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貴HPの「大伴氏概観」によれば、「丸氏は、丸子宿祢の系統で、安房国朝夷郡丸郷より起こる」、また、「丸子連は、その氏の名からも海神族の色彩が濃く、系譜仮冒があって、実際は高倉下系か、和邇氏の出であったのかもしれない」とあります。この説を承けて、というよりは私なりの解釈に基づき、「安房朝夷郡満祿郷の土地に本格的に入植し、初めてこの地を「マロ」と命名した先住氏族は何者か」の課題を設け、その解決を試みました。
このきっかけ、動機となったのは、「丸」という地名です。次に述べるように、「丸」は自然の形状から生まれた地名とは考えられません。自然地名ではなく、この地を占有した「丸子」「丸」などの氏族名に由来する地名ではないかと思われます。もしこの前提に誤りがあれば、それに続く立論、推定はすべて瓦解します。とはいえ、丸氏の先祖の解明はかねてから自らに課したテーマです。少し長くて恐縮ですが、以下に書き連ねました。(以下、文中敬称略)
1 地名の「丸」の由来
一般的には、人名は地名に由来するが、その逆もないでもない。そこで、丸氏についても、一般的な地名起源説を持ち出し、地名の「丸」が人名に
なったとする人が多い。しかし、丸氏の場合は、この地名由来説を安易に当てはめるのは疑問である。「丸」は独特の人名であるが、地名としての「丸」も特異
である。豊田武の『家系』には、「丸は何かにかこまれた地域」とあり、石の場合は石丸云々」とある。また、丸山、丸岡、丸谷
・・ など、丸が形容詞的に使われた例はいくつもある。しかし、いずれにしても丸はその前後に何か別の語がついた複合語として使われている。
丸一字の、しかも自然地名が果たして他に存在するのか疑問である。安房の丸山川流域の丸本郷は山に囲まれた小盆地に相違ないが、これは、全国的に見られる、ありふれた地形に過ぎない。土地の形状は丸いというより、むしろ細長い。よく言われるように地名を解釈する場合、一地方だけの地名で解釈し
てはならない、全国に亘って比較を試みないと往々にして独断的解釈を導くおそれがある。(なお、食器の椀子作りに由来するマリコ説があるが、これは考えられない。『丸山町史』を見てもそのような形跡はなく、何よりも問題の地名は、マロコ、マリコではなく、あくまでマロである。また、紀伊国西牟呂郡に麻呂(万呂、丸)という地名があり、鎌倉、戦国期の文書に出てくるといわれるが、詳細不明。)
一方、古代豪族達は、自分たちの勢力の及ぶ範囲の各地で、蘇我、物部、小野、春日など、自己の氏名を地名化している。朝夷郡に隣接する平群郡は、文字通り平群氏一族が移住した土地であり、平久里という地名も残っている。丸氏の先祖についても同じことが考えられる。
結論からいうと、地名の「丸」は、「丸子連」の「丸」に由来する。この「丸」の字は、形状を表す「丸」ではなく、もともとワニと名乗った氏族が、ワニの音を表記するために採用した「当て字」に過ぎない。ただ、丸をワニと読む特殊な読み方は敬遠されて、無理のない訓読のマロに変わり、ワニ一族が安房朝夷郡に入国した時期には、丸子の読み方はワニコからマロコに変わっていたと考えられる。ワニ、ワニコ、マロコについては細論する必要があるが、その前に、朝夷郡満祿郷という郷名について整理しておきたい。
2 満祿郷の初見−マロ郷の成立
安房国朝夷郡に「丸子連大歳」なる人物が奈良時代に居住した。出身郷名は不詳であるが、天平勝宝七年(755)、『万葉集』に防人の歌を残している。この大歳を意識し、また、満祿郷を継体天皇の皇子の子代とみなした「邨岡良弼:日本地理志料」は、「和名抄の満祿郷の地名は、もともと、満祿古であったのが、後になって古が省略されたのではないか」と述べた。しかし、この「満祿古」説は恣意的に過ぎると思われる。満祿という凝った表記は、いわゆる嘉名二字による好字表記に他ならず、これにさらに「古」がついたというのはおかしい。また、満祿郷が継体天皇の皇子の子代であったという考えも否定されている。
