマロコ・マリコで、「大王(級の者)の長子・大兄」を指したものとみられます。記紀などの史料にマロコを名乗る人名が頻出するのは、七世紀前半の継体天皇の皇子・安閑天皇の兄弟の世代からですが、四、五代にわたって皇子・王について見られます。この辺の人名は同人異名などでたいへん錯綜していますが、実態を考えて整理してみると、端的には「大兄・長子」の意と考えるのがよいということです。
 それでは、大伴一族がなぜ「丸子、丸」に拘るかというと、元来、大和の大王の親衛兵としての役割を果たしてきて、倭建命の東征に一族をあげて随行したとみられ、「丸子」すなわち当時の大兄的な存在たる倭建命の名代・子代的な部「丸子部」を管掌したという事情があったからです。おそらく、「建部」に先行する事情があったのかもしれません。
 
2 房総地方における倭建命東征の足跡
 これまでの学界の研究では、倭建命をそもそも非実在の人物とみてますから、その遠征経路をまともに検討する立場もきわめて少ないものです。しかも、房総地方における足跡たるや、模糊曖昧たるもので、貴殿のいわれる程度のものです。比較的詳しい検討をしている崎元正教氏の著『ヤマトタケるに秘められた古代史』でも、昔の東海道の道筋にほぼ沿う形で、上総から下総に北上するコースを倭建命伝承のある神社の地理的配置をもとに考えておられます。
 これを根っ子から考え直してみると、房総地方での着眼点は次のような三つの要素があげられるのではないかと思われます。
@倭建命の妃・弟橘姫の走水の海(浦賀水道)での投身事件(伝承)に因む「橘・吾妻」関連の神社の配置
A東征随行の大伴一族に因む「マロ(丸・真里)」の地名の分布
B東征随行の玉作一族に因む「玉」に因む神社・地名の分布

 これら三要素を追いかけると、浦賀水道を渡海して上総の君津郡地方(現在の富津市・君津市。『和名抄』の周淮郡) に上陸した倭建命一隊は、すこし北上して木更津市域に入り、市街地北部の海岸部・吾妻にある吾妻神社辺りで東へ向きを変え、現在の409号線道路にほぼ沿 う形で東に進み、畔蒜郡真里谷辺りを経てからしばらくして、すこし南東方面に進んで長生郡長南町芝原付近を経て、上総一宮の玉前神社辺りに至る。こんどは、そこから北上して茂原市本納(旧長生郡)の橘神社(式内社、上総二宮)を経て、九十九里海岸に沿って武射郡早船の早尾神社を経て(ほぼ128,129号線道路)、その辺から北西に進んで(あるいは、橘神社の北方でまた409号線道路に入る道筋もありえようが)、下総国埴生郡の印旛沼東岸(勾玉に通じる麻賀多神社、玉造、吾妻が成田市に近在する)からすこし北上して、榎浦流海・信太流海を乗り切り、対岸で玉造村のある常陸国行方郡に着いたということになります。

