伊達一族とその起源

                                  宝賀 寿男

 

  一 はじめに - 伊達氏についての概観

  藤原泰衡追討の文治五年(1189)奥州合戦の際、その最大の激戦ともいえる陸奥伊達郡の石那坂で戦功をたてた者に中村常陸入道念西の諸子がある。この一族は、のち戦功の地・伊達郡を与えられて常陸国真壁郡伊佐庄から遷住し、地名に因み伊達氏を名乗った。鎌倉期には、伊達一族の活動は地域的に散見するものの、史料にあまり現れないから実態がよく分からないが、着実に力を貯えていたものであろう。南北朝期になると、伊達宮内大輔行朝行宗ともいう)は南朝方武将として陸奥を本拠とした鎮守府将軍北畠顕家を支えて活躍する。陸奥の多賀国府が足利方によって占拠されると、国府機能は伊達氏の本拠たる伊達郡の霊山城に移され、ここから南朝方は北畠顕家の二度にわたる征西軍を送り出した。行朝もこれに従軍し、また本領のある常陸西南部にも転戦した。
  続いて、十四世紀後半の伊達弾正少弼宗遠、その子大膳大夫政宗の時代になると、次第に伊達郡から周りの地域まで勢力拡大の動きを強くしていく。応永頃に活動し中興の祖とされる政宗は、幕府と結んで鎌倉府と対抗しつつ、信夫・刈田・柴田三郡及び伊具庄、さらには出羽国置賜郡長井荘を領域とする。
  それからほぼ百余年後の大永二年(1522)になると、伊達稙宗政宗の五世孫)は前例のない陸奥守護職を得、その子晴宗は陸奥探題に補せられて、居城を出羽米沢へ移している。この頃から伊達家の子女は多く史料に現れ、近隣の有力諸豪族への婿入りないし嫁入りが多く見られる。伊達一族から他家へ入嗣した例としては、大崎・葛西・村田・亘理・岩城・留守・石川・国分・白石・懸田などの諸氏があげられる。このうち、亘理・白石・留守の諸家は、江戸幕藩期には伊達を称することが許され(順に涌谷伊達・登米伊達・水沢伊達という)、一万石を超える知行高を持つ重臣となっている。
  晴宗の孫・政宗は、二本松畠山氏を滅ぼし、次には豊臣秀吉の停戦命令を無視して、会津の摺上原の戦で芦名義広を破り、会津一円を手中にして、戦国奥州の大勢を決した。これが天正十七年(1589)だから、この間、石那坂合戦から四百年が経過したことになる。その二年後に、秀吉の奥羽再仕置によって、米沢から黒川(会津若松)に移っていた政宗は、岩出山(もと玉造郡岩出山町、現大崎市西北部)へ転封を命じられ、続いて慶長五年(1600)には仙台開府の工事を始める。仙台に入った政宗は、奥州一宮としての塩竈神社を厚く保護・尊崇し、慶長十二年には同社をはじめ大崎八幡社・国分寺薬師堂を修理造営した。

  この伊達氏については、一般に通行する系図では、藤原北家流の中納言山蔭の後とされ、異説を見ないほどである。しかし、その初期段階は系譜等を仔細に検討すると、史料に裏付けがない点や不明な点がかなり多い。その一方で、仙台藩によって作られた資料が、時代の制約もあってか、かなりの疑問点があるのにもかかわらず、定説的に流布しているという問題もある。従って、伊達氏の起源論も含めて様々な角度から、伊達氏の動向・変遷について検討を加えることにしたい。
  この際、各地域の郷土史料や平凡社の日本歴史地名大系『宮城県の地名』『福島県の地名』等、『宮城県姓氏家系大辞典』及び『戦国大名家臣団事典』(高橋健一氏執筆の伊達氏関係)、などの資料が有益な示唆を与えてくれそうであり、これらを充分活用していきたいと考えている。これらの学恩に感謝するとともに、多くの資料を割合簡単に利用できるようになった時代環境の恵みも感じている次第である。 


