(3月15日に本HPに掲示上していただきました「その後の年輪年代法について」に関し、その後若干ですが調べたことがありますので、補足させていただきたいと思います。)

 

  その後の年輪年代法について(追補)

 
A.測定結果の公表

@ ここ3年くらいの間に朝日新聞に掲載された記事で弥生時代関連のものをインターネットで検索してみましたら、2000年9月26日付大阪版(37面)に次のような報道がなされていたことがわかりました。

・「武庫庄遺跡で1996年に見つかった大形建物跡の柱を年輪年代法で調べた結果、紀元前245年ころに伐採されたヒノキだったことが25日、奈良国立文化財研究所の調査で分かった」。

・「この結果、紀元前1世紀とされる弥生時代中期中ごろは、紀元前3世紀を始まりとする見方も可能となる。これに伴い、前期、早期の時期もさらに古くなり、紀元前4世紀説が強い弥生時代の始まりがさらに古くなる可能性が出てきた」。

Aこの記事から、次のような点が判明するのではないでしょうか?

)2000年9月25日までの段階では、同年6月30日発刊の『埋蔵文化財ニュース』99号に記載された「東武庫遺跡」に関する測定結果は未だ一般に知れ渡っておらず(注1)、そのため弥生時代の開始時期の解明に同遺跡から出土した木棺が関係するとはみなされてはいなかったように思われます。

 このように考えるのは、同記事において「弥生時代の始まりがさらに古くなる可能性が出てきた」と極めて漠然としか記載されていないことに拠ります。

)にもかかわらず、前回申し上げましたように、スグ後の10月8日の朝日新聞記事においては「東武庫遺跡」から出土した木棺が言及されていて、それに使われたヒノキの伐採年が「紀元前400年ころ」と明示され、弥生前期に係る通説より「約100年古い」とまで述べられていました。このように大きく記載内容が違ってしまったのは、9月26日から10月8日までの短期間のうちに何か著しい情勢変化があったためと思われます。ただこの「情勢変化」とは、公式の資料に基づく正式な発表といったものではなく、たとえば10月8日の直前に行われたはずのインタビュー時における光谷室長の口頭発言などではないか、と推定されます。

 このように考えますのは、そうした公式の発表があれば新聞で何らかの報道がなされているはずですが、関連する記事はその間に発行された朝日新聞紙上ではついに探し出せなかったことに拠ります。

B以上から、前回の拙稿「その後の年輪年代法について」の5におきまして、「東武庫遺跡と年輪年代法の関係」は実にミステリアスな様相を呈してい」ると申し上げましたが、年輪年代法の「測定結果は、実際のところいつ取得され、いつ発表されたのか」との疑問点に関しては、かなり絞り込まれてきたのではないかと思われます。

 

B.時代区分

@ですが、こんな瑣末なことにいつまでもウツツを抜かしていても始まりません。以下で検討いたしたいのは、モット基本的な問題、すなわち「縄文時代」と「弥生時代」の区切りをどのように考えるのか、といった事柄です。

日経記事においては、「水稲農耕を基盤にした」弥生時代の「前期−中期初頭の墓域である東武庫遺跡の木棺」を作った木の伐採年は「紀元前約400年」であり、さらには「同遺跡出土の土器の様式から割り出した年代よりも約100年古い」ことが判明した(2)、と述べられております。そしてそのことから、弥生時代の開始時期もこれまでの通説(「紀元前4、5世紀」)よりも100年程度遡るのではないか、とされております。最後に申し上げた点は本文中に明示されてはおりませんが、記事と併せて掲載されている表「弥生時代の年代観」を見ますと、「年輪年代法の結果を取り込んだモデル」とされる「D」のグラフにおいて、紀元前600年あたりから紀元前400年あたりを「弥生前期」と表示していることから、筆者の見解であるといってもあながち間違いないのではと思われます。