  この辺の地理事情をもう少し説明します。
 『千葉県の歴史』(山川出版社、新版県史12)には、「中世の香取の海」という図が掲げてありますが(7頁)、これを見ると、いまの利根川下流は幅広い榎浦流海となっており、神崎あたりから大きく南西に切れ込んで流海が入ってきています。いまの成田市北部は流海となっていたということであり、この辺りに「磯部、荒海、芦田、新妻、大生」という地名が見えます。埴生郡のこの辺が葦津にあたった可能性があります。
 磯部は『和名抄』の香取郡磯部郷にあたるが、ここと同郡玉造とのほぼ中間の地に神崎町武田の地名があり、これが同郡健田郷の遺名地とみられます。同じ表記の郷名が安房国朝夷郡(満祿郷の隣)があり、常陸国那珂郡には武田郷(甲斐武田氏の苗字起源の地)があります。東国では「タケ田郷」はこの三個所だけであることを考えると、その由来は「建田(たけるだ)」で、いずれも倭建命に因む地名とみられる。そうすると、葦津から榎浦流海に沿って東北に陸路を進み、下総の玉浦から東北に香取の海を横切ったという進路が考えられます。
 麻賀多神社は印旛沼東岸から南岸にかけて十八社も分布するといわれる。この神社で、倭建命は大木に鏡をかけ根元に七つの玉を埋めて、この地域の五穀豊穣を祈願したと伝えられる。その本社とされるのが台方の麻賀多神社であるが、これと印旛沼を挟んで反対側にある宗像神社(印旛郡印旛村山田)でも、倭建命が当地に仮宮を造営し、筑紫から当社を奉斎したと伝えます。
  印旛沼あたりの成田市域は、印波国造の中心域であった。印波国造の祖の建借間命は、常陸の仲国造(那珂郡)や安房の長狭国造(長狭郡)の祖でもあって、多氏族の出と伝える。これら一族も倭建命東征に随行ないし関与したものであったか。常陸国那珂郡の名神大社吉田神社は倭建命を祭神にするといい、軍団が吉田山で休息したというのが当社の起源だという倭建命伝承がある(『常陽式内鎮座本紀』)。
  印旛沼東岸の玉造は、埴生郡玉作郷の遺名地です。利根川下流域の古代の香取の海沿岸には、玉造(玉作)の地名がいくつか見られるという指摘もある。そのなかでも、香取郡の玉造(現佐倉市街地の西)は『和名抄』には見えないが、この辺の「香取海」の南岸部が「玉浦」と呼ばれた可能性がある。なお、匝瑳郡には、玉作郷(多古町南玉造辺りか)や珠浦郷が『和名抄』に見えるが、内陸部か九十九里沿岸部の東端の玉浦ではないかとみられ、地理的には疑問があります。
  木更津市域にあたる望陀郡にも、上丁玉作部国忍という防人がいたことが『万葉集』から分かる。周淮郡にいた「末(スエ)の珠名娘子」を詠む歌(歌番1738)も、同書に見える。
 長生郡芝原は一宮川の上流域にあたるが、この地の能満寺古墳(墳丘長74mの前方後円噴)は房総の大型前方後円墳としては最古級で古墳前期後半の築造とみられており、築造者は一宮玉前神社を奉斎した伊甚国造関連とみられています。安閑元年には、珠を伊甚に求め、伊甚国造が上京した話が見えるくらいです(『書紀』)。この二つの「珠」について、真珠とみる見方もあるが、玉作部や玉前神社との関連からいうと、やはり石の玉のほうがよいかともみられる。
 常陸の行方郡では、当麻郷(鉾田市南部)、大生里・相鹿里(潮来市)や玉の清水・現原の丘(旧玉造町域、現行方市玉造)などに、倭建命伝承が『風土記』に見え、玉造の地名も残る。同郡の麻生里(旧麻生町域、現行方市麻生)には、倭建命の名代たる建部を名乗る建部の袁許呂命が居たことが『常陸国風土記』に見える。同書のなかでも、行方郡はとりわけ倭建命伝承が多く見えることに留意したいところです。
  このように、房総から常陸へかけては玉作部絡みの倭建命行路が考えられる。玉作部の系譜はかなり難解であるが、忌部と近縁の氏族とみられ、両者は出雲でも大和でも、この房総でも近隣で現れていることに留意しておきたい。
 
3 君津・木更津地域の大伴連一族の痕跡
 話を房総に戻して、もう少し倭建命と大伴一族について書きます。
 相模の三浦半島から上総への海路(当時の東海道の経路) の上陸口が君津地方であり、旧君津郡内には吾妻神社・橘神社が六社もある。そのなかでも代表的なのが富津市西大和田字吾妻作の吾妻神社である。また、内房 の海岸沿いに浅間神社がいくつか分布するが、そのなかでは木更津市畑沢の浅間神社が代表的である。社伝では、倭建命東征のとき、当社のある山に登り富士山を遙拝し て当社を勧請したという。
  木更津市吾妻の東南近隣の太田山あたりで、弟橘姫を偲んで詠ったのが、「君さらず、袖しが浦に立つ波の」という歌だと伝え、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったといわれる。
  木更津市畑沢の南方近隣にあるのが君津市街地であって、畑沢からこの辺りの地域が上総国周淮郡丸田郷の地だとみられる。小糸川の中・下流北岸となる子安から畑沢にかけての地が末利(まり)郷と呼ばれたから、丸田は「ワダ」とも訓まれるようだが、やはり「マルタ」であろう。そうすると、ここに拠点をおいたのが大伴一族ではなかろうか。
 上総に丸子氏が居たことは、『続後紀』承和十五年二月条に見える。ここでは俘囚丸子廻毛と見えるが、古代の丸子氏の存在も考えてよい。富津・君津からの東征経路を考えると、周淮郡丸田郷は上陸地に近い要地であり、丸子部の居た地域に因む地名と考えられる。(ちなみに、丸田郷の南方で小糸川南岸地域は湯坐郷で須恵国造の本拠であり、この地の内裏塚古墳は房総最大規模の前方後円墳〔全長144M〕である
 次ぎに、畔蒜郡の真里・真里谷の一帯(現木更津市東端部)は、中世では甲斐源氏武田氏の支族・真里谷氏が拠ったことで著名であるが、丸ヶ谷・鞠谷・麻呂とも書かれる。真里谷を流れるのが武田川(小櫃川の支流)であり、この地名が何時からあったかの問題があるが、古代からだと、常総における倭建命東征の経路上に「武田、健田」の地名がいくつか見えることに留意される。真里谷の地から安房方面に向けて国道410号線に沿い南下していくと、安房国朝夷郡満祿郷の地、中世の丸本郷(現南房総市)の丸山川流域に達するのだから、倭建命の東征経路から遠く離れたとはいえ、もと真里谷にあった丸子一族が南遷して定着したのが安房の満祿郷だとみられる。
 この地にあったのが式内社莫越山神社なこしやま)で、丸山川中流西岸の旧丸山町宮下とそこから約五キロ下った下流部の沓見にそれぞれ論社(前社が式社か)がある。ともに手置帆負命・彦狹知命を祭神にすると伝えるが、この両祭神は紀伊国造や紀伊・讃岐の忌部の祖神であり、大伴一族はその分岐であるから、古代からこの地にあったことが知られます。
  宮下の北方近隣に大井の地名があるが、南方近隣に当たる館山市北東部にも大井の地名があり、後者には手力雄神社がある。この祭神は天の岩戸開きで有名であるが、紀伊国造・大伴連の祖神でもあった。
 