「黛弘道:舂米部と丸子部」は、「日本書紀の椀子王は、いわゆるマルコ王の一人ではない、複数のマリコ王が出てくるのは、少し後の時代である。」と言っている。満祿郷の史料初見は早くも、和名抄に先立ち天平勝宝八年(756)の正倉院御物の中に既に存在した。「満祿」は和名抄が「訓万呂」と読み方を示している通りマロである。満祿の基になったマロはおそらく「丸」である。この丸が郷名となった正確な時期は分からないにしても、公式通りであれば大化前代を遡り、四世紀後半頃にはすでに地名の丸が存在していたことになる。何故なら地名は言語の化石と云われるように、何世紀にも亘って残存する。『藤岡謙二郎;日本の地名(講談社)』は、「全国の現行郡名の三分の二は、和名抄の古代郡名がそのままで、一千年以上もの間、引き継がれてきたことがわかる。和名抄に記載された郡郷名は、もちろん、それ以前から使用されていたものである。もとより地名が最初人類集団によって使用された年代は明らかでない。しかし少なくとも階級の発生を物語る三―四世紀以後の古墳時代には人口も増加し、氏族や隷属民の居住の場所を明らかにするために、今日残っている地名の大部分が使用されたものと考えられる。」と述べている。
安房には忌部氏、大伴氏、阿波国造一族、平群氏、その他、古来幾層もの人々が来住した。彼らの多くは水と稲作に適した土地を求め各河川の上流に進んでいるから、二世紀中葉に安房に入った忌部一族が、すでに丸山川の上流に達し、そこを何らかの理由でマロと呼んでいた形跡があれば、それを認めざる
を得ない。とはいえ、四郡に分かれる以前の安房一国は人口密度も低く、四郡のうちでも、遺跡、耕地面積などから朝夷郡は最後進の開発地域であったと思われ
る。丸山川上流に本格的に入植した氏族がそこをマロと呼んだ時期は、四世紀の大和王権の東征時代と推定されるが、あるいはそれ以降であった可能性も大き
い。
3 ワニ、ワニコ、マロコ
古代の日本人は百済経由で受け入れた漢字の音訓を用いて日本語を表記していた。「丸」をマロと読むのは、漢字の訓読みであるが、その前段階は、漢字の意味は考えず漢字の音だけを借りて日本語を表した。『日本書紀』には、ワニの表記に「和邇」が当てられているが、より古い表記は『古事記』に見られる「丸」である。丸には、グアン、クァンに先立つ古音として、ワンが存在した(藤堂明保:学研大漢和辞典)。当時の日本語には,「ン」という撥音は未だ無く、nの後には、uやiをつけて二音節化する習慣があった。「丸」の音はwanであるが、語尾の
n に iをつけて、ワニと読み日本語化したのである。「銭」の呉音、ゼンをゼニと読んだのもその一例である。
ワニ氏が伝えていた古い記祿類には、古い用字法が残っていたのであろうが、丸(ワニ)は、和(ワ)や邇(二)に比べると、すでにその使用が廃れ始めていた。古事記に登場する稲羽の素菟の話に鰐が出てくるがその鰐にしても和邇である。丸(ワニ)は、恐らく人名以外には使われていないとみられるほど、使用頻度はゼロに近い。「和」や「邇」が文書で頻繁に使われ、ワや二の音が定着したのに比べて、「丸」は、その発音がワニであることさえ知られなかったと言ってよい。
更に追い打ちをかけるように、「丸」の発音はワンからグアンに変化した。そうなるとワニ氏に丸を当てるのを避けるようになり、代わって和邇を用いることが習慣化し、春日臣に改姓されるまで、ワニ氏は一貫して和邇の祖、和邇臣と表記された。その一方、「丸子」の表記は旧来のまま残った。しかし、その中身の発音は、違和感のある難読のワニから一般的な訓読のマロに移行し、やがてワニコはマロコと呼ばれるようになったと考えられる。太田亮が、「丸子部はワニコベなれども、後世多くマリコ或いはマルコと訓ずるを以って云々」と云ったのは上述のような意味ではないだろうか。似た例としては、下総国の石井(イワイ)姓の呼び方は石井(イシイ)に変わっている。
