(「伊達一族とその起源」の2)


    三 伊達氏の遠祖と出自についての試論

  常陸国真壁郡伊佐庄という地
  伊達氏の初祖宗村が常陸国真壁郡伊佐庄の中村に居住して「中村」を苗字としていたことは、確かのようである。その苗字の地は、いま茨城県下館市(筑西市。以下も便宜上、「下館市」の表記を用いる)の中館とされ、勤行川右岸の中館台地には伊佐城跡がある。南北朝動乱期の興国四年(1343)頃、南朝方についた伊達氏第七代の宮内大輔行朝は祖先ゆかりの当城に拠り、城主伊佐太郎とともに高師冬率いる北朝勢と常陸西部で戦ったが、それも長くはなく、ついには敗れて落城に至った。中館台地上には藤原朝宗を開基と伝える観音寺があり、建武三年(1336)には伊達行朝が堂塔を完備したという。
 伊達氏では、鎌倉初期に念西入道が諸子を率いて伊達郡に移ったが、その長男為宗は当地に残って伊佐大進と名乗り、三男資綱も伊佐庄中村を領した、と系譜に見える。念西の子の伊達四郎為家は、伊達右衛門尉為家とも『東鑑』に見えて、建暦二年(1212)に刃傷事件で佐渡に流されたことが記されており、その後、『承久記』にも活動が見えるが、こちらは伊達郡居住か。応安元年(1368)の室町将軍家寄進状案には、伊佐郡内平塚郷が越前々司時綱跡と記されることは、前述した。行朝の子、宮内太郎行資は初め伊佐城に住んで、その子・行員は伊佐岡兵部丞と号したという。
  中村念西入道の祖先の居住地については諸説ある。寛政呈譜の伊達家譜では、中納言山蔭の五世孫常陸介実宗のときから伊佐庄中村に住すとあるが、前述のように、山蔭流藤原氏という系譜には疑問があるので、この所伝は疑問とされよう。また、当時、石岡市にあった常陸国府から遠く離れた下館の地に、国司とその子孫が居住・定着したとは思われ難いからである。ただし、伊達氏の祖とされる実宗が山蔭流藤原氏の常陸介実宗と別人である場合なら、話は違ってくる。

  中山信名等の編による『新編常陸国誌』には、『尊卑分脈』の山蔭流系図とは異なって、伊達氏の先祖を次のように記す。「実宗初て伊佐中村に居る、因て中村を氏とす。子秀宗、徙て山尾に居る、世山尾蔵人と称す。又下野守に任じ、芳賀郡に居り、氏に因て其地名を中村と改む。任満ちて伊佐荘下館に還り居る、世下館侍従と称す。子助宗嗣ぎ大舎人たり」とある。そして、これと同様の系図が「梁川八幡神主菅野氏系譜」(『梁川町史』5所収)にも見える。
  梁川八幡宮は、伊達郡にあって亀岡八幡・富野八幡とも通称される。建久年間に伊達宗村が高子岡城を築いた際、その付近に氏神天神宮と若宮八幡宮を併せたものとして勧請され、伊達六十六郷の惣社とされたと伝える。その後も伊達氏の氏神として続き、同氏移転とともに伊達郡・米沢・仙台と遷座された。仙台を開いた政宗は、仙台城のそばに亀岡八幡宮を建立し、四代藩主綱村のとき現社地川内の亀岡山に遷座された。梁川神主の菅野氏(のち関口氏という)は常陸から伊達氏とともにやって来た家臣であったという。神主菅野氏は菅原姓を称したが、仙台藩士や白石片倉家家臣には、菅原姓の菅野氏がかなり多く見られ、仙台藩士で医師の大森氏は、菅原姓で菅野利昌を祖とするというから、これらはみな同族であろう。利昌は伊達郡大森(福島市大森)に住んで大森氏を号したという。
  神主菅野氏の系図(『梁川町史』5 古代中世 資料編Uに所載の「梁川神主系譜」)の初期段階では、伊達氏の先祖との重なる通婚が見られ、伊佐実宗の子に中村秀宗、さらに中村助宗、伊達宗村の名が見える(一方、朝宗の名は見えない)。菅野氏系譜と『新編常陸国誌』との一致からいって、伊達前史の中村助宗・中村秀宗という名前には、かなり信頼がおけそうである。

  こうした伝承からは、伊達前史段階では伊佐中村・山尾・芳賀郡中村・伊佐中村という順で遷住したことが知られる。これは何を意味するのであろうか。
  先ず、伊佐中村については、『和名抄』の時代には常陸国新治郡伊讃郷の地であり、伊讃郷はのちに中世では真壁郡伊佐庄となるが、いま下館市の北西部の中館や伊佐山・平塚・石原田・西谷貝などを含む一帯とみられている。