 なお、下総にも丸子氏が居た。すなわち、匝瑳郡南条庄の熊野社の文和二年癸巳(1353)十二月十三日の古鐘銘には、「大檀那丸子胤宣」と見えると『姓氏家系大辞典』に記されます。宮本熊野社(匝瑳市中央部の宮本)の別当寺光明院に対し、大檀那として梵鐘を奉納したということである。熊野新宮社家の丸子氏が神領の南条庄に下り、地頭・椎名氏と縁戚関係を結んだものかともみられている。
 匝瑳市北部にも、大字大寺に熊野神社があって、その豊和地区の現在の苗字の第27位に宇井が見える。これが、紀伊熊野の宇井氏に通じるとしたら、古代・中世の丸子氏の後裔に因むものかもしれない。大寺の北方近隣には南玉造の地名も見えます。
 ほかに、元亨元年(1321)の葛飾八幡宮(市川市八幡)の梵鐘にも、願主として右衛門尉丸子真吉の名が見える。丸子胤宣と丸子真吉とがどのような関係だったかは不明だが、丸子胤宣は「胤」という漢字から見て、この通字をもつ千葉一族と何らかの関係がある者なのかと思われます。葛飾郡には、丸山(船橋市丸山)という地名がある。
 
 以上に見るように、「丸子」は倭建命の東征を考えるうえで重要な示唆を与えるものであり、現在までの全国の多くの関連地名の本になったことが 分かる。房総の東征経路上には、須恵・伊甚国造の本拠地域もあったわけである。武射国造の本拠地も通った可能性が大きく、房総のこれら諸国造の起源にも関連したものとみられる。

 信濃でも小県郡に丸子村があり、中世武士の鞠子・円子氏が知られるが、古代でも小県郡嬢里の人として大伴連忍勝が『日本霊異記』に見える事情にあるなど、すべてにあたったわけではないが、丸子と大伴一族との関連性の強さが窺われる事情にあります。
  まだ意外なところに丸子の地名がある。それは、美濃国各務郡であり、現在の各務原市の鵜沼丸子町となっている。常総の多氏族系という三国造(那珂〔仲〕、印波、長狭)が同系で、尾張の丹羽県君と同族だと伝えるので、丹羽県君の本拠地を見てみると、その木曽川の対岸部(北岸)に丸子の地名が残っていた事情にある。そうすると、この三国造の先祖は倭建命・大伴一族とともに美濃・尾張あたりから随行してきたことも推測される。
 
  (08.10.9 掲上。10.9、10.16、10.22追補)



  <上田收様からの第四信> 08.10.20受け  まろ、むろ、うい、etc
 
 紀伊国西牟婁郡牟婁郷の地域は、明治期の和歌山県田辺町域にほぼ相当し、郷内には田辺湾に注ぐ会津川に沿ってマロ(万呂、麻呂、丸)という地名が見えます。本稿では、郷名の牟婁(ムロ)について先学の意見を紹介すると共に、マロとムロの関係につき私見を述べ、関連して和歌山県内での丸子連の足跡を辿ってみたいと思います。
 