このワニコから、マロコへの変化は、丸子連一族が安房朝夷郡に入植する以前にすでに完了していた。もし入植当時未だワニコであったら、マロではなく「ワニ」が地名として残ったはずである。そして丸子連が「丸子」をそのまま地名とせず、あえて「子」を省略し「丸」のみを地名としたのは、「丸」が本来の氏の名であることを意識していた結果であろう。もともと海神族であった丸(ワニ)氏のワニは海の鰐(ワニ)に因む。
丸子(ワニコ)は、鰐の子、つまり鰐を信仰する同族集団を意味すると同時に、ワニ氏の統率の下にあったワニ氏の子部を意味する。現在では、黛弘道が「丸子がワニコである可能性は殆んどなく恐らく、マルコ、マリコであろうと推断されるのである。」と言うように、丸子をワニ氏の子部、ワニコと読むのは誤りとするのが大勢である。しかし、問題点はむしろ、人名であれ地名であれ、丸子を、「ワニコ」と発音した証拠というべきものがないことにある。『日本古代人名辞典(吉川弘文館)』に数多く出てくる丸子の中には、ワニコが存在してもいい。また、「岸俊男:ワニ氏の基礎的研究」もワニコと呼べるワニ氏族の東北経略の可能性を捨ててはいなかった。
4 丸子姓のその後
大歳以降、丸子と名のつく人物が、その後の史料に全く出てこない。『丸山町史』及び周辺地誌には、丸ノ太郎から始まり、中世、近世を経て明治、大正、昭和に至るまで記祿し得る限りの丸氏の名が挙げられているが、丸子の名は一度も出て来ない。ただ、『続日本紀』延暦三年(784)条に、丸子連石虫が軍糧を陸奥国追討軍に送り、位を授かったという記事があり、邨岡良弼は、この人物を朝夷郡の丸子氏であると推定している。これを認めるとしたら、当時の丸子連家は、陸奥に物資を供給できた財力をもっていた有力者である。これほどの有力者の名が、その後の史料に一切登場しないのは、どう解釈すればよいのか。とにかく、丸子連、丸子という名が朝夷郡から消滅していることは確かである。因みに、現在、「丸」姓は、電話帳に出ているだけでも、房総半島だけで二六〇戸を優に超すが、「丸子」姓は数戸に過ぎない。
大化前代の氏族制度時代、氏族の部民である一般庶民は多く、その部の名をつけて何々部の何某と呼ばれていた。大化の改新後、氏族制度は廃止されることになったが、苗字に当たる何々部の呼称は、引き続き使用された。何々の連、何々の直なども同様である。その例を万葉集に出てくる防人達の名に見ることが出来る。上総の防人の名は、玉造部国忍、丈部鳥、物部乎刀良、若麻績部羊、刑部直千国、日下部使主三中、丸子連大歳などの古代氏名である。このうち現在まで苗字として残っているのは、僅かしかない。古い氏族制度の名残を示すこれらの部名の多くはその後消滅し新しい苗字に入れ替わった。
平安期に入り やがて藤原氏が隆盛を極め、次いで平氏、源氏の世となるにつれ、自ずといわゆる源平藤(橘)、及びその支流諸氏の苗字が幅をきかすようになった。こうなると丈部、玉造部、そして丸子連などの古代氏名は衰退せざるを得ない。そして、恐らく平安期に、由緒ある姓「丸子連」も、時の朝夷郡の有力苗字に吸収されるに至った。その有力苗字こそ、朝夷郡満祿郷の新領主である平氏系の人々が受け継いでいた「丸」であったと思われる。
5 付け足し
井上光貞は、丸子、丸子部を、六世紀から七世紀にかけてみられる複数のマロコ王と称する皇子のために設けられた名代、子代をあずかるマロコ氏
