その後の年輪年代法について
                   小林滋


(その後、朝日新聞の竹石記者からは何の連絡もありません。ただ、最近に至りまして、日本経済新聞に年輪年代法などを巡る興味深い記事が掲載されておりましたので、「その後の年輪年代法について」と銘打って、同記事に対して簡単なコメントを作成してみました。お読みいただき、ご批判賜れば幸いです。)


 

@ 本年38日付日本経済新聞「文化」欄(第40面)に、「弥生時代はいつ始まった?」(筆者は「編集委員 小橋弘之」氏)との表題の記事が掲載されました(以下「日経記事」といたします)

その「前文」に「弥生の解明に挑む新しい動きを追った」とあるので、どんな目を瞠る「新しい動き」に出会えるのかと、期待で胸が膨らむところです。読み始めますと、マズもって第1パラグラフでは、「(弥生時代が幕を開けた)時期は、土器の様式や遺物の研究が進んだことで、この30年間で200年近くさかのぼり、紀元前45世紀と考えられるようになった」との通説が述べられております。

次の段落においてはそうした通説を覆す新説の登場と相成るのか、と読者に思わせます。ですが、あにはからんや、「弥生時代前期―中期初頭の墓域である東武庫遺跡(兵庫県尼崎市)の木棺の年代測定」が、この「議論に波紋を投げかけた」とのこと。すなわち、「「年輪年代法」で測定したところ、「最も外側の年輪は紀元前445年のもの。‥‥木の伐採年は紀元前400年ごろ」との結果」が得られたというわけです。
  トドメとして、「これは同遺跡出土の土器の様式から割り出した年代よりも約百年古い」との、本HPをお読みいただいておられる読者にはおなじみの結論が導き出されるに至っております。
  当初の期待はどこへやら、ひとたび年輪年代法が持ち出されると、奈良文化財研究所の光谷拓実室長が登場し、その一方的なご託宣によって、定説との差が「約100年」になってしまう、と酷くウンザリいたしました。

A ですが、「東武庫遺跡」とは余り聞き慣れないので、最近その調査結果が発表されたのかと思い、先ずインターネットを使って調べてみますと、次のようなホームページの記載(以下「HP記事」といたします)に遭遇いたしました(1)

・「奈良国立文化財研究所(奈文研)は、年輪年代法の最新情報をまとめた「埋蔵文化財ニュース」99号をこのほど発行した。…弥生時代に関しては、年輪年代法による実年代が、土器様式による年代より約100200年も古く出る傾向がわかった」。

・「弥生時代は、土器様式で早期(先1期)、前期(1期)、中期前半(2期)、中期中ごろ(3期)、中期後半(4期)、後期(5期)の6期に区分される。…3期の武庫庄遺跡(兵庫県尼崎市)では、大型建物跡の柱の年輪年代が紀元前245年だった。3期の通説の紀元前1世紀より約200年、古い。1期後半の東武庫遺跡(同)では、木棺の板の年輪年代が紀元前445年と出た。この板は原木の周辺が大きく削られていたため、削られた部分を考慮すると、推定伐採年代は紀元前400年ごろになる。1期の通説の紀元前4世紀より約100年、古い」(2

・「この結果、年輪年代法では、弥生前期と中期では土器様式年代より約100200年、古墳時代初期では約50年、それぞれ古く出る傾向がわかった」。

B 日経記事の第3パラグラフにおいては、引き続いて「北部九州から近畿に文化が伝わる時間を考えれば、弥生時代の始まり自体がさらに遡る可能性も出てきた」と述べられていて、筆者は年輪年代法によって得られた結果をソノママ鵜呑みにしていると思われます(それどころか、筆者は更に拡大的に解釈しようとしていますが)。

ここで年輪年代法自体の抱える問題点を取り上げるべきかもしれませんが、そうした点は本HPにおいてこれまで縷々ご説明いたしましたので、以下では一点に絞って申し上げることといたしましょう。

