但馬伊達氏とその一族の系譜


 但馬伊達氏の系譜について
 (1) いわゆる「雲但伊達系図」という系図(伊達家文書1の20)には、
@ 時綱(与一、修理亮)の子に朝綱(修理亮)をあげ、
A 朝綱の子に宗政(助五郎)、宗綱(本名貞基、修理亮三郎)、為氏(助七郎)、宗朝(左近蔵人)の四人、
B 宗綱の子に宗通(同次郎)、貞綱(同孫三郎、法名道西)の二人、
C 貞綱の子に義綱(同三郎、法名道円)、さらにその子に直綱(同次郎蔵人)、をあげます。しかし、Cの関係などは史料により若干の修正を要します。

(2) 但馬伊達氏の関係では,宿南保氏の著『但馬の中世史』(神戸新聞総合出版センター、2002年刊)や松浦丹次郎氏の著『伊達氏誕生』に興味深い記述や史料提示がありますが,それらの系譜関係の考察は,疑問がかなりあるのではないかと考えます。
いずれにせよ、同上書や関係史料等を踏まえつつ、以下に検討を記します。

(3) 但馬伊達氏の鎌倉期及び南北朝期の主な動向は、史料により掲げると次のようなものです。これらは、『伊達家文書』『南禅寺文書』『鎌倉遺文』などに所収されています。
@ 元弘三年(1333)三月下旬、頭中将千種忠顕を大将軍とする討幕軍への参加要請の御教書が小佐郷地頭伊達道西貞綱に届き、貞綱は弟の宗幸・宗重や伊達弥七宗助の子息□王丸の代官細矢高光とともに参陣した。彼らは京都に進軍して、四月八日に二条大宮の戦には軍功があった。
A 同年八月に領地の安堵状を申請したが、そこでは陸奥国伊達孫三郎入道々西が陸奥の船生郷・桑折郷・東大枝・西大枝・小塚郷・長井保などに領地を持っていたことが知られる。
B 建武三年(1336)八月、伊達義綱らは足利方の今川頼貞に従い、進美寺山城に立て籠もった北但馬の国衆を攻めた。翌年には、伊達道西・義綱は足利方の桃井盛義に従っている。このころ、小佐郷山田方地頭職を巡って、義綱は一族の立石五郎法阿と争っており、道西は義綱を養子として支援した。
C 正平十六年(1361)に伊達朝綱(義綱の改名)は山名時氏に従って小佐郷を去り、翌貞治元年(1362)には伊達道西は子息次郎蔵人直綱に対して津付山田両村の地頭職を譲っており、一方、立石五郎法阿は応安六年(1373)に田一段を妙見大菩薩に寄進している。
D そもそも、鎌倉期の但馬国小佐郷二分方地頭職は、伊達為安(為宗・資綱・為家兄弟の末弟で、寺本蔵人大夫為保ともいう)から承久三年(1221)に妻の常陸局へ、さらに建長三年(1251)にその娘の伊達尼妙法(従兄の伊達時綱の妻)に譲られ、尼妙法の相続分は弘安五年(1282)に二分割して一方の津付方が孫の伊達五郎七郎資朝、もう一方の山田方が阿波孫五郎へ譲られた。これに対して、資朝の兄五郎三郎宗朝が謀書で地頭職を奪おうとしたことも史料に見える。
E その後、元亨元年(1321)に二分一方地頭職が伊達宗綱から貞綱へ譲られ、もう山田方も阿波孫五郎から妻の尼性心さらに立石五郎法阿へと相続された。また、山田方は伊達宗助重代相伝の所領で、その死後妻の明照尼さらに子息の義綱に譲られたが、義綱(Aの□王丸にあたる)は貞綱の養子となった。