と見なし、陸奥牡鹿郡の丸子、安房朝夷郡、相模鎌倉郡の丸子連もすべて一律にマロコ王系の丸子に分類した。果たして牡鹿、朝夷、鎌倉郡にマロコ王の子代が
あったかどうかは別として、丸子連大歳と同じく『万葉集』に防人の歌を残した相模国鎌倉郡の「丸子連多麻呂」は、ワニ氏族の後裔である。『講談社:大日本
人名辞書』は、丸子連多麻呂をワニ氏系図に見える「伊富都久命」の後であるとしている。多麻呂の先祖は、本来、丸部(ワニベ)であったのものが、いつの頃 か、丸子連を仮冒したことになる。
陸奥国牡鹿郡の豪族であった道嶋宿祢嶋足の家系は丸子氏であるが、陸奥に多い大伴氏の属とされている。しかし、この丸子にはもともとワニ氏族でなかったかと思われるふしがある。太田亮の『姓氏家系大辞典』を読んでも、大伴氏か、ワニコかはっきりしない。『吉川弘文館:国史大辞典』では、陸奥のいくつかの丸子部の中から、牡鹿郡の丸子は省かれている(丸子部の項)。『高橋富雄:古代蝦夷を考える(吉川弘文館)』は、「嶋足の家柄はおそらく坂東あたりからの有力柵子その他の植民地系移民の出であり、牡鹿柵造営と同時にこの方面に入植し、牡鹿における草分けとして郡司などもこの家柄の世襲となっていた。」という。
同様の見解が、『宮城県の地名(平凡社)』に、すこし分かりにくい表現ながら次の如く述べられている。「道嶋氏の出自である丸子部の相模、武蔵方面から現在の北上川流域への移動ともからむ、牡鹿郡と房総地方との関係の深さは続日本紀景雲3年(769)3月13条に記す牡鹿郡人春日部奥麻呂ら3人の賜姓、あるいは東北地方としては異質ともいえる矢本町赤井の横穴式古墳群と千葉県茂原市押日の横穴墓群との結びつきにも見出されると云える。」
この文で注目されるのは後半部分である。嶋足の奏請により牡鹿郡の春日部氏に武射臣が賜姓されたが、武射臣と春日部は共に、武佐国造の後裔である。成務朝に武佐(武社)国造に任ぜられたのはワニ氏の彦忍人である。武佐国の後身である上総の武射郡は、山辺郡を介して長柄郡と隣接しており、長柄郡の茂原にある横穴墓群は、東北では異質とみられる丸子氏の横穴式古墳と共通性がある。丸子嶋足の先祖が上総から陸奥に移住した時期は牡鹿柵造営時ではなく、それ以前の古墳時代であった。
丸子(ワニコ)氏一族が居住した上総国長柄郡の地は、日本武尊に随行したと思われるワニの彦忍人を祖とする武佐国に近接している。となると、次の推定が許されるかもしれない。
「上総に居住してい
た丸子(ワニコ)一族は、同じく上総居住の春日部奥麻呂の祖と共に、大化前代を遡るある時期、陸奥征討の一翼として牡鹿郡に入った。正確な移動の時期は知
る由もないが、武佐国が存続していた時代であったとすれば、丸子一族が武佐国造軍に加わっていた可能性はある。」
(樹童からのお答え、感触、試論) 丸子部の意味するもの
1 上総など東国の丸子氏について、貴重なご意見提示ありがとうございます。実のところ、いままで太田亮博士の見解をもとにこの辺を漫然と考えていたのが、貴見を踏まえ、これをチェックし改めて見直す契機となったことで、深く感謝します。 陸奥国牡鹿郡の大豪族、道嶋宿祢嶋足の出自家系など、「丸子」氏が関東から陸奥・出羽に広く分布が及ぶものの、この関係ではあまり史料がなく、また研究も少ないため解明が進まず、これまで実態がよく分かりませんでした。現存する地名や考古遺跡などを基礎に手探り的にでも、進める必要性を感じるところです。
以下に、貴見をうけて再考したものを、とりあえずの当方の感触として試論的に書いてみます(別の史料・知見が出てくると、変更の可能性もありますが)。
2 丸・丸子の検討ポイント雑感
丸・丸子氏が分布する地域で主に注意したい地は、陸奥国牡鹿郡、安房国朝夷郡、両総、武蔵国、駿河国駿河郡、信濃国小県郡、美濃国、紀伊国熊野などではないかと思われますが、おそらく総合的に一貫とした理解が必要だと思われます。ところが、紀伊国牟婁郡の丸子氏(同郡の地名もこれに由来か。新宮三氏のうちの宇井氏などがその出)