  二 伊達氏の発生と初期段階の人々

  中村常陸入道念西という人物
  伊達氏の初祖、中村常陸入道念西の四子(常陸冠者為宗、次郎為重、三郎資綱、四郎為家)が奥州伊達郡で先駆けをして、石那坂で佐藤庄司らを討ち取る戦功をあげたことは、『東鑑』文治五年(1189)八月条に見え、信夫佐藤庄司一族との関係でも注目される。ところが、この始祖中村常陸入道念西なる者については、疑問が相当に多い。
  一般に、この念西の実名については朝宗とされ、藤原北家の中納言山蔭の後裔に位置付けられる。これは、江戸期の伊達家が『伊達正統世次考』(元禄十五年〔1702〕頃完成)や『寛政重修諸家譜』で称している系譜であり、またこれを承けた諸系図史料でも多く記述されてきた。
  これに対して疑問を提起したのが、太田亮博士である。太田博士は、「山蔭の裔とする事については、何等確実徴証あるなく、且つ世数長きに失す」ことから疑問として指摘する。そのうえで、伊達氏を桓武平氏常陸大掾平維幹の子為賢の後とするほうが穏当だと考えると記す。この太田亮説を妥当と考えるのは、管見に入った限りでは、近藤安太郎氏(『系図研究の基礎知識』)くらいである。
  しかし、本稿の検討にかかってからじっくり考えてみると、藤原北家の朝宗後裔説はやはり疑問であるという感が次第に強くなってきた。このため、先ず中村常陸入道念西とは何者かを具体的に調べる必要がでてくる。

  常陸入道念西の実名を朝宗とする史料は、その出現が年代的に見てかなり遅いようで、古い時代の史料には殆どが宗村という名で記される。朝宗と宗村との関係については、伊達初祖を朝宗とする場合には、宗村は朝宗の子に位置づけられる取扱い(この場合、宗村は次郎為重と同人とされ、その子に義広をおくものが多い)とされている。これに対し、『福島県史』や『福島市史』は、「朝宗―為重―義広」説を決定的な定説であるかのように持ち出し、それを定着させようとしているが、この説は間違っており根拠に乏しい、と松浦丹次郎氏は著書『伊達氏誕生』で批判をしている。
  史料から念西をみると、常陸入道念西の娘・大進局は、頼朝の寵愛を受け貞曉を生むが、『東鑑』文治二年(1186)二月廿六日条には二品若公(貞曉のこと)の誕生をあげて、その母を常陸介藤原時長の娘と記し、次いで建久二年(1192)正月条には頼朝が寵愛した女房大進局は伊達常陸入道念西の息女と見える。『尊卑分脈』では、源頼朝の子の貞曉に註して、その母を伊達蔵人藤原頼宗女とする。これらの記事が全て正しいとすると、常陸入道念西は常陸介藤原時長及び伊達蔵人藤原頼宗と同一人物であることが知られる。
  なお、『東鑑』の記事からは、常陸入道念西の生存期間は一切不明であり、文治五年の奥州征伐にも従軍者のなかには挙げられていないし、頼朝妾の大進局の父として引用されるのみであることに注意しておきたい。
 
  伊達初祖を宗村とする史料については、『福島県史』(第一巻、通史編1)などでは、次のようなものがあげられている。
@ 『駿河伊達文書』(京都大学所蔵)のなかの「伊達氏系図」では、朝宗の子・宗村の代に奥州征伐に従って功あり、伊達郡を賜った、とする。新井白石は『藩翰譜』のなかで『伊達正統世次考』の示す系図を疑い、この文書と同様の説を採っている。
A 『伊佐早文書』の天文十五年(1546)成立とみられる「伊達家譜」では、第一の先祖を中村常陸守入道宗村、法名念西として、文治五年初めて伊達へ下着以来の当家代々の系図を掲げる。このなかで、朝宗という名の者は伊達第六代にあげられているが、第六代は通常、行宗とか行朝という名で見える人物であることに注意したい。
B なお、『古今著聞集』には東宮帯刀中村常陸介宗村の名が見えると『伊達正統世次考』に記されるが、これは同書の誤解であってその事実はない、と松浦丹次郎氏が前掲書で指摘する。
  
  このほか、鈴木真年翁関係資料でも、宗村を中村常陸介出家念西として、為宗・義広ら兄弟の父とする(『百家系図稿』巻十四の伊達系図。なお、『諸系譜』巻卅の伊達系図もほぼ同様)。