 そうしますと、ここで問題になるのは次の2点です。すなわち、

・「弥生前期」はどのように歴史的に位置づけられるのか

・そもそも「縄文」と「弥生」とはどのような違いがあるのか

Aまず、「弥生前期」の位置づけについてみてみましょう。

 確かに、現在でも弥生時代の冒頭の時期を「弥生前期」とする考古学者がおります。たとえば、芦屋市教育委員会森岡秀人(3)は『弥生時代の考古学』(シンポジウム[日本の考古学]3、学生社、1998.9)において、「縄文後期後半から縄文晩期全体を通じて、真正の縄文時代からの離脱をベースとした社会変動をおこしているのではないかとみてい」(P.35)ると述べ(4)、また奈良県立橿原考古学研究所寺沢薫氏もその近著『王権誕生』(講談社、2000.12)において、「本書は、 「弥生早期」説には与せず、縄文時代晩期に含めて話を進めていくことにしたい」(P.25)と記しています。さらには、国立歴史民俗博物館の白石太一郎氏も、『倭国誕生―日本の時代史1』(吉川弘文館、2002.6)掲載の論文「倭国誕生」において、「水田稲作の開始年代の遡上にもかかわらず時代区分としては、従来と同じように弥生土器の成立をもって弥生時代のはじまりととらえておく」(P.30)と記述するところです。

 しかしながら、3年前の朝日記事でも見られるように、最近の学界においては、「前期(1期)」の前に「早期(先1期)」なるものを措定する傾向にあるようです。たとえば、上記の『弥生時代の考古学』において明治大学教授の石川日出志氏は、「私は弥生早期を認める考えです」(P.40)とした上で「弥生早期を認める人がかなり多くなってきています」(P.42)と述べ、大阪大学教授の都出比呂志氏の時期区分では、弥生時代の「前期」の前に「早期」が明示的に設けられております(5)。さらに、奈良女子大学教授の広瀬和雄氏については、本稿Aに掲げた朝日新聞記事で「今回は信じられないほどの結果だ。この通りなら、弥生時代早期の年代も古くなり、云々」とのコメントが掲載されているところですが、さらにその『縄紋から弥生への新歴史像』(角川書店、1997.9)においても、「弥生時代先T期」として「弥生早期」を当然のこととして措定した上で記述を進めております(6)

 ただこのように、弥生時代の冒頭に「弥生早期」を認めるのであれば、仮に弥生時代の「前期」の年代が年輪年代法の測定結果に従っておよそ100年程度古くなることを受け入れるとしても、それだけでは「弥生時代の開始時期」そのものが約100年遡ることに直接的に繋がらないことになってしまいます(「弥生早期」の遺物の年輪年代測定が必要になってくるわけですから)。

こうした事情も一因となって、この「東武庫遺跡」の測定結果が余り取り上げられてこなかったのではないか、と想像されます。前回の拙稿の5で申し上げました疑問点の一つ、「弥生時代の開始時期を100年ほどもズラすという華々しい成果を挙げているはずの東武庫遺跡に係る測定結果について」はなぜ余りプレイアップされていないのか、という点に対する一つの回答になるのではないか、と密かに考えているところです。

Bそれはサテ置き、ここでヨリ基本的なのは、上記@において2つ目に掲げました「縄文」と「弥生」との違いをどのように考えるのかという問題でしょう。

 これまで、縄文時代=縄文式土器=狩猟・採集文化に対して弥生時代=弥生式土器=農耕文化という区分が一般的な常識となっていました。ところが、「ここ20年ほどの間に、…(中略)…縄文時代晩期後半の水田が次々に発見され始め、…(中略)…今や、稲作の開始ということだけで、縄文と弥生の間に明瞭な境界線を引くことはむずかしくな」っています(注7)。