は熊野新宮の奉斎者であり、大伴連一族の出だとして、『姓氏祿』にも『古屋家家譜』にも記載されます。陸奥の丸子部も、『古屋家家譜』※には武日命の子の阿子連の後とする系譜が記載され、かつ、六国史には陸奥各地の丸子部が大伴安積連・大伴山田連・大伴宮城連を賜姓する記事が見え、こちらも大伴連一族だと伝
えることと通じ合います。宮城郡や安積郡には丸子郷があったと『和名抄』に見えますが、宮城郡が倭建命東征の北限に近いことも想起されます。
※『古屋家家譜』には多少の疑問点もないではないが、古代大伴連氏の系譜としては、最も良質の内容をもっていると評価できるものであり、多くの貴重な所伝を伝えることに留意される。『古代氏族系譜集成』や佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』を参照されたい。 その一方、丸がワニと呼ぶ例からみて、また海神族の三輪氏の一族にも和仁子(和邇古。『姓氏録』大和神別)が見えており、語義からみれば、やはり海神族とするのが割合穏当ではないかともと考えられます。 東国から陸奥にかけての地域に集中する丸子部の分布は、倭建命の東征に手勢として大伴一族が多く随行し、丸子部の先祖も密接な関係をもって同行(一族ないし配下として)したことが基にあると推されます。
安房の丸子氏は、ワニコと訓む例は管見に入っていませんが、この一族から出たとみられる神子上典膳が外祖の氏を冒して小野次郎右衛門忠明と
なった例から見て、これが小野朝臣とも関係するとすれば、もとは和邇氏族関係という系譜所伝があったのではないかと推測されます(もっとも、武蔵の小野神社は海神族とは無関係のようですが)。丸山川上流域には「御子神(ミコガミ)」という地名も残ります。そうすると、和邇氏族の出だと伝える武射国造が近隣にあったので、その同族であった可能性もあります。『姓氏家系大辞典』では、小野忠明について橘姓と記しますが、これが大和の十市氏一族の出との考えるものかもしれません。
駿河国駿河郡では式内社の丸子神社があり、沼津市では、和邇部臣氏が古来、奉斎した浅間神社の近辺にその論社があります。浅間神社は房総にもかなり見られます。こうした関連では、和邇氏族の額田国造がおかれた美濃国の出自ではないかとみられるものに中臣丸連(後に朝臣姓)があることにも留意されます。
以下では、こうした諸視点も踏まえて検討に入ってみたものです(以下は、である体で記す)。
3 丸部と丸子部の関係
丸部が和邇氏族と関係があって「ワニ部」であることは、『姓氏録』左京皇別の丸部条にその祖として伊富都久命があげられることからもいえる。佐伯有清氏も、丸部を「わにべ」と訓んで、和邇氏族の本拠たる添下郡の京北二条二里が丸部里、同三里が上丸部里とよばれたこと、同郡佐紀郷に丸部国足など同郷の戸主が居住していたことを記して、全国の丸部の分布を具体的にあげる。
一方、丸子あるいは丸子部については『姓氏録』に見えないが、一般には「マルコ(部)」と訓まれるのが多い(吉川弘文館の「六国史索引」ではワニコと訓む)。
そこで、丸部と丸子部との関係はどうなのかというのが、大きなポイントになる。上記2で見たように、管見に入るかぎり、丸子・丸子部は大伴氏の関係のみで現れ、和邇氏族の関係には見られないという特徴がある。先学の指摘のように、「ワニコ」の遺称地が皆無という事情も確かである。そうすると、丸部と丸子部とは、字面が似ているが、まったく別物ではないかという疑問が出てくる。 ところで、古代の「部」をすべて見ても、「子部」が入る部としては、ほかに@子部、A小子部、B君子部・公子部(後に「吉弥侯部」と書くことが多い) があるだけで、太田亮博士もいうように、丸子部は君子部と似通った性格があるとみられる。 