  こうした資料による限り、常陸入道念西の実名を宗村と考えざるをえない。そうすると、宗村は朝宗と別人となるが、これでよいのだろうか。伊達氏の祖という朝宗は、はたして『尊卑分脈』の藤原氏山蔭流のなかに見える朝宗(「高松院非蔵人」とのみ譜註がある)と同人なのだろうか。伊達初代を宗村とする説でも、宗村を朝宗の子として山蔭流とする系譜は疑わないが、先ずこの辺りから検討していかねばならない。
  『尊卑分脈』の掲げる系図は、公家藤原氏については概して信頼性が相当高いといえよう。同書には、藤原氏系図の山蔭流では朝宗の子には誰も掲げないし、「伊達」という苗字も、前掲貞曉の外祖父の号として唯一見えるくらいである。いいかえれば、同書による限り、山蔭流の藤原朝宗という者から伊達氏が始まったとはみられないということである。
  同書の編著者たる南北朝期の洞院家の人々が、北畠顕家のもとで南朝方として大きな役割を果たした伊達氏を知らなかったとは思われない。そのうえに、藤原朝宗周辺の一族にいて具体的に活動年代が知られる人々、すなわち実宗(朝宗の四世祖で常陸介・肥後守等を歴任)、有通(朝宗の従兄弟で隠岐守等に任)、永光(朝宗の従兄弟の子で丹後守等に任)の活動年代から考えると、高松院非蔵人としての朝宗は、宗村入道念西とほぼ同時代の人ではなかったかとみられる。『尊卑分脈』には、朝宗の父・光隆は待賢門院(1124年院号宣下、1145年崩御)に非蔵人として仕え、朝宗の弟・業守は上西門院(1159院号宣下、1189崩御)に蔵人として仕えたと記される。

  それでは、平安末期の藤原朝宗という人物は、信頼すべき史料にはどのように現れているのであろうか。
  筆者の管見に入ったところでは、『兵範記』の仁安二年(1167)正月六日条の叙位記事に蔵人藤原朝宗が見え、従五位下に叙されている。この朝宗に当たる人物としては、年代的に二人考えられる。一人は前掲の山蔭流藤原氏の高松院非蔵人の朝宗であり、もう一人は『尊卑分脈』師尹公孫に見える朝仲(師尹の七世孫)である。後者は正五下太皇大后宮大進、蔵使で「本朝宗」と註されている。問題の「高松院」とは、鳥羽天皇の皇女子内親王のことで、二条天皇の中宮となった女性であり、応保二年(1162)に院号を宣下され、安元二年(1176)に三十六歳で崩御されている。この高松院に、前者の朝宗は非蔵人として仕えたとされ、一方、後者の朝宗は単に蔵人とあるだけであるが、祖先から子孫にかけて七代にわたって蔵人をつとめたと記されており、『尊卑分脈』の記事からは、『兵範記』の朝宗がどちらかは判断がつき難い(蔵人という肩書きからは後者のほうが妥当か)。いずれにせよ、平安末期に蔵人藤原朝宗という中下級の公家がいたことだけは、確かである。
  これらの事情から考えていくと、伊達氏が先祖として藤原朝宗にこだわることも理解できそうである。すなわち、藤原氏山蔭流の公家たる朝宗と伊達氏とのつながりが断たれると、伊達氏の出自がまったく不明になるのである。伊達氏にあっては、その始祖に朝宗という名の人物がいたかどうかの確認がまだできないうえ、仮に存在したにせよ、この朝宗は中納言藤原山蔭の後裔ではなかった、という結論にどうも導かれそうである。