(1)和歌山県田辺市の万呂、牟婁郷の牟婁について
 
 「鏡味完二:日本の地名」によると、「ムロ」という地名の意味は次の通りです。『(1)山で囲まれた所で、小さい入り江や河谷の小盆地、牟婁、室生、(2)神社またはその森、御室、三室、(3)古墳の石室、竪穴居住、室町、室野』そして、牟婁郷については、「吉田東伍:大日本地名辞書」の、「牟婁は室の義にて(田辺湾の)湾形より出でたる名なり。」という説が、合理的な解釈であると思います。似た例として播磨の室津があり、播磨国風土記も「室原の泊、室と號くる所以は、この泊、風を防ぐこと、室の如し。」と記しています。
 
 なお、鏡味氏、そして大野晋氏は、日本語のmuroは、朝鮮語のmaru(山、舎)と同源の語だとしていますが、この説に囚われることなく、日本語としてのマロ(万呂、丸)とムロ(牟婁)について検討してみると、両者が相通ずる可能性は極めて少ないと考えられます。その理由としては、まず、いわゆる上代仮名遣いの違いがあります。婁は甲類,呂は乙類であり、古代では呂と婁は別種の発音であったことです。次に、天(マ→メ)のように、母音交替があっても意味が変わらない関係がマとムの間には認められない(動詞の活用は除く)と思われることです。こうなると、万呂と牟婁とは一見すると相い似た言葉ですが、検討してみると両者は意味概念を異にする別個の言葉であると言わざるを得ません。
 
(2)想像される丸子連の足跡、宇井(鵜井)
 
 さて、本拠地名草郡での大伴氏族に関する記録は、榎本連については残っていますが、日本武尊の親衛隊であった丸子連の名草郡内での史料は寡聞にして知り得ておりません。とはいえ、少なくとも、紀ノ川下流北岸の名草郡府中あたりには丸子連の一派が居住し、日本武尊の故跡を守っていたとの憶測は可能です。府中には府守(府中)神社があり、俗称は聖天宮ですが、白鳥宮とも呼ばれていました。白鳥宮の名称が示す如く、日本武尊の化身である白鳥が飛来し、一時ここに留まった霊跡とされていました。しかし、かなり早い時期にこの府守神社は廃れたと思われ、祭神についても「紀伊国神名帳に見える「従四位上府守神」であろう」と比定するに止まり、それ以上の詳細は不明です(吉田東伍:同上、平凡社:和歌山県の地名)。
 
 紀ノ川流域に人口が集中し始め、且つ紀伊国造家の勢力に押されがちであったと推定される状況の中で、丸子連氏は数次に亘り、名草郡、那賀郡あたりから徐々に南下したと思われます。その第一波となったのが、古墳時代に牟婁国牟婁郷に入植した丸(子連)一族であり、彼等はこの地を占有すべく自己の氏の名、「丸」を地名としたと推測されます。安房朝夷郡の丸氏の場合と同じく、紀伊国名草郡を本拠とした大伴氏族の丸子連一族が四、五世紀にこの地に移住した名残りが、「丸、麻呂、万呂」であると思われます。中世の文書に見えた「丸、麻呂」の表記は、後世「万呂」に統一されています。ただし、残念ながら「牟婁郡の万呂氏、丸氏」など証拠となるべき史料は現在見当たりません。
 
 続いての南下は、記録に残る限り、紀伊国有田郡石垣に移動した丸子連一族です。彼等は移住先の土地の名である「石垣」を姓としましたが、この有田郡の石垣氏の中からさらに南へと熊野に達し新宮に定着したのが新宮の石橋氏です。この石橋氏と同じく熊野新宮に定着した丸子連一族に宇井氏がいます。宇井氏は、これまた名草より南下した榎本連姓の榎本氏、および物部氏系穂積臣姓の鈴木氏と共に熊野三党の名を恣にし、源平時代、南北朝時代には一大海上勢力として活躍しました。やがて戦乱の世が終ると、宇井氏、榎本氏共に神官となり、その子孫が増えるに従い、彼等は各地に移住しました。愛知出身の著名な仏教学者宇井伯寿は、宇井一族の後裔です。
 
 ところで「宇井」というのは珍しい姓です。前記の有田郡石垣の地に、たまたま「宇井」(現、宇井苔)がありますが、この山間僻地を宇井氏の先住地とするのはためらわれます。「宇井」は「鵜井」とも表記されるように海または川の「鵜」に関係のある言葉や地名に由来する姓であると思われます。                  
 


 <樹童の感触>

 紀伊は大伴一族の故地だけあって、ご指摘・ご示唆をふまえて調べてみると、興味深いことがいくつか浮上します。あまり整理されていませんが、関連しそうな諸点をあげてみます。
 