君子部は、主として上・下毛野君の配下ないしは一族として、もともと陸奥・ 東国に偏在して見えており(後に、俘囚の全国配置で散在するが、これは考慮外)、同様な地域に大伴連のの配下ないしは一族として丸子部が見えるからである。この場合、「君」とは大君(大王)を指すから、「丸」とは皇太子格や後の「大兄」くらいの有力王族(本来は、そうした地位にあった倭建命か)を指すものではないかと考えられる。 丸子部をとりあげた論考として、黛弘道氏の「舂米部と丸子部」(1979年。『古代・中世の社会と思想』に所収)は著名であり、有効な指摘も多いが、その一方、疑問な点もまた多々ある。その辺をあげて、私見も併せて記してみると、次のとおり。
(1)「マロコ」を名乗る王族が継体天皇の皇子以降、大化前代の一時期に限定して多く現れることに着目して、丸子部を子代・名代の類で、一般の皇子女のための部である「壬生部」と似た性格を持っていたとみている。
→(私見)a 『書紀』に見える初期の「マロコ」は、安閑天皇や用明天皇にもつけられたくらいの大兄や長子的存在の有力王族の別称であった。「マロコ」が「亦名」で、元来、普通名詞であり、別に本名を記す例があることに注意されると黛氏が指摘する点は、同意。
b 黛氏は、倭建命の存在と東征など認めないだろうから、「「マロコ」の実例は五世紀に遡らないとみてよく」と記すが、「マロコ」の分布地や
『古屋家家譜』に記載される大伴一族からの分岐とその時期を考えると、先述のように、倭建命と密接な関係を考えざるをえない。黛氏は、具体例から、「「丸
子部」と大伴氏との因縁が浅からぬことは明らかである」ともいうが、なぜ因縁があるのかという分析が的確にはなされない。これに、大伴金村の力が大きいと
黛氏が考えるのは、金村が東国・陸奥とは無関係であって、この地域に偏在する理由を説明できないから、疑問大である。
c 一般の后妃のための部の「キサイ部(私部)」、皇子女のための部の「ミブ部(乳部、壬生部)」に通じ、大王のための部「君子部」、皇太子・大兄クラス皇子のための部「丸子部」と整理される。前二者に対比し、後二者は陸奥・東国にあって特定の氏(毛野氏、大伴氏)に主として従属したという差異がある。
ただ、黛氏が壬生部の設置を推古朝とするのは疑問が大きく、『書紀』にいう仁徳朝のほうがよい。ここでも、子代・名代の設置年代を無理に引き下げる傾向がある。
(2)子代・名代がない天皇は応神・顕宗・継体であって、いずれも他処(傍系)から入って皇統を継いだ事情があって、子代・名代の設置を許されぬなんらかの事情があり、その解決策として考案されたのが「マロコ」部の設置ではなかったか。
→(私見)明らかに誤りとみられる。子代・名代の設置対象者・時期には諸説ないでもないが、その実名や関係地名を各々考えていくと、応神にはホムチ部(品遅部、品治部)、顕宗にはクメ舎人部(久米舎人部、来目舎人部)・サイクサ部(福草部、三枝部。ただし、その父祖・市辺押歯皇子の可能性もあるが)、継体にはオトクニ部(弟国部、乙訓部)という名代がある。一方、「マロコ」部の設置は、分布や大伴氏の支族分岐などからみて、おそらく景行朝のこと。
(3)先にも触れたことであるが、「丸子部」を「吉弥子部」との対比で考えるのは妥当ではない、という黛氏の見解は疑問大。史料的にみて、「吉弥子部」が平安以降、「丸子部」は奈良時代が中心という把握自体が間違いだとみられる。
4 安房の丸子氏とその後裔
安房などの丸子氏(連・部の姓)の後裔は、後にはたんに「丸・麻呂」と名乗る氏で、それに因るよる地名に居住した。ここでは、貴説のように、氏の名のほうが先行したということでもある。上総や信濃などの例を見ても、このようにいえよう。
