(「年輪年代法を巡って」2) W.補足(その1―「年輪年代法」の抱える問題点) 光谷室長が取り組まれている「年輪年代法」それ自体が持つ「弱点」につきまして、若干補足させていただきたいと思います。 @年輪の計測に関して 同一の試料について、計測する人によって、その年輪の数にバラツキが出てしまうことがあります。これは「偽年輪」や「不連続年輪」をどう見分けるかに熟練を要するためのようです。勿論、年輪の数自体はこの測定法に関与せず、重要なのは年輪の幅の方ですが、それでも数の数え方に狂いがあれば、幅の読み取りにも当然のことながら大きな影響が出てくると考えられます。 また、出土した材木(あるいは木製品)は、樹皮の部分まで完全に残されているものは珍しく、いろいろ加工されているケースの方が多いと思われます。その場合には、残された部分(「心材部」といいます)に関してしか確実なことは分からないはずです。しかしながら、実際の発表にあたっては、削り取られてしまった部分(「辺材部」といいます)にかかる年輪幅を、一定の仮定(平均法を使います)を置いた上で推定してから、伐採年を算定しています。ですが、個別の出土品の個別の年代を測定するにあたり、平均法によって得られた数値を使うことは果たして適切なやり方なのかどうか、はなはだ疑問と考えます。 A「暦年標準パターン」に関して 「暦年標準パターン」(光谷室長の手元には、対象となる年代が異なる6つのパターンがあります)につきましては、上記「書簡」の中でも簡単に触れましたが、具体的には次のような問題点が存在するものと思います。 イ) 作成に際して使用された試料の数が、標準パターンによってまちまちで、中にはわずか3〜4個のデータしか使っていないものもあるようです。このようにデータ数が少なければ、様々の試料に物差しとして当てはめられる「暦年標準パターン」の機能が十分に果たせないものと考えられます。 ロ) 一つの標準パターンを作成するにあたって、地域的にかなり隔たった試料から得られた年輪パターンを繋ぎ合せております。ですが、どこまでの地理的範囲内のものであれば同一のパターンを示すと判断できるかに関する十分な実証的検証がなされてはいないように考えられます。 ハ) 標準パターン作成に際して使用された異なるデータにつき、その重複度合いが著しい部分を「指標年輪部」といいますが、重要なポイントなのでその数が多いほど信頼性も増加します。ところが、実際にはどの標準パターンにおいても、その数は非常に少ないものと考えられます。 Bグラフの目視に関して 年輪年代測定法におきましては、試料から得られる年輪パターン及び上記Aの「暦年標準パターン」をそれぞれグラフ化して、「目視」によってそれらがどの位置関係で照合しているのかを調べる作業が一番重要です。ところが、これまでのところ、そうしたグラフはほとんど公開されてはおりませんし、そもそもどのようにしてグラフが作成されているのかも分かりませんし、どのような位置関係を指して「照合」しているとするのかの基準もマッタク判然といたしません。 X.補足(その2―従来の研究成果との齟齬) ここまで「年輪年代法」の問題点をいろいろ申し上げてきましたが、それでもその測定結果が、従来からの見解(定説)と大きく齟齬しないのであれば、それほど目クジラを立てるまでのことはないのかもしれません。ところが、上記いたしました例示をまとめてみますと、測定結果と従来からの見解との間でかなり乖離があることがよくわかります。
勿論、従来の定説が正しいと頭から決め付けるわけにはいきません。学問とは、定説とされるものを覆しつつこれまで進歩してきたことは明らかでしょう。ですが、こうも同じように大きなブレがいくつも見られるとすれば、まず疑ってみるべきなのは、従来からの定説ではなく新しい測定方法の方なのではないか、と考えるのが常識ではないかと思います。 それで、在野の研究家の山口順久氏が、「(暦年標準)パターンFは何らかの手違いから、その古い時代の部分が100年ほど遡った結果がでてしまうように作成されてしまった可能性が無きにしもあらずではないか」(注1)と述べ、また宝賀寿男氏も、「少なくとも現段階までの年輪年代法の研究成果は、個別の年代算出の仮定に大きな問題があり、信頼するに値しないものであって、古墳時代さらには弥生時代の繰上げの論拠には全くならない」(注2)と述べるものと考えられます。 〔Xの注〕 (注1) 「年輪年代法と弥生中・後期の暦年代」(『季刊/古代史の海』第16号:1999年6月刊)P.158。 (注2) 「随想 考古学者の古墳年代観」(『季刊/古代史の海』第27号:2002年3月刊)P.56。 Y.おわりに 実は、上記書簡においても若干触れましたが、雑誌『季刊/古代史の海』(発行;季刊「古代史の海」の会)に掲載いたしました論考(注1)におきまして、特に法隆寺五重塔心柱の年代測定に具体的焦点を当てつつも、光谷室長が取り組んでいる「年輪年代法」を全般的に、それもかなり批判的に検討いたしました。 このような文章を書かずとも、本来的には、そちらの方を皆様に読んでいただければ済むものと思われます。ただ、この雑誌は、在野の研究者が投稿する同人雑誌であるために、一般の方々はご覧・入手しにくいかもしれません(注2)。