 田辺市の万呂と室
 (1)田辺市市街地あたりが『和名抄』の牟婁郡牟婁郷であり、その港が牟婁津(『書紀』斉明四年条)と見え、『万葉集』には「室の江」と見えるが、海岸部から少し内陸部(田辺市市街地の東北方に位置する)に入った左会津川(三栖川)の沿岸に「万呂」の地名が見える。「万呂」は、かつては「丸、麻呂」とも書かれたというから、音は似ていても別の起源と考えてもよさそうである。そして、注目すべきは、上万呂の地を流れる左会津川の少し上流部、中三栖の小字に宇井代という地名が見えるから、ここで万呂と宇井とはつながるとしてよいのかもしれない。
 新宮市街地にも宇井氏関連の地がある。熊野(新宮)川河口部の右岸に「宇井野地」(ういのじ)という地があり、宇井氏の屋敷があったと伝える。いまは同音でも、「初野地」と書き、市街地西北部の千穂あたりである。田辺にも新宮にも熊野別当が居たが、この熊野別当一族にも宇井を苗字とした者が出たことは熊野別当系図に見える。
 これらの事情から見て、宇井は熊野の地名だとして、端的にはどの地が起源なのかよく分からないものの、田辺の三栖辺りが熊野の宇井氏の起源の地にあたるものか(この辺は再考すると、有田郡石垣や那賀郡に足跡ないし起源の地を求めたほうがよさそうです)。
 
 (2)若干余談となるが、田辺市の「室」は鴨族によってもたらされたものであろう。鴨族(鴨県主の祖・ヤタガラス)と久米族(大伴連の祖・道臣命)との先導といえば、神武東征における熊野から大和盆地への経路が想起されるが、田辺市にはこれらの要素が見られる。
 すなわち、室は大和葛城の鴨族の故地のなかにある地名である。現在の御所市室で、葛城山の南東麓にあたる。また、播磨の室津、周防の室津はともに鴨族関係の地とみられる。周防東部の伊保庄から南方に向かい瀬戸内海に伸びる半島を室津半島というが、半島内には伊保庄近長のほか、室津・尾国・小郡・相ノ浦の地に合計五社もの賀茂神社が集中する。伊保の地名は、本来は三足の赤烏に源を発し、鳥の王「烏王」に由来したという。これだけ賀茂神社が近隣に集中する場所は全国でも他にないが、播磨国揖保郡の室津にも古社の賀茂神社(室明神)がある。
 三栖、田辺は、鴨族の移遷経由地として山城にも同じ地名がある。三栖には衣笠山があるが、この衣笠も京都の鴨神社付近の地名にあって、鴨族に縁の深い地名である。衣笠山の北には高尾山もあり、これも京都にある(高雄山は、高尾とも書き、付近の栂尾、槙尾とも合わせて「三尾」という)。そして、三栖とその南の岡・岡川の地域は、『和名抄』の牟婁郡岡田郷の地であったが、山城南部の岡田鴨(相楽郡賀茂郷)は鴨族移遷の中継地として名高い事情にある。岡の南の富田川中流北岸には加茂(西牟婁郡上富田町下鮎川の小字)の地名さえある。田辺市に鴨折谷(かもおれだに)、西牟婁郡白浜町に鴨居という地名がある。
 房総地方にも鴨川など鴨に因む地名があり、安房で繁衍した忌部や常総の玉作部は鴨族の同族であった。
 
2 有田郡石垣と丸子連一族
 (1)丸子連一族が紀伊国有田郡石垣に移動して「石垣」を名乗り、それがさらに熊野に行って石橋といったというのは、私の管見には入っていないが(出典のご教示がほしいところです)、これは十分ありうるとみられる。
 宇井苔・中井苔の付近を流れる修理川が有田川に注ぎ、その合流点から少し下流の地点に有田郡中井原村(現有田川町中井原)があり、ここの鳥屋城(石垣城)に室町期、畠山一族の石垣氏が居たとされる。有田川中下流の旧金屋町域が「石垣荘」として平安期から見えており(石垣上荘は旧清水町域で、これらが現有田川町)、この辺りが石垣の地であった。
 宇井苔は田辺市の宇井代にもつながりそうだが、もとは宇井村と枝郷の苔村であって、それが統合して宇井苔となったとされる(『角川地名大辞典』)。しかし、石垣かその南部あたりが本郷の宇井で、宇井苔は枝郷の苔村の後身という可能性がないのだろうか。熊野につながる大和国吉野郡では、大塔村に宇井(鵜井)・中井傍示が近隣にある事情にある。
 