 そこで一方では、「弥生時代前期のまえに新たに「弥生早期」をつくろう」という主張が出てきます。というのも、「水稲農耕だけでなく、‥‥環壕集落や金属器もすでにこの段階で登場してい」て、なおかつ「支石墓と呼ばれる東北アジアの墓制や、大型の壷棺や壷というかたちの土器が伝わったのもこの段階」だからです(8)

 しかしながら他方では、「水田耕作が西日本に広がり始めたとはいっても、いぜん縄文的な石器組成や土器組成が生活の基本になっている」(9)のであり、単なる「水田稲作技術の受容でなく、その結果としての農耕社会の成立をもって弥生時代の始まりと考える」(注10)べきだ、とする学説も依然として根強く残っているようです。

 現段階においては、「(弥生早期において)弥生時代としての文化要素は整ったと見るのが大方の意見」(注11)とされていますが、なかなか決着はついていないようです。

 そうであればイッソのこと、長年親しんでおり捨て難いでしょうが、縄文・弥生という時代区分は廃棄してしまい、全体としては「古代」とでも把握した上で、たとえば土器、墓制、植物栽培、等々といった個々の項目ごとの変遷を記述していくこととしては如何か、などと思っても見たくなりますが、これは所詮素人の夢想に過ぎません(12)

 むしろこの際申し上げたいのは、次のような事柄です。弥生時代の開始時期を主題的に取り上げるのであれば、まず何よりなされなければならないのは、弥生時代(及びその前の縄文時代)をどのように考え、如何に規定するのか、といった点に関する十分な検討ではないでしょうか、そうした考察を何もせずに単なる機械的な測定結果にすぎないものをいきなり持って来ても、継ぎはぎだらけの到底歴史記述とはいえないシロモノとなってしまうのではないでしょうか(13)?

Cもう一度日経記事に立ち戻ってみましょう。本稿Bの冒頭では、筆者は「弥生早期」を認めておらず、したがって「東武庫遺跡」の木棺の測定結果を重視して弥生時代の開始時期を云々しているのだ、と申し上げました。

 ところが、よく同記事を読んでみますと、たとえば佐藤由紀男氏の研究について、「北部九州の場合は縄文晩期に10g以上のものが約50%を占めていたのに、弥生早期20%以下になった」と紹介し(14)、また中橋孝博氏の学説の紹介の中でも、「この説は弥生時代早期に北部九州に渡来した人が在地の人の10―0.1%でも、…との考察だ」(注15)と述べられております。

さらには、「北部九州で見つかる弥生初めの土器などの遺物には縄文の要素が色濃いという」といった至極曖昧な記述までも見てみますと、記事の表題は「弥生時代はいつ始まった?」と随分センセーショナルなものが付けられておりますが、筆者ご自身は、「弥生前期」とか「弥生早期」といった弥生時代冒頭の時期につき余り自覚的な検討を行ってはいないのではないか、と疑いたくもなってきます。



 〔注〕

(注1)あるいは、同誌の「試料は心材型である。これにどの程度年輪を加算すれば原木の伐採年になるのか、この点については推定が難しい」との記述に従って、弥生時代の開始時期の解明にはこの測定結果は役に立たないと判断されたため、とも考えられますが。

(注2)前回の拙稿で引用いたしました『東武庫遺跡』(兵庫県教育委員会、1995)におきましては、問題の木棺とあわせて出土した土器(「1号墓出土土器」)を「第3段階()」と分類しております。その際、この「第3段階」とは「佐原編年」における「新段階」に相当すると述べられております。調べてみますと、それは弥生時代の「前期」後半に位置し(紀元前100年より前)、森岡氏の1984年に提示された編年表においては紀元前200250年あたりに相当するものと思われます(ただし、同氏が1998年に発表した編年表―日経記事に併載の表のグラフC「最近の説」に近いものと思われます―によれば、もう50年ほど遡るとされるのかもしれません)

(注3)日経記事に記載されている表「弥生時代の年代観」に関しては、「森岡秀人氏の案を参考に作成」との注記がなされております。したがって、同表においては「弥生早期」の記載はありません。