(4) 以上の史料を踏まえて、但馬伊達氏の系図関係を考えると、次のような関係が考えられます。
@ 尼妙法の孫の伊達五郎七郎資朝・阿波孫五郎は、ともに「五郎」を呼称のなかに共有しており兄弟とみられるが、その父は阿波守に任官した伊達五郎となる。この伊達五郎の実名は不明であり、朝綱の子がみな「亮(助)」を付けた呼称を用いたところ(上記「雲但伊達系図」)からみる限り、おそらく朝綱とは別人のようであり、その場合には弟に当たる人物となろう。
しかし、一方、弘安八年の但馬国大田文には、小佐郷二分方地頭に伊達五郎三郎が見えており、これが宗朝にあたるとしたら、資朝の地頭職は兄の五郎三郎宗朝が謀事で奪ったことになろう。その場合、「朝綱=伊達五郎(阿波守)」で、「宗朝=宗綱(本名貞基、修理亮三郎)」(ともに「三郎」で呼称が共通)ということになる。この辺の判断が難しいところでもあるが、ここでは後者の立場(伊達五郎=朝綱)をとっておきたい。松浦丹次郎氏の著『伊達氏誕生』(69頁)でも、資朝を朝綱の子においている。その場合、阿波孫五郎とは「宗政(助五郎)」にあたることになる。
A 弥七宗助(宗資)は名前と呼称から考えると、五郎七郎資朝の子とみるのが自然である。この場合には、弥七宗助(宗資)は朝綱の孫となる。
なお、宿南保氏は、所領関係等からみて、a「資朝=宗綱」で、朝綱の子とし、b「宗助=貞綱の兄弟」、c阿波孫五郎は尼妙法の子と推定、と考えるが、これらはいずれも疑問が大きい。先に述べたように、資朝の所領は後に兄・宗朝(宗綱)によって奪われたとみれば、系譜関係が変わってくるわけである。 
                             

* 上記の但馬伊達氏の系譜は、以下に記す川部様との応答のなかで作成されたものであるが、一応、まとまった形の記述となっているため、先に掲げた事情にある。
 

 (川部正武様より1) 03.8.3 受信

 鎌倉時代の伊達氏の系図について思ったことを次に記します。
 
1 鎌倉時代の伊達氏の系図としては
 @寛政譜・伊達正統世次考
 A駿河伊達系図
 B雲但伊達系図
の3つが参考になると思いますが、
 @は 義広−政依−宗綱−基宗−行宗
 Aは 時綱−政綱−宗綱−盛綱−行朝
 Bは 時綱−朝綱−宗綱−貞綱−義綱
となります。最大の謎は全てに登場する宗綱についてです。
 
2 これらの関係については、
 (1) 時綱と義広は兄弟
 (2) 政依と政綱は同一人物か兄弟の可能性が強く
 (3) 政綱と朝綱は(義)兄弟
 (4) 基宗と盛綱は同一人物
 (5) 行宗と行朝は同一人物
というところまでは、恐らく良いだろうと思います。
(6) そして宗綱は世代から言って当然同一人物と思われますが、すると孫太郎盛綱(基宗)と孫三郎貞綱は兄弟ということになります。その場合、さらに同時に宗幸・宗重兄弟と瀬上行綱を含めて5人兄弟ということになります。
なお、宗綱に関して、同時代に同じ名字で同名というのはありえますかね?
@ 伊達政依の名の特異性
A 伊達宗綱は駿河伊達系図・雲但伊達系図ではともに時綱の孫(父は異なるのに)とされている点
B 粟野義広ではなく時綱こそが、伊達氏の本宗ではないかと思われる点
等を考慮すると、時綱の二人の子、政綱と朝綱が陸奥と但馬に分かれ、その後も互いに養子縁組(というより所領譲渡)があったと考えられるのではないでしょうか?
というわけで、宗綱同一人物説となりました。
 
3 陸奥の伊達氏と但馬の伊達氏とでは、
 (1) どちらが惣領かということについてはわかりません。但馬系の貞綱は偏諱より惣領のような気がしますが小山・宇都宮氏の例もあるので必ずしも断定できません。
 (2) 血統は、「朝綱−宗綱−盛綱(基宗)−行朝」であり、宗綱は政綱の養子になったと考えます。

  川部氏作成の伊達系図

 (3) ついでに、貞綱の養子の義綱の実父についても気になります。
                             
  

 樹童からのお答え1
 
1 伊達氏関係の系図
  伊達系図については、ご指摘のような三系図が主なものと思われますが、『諸系譜』巻30に記載の「伊達」 系図(以下「伊勢伊達」とする)も参考になると思われ、それでは宗村の子の四郎左衛門尉為家の系統の伊勢伊達氏の系図が記載されています。
 同系図には、粟野二郎義広の子として時綱(縫殿頭)・家綱(二郎)・政依(甲斐守)、政依の子として宗綱(甲斐小太郎)・政隆(甲斐四郎)、宗綱の子として基宗(盛綱。孫太郎)・宗昌(彦二郎。その子に小太郎勝宗)、基宗の子として行宗(従五位下宮内大輔)、があげられています。ここでの時綱の位置づけは疑問ですが、それ以外は妥当だと思われます。
 