 (2)古くからの石垣氏は、紀伊古族の末裔で熊野新宮の神官、在庁をつとめた家柄であるが、古代の系譜は不明であって、『姓氏家系大辞典』にも見るように姓氏は「熊野部」とされる。東大史料編纂所に「石垣系図」の謄写本があるが、きわめて難解で、古い部分は信頼性がなく、鎌倉期の途中くらいからしか参考にならない事情にある。これが、丸子連一族であった可能性もあながち否定できないし、宇井氏と同様に「包」を通字とする命名も見られます。
 平安後期ごろから在田郡に勢力をもった湯浅一族からも石垣氏がでている。湯浅宗光の長子宗基が石垣荘地頭となって、これに因む苗字というから、石垣氏にもいくつかの流れがあったことに留意したい。
 
 (3)和歌山県の「丸」に関連する地名についても、付言して触れておく。
@海南市下津町の丸田(旧海部郡丸田村)……下津町には加茂郷の地名や加茂神社がある。なお、和歌山県の加茂神社は多くないが、このほか同名社が紀の川市(旧粉川町)西川原に鎮座する。
A有田郡広川町の前田……紀伊の丸子氏の一族が伊勢国安濃郡前田村に住んで前田を名乗ったといい、また、安房の丸一族に丸宮下殿、丸石堂殿、丸岩糸殿、丸前田殿が見えており、これらは皆、丸本郷付近の地名であるから、「前田」は丸子一族に関係ある地名かもしれない。紀伊で前田の地名はここくらいであり、有田郡宇井村の西南方近隣に位置する。
Bこうして見ていくと、紀の川市貴志川町にある「丸栖」という地名も気になる(むしろ重視して良さそうです)。丸の住処の意ではないか、田辺の三栖とも関係あるかと感じるからである。丸栖の南方には高尾山もある。
 
 (4)紀伊の前田氏  『姓氏家系大辞典』の記事を紹介しておく。これらは皆、丸子連に関連するとみられる。
@「中興系図」に穂積姓鈴木一族としながら、モン(紋)が丸、丸内丸。鈴木宇井判官兼綱男大隅守兼家、之を称す、と見える。
A伊勢でも穂積姓として、「穂積系図」に「鈴木二郎右衛門佐重基−三郎兵衛基義−太郎信氏(尾州鞠子祖)−郡司信基(勢州前田祖)」と見える。
B『延喜式』神名帳の名草郡加太神社、『本国神名帳』の海部郡粟島明神の神主は前田氏。また、在田郡市場村に前田氏があり、永禄年中には石垣荘に住したが、主君畠山氏落城の後に農民となって、当地に住する。  
 
 なお、宇井邦夫氏による『ウイウイエイ−熊野神社と宇井氏の系譜』(1993年刊)という著作があるとのことですが、出版元が倒産したとのことで、「購入できません」とネット上では表示されています。→ その後、同書は、宇井寛治様のご尽力で入手することができました。また、同書はいま巌松堂出版で求めることができるそうです。
 
  (08.10.22 掲上、09.3.7及び09.4.10追補)



 <うい再び−上田收様からの第五信> 08.10.23,24受け
 
(1) 関連性のある諸地名を網羅、分析の上、「牟婁という地名の背後には、鴨族の存在、関与が考えられる」というご指摘は、他では得がたく、古代の鴨族についての認識を新たにしました。また、提示された丸氏の移動を暗示する幾つかの関連事項には、興味の尽きないものを覚えます。
 
 丸子氏が有田郡石垣を経由したというのは、出典などはこれ無く、「姓氏家系大辞典」、「帝国地名辞典」、それに古地図の代わりの「荘園分布図」などにあたり、名草郡と新宮とを結ぶ移動線上の石垣という地名は有田郡石垣以外にない、また、有田郡には、同じ大伴氏の榎本連がいた(今昔物語の僧)などを理由とし、それ以上は調べるのを怠った結果に過ぎません。一言文中で断っておくべきでした。 
 
(2) 有田郡の宇井苔はやっと「荘園分布図」で見つけましたが、これ以外に、「宇井代」「宇井野地」(「初野地」)などもあることを知り驚きました。
 これを機会に『宇井、鵜井、鵜居』などで表わされる『ウイ』とは何を意味するのか調べようと思い、インターネット上で、地名研究家楠原佑介氏のサイトにある「日本語の言語基盤体とは何か」の項目にたどり着きました。ここでは、最小の意味単位として、62の音節を挙げ、その一つ一つについての基本的な意味概念を記しています。このような体系的音節意味論があるのを、小生が知ったのはごく最近ですが、おそらくこれまでに活字となって出版されていると思います。重複になるとは思いますが、以下、ウとヰの概念を改めて示し、宇井氏の名について、感想を付け加えたい思います。
 