(4)ちなみに、今回調べていてわかったことですが、同書においては夙に、「年輪年代の方法は、ずいぶん積み重ねられてきていて、有効な方法だと思います」と述べている徳島文理大学教授の石野博信氏が、「どの分野でもそうですが、年輪年代についても、やっている人が複数であることが望ましいと思います。‥‥‥複数の人がどんどん研究法を開発し、クロスチェックをし、例数もたくさん増やして、より確実にしてもらうことを期待しています」と述べ(P.12)、また福岡大学教授の武末純一氏も、「光谷さんにグラフのデータを出していただきたいと思っています。‥‥‥結論だけではなくて、測定されたグラフと、基準となるグラフの両者を図示していただけたらと願っています」と述べております(P.16)

(5)都出氏は、『古代国家はこうして生まれた』(角川書店、1998.2)掲載の論考において(P.19)、自分の時期区分案を寺沢氏の案と並べて表にして記載しております(同様のものは、寺沢氏の『王権誕生』(講談社、2000.12P.19にも掲載されています)。

(6)たとえば、同書P.61においては、「稲作の三段階」の「第2段階」が「弥生時代先T期―T期中ごろ」とされております。

(7)寺沢薫、前掲書P.22

(8)前掲書P.24

(注9)前掲書P.24

(10)白石太一郎編『倭国誕生―日本の時代史1』(吉川弘文館、2002.6P.29

(11)寺沢薫、前掲書P.24

(12)広瀬和雄氏は、『論座』本年4月号の「貧しい縄文を弥生文化が救ったのか」(「日本考古学の通説を疑う」第1回)において、弥生時代は決して「弥生文化」と「等値」されるわけではなく、北海道には「続縄文文化」、沖縄には「貝塚後期文化」が存在していたと述べております。ある時代をこのように地域性の差異を重視して見る必要があるのであれば、本文で申し上げたように、それを構成する項目ごとに見ることとしてもかまわないのではないか、とも思われます。

  しかしこうした点を余り強調しすぎますと、時代区分の意義を見失うことにもなりかねません。歴史をヴィヴィッドに把握することにおいて縄文・弥生といった時代区分の果たした役割は大変大きなものがあったと考えられます。ソウであれば、やはり単純に水田耕作の成立を持って区切りとするほうが、使い勝手のいい区分とも言えるかもしれません。

  いつまでたっても決着のつきにくい問題なのだと思います。

(13)日経記事におきましては、佐藤学芸員の研究成果について「甕の小型化は何を意味するのだろうか。佐藤学芸員は「食材の変化を映している」とみる」と述べられております。ここで重要なのは、だから弥生時代の開始時期に結びつくということではなく、むしろ弥生時代をたとえば農耕社会の成立と規定するからこそ、こうした研究成果に意味が出てくるのだという点ではないでしょうか?寺沢薫氏が前掲書で述べるように、弥生土器を使用しているから弥生時代なのではなく、「弥生時代(文化)に使われた土器が弥生土器」といえるのかもしれませんから(P.17)

(14)佐藤氏自身は、前回の拙稿で引用いたしました『縄文弥生移行期の土器と石器』(雄山閣出版、1994.4)において、「この時期(突帯紋期)を弥生時代に含め、早期とする論者も多いが、本書自体がそうした時代区分を検討する基礎作業の一つでもあるので、先験的な記述は避けた」と述べております(P.102)

(15)前回の拙稿で引用いたしました中橋氏の論文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」(『人類学雑誌』第106巻1号、1998)においては、P.36記載の図1の「弥生時代」のところで、「早期」が「前期」とは明示的に区分されて設けられております。したがって、「縄文人」に対する「弥生開始期に渡来してきた人々」の「比率を0.110%とする」(P.42)という場合の「弥生開始期」とは、「弥生早期」を指すものと考えられます。


  (03.3.23 掲上)
 

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