  次に、山尾は中館から南東に十数キロ離れた『和名抄』の同国真壁郡伊讃郷の地であり、いま真壁郡真壁町(現桜川市。以下も真壁町で表記)の山尾とみられる。こちらの伊讃郷には、真壁町南部の伊佐々・山尾・中村・椎尾の地やその近隣の谷貝も含まれていたことが考えられる。『和名抄』には全国でこの二つしか「イサ」という郷名があげられず、しかも細部の地名にも類似が認められるので、両地域を結ぶ氏族の存在が考えられる。その一つが伊達氏の先祖の伊佐氏であったとして、他にはなかったのだろうか。真壁郡山尾には山尾氏が在ったことは、『姓氏家系大辞典』小巻条に引く小巻清造家の所伝から知られる。この地の山尾山には、富士権現の祠があり、真壁の小富士といわれた。
  真壁町一帯は、平安後期には桓武平氏常陸大掾一族の真壁氏の本拠地であった。真壁氏は、太田亮博士のいう伊佐氏の祖・平為賢の兄為幹の子孫であり、その意味で、伊達氏の常陸大掾一族説は成り立ちそうでもある。「大掾系図」には為賢について、三守・伊佐・下妻・真壁元祖と註されており、三守は筑波郡水守郷の地で、伊佐は新治郡伊讃郷であり、下妻・真壁も同国にあって、四地は相去ること遠からずとして、太田博士は「為賢の裔は此の地方に栄えしを知るべし」と記す。さらに『新編常陸国誌補』を引いて、「伊佐氏は常陸大掾平維幹の二男為賢に出づ、為賢の子為宗、伊佐庄の地頭たり、伊佐二郎と称す。数世孫行朝、延元三年北畠親房を関城に迎へて、結城、佐竹等の賊と戦ふ」とあることを記している。

  しかし、平為賢の子孫に九州肥前の伊佐氏が出たことは確かでも、常陸の伊佐氏が出たとする系図は未だ管見に入っておらず、信頼し難いように思われる。もっと別の形で考えていくことができないだろうか。
  もともと真壁は真髪部(本来の白髪部が光仁天皇の御諱を避けて、延暦四年に改名)と書き、常陸国真壁郡は物部一族の大売布命(オホメフの命)の後裔、久自国造(常陸国久慈郡を領域とする国造)の一族白髪部(のち真髪部と改姓)が開発した地域であった。その隣の筑波郡には同族の大部造(おおとものみやつこ)が居住し、水守郷に住んで同郡の郡務を司っていた。この大部造氏から中央に出仕して、有道宿禰姓を賜った者も出た。常陸大掾氏の祖、平維幹の母は真髪部武元の女といわれ、この関係で平姓の常陸大掾一族が真壁郡や筑波郡へ勢力を伸ばしていき、水守・真壁・下妻・伊佐などの諸氏を出したものとみられるのである。

  こうして見ていくと、伊達氏が平姓ではなく、藤原姓を称したのは、やはりそれなりの事情があったのではなかろうか。つまり、伊達氏の先は在地古来の真髪部か有道宿禰ではないかという疑いである。有道宿禰氏の一族は、後年、武蔵国北部に繁衍して武蔵七党の一つ児玉党となり、右大臣藤原伊周の後裔と称して藤原姓を名乗っていた。
  これが、伊達氏の出自についての私の当初案であった。伊達氏初祖以来の家臣といわれ、伊達騒動の原田甲斐宗輔で名高い原田氏は、筑紫の人原田次郎藤原稙直の後裔と称したが(なお、源平争乱期の大宰少弐原田種直なら大蔵朝臣姓)、実際には『新編常陸国誌』にいう「原田・真髪部氏なり」の後裔ではないかとみられて、そのことも当初案の傍証となりそうである。しかし、伊達前史段階においては、伊達先祖の活動範囲が常陸のみならず下野・下総に広く及んでおり、これと活動範囲が重複する氏族が検討過程で浮上してきて、現段階では私としてはそちらに大きく傾いてきている。