 ウu 宇、羽、于、有、雲、紆、禹、汗、烏・得、卯、菟、免、
【意味概念】∩形・屈曲した形状「うつむく・うるむ・うかがふ・うら・うり・うく」尖りの形状
 
 ヰwi 位、為、謂、井、猪、藍
【意味概念】連続の形態。猪・居る・井戸
 
 この説が有田郡の宇井にはあてはまるかどうかは、地図をみても大体のことしかわかりませんが、この宇井村は、鵜の首のように、谷などが湾曲した場所、それも緩やかな湾曲ではなく、狭い湾曲のようにも思えます。総じて感触的に言うと、有田郡の宇井苔は、とりたてて言うほど湾曲した土地ではないようですので、本来は他の場所であったのかもしれません。一方、宇井代、大塔村の宇井は、川に面した逆U字形の台地だと見てとれました。
 ネット上では、有田郡の宇井の地元の人が「宇井は昔人里離れた場所であった」と言及していました。かりにも大族の大伴氏の一族であれば、丸子連一族は、稲作に適した豊な場所を占有し得たはずです。そこで『宇井氏の先祖、丸子連一族は、どちらかと言えば平野部の、海または河川の下流で、氾濫の恐れのない少し高台の、鵜の姿が常時望めるような、鵜の名に因んだ土地に入植し、その地名ウイを姓とし、かっての建集団から、新しい海人集団への道へと変貌を遂げた』と想像します。
 

 
 <樹童の感触>
 
 石垣氏関係の系図は、先祖に不思議な人名が現れます。例えば、『姓氏家系大辞典』ホヅミ条14項に見える一本 系図には、「千與定−長寛(その子孫に榎本・宇井・鈴木の三氏の先祖)、その弟の千與兼−千與高−千與基−重兼−定兼」とあげられますが、東大史料編纂所所蔵の『石垣系図』では、「縁起下巻」として熊野権現氏人ノ系図をあげ、「泰内大臣千世貞−千世包−日包(宮主氏姓始給之)−月包……(途中省略)……重包(佐野山城)、その曾孫に定包−有包−千世松、弟千與鶴」「定包の弟に石垣六郎大夫吉包−親包−石垣六郎忠包」などと見えます。この系図を伝える石垣氏は、牟婁郡佐野村(新宮の南西近隣)に居たとされます。
 要は、「千與定−千與兼」とこれに対応する「千世貞−千世包」という名が石垣氏の先祖に見え、おそらくは幼時の名前らしいことが分かりますが、これらの者が榎本・宇井・鈴木という熊野新宮三氏の先祖と関わり合いをもっていたのではないかともみられます。熊野の新宮付近にある鵜殿村に起った鵜殿氏も、「千代包」の子孫という所伝があり(『紀伊続風土記』)、このときは千代包は尾張連の遠祖・高倉下命の七九代の子孫といいますから、その系譜の混乱ぶりは収拾がつきません。鵜殿氏は穂積姓鈴木流とも秦姓ともいい、よく訳が分かりませんが、宇井氏同族の可能性があります。鵜殿氏は三河国の宝飯郡蒲郡や渥美郡に遷住し、渥美郡牟呂の城主鵜殿兵庫頭も棟札に見えます。
  こうした諸事情からは、石垣氏が宇井氏と同族で丸子連の後であった可能性もあろうと思われます。榎本氏も宝飯郡蒲郡に居たといわれ、宇井氏も三河にありました。
 
 新宮三氏のうち、鈴木氏が名草郡藤白にあり、榎本氏が名草郡や牟婁郡の神木村・三栖荘、あるいは奥有馬村の産田神社祠官などにあったといいますから、居地や発生地がよく分からない宇井氏が有田郡石垣や牟婁郡三栖荘に関係したことは十分ありうるように思われます。
 熊野新宮三氏のなかでは、鈴木氏の系図が割合良く知られますが、榎本氏や宇井氏についても、なにか良い史料はないのだろうかと思われます。
 
  (08.10.30 掲上)


  <その後分かってきたこと>

  宇井邦夫氏の諸著作を含む宇井寛治氏からご提供の史料などにより、最近分かってきたことの要点を次に掲げておく。

 熊野新宮の熊野速玉神社の宮司は歴代、明治期まで宇井氏が世襲してきたが、現在は姻族の上野氏に変わっている。上野の起源や姓氏は不明であるが、豪族の尾呂志氏が起こった地が南牟婁郡御浜町大字上野であり、これと同族か。
  尾呂志氏の系譜も難解であるが、近隣の坂本から出た坂本氏が熊野本宮の神官をつとめ、尾張氏族といっているので、これと同族で玉置の族とみられる。