すなわち、上記AのHP記事が取り上げております『埋蔵文化財ニュース』99号においては、「試料は心材型(辺材部を欠いている)である。これにどの程度年輪を加算すれば原木の伐採年になるのか、この点については推定が難しい」と至極当たり前のことが述べられているのです(注3)。にもかかわらず、HP記事や日経記事では、伐採年につき「紀元前400年ごろ」と大層確定的に述べられていて、記述の違いに酷く驚かされます。

単なる推測に過ぎませんが、おそらくは『埋蔵文化財ニュース』99号に関する記事(あるいは、弥生早期についての記事)を書くに際して、光谷室長に直接インタビューした結果、こういった記述に繋がったのでしょう。ですが、全く何の根拠も一切示さずに、いきなり「紀元前400年ごろ」と簡単にそれだけを記述してしまう感覚がよく理解できません。

あるいはもしかしましたら(完全な想像に過ぎませんが)、『日本の美術 No.421』(至文堂、2001.6)で多用されている方法が、伐採年の推定に際して採用されているのかもしれません。といいますのも、完全に削り取られて存在しないはずの「辺材部」の幅を、「ヒノキの辺材部の平均幅3p」と想定し、あわせて年輪幅として、これまた「ヒノキの辺材部の平均年輪幅約0.6o」を持ってくれば、原木の伐採年(紀元前400年)と「心材部」から測定された年(紀元前445年)との差45年にかなり近い数字約50(≒30÷0.6)が求められるからです。ですが、仮にソウだとしましたら、こんないい加減な算数が科学的実証と呼べるものでないことは自明でしょう(注4)!

C 年輪年代法自体につきましてはこのくらいといたします。

ここで話題を変えて、今回むしろ取り上げたいのは、
上記AのHP記事は
2000108付朝日新聞(大阪版、29面―奈良1―)の記事「揺れる弥生の年代観 奈文研が年輪年代法の最新情報を発行」に全面的に拠っていること、そしてそこで引用されております『埋蔵文化財ニュース』99号の発刊も2000年6月30であるという点です。

すなわち、いかなる理由があって、発表以来既に少なくとも3年近く経過している調査結果が、全国紙である日経新聞の文化面に突如として今ごろわざわざ掲載されることになったのでしょうか?

この日経記事が取り扱っているのは2000年以上昔の事柄ですから、23年の幅などは無きに等しいかもしれません。ですが、ニュース性を一番に重んじる新聞掲載の記事(それも編集委員の手になる文章)という観点からすれば、1年前の事件でさえ昔の事柄とも言えるでしょう。少なくとも、「東武庫遺跡」に関する部分は、トテモ「新しい動向」などとは言える筋合いのものではありますまい(注5)

Dそう思いながらも、記事の他の部分では「新しい動向」についての記載が必ずや見出せるに違いない、と考え直して読み進めます。すると、「静岡県の浜松市博物館の佐藤由紀男学芸員」と「愛知県安城市教育委員会の岡安雅彦主査」の研究成果、及び「九州大学大学院の中橋孝博教授」の学説が順次述べられております。

ですが、チョット調べますと、次のようなことがスグに判明いたします(6)。 

イ) 佐藤学芸員には、既に『縄文弥生移行期の土器と石器』(雄山閣出版、1994.4)という著書があります。

その中ではたとえば、「北部九州全体の時期別要領構成比率グラフ」でみると「晩期では10g以上の大形・超大形土器の比率が50%と高率であったものが、突帯紋期には17.3%に減少し、板付T式期では3.8%、板付U式期でも6.5%と弥生時代前期には激減している」(P.104)などと記述されております。

 これは、日経記事が「北部九州の場合は縄文晩期に10g以上のものが約50%を占めていたのに、弥生早期は20%以下になった」と述べるのにホボ対応していると考えられます。すなわち、ここで筆者が引用している事柄は、現在よりも9年以上昔の研究成果ではないかと推定されます。

)また、岡安主査に関する箇所については、直接対応する研究にアクセスは出来ませんでしたが、たとえば論考「縄文土器焼成方法復元への試み」(『古代学研究』133号、1996.2)を見てみましょう。