  これに関連して、角田文衛氏に「高松院非蔵人・藤原朝宗の母」という論考がある(『姓氏と家紋』第43号、昭和60年9月)。角田氏は、『寛政重修諸家譜』伊達家系図に伊達朝宗の母が六条判官源為義の娘と記載されることに着目し、為義が政略的に待賢門院の側近グループにのめり込み、同じ待賢門院グループに属する女院非蔵人の藤原光隆(非蔵人朝宗の父)に娘の一人を娶せたことは極めて自然であったといえようとし、為義の子の義朝も待賢門院・上西門院グループから嫡妻(熱田大宮司藤原季範の娘)を選び、同じグループの藤原能保が義朝の嫡女を娶ったとみている。こうした流れのなかで、頼朝は、父方の従兄弟の朝宗に娘を参仕さすよう求め、こうして奥向きに仕えた大進局に手をつけた、と解している。これは、伊達氏の祖として高松院非蔵人藤原朝宗を認める見解といえよう。
  しかし、伊達氏の祖朝宗の母が実際に源為義の娘であったかどうかは、不明である。管見に入ったところでは、江戸期の『寛政譜』以外にそうした記事は見えず、『尊卑分脈』等には記されないからである。気のついた点では、『張州雑志』所収の「伊勢尾張氏系図」には、熱田神宮の祭主権宮司尾張奉成の姉妹に伊達常陸蔵人朝宗妻と見えており、頼朝が母方の熱田大宮司関係で伊達朝宗の娘を得たことが推される。同系図には他に伊達氏関係記事が見えないから、貴重な記述として信頼してよいように思われる。それとともに、伊達氏の祖の宗村はやはり朝宗という名も持っていたことがわかり、前掲『尊卑分脈』の伊達蔵人藤原頼宗の「頼」は似た字形の「朝」の誤記であろうと推される。
  ただ、朝宗が蔵人と号したからといって、必ず中央の藤原氏の出であったことは意味しない。常陸入道も、常陸前司入道の意味であっても、信頼できる史料には、常陸介として朝宗の名も宗村の名も見えていない。あるいは、常陸権介の前歴だったのかもしれないし、常陸掾・目くらいの級の常陸国司であった可能性はないではない。
  それでは、太田亮博士の指摘のように、伊達氏は実際に桓武平氏常陸大掾の一族から出ていたのであろうか。しかし、伊達氏が時により藤原姓や源姓を称するなど、そうとは思えない事情もある。陸奥の名取郡熊野新宮寺にある文安三年(1446)の鐘銘文には「大檀那源朝臣大膳大夫持宗」と記されても、伊達氏の人々で平姓を名乗る例は史料に見られないからである。

  宗村の後継といわれる義広
  初期段階の伊達氏の系図を考えると、その混乱要因の一つが、宗村の後継としてあげられる義広の位置付けである。義広については、次に掲げるような諸説(考え方も含む)があり、判断がなかなか困難である。

@ 宗村の子で、次郎為重と同人とする説
A 宗村の子で、三郎資綱と同人とする説……「駿河伊達系図」では宗村の三男に資宗をあげて、「蔵人大夫、資綱共云又義広共云同兄高名康元五年(1260)…略…卒廿三法名覚仏」と記す。
B 宗村の子で、為重・資綱とは別人とする説……「雲但伊達系図」では為宗(ママ。伊達始、法名念西と譜註)の子に為宗以下九人をあげ、さらにその弟に与一時綱と次郎蔵人義広をあげる。一方、「寛政呈譜」では宗村を次郎為重と同人として、その子に時綱と粟野次郎義広をあげており、『福島県史』及び『福島市史』等でも同様の立場である。
C 宗村の子とするが、上記三説のどれとも不明なもの……伊佐早文書の「伊達家譜」では、第一代の中村常陸守入道宗村・法名念西、第二代に粟野次郎九郎殿義広・法名覚仙、と記す。
D 宗村の孫で、為重の子とする説……松浦丹次郎著『伊達氏誕生』では、時綱と義広は為重の子で、祖父念西の養子になったと考えられると記す。
E 宗村の孫で、資綱の子とする説―結論的に、私はこの立場をとりたい(理由は後述)。
F 念西の孫か曾孫とする説……新井白石『藩翰譜』では、念西の卒年が正治元年(1199)、義広の卒年が康元元年(1256)という所伝や『東鑑』の記事等から、このように考えている。
  