安房の丸氏は『保元物語』に見えるのが初出かともみられるが、平姓を称しても、仮冒にすぎず(平安後期から見えるいわゆる「坂東平氏」の称平姓は、常陸大掾一族を除くと、殆どが系譜仮冒)、古代の丸子氏後裔であった。『東鑑』に見えるの丸五郎信俊、麻呂信朝らが、その例としてあげられる。丸氏が、安房、両総、武蔵に多いと いう点も、古代の丸子氏の分布に合致する。 なお、和邇氏族の分布の主なところは、東国では武射国造がほぼ最北であって、倭建命遠征にもほとんど随行がなかったようであり、陸奥への分布が若干あったとしても、あまり多くなかったとみられる。倭建命東征の北限に近い陸奥国牡鹿郡に春日部の分布はあっても、ワニ部・カスガ部の陸奥分布は少ないとみられる。
こうして見ていくと、当初漫然と考えていた丸子氏と和邇氏族との関係が、実はなかったことが分かった。貴殿に対しては、多少とも誤誘導の形と
なったとしたら、お詫びいたしたいが、それにもかかわらず、貴殿の有益なご指摘により、丸子部などについて問題が整理され、その解明に向けて進んだことを
深く感謝する次第である。
(08.10.2 掲上、10.9追補) <上田收様より> 08.10.3受け
この度は、早速に回答をいただきました。
いろいろな教示のなかに、 「丸部と丸子部は別物であり、丸子、丸子部は、大伴氏の関係のみで現れ、和邇氏族の関係には見られない。」というご指摘により、小生の和邇氏への思い込みは氷解しました。紀伊発祥の丸子氏は古くから房総、武蔵に分布しており、その一派が単に丸、麻呂を名乗り、たまたま安房朝夷郡に定着したという事情がよくわかりました。同時に、御子神氏と和邇氏、武佐国造との同族の可能性についても興味深く読みました。
その武佐国造家の初代彦忍人命について、先にお送りしたメールには、「日本武尊に随行したと思われる」と言及しました。その根拠の一端になるかと思われるものがあります。
『日本書紀』の景行天皇条には、相模から上総に渡った日本武尊が、「海路より葦浦(安房郡江見町吉浦)に回る。横に玉浦(九十九里浜)を渡りて、蝦夷の境に至る。」と記載されている。この文は簡略に過ぎ理解しずらいが、東征軍は一旦、九十九里浜に上陸したような書きぶりである。九十九里浜に面した山武市早船には、「武社早尾神社」があり、その祭神は日本武尊と彦忍人命である。
早尾神社はもと早帆神社と呼ばれていたという。平安期に起きた音韻変化の一つとして、語頭を除くF音がW音に変ったことを考え合わせると早帆から早船の変化は事実である。
また、長谷川芳夫「船橋地誌」は、「安房から来た日本武尊一行が、難破し、従者の「彦押人命(尾張氏の一族)」がこの地に住み着いた」との
「上総国町村誌」の記述を紹介している。彦忍人と彦押人は同一人であろう。ワニ氏ではなく尾張氏になっているが、伝承の途中で誤りが生じたのではないか。
成東町あたりには日本武尊伝説が色濃く残っているという。」
以上はご存知かもしれませんが、この際、書き添えておきます。
<樹童の感触> 1 日本武尊が上総に渡った後に、どのような経路により宮城県辺りまで至ったのか、実のところ、あまり明確ではありません。『書紀』 では「海路より@葦浦に回る。横にA玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首、島津神・国津神等、B竹水門に屯して防ごうとす」と記載されます。貴殿もいわれるように、この文は簡略に過ぎて具体的な地点比定が相当に難しい事情にあります。 吉田東伍博士は『大日本地名辞書』で、@葦浦を安房郡江見町吉浦(現鴨川市)、A玉浦を九十九里浜、B竹水門を多賀城に近い宮城郡七が浜町の湊浜か、とするが、いずれも地理的にみて失考のようです。鈴木真年翁は『史略名称訓義』景行天皇項で、「海路ヲ下総国猿島郡葦津ヨリ横サマニ匝瑳郡珠浦ヲ渡リ陸奥国高野郡ノ辺ニ到リ玉ヒ蝦夷等伏従ス」と記され、このほうがむしろ参考になろうと思われます。しかし、『和名抄』所載の地名にややとらわれすぎているようでもあり、具体的な地理と経路を考えると、猿島郡葦津も匝瑳郡珠浦、陸奥国高野郡も、みな疑問となります。ただ、これらの見解は参考になることも確かです。