そこでは、「縄文土器から土師器までの焼成方法を野焼きから完成された覆い焼きへの段階的な発展過程として位置づけて解釈することが可能となる」(同誌P.27)との記述が見え、これは日経記事の「縄文土器は…「野焼き」で作られたとされる。これに対し、弥生土器では…「覆い焼き」が導入されたとの解釈だ」との記述にある程度対応するのではないかと考えられるところです。

前者における岡安主査の見解は「想定」とされていますが、それにしても7年前のものであることは間違いないでしょう。 

ハ)更に、中橋教授にも「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」(『人類学雑誌』第106巻1号、1998)という論考があります(九州歯科大学の飯塚勝氏との共著)。

その中ではたとえば、「中橋(1993)はまた、実際に北部九州の遺跡から出土した甕棺墓の数の変化から、弥生中期前半には少なくとも年率1%以上の増加率で増えた状況を明らかにして、大量渡来よりは渡来社会の人口増加の方により多くを帰すべきだとの考えを提出した」と述べられており(同誌P.33)、これは日経記事が、「中橋教授は人口増加率を「渡来系の人々が年1%以上、…」と推定した。云々」と記載しているのとヨク対応すると考えられます(注7)。

とすれば、少なくとも10年以上昔の中橋教授による研究成果を、今ごろになって筆者が引用していることになるわけです。

E研究成果が得られた時期もさることながら、この日経記事においてこれら三つの研究はどのような位置付けとされているのでしょうか?

 まず佐藤学芸員の研究に関しては、日経記事においては、「縄文晩期」から「弥生早期」にかけて「甕の小型化」が見られることしか述べられてはおりません。確かに、「年輪年代法」の研究成果を前提しさえすれば、「甕の小型化」の現象を調査することによって「地域別の弥生文化への移行時期を探る」ことが可能となるかもしれません。ですが、こうした研究からは、「年輪年代法」の研究成果それ自体―つまり弥生時代の開始時期そのもの―を別途裏付けることは出来ないものと考えられます。

 従って、岡安主査による「覆い焼きを使ったとみられる土器の出現時期」の調査結果が、上記の佐藤学芸員による「土器の小型化の時期と西日本ではほぼ一致した」と言われましても、それだけでは弥生時代の開始時期の解明に繋がるものではないと思われます。

 更に、中橋教授の業績についても、「弥生時代早期に北部九州に渡来した人が在地の人の100.1%でも、人口増加率で大きく上回れば、200300年後には人口の8割を占めるまでになるとの考察」という具合に述べられているだけで、本記事の中心的テーマである弥生時代の開始時期とは直接関係はないものと考えられます(注8)。

F日経記事は、世間に余り流布していない調査結果とか学説を紹介することを通じて、この方面にそれほど詳しい知識を持ってはいない一般読者の蒙を啓くといった意味合いを大いに持っているものと思われます。したがって、その点を高く評価するのに吝かではありません。

とはいえ、以上申し上げましたことから、やはり次のような問題点を挙げざるを得ないのではないかと考えられます 

イ)問題点を多く抱える年輪年代法の調査結果をソノママ受け入れてしまっていること。 

ロ)どの研究も、発表されてから少なくとも3年〜10年以上経過しているにもかかわらず、その点に関する記載が一切与えられておらず、それどころか「新しい動き」と概括的に述べられていて、ここ数ヶ月〜1年以内の研究成果が盛り込まれているような誤ったイメージを読者に懐かせてしまう懼れがあること。

ハ)記事の表題が「弥生時代はいつ始まった?」とされているにもかかわらず、それに関係する研究は「年輪年代法」による調査結果の紹介だけで、残りの三つの研究は、直接的には表題とは全く関係しないと考えられること。

G日経記事の末尾においては「弥生の始まりを解明する武器≠ヘそろってきたといえる」と述べられていますが、「弥生時代の始まり自体」を直接的に「解明する武器=vは、まだまだトテモ「そろってきたといえる」段階ではないのでは、従ってやはり出土した土器等の形態把握などを通じて地道に研究を続けていくほかはないのではないか、と思えるところです。 