2 貴説の検討
 1であげた四系図を基に考えてみますと、 
 (1)(4)及び(5)  貴説に同意
 (2) 政依と政綱は同一人物か
 (3) 政綱と朝綱は従兄弟
 (6) 宗綱は、但馬系の宗綱と陸奥系の宗綱は同名別人で、再従兄弟ではないか。子として伝える者たちの名前も違いすぎます。具体的には、但馬の宗綱は元亨元年十一月に子息の貞綱に譲状を出していますが、子としては宗道・貞綱(孫三郎)・宗幸・宗重が知られ、陸奥の宗綱の子としては基宗(孫太郎)・宗昌(彦二郎)・行綱(瀬上五郎)が知られます。
    但馬の宗綱については、初名貞基とされ、子の孫三郎貞綱、その養子孫三郎義綱の呼称「孫三郎」から考えると、その兄弟とされる五郎三郎宗朝とも同人と推されます。
   (この辺は、後掲する義綱と合わせて、但馬伊達氏の系譜検討が必要となります)
と考えます。
 
3 伊達惣領
 (1)に関し、但馬系と陸奥系とが、どちらが伊達惣領だったのかはよく分からない点もありますが、政依(甲斐守)が『東鑑』正嘉二年(1258)三月一日条に見える中村甲斐前司に当たるとしたら、鎌倉中期には、陸奥系が惣領的な位置にあったのではないかとみられます。
 その経緯としては、まず、但馬伊達の祖・越前前司時綱が伊達惣領になり、その惣領職を甥にあたる陸奥系の政綱が受け継いだと考える次第です。政綱がこの一族の故地の「中村」を名乗るという事情も、考慮されます。
 ちなみに、同書の正嘉元年(1257)十月一日条に伊達左衛門蔵人親長が見えており、この者が寛元元年(1243)正月十日条に見える伊達中村太郎や文応二年(1261)二月廿日条に見える伊達衛門蔵人に当たるとしたら、桑折の祖・親長は政依の兄かと考えられますが、「親長=政依」両者同人という可能性もあるのではないか、とも考えられます。なお、『宮城県姓氏家系大辞典』では、桑折家が四代政依の子孫であるとの記事をあげており、桑折二代の孫五郎政長という名に着目すると、同人説に傾くことになります。「駿河伊達系図」には政綱について「蔵人太郎」と譜註を付けますので、これらを総合的に考えますと、「政綱=政依=親長(さらに=義宗)」ということになりそうです。しかし、上記史料を考えると、微妙に違和感も残り、「政綱=親長」で、政依はその兄弟という可能性も考えられます。この辺は難しいところです。

 (2)については、「宗綱」を同名異人と考えていますので(2(6)参照)、政綱の実子にも別人の宗綱がいたと考えます。但馬の「宗綱」と陸奥の「宗綱」は、『福島市史』でも同一人とみていますが、前者の名乗りの期間は短かったようで、疑問に思われます。世代こそ同じでも、別人と考えらるということです。

 (3)の義綱の実父については、史料から弥七宗資(宗助)とみられます。
弥七宗助(宗資)は名前と呼称から考えると、五郎七郎資朝の子とみるのが自然であり、この場合には、弥七宗助(宗資)は朝綱の孫となります。この辺の推定系図については、最初に掲げた「但馬の伊達氏」をご覧下さい。


※ 以下は、とくに「但馬の“宗綱”と陸奥の“宗綱”との同人性」についての応答になっています。
 
 (樹童からのお答え2)03.8.6送信
 
 但馬の「宗綱」と陸奥の「宗綱」は,『福島市史』でも同一人とみていますが,世代こそ同じでも,別人と考えられます。
 但馬の義綱の父は弥七宗資で,貞綱の従兄弟とみられます。但馬伊達氏の関係は,宿南保著『但馬の中世史』に興味深い記述があります。ただし,系譜関係の考察は,疑問がかなりあると考えます。
 


 (川部様より3)03.8.9受信
 
 同時代に同じ名字で同名というのはありえますかね?
@伊達政依の名の特異性
A伊達宗綱は駿河伊達系図・雲但伊達系図ではともに時綱の孫(父は異なるのに)とされている点
B(樹童様も指摘されている通り)粟野義広ではなく時綱こそが、伊達氏の本宗ではないかと思われる点
 
等を考慮すると、時綱の二人の子、政綱と朝綱が陸奥と但馬に分かれ、その後も互いに養子縁組(というより所領譲渡)があったと考えられるのではないでしょうか?
 というわけで宗綱同一人物説となりました。
 