 新宮社家の系図は「熊野山新宮社家総系図巻」というのがあり、新宮市立図書館に所蔵される。同系図は、実質、榎本真俊・宇井基成・鈴木基行を兄弟(これは擬制であるが)において、そこから近世までつなげるものである。古代部分は、高倉下を大祖として、その子に千世貞を置き、その子の雅顕として、上記三兄弟を雅顕の子におくが、雅顕の弟に石垣氏につながることが示唆される千代包がおかれ、その子に千世高などがあげられる。
  石垣氏の歴代は通字を「包」とする者が多く、宇井氏一族にも名前に「包」「基」を用いる者が多いという傾向があり、両氏は同族であったことを示唆するか。なお、榎本・宇井・鈴木を新宮三党(三頭熊野三党)といい、これに石垣を入れて「四家」と号したという。

 熊野神社は全国に勧請されているが、そのなかでも下総国香取郡松沢村(現千葉県旭市清和乙)に鎮座の熊野神社は社格が高く、式内社ではないが、正一位という神階をもっていたという。同社の祠官には宇井氏・鈴木氏・榎本氏など熊野からの渡来を伝える諸氏があった。
  この地の宇井氏は中臣姓、穂積姓とも清原氏とも称していた。また、松沢から北方近隣の府馬に移った宇井氏がいた。

 宇井の地名は出雲の美保が関付近にもあり、現在は松江市美保関町森山宇井(もと八束郡美保関町宇井)となっている。この宇井が境港の対岸にあって、鵜居の匂いを感じる。紀伊熊野の熊野神社のもとが出雲国意宇郡の名神大社熊野坐神社松江市八雲町熊野)であり、同地の摂社伊邪那美神社 に合祀して式内社の速玉神社が鎮座するという事情も無視できない。
  この熊野神社は上下の宮があり、「下の宮」が中心のようだが、その意宇川の五百M上流に「上の宮」があり、『雲陽誌』には「速玉・事解男・伊弉冉三神を上の社、天照大神・素盞嗚尊・五男三女を下の社」として、上の宮は熊野三社、下の宮を伊勢宮と呼んでいたという。

 『古屋家家譜』に拠ると、大伴金村大連の孫の頬垂連が上総の伊甚屯倉(千葉県の旧夷隅郡、現いすみ市など夷隅川流域にあった屯倉)を管掌して丸子連の祖となったというから、安房の丸子連はこの後裔であったことが考えられる。伊甚屯倉の近隣に上総國一宮で埴生郡所在の名神大社・玉前神社(千葉県長生郡一宮町一宮)があり、いま祭神が玉依姫命とされるが、一説には玉前命ともいい、祭神は不明ともいえよう。総合的に考えると、玉前神とは熊野神たる速玉男命とするのが妥当であろう。
 玉前神社が戦火を避けて御神体を移したという玉崎神社が旭市飯岡にあり、上記松沢の熊野神社も速玉男命を祭神とする事情がある。

 宇井氏が熊野神社を奉斎した事情や穂積も称した事情も考慮されるが、熊野神奉斎はその母系の祖に大伴氏族の祖神があったとみられ、姓氏は大伴連一族の丸子連ではなく、仲丸子連とするのが妥当である。熊野神奉斎のなかで、熊野三党諸氏はお互いに、また熊野国造や尾張連一族とも通婚を重ねたから、その辺で姓氏・苗字が混乱した可能性も考えられる。
  ともあれ、熊野三党の諸氏のなかでも熊野神奉斎などの縁由で、密接な通婚や活動における共伴関係が古くから保たれていたことが各地でうかがわれる。たとえば、三重県熊野市では、木本に鈴木氏系の土居氏が起こり、その地を流れる井戸川の上流に宇井の地名が見られ、木本の西南の有馬では産田神社があって榎本氏が代々奉斎し、戦国末期にはかなりの勢力をもった(後に堀内氏に併呑されたが)という事情がある。

  (09.3.7掲上、09.4.10追補)


 <参考>
 ここで記されたことに関連して、宇井寛治氏及び宇井邦夫氏のご研究などを踏まえて、「熊野三党の祖先たち」という題で、日本家系図学会会誌『姓氏と家系』誌第1号(09/8、通巻第89号)に掲載されています。

  
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