(1)検索ロボットGoogleを使いますと、HP「邪馬台国大研究」11学ぶ邪馬台国」18奈文研国際シンポジウム」最後の方にある「揺れる弥生の年代観 年輪年代法の最新情報」のところで、Aで取り上げた記述の掲載があります。

(2)ここで取り上げられている「武庫荘遺跡」は、前年1123日に本HPに掲上させていただきました竹石記者宛書簡の中で触れました。

(3)『埋蔵文化財ニュース』99号の.12。なお、この部分は、同号の「例言」によれば光谷室長執筆。

(4)こうした算術計算でOKであれば、面倒極まりない測定を実際に行うのは愚の骨頂だといえないでしょうか?

 なお、以上の点につきましては、『季刊/古代史の海』第26号掲載の拙稿「法隆寺と年輪年代法(上)」の19もあわせてご覧ください。

(5)モット申し上げれば、『埋蔵文化財ニュース』99号の「東武庫遺跡」の項において「文献」として記載されている『東武庫遺跡』(兵庫県教育委員会、1995)第3章第2節「1.1号墓」を見ますと、ナント「両小口とも年輪年代の測定を行ったが、試料の制約のため明らかにすることができなかった」(同書P.29)とハッキリと書かれているではありませんか(執筆者は兵庫県教育委員会の山田氏と中村氏)!

  要するに、第1段階(1995年)では年輪年代は明らかにすることができなかった(この結論はまったく当然至極なものだと思います)、それが第2段階(20006月)に至ると、年輪年代として紀元前445年が得られたものの伐採年の推定は困難(この結論の後半は常識的だと思います)、ところが第3段階(200010月)まで来ますと、推定伐採年が紀元前400年ころであることまでもわかってしまうのです(この結論は摩訶不思議としか言いようがありません)。

  第3段階の問題点は本文で触れましたが、第2段階の「紀元前445年」という測定結果は、実際のところいつ取得され、いつ発表されたのでしょうか?これまでの調査結果を単に取りまとめただけであるはずの『埋蔵文化財ニュース』99号(冒頭の「例言」において「年輪年代法の特集号」とされています)が、最初の発表場所であるとはヨモヤ考えられません。そこで、『奈良国立文化財研究所年報(紀要)』の1995年〜2002年版にザット目を通してみました。ですが、それらしい発表がなされた形跡を見出せませんでした。

  加えて、最新の調査結果を網羅していると思われます光谷拓実著『日本の美術 No.421』(至文堂、2001.6)においても、弥生時代の開始時期を100年ほどもズラすという華々しい成果を挙げているはずの「東武庫遺跡」に係る測定結果については、一言も触れられてはいないのです!

  「東武庫遺跡」と「年輪年代法」の関係は、実にミステリアスな様相を呈していて、金田一耕助の登場が待たれること頻りだ、とはいえないでしょうか?

(6)以下におきましては、佐藤氏、岡安氏及び中橋氏の研究履歴を探るのが目的では全くありませんので、取り敢えずアクセスしやすい資料を取り上げて検討したに過ぎない点をお断りいたします。

(7)1993年の論文にはアクセスできませんでしたが、本文で引用しました論文のP.44には「隅・西小田遺跡などの実例(中橋、1993)」とありますから、対応はほぼ間違いないと考えられます。

(8)尤も、日経記事の「前文」では「弥生の解明に挑む新しい動きを追」うと述べられていますから、何も「弥生文化の始まり自体」に係る研究だけを記載したものではないのかもしれません。

  ですが、同じ「前文」のところで「なお研究者の見解が分かれている」とされているにもかかわらず、様々な見解が紹介されているのは「この時代がいつ始まったのか」に関してだけです(3つの見解の相違が示された表「弥生時代の年代観」まで添付されています!)。

  日経記事の表題が「弥生時代はいつ始まった?」とされていることと相俟って、この点は、この記事の中心テーマがあくまでも「弥生時代の始まり自体」であることを示していると考えられるところです。

 (03.3.15 掲上) この追補もあります。

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