『常陸国風土記』の信太・行方・茨城の諸郡の記事に「倭武天皇」が登場することからみて、船による行軍は流海(利根川下流の榎浦・霞ヶ浦・北浦など下総・常陸にまたがる流海や低湿地)での話で、あとは基本的に陸路だとみられます。こう考えると、前掲の倭建命行路としては、下総北西部にあった「葦津」から榎浦流海に入り、行方の流海を経て、「玉浦」(行方郡玉造村の海辺か)辺りで行方郡に上陸し、その後に竹水門に至ったものではないかと考えられます(更に後述するから、当初の観測と受けとめてください)。
「竹水門」の位置については、上記説のほか、陸奥国行方郡の多珂郷(福島県原町市一帯) とか常陸国多珂郡などの説があり、これらのうち、久慈川下流域北岸から常陸国多珂郡の地に比定しておくのが無難かとみられます。この辺が、蝦夷との境界で あった可能性があり、それは常陸がもともと日高見国と呼ばれた事情とも関連します。久慈郡には、『万葉集』防人歌作者として「丸子部佐壮」が見えており、 『三代実録』には丸子部人も見え、父母への孝行として位三階を進められています。
2 こうしてみると、倭建命東征軍が九十九里浜に上陸したとは受け採れませんが、難所の流海を渡る前に、九十九里浜から少し中に入った山武市早船辺りを通った可能性はあります。武射国造に関係する「武社早尾神社」の祭神が、日本武尊と彦忍人命であっても不思議ではありません。
武射国造の支配領域がどの辺であったかというと、古墳の分布などからみて、「栗山川・木戸川・成東川付近」とみる説(『全国古墳編年集成』)が妥当と思われます。早尾神社の近隣、木戸川流域には大堤権現塚古墳(山武市松尾町大堤)という墳丘長115Mの大古墳など、いくつかの古墳もあって、これらが武射国造関係の古墳とみられている事情もあります。成東町辺りに倭建命関係の伝承が多いとすると、早尾神社・大堤権現塚を武射国造の本拠として、この辺を一隊が通過した可能性もあります。 「彦忍人命」という名は、抽象的で、記紀に和邇臣の祖と伝える天足彦国押人命に似ており、実名とは思われません。かつ、彦忍人命の兄弟に真侶古命が『和邇系図』に見え、美濃西部におかれたとみられる額田国造の祖とされます。真侶古命は「国造本紀」には大直侶宇命とありますが、マロコ命と訓まれ
ますから、「彦忍人命=真侶古命」という可能性があります。そうすると、武射国造の系譜がほとんど消えることになりますが、大伴一族と同行したことで、
「マロコ命」と呼ばれたのかもしれません。
倭建東征に和邇氏がどのように関与したかは明確ではないのですが、その随行者による設置とされる駿河国盧原郡の盧原国造の領域あたりには、神
社などで和邇氏族の影響があるようにもみられますので、武射国造の祖も同行した可能性があります。ただ、陸奥には和邇・丸部の分布が少なく、磐城郡に丸部郷(比定地不明も、住吉神社のある住吉・小名浜・船尾の付近か)があるくらいのようです。『三代実録』には鎮守将軍小野朝臣春風の陸奥入りに関連して、駅使丸部滝麻呂が見えますから、若干の住民が居たことがわかりますが。
3 その後気づいたところでは、『日本古代人名辞典』などには「丸子部」をワニコベと訓んでおり、丸子部の問題が様々に難しいことを窺わせます。
(08.10.4 掲上、10.9追補) ※更に、応答が続きますので、<続く> をご覧下さい。 | |
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