また、たとえお読みいただいたとしても、随分と細かい議論をしていますので、文章表現の拙さと相まって、かなり読み難くなってしまっているのかもしれません。 そこで、当該誌において仔細に検討した事柄を踏まえながら(例えば、上記Wの「補足(その1)」は、掲載論文の一部を抽出したものです)、このような形で本ホームページに掲載していただくこととしました。 〔Yの注〕 (注1) 「法隆寺と年輪年代法(上)」(『季刊/古代史の海』第26号:2001年12月刊)、及び「法隆寺と年輪年代法(下)」(同誌第27号:2002年3月刊)。 (注2) 雑誌『季刊/古代史の海』は、少なくとも国立国会図書館には置かれておりますし、大阪府立中之島図書館にも置かれているようです。購入ご希望の方は、発行元の「季刊「古代史の海」の会」(〒615-8194京都市西京区川島粟田町22 中村修方)へご相談いただきたいと思います(各号の在庫状況は未確認です)。 (完) (以上は、2002.11.16掲上) その後、朝日新聞10月2日の署名入り記事(注1)を書かれた竹石涼子記者宛に対して、先の小林滋書簡の内容が、古代系図研究会公認のHP「古樹紀之房間」(注2)に掲載されることについて、お伝えする書簡を出しましたが、そのなかで記した「補足部分及びお願いの部分」を追加掲載しておきます。 (1) 上掲の文章を、さらに若干補足したいと思います。 ホームページに掲載の文章の第X節の「補足(その2―従来の研究成果との齟齬)」において、年輪年代法による測定結果と従来の定説による推定年代を、3つばかり書き並べて比較した表を作成しました。 その前の文章の中では例として挙げてはおりませんので、この表には載せなかったのですが、実は、他にもこうした事例はいくつかあります。光谷室長がお書きになった『日本の美術 6(No.421年輪年代法と文化財)』(至文堂、2001年6月刊)に掲載されているものですが、たとえば、「大阪府狭山池遺跡」については、年輪年代法が7世紀前半としているのに対して、従来説は5世紀であり、そこにはおよそ200年の乖離があります(同書P.36)。また、「兵庫県武庫庄遺跡」でも、前者がB.C.245年で、後者の「土器の年代より約200年も古い」とされています(同書P.44)。 この問題は、倉橋秀夫氏の『卑弥呼の謎 年輪の証言』(講談社、1999年10月刊)でも取り上げられております。すなわち、「年輪年代法の数字については、研究者のなかから、もっと辛辣な反応があらわれ始めた。「年輪年代法は、実際より古く出るんじゃないか」といった感想がでてきたのである」との記述が見受けられます(同書P.154)。 しかしながら、同書においては、「自分でパターンを照合し、手ごたえがあったから年代を言ったまでのことで、それが従来の年代観と合うかどうかは、本当のところ年輪年代法には関係がなかった。…伐採された年代が…年であるという事実だけが光谷さんの確信である」(P.156)と述べられております(注3)。要するに、年輪年代法で得られた測定結果が、従来の定説とどんなに乖離していようが、光谷氏としては、別に頭を悩ます必要がないというわけです。 といたしますと、上記『日本の美術 6』において、「この年代差をどう埋めていくのか。実に頭の痛い問題を投げかけた事例の一つである」(同書P.44)と述べられている場合の「頭」とは、一体、どなたの「頭」を光谷氏は指しておられるのでしょうか? (2)お忙しいところ誠に恐縮ですが、竹石さんにおかれましては、前回の書簡、それからホームページ掲載の文章、及び今回の追伸につきまして、お読みいただいた上で是非ともご見解をお寄せいただければと思います。そして、竹石さんのお許しが得られ、そうしたご見解をこのホームページに掲載させていただければ、このホームページにアクセスされる一般の方々の年代測定法についての理解がさらに一層向上することになると考えられるところです。どうか宜しくお願いいたします。 草々 (注1) 朝日新聞社のホームページには、10月2日の竹石さんの記事が次のULRに全文掲載されていました。 http://www.asahi.com/science/today/021015a.html (注2) HP「古樹紀之房間」では、「3 樹童等の論評・独り言・雑感 (客人神の部屋、も含む)」の「4 客人神の部屋 年輪年代法を巡って 」の他に「「百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介」について」、及び「杉橋隆夫氏の論考をめぐって」というコメントを小林滋の名で掲載しております。 (注3) 前回出した手紙でも記載した山陰中央新報の記事(2001年9月16日)においても、「以前、インタビュー記事で「時間軸を与えるのが自分の役割。解釈は考古学者の仕事」と話していた光谷さん」というように、年代を測定する者と考古学者とは役割が別であると、光谷氏は述べられています。 (2002.11.23掲上) 次の頁へ 前頁へ戻る |
||||||||||||||||
独り言・雑感 トップへ ホームへ ようこそへ | ||||||||||||||||