 (樹童より3)03.9.27送信     最初に掲上の「但馬の伊達氏」
 

 (川部様より4)03.9.27受信
 
1 元々この話題を持ち出した契機は、伊達宗綱という人物が同時代に二人いるので同一人物ではないか、と思ったことです(8月3日のメール)。
 そして今回の樹童様の御論(03.9.27付けで出した「但馬の伊達氏」)を拝読して益々その意が強くなりました。
 
2 政綱の子・宗綱の子は基宗(或いは盛綱)といい、朝綱の子・宗綱は貞基と名乗っていたなら、貞基−基宗の親子関係は十分考えられると思います。
 
 そうすると、孫三郎貞綱と孫太郎盛綱(基宗)が兄弟となります。
嫡子は盛綱かもしれませんが、貞綱の方が年長のような気がします。或いは貞綱が五郎三郎宗朝の跡式を継いだのかな?とも思います。とりあえず系図を作ってみました。長幼の順は無視していますので悪しからず。

    川部氏作成の伊達系図
 貞綱・盛綱兄弟説はかなり無謀かもしれませんが、御一考願います。
 

 (樹童より4)03.9.30送信

1 「貞基と基宗」という名前から考えるとき、その間に親子関係があったことも多少考慮されるとは思いますが、盛綱(基宗)の呼称が「孫太郎」ということは、その父親が「太郎」という呼称であり、陸奥の伊達氏は「甲斐小太郎宗綱−甲斐孫太郎基宗(盛綱)」として問題がありません。この宗綱は、甲斐守政綱の子で、呼称が整合しています。
 一方、但馬の宗綱は、「朝綱=伊達五郎(阿波守)」の子で、「宗朝(五郎三郎)=宗綱(本名貞基、修理亮三郎)」であり、ともに「三郎」で呼称が共通で、阿波守の子となっています。
 
2 以上の位置づけからいって、但馬の「宗綱」と陸奥の「宗綱」とはやはり別人であり、貞綱・盛綱兄弟説は成り立たないと考えます。

  (以上まとめて03.9.30 掲上)



 <川部様より5>  03.12.06 受信
 伊達宗綱の続きですが、
「伊達正統世次考」によると、基宗は宗綱の異父弟で実は結城信広の子という説があります。そして宗綱は盛年にして基宗に家督を譲らされたというものです。つまり宗綱は基宗に家督を譲った後、朝綱の養子になったということは考えられないでしょうか?
 やはり但馬系の宗綱の本名・貞基というのがどうしても気になります。これがなければ宗綱別人説でも納得いくのですが。
 改めて伊達系図試案を作ってみました。
 
     川部氏作成の伊達系図
 
 (樹童の考え5)
1 「伊達正統世次考」10巻は、仙台藩四代藩主伊達綱村が編纂させたもので、初代朝宗から第十五世晴宗に至る伊達氏代々の事蹟を記した伊達氏の動向を知る上での基本史料ともされ、元禄十五、六年〔1702,3〕頃完成とみられています。しかし、この成立の遅さから疑問な見解も見られており、私自身は同書を確認しておりませんが、「基宗が結城信広の子」というのも疑問だと思われます。同書が何に拠ったのかもしれませんし、そうした異説を記した史料もほかに管見に入っておりません。まず、「結城信広」という者自体が結城氏の系図で見たことがありません。鎌倉期には別系統の他氏から養嗣に入るという例が少ないという事情もあります。
2 称号から考えても、甲斐守政依の子の甲斐小太郎宗綱、その子甲斐孫太郎基宗と符合しており、世代的にも鎌倉殿の時の資綱(宗村の子で、頼朝妾の大進局の兄弟)と南北朝初期の行朝(行宗)との間に四世代(−資宗〔義広〕−政依〔政綱〕−宗綱−基宗〔盛綱〕−)あったほうが妥当だと考えられます。また、宗綱には甲斐四郎政隆という弟がおり、またその子には彦二郎宗昌及び瀬上五郎行綱という者があげられていて(『諸系譜』巻30所収の「伊達系図」など)、他氏から養嗣をとる必然性もありません。(この辺は上記の繰り返しになっています
  陸奥と但馬で各々宗綱周辺の人々を見ても、兄弟の名などが共通していないという事情もあります。
  以上の事情から考えて、貴見の試案については、やはり疑問だと考えられます。

  (以上をまとめて03.12.23 掲上。05.9.17に若干の手直し
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