  これらの説のうち、どれが妥当なのであろうか。前掲史料のうちでは、信頼性がかなり高い駿河及び雲但の伊達系図、伊佐早文書から考えていくべきであろう。これに、卒年や称号などを考慮すれば、なんらかの結論が導き出せそうである。
 念西の卒年については、正治元年(1999)が正確でなくとも、その子女が源頼朝とほぼ同世代ということからみて、1200年頃としてよかろう。一方、義広の卒年については、伊佐早文書では建長三年(1251)、『諸系譜』巻卅所収の「伊達系図」では康元元年(1256)とするが、概ね1250年代としてよさそうである。両者がほぼ同じくらいの享年で死去したとすれば、念西の孫世代が義広とみるのが妥当となろう。
  それでは、何故に義広と時綱が「雲但伊達系図」では念西の子にあげられるのか。同系図では、念西の子に為宗以下の九男子と一女子(頼朝妾の大進局)に続けて、与一時綱・次郎蔵人義広の二人をあげる。この二人が兄弟で念西の実子であれば、義広の呼称は与二(余二)となるのが自然である。義広の呼称について、伊佐早文書では次郎九郎と記すのは、後ろの九郎は蔵人(くろうど)の訛伝という説がよさそうで、念西ではない誰かの次男であったものか。義広の兄・時綱は、念西の子のいずれかの長男であったが、なんらかの事情で祖父念西の養子となって、与一と号したとみられるのである。こうしてみると、時綱・義広兄弟は本来は念西の孫であったのが、父に関するなんらかの事情で祖父の子にもおかれるようになったと考えられる。

  次に、時綱・義広兄弟の父は誰かという問題になる。「駿河伊達系図」には資綱と義広とを同人として資宗の別名とするとともに、資宗が時綱の父に置かれることを考えると、
@三郎資綱がその子・次郎義広と合体し、一人としてみられたのではないか、
A資宗が義広の別名とみると、資綱の子に時綱・資宗(義広)がいて、自然である、
B義広が粟野次郎とも称したことが伝えられるが、「粟野家譜」にその祖とあげる越中国目代従六位下刑部丞粟野新三郎資国は、年代的にみて粟野次郎義広(=資宗)の子に置かれるのではないか、
C「雲但伊達系図」には資綱に中村庄本主と註されており、これは伊達本宗を継いだことを意味しよう、
  
と考えられるのである。資綱が後になって伊達本宗の歴代から消えたのは、おそらく父宗村に先立って死去したからで、こうした事情のため、その子の時綱・義広兄弟を祖父宗村が養ったのではなかろうか。

  義広が伊達郡桑折郷粟野大館に住んで粟野次郎と称したのは、本来歴代に数えられる人ではなかったとみられ、伊達本宗の当主は宗村→(資綱)→時綱→政綱(政依とも。義広の子)の順で伝えられたのではなかろうか。
  時綱は先にあげたように、応安元年(1368)閏六月十二日の鹿島文書「室町将軍家寄進状案」では伊佐郡(真壁郡伊佐庄)平塚郷に越前前司時綱跡とみえ、この地にあったことが知られる。時綱の跡を甥の甲斐守政綱が継いだことで、政綱の父・義広が後世歴代にあげられるようになったのではないか、とみられる。『東鑑』の寛元元年(1243)正月条に、御弓始射手の「伊達中村太郎」が見えており、続いて正嘉二年(1258)三月一日条には「中村甲斐前司」が見えるが、おそらく両者は同一人物で政綱にあたるのではなかろうか。してみると、伊達氏歴代は鎌倉中期までは主に常陸中村にあって国司職名を称号としていたことが知られる。
  政綱以降の伊達歴代はとくに異伝がないようで、その子甲斐太郎宗綱−甲斐孫太郎基宗(盛綱)−宮内大輔行宗(行朝)と続いて、行宗が南北朝前期の人にあたる。

  伊達氏にあっては、その初祖宗村が山蔭流藤原氏の朝宗の子とされて、系図がつなげられたという系譜仮冒が先ずあり、また、初期伊達氏の相続の複雑さ、複数の名前をもつ者などもあって、初期伊達氏の系図が一層難解なものとなったと考えられる。伊達本宗の居住地も鎌倉期においては、むしろ常陸国真壁郡から下野国芳賀郡にかけての中村の地であったろう。
  以上の事情からみて、伊達氏の出自探求のためには、一族の分布や古くからの家臣、居住地・奉斎神など関連する各種資料を、様々な角度から丁寧に検討していく必要がありそうである。

  (続く)


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