  宇都宮一族八田氏との近縁性
  宇都宮氏は中世下野の大族であり、平安後期の宗円座主から慶長二年(1597)に宇都宮国綱が豊臣秀吉によって取り潰しにあうまでの期間、宇都宮社務職を廿二代相伝して下野国に大勢力を保ち、一族が多く、下野のほか豊前・伊予等にも繁衍した。その初期段階に分岐した有力支族に、頼朝に仕え常陸守護となった八田知家に始まる八田氏があり、子孫はのちに小田氏と号して常陸西部を領し常陸守護の任にあった。この八田氏と伊達氏との近縁性が、本稿検討過程で分かってきたのである。
  実のところ、宇都宮氏も系譜的には謎が多い大族である。一般に流布する系図では、粟田関白藤原道兼の後と称しており、「道兼―兼隆―兼房―兼仲」と続く流れのなかにおいて、その祖の宇都宮座主宗円を藤原兼仲の弟として位置付ける。しかし、この位置付けには大きな疑問があり、宗円の子の宗綱・宗房が中原とも称したり、その子孫が橘姓と称した例もあることからいって、道兼後裔説は仮冒であり、実際の出自は下毛野氏の一族ではないかともみられている。私としても、この指摘がおそらく妥当ではないかと思いつつも、その確信が得られないでいた。
 宗円の子の宗綱は、座主三郎とも八田下野権守とも号し、その子の朝綱は八田三郎、知家は八田四郎と号した。朝綱は『東鑑』に宇都宮左衛門尉朝綱とも左衛門尉藤原朝綱としても現れ、その子成綱(業綱)は宇都宮次郎業綱とみえるので、朝綱の代から宇都宮座主職に因んで宇都宮を名乗ったとみられる。八田は宇都宮に先立つ苗字であり、これが氏族発祥の地に由来するものではないかと考えられる。
  この「八田」の苗字の地は常陸国新治(真壁)郡八田邑であり、『和名抄』の新治郡博多郷にあたる地で、のち真壁郡羽方村となっている。下館市の東北部には八田、その南隣に羽方があるので、この辺りを中心とする一帯が博多郷であり、伊達氏関係の中館のある伊讃郷の東隣に位置した。羽方村の北には旧村社羽方神社があり、社伝によれば、大同三年(808)に鹿島神宮を分祀して創建したといわれる。宗円の子宗綱は『下野国志』によると、「母は益子権守紀の正隆女、下野常陸両国の内を兼領し、凡そ一万五千余町云々。宇都宮の社務、并びに日光山の別当職、応保二年(1162)壬午八月廿日寂、七十七」と記される。

  次に、山尾という地名は、常陸では真壁郡山尾村のほか、茨城郡宍戸庄にも山尾郷があった。後者の地は八田左衛門尉知家の子、宍戸四郎左衛門尉家政の所領であり、家政の曾孫に山尾(山野宇)五郎左衛門尉宗時が出て山尾氏が始まっている。宍戸氏の居城は宍戸家政が築いた宍戸城で、山尾城ともいい、西茨城郡友部町(現笠間市東部)の平町に城址がある。宍戸氏は八田氏のちに小田氏の最有力支庶家であり、鎌倉期では本宗家と並んで常陸守護をつとめた。
  真壁郡山尾は筑波山の北麓にあるが、筑波山の名神大社筑波神社の祭祀にも八田一族が関与している。八田知家の八男法眼明玄(俗名八郎為氏)は筑波国造の名跡を継いで筑波山別当に補せられ、その子の如仙以下、子孫は同職を受け継いだもので、「小田系図」には「小田家にも神家一流あり。是は筑波の祠官として、筑波別当大夫と号す」と記される。明玄を祖とする筑波氏は、筑波神の奉斎者および中禅寺(筑波町〔現つくば市筑波地区〕筑波にあり、もと筑波山寺という)の別当として、神人・衆徒を引率する勢力を保持した。鎌倉期の総社文書(文保二年〔1318〕の小田貞宗請文など)によると、筑波社領地頭が小田貞宗であり、筑波山が小田氏の支配下に置かれたことが知られる。
 同じ伊讃郷に関連して、伊達氏の先祖と八田氏とが結び付くことが知られる。この伊讃郷は、毛野一族の車持君との関連が考えられる。すなわち、真壁郡伊讃郷の付近に倉持村あり、よりて姓氏録・左京皇別の車持公条に「上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫射狭君の後なり」とあるのに照らし、此の地は車持氏の祖・射狭君の居住した地かという『常陸誌料郡郷考』を引いて、太田亮博士は、「果して然らば後世の伊佐氏とも関連する処あらん」と記している。「射狭=伊讃=伊佐」でともに「イサ」と訓まれる。
  これは大変注目すべき指摘であり、山尾の西南方六キロほどの地に真壁郡倉持村があり、いま真壁郡明野町倉持という。倉持の北部の林の中には、国史見在の雲井宮郷造神社が鎮座する。同社の氏子はもと真壁・筑波・新治の三郡に及んだといい、八田・小田氏の尊崇が厚かった。建久四年(1193)に小田城主八田知家が社殿・玉垣・神門を造営し、永正元年(1504)には小田成治が再建したと伝える。倉持の東方三キロほどには車という地名(筑波山西麓)、その北方には中村という地名(ともに旧真壁町の町域)も見られる。
  倉持に通じる「蔵持」という地名が下総国豊田郡(茨城県結城郡石下町〔現常総市〕蔵持)にある。『下総旧事考』には「本郡ニ蔵持村アリ。蔵持ハ車持ノ訛ナリ」と記し、蔵持集落西部の香取神社の棟札には「文明十五年、大旦那倉持慶俊」とあるので、この地に倉持氏が居住していたことが知られる。この蔵持村が注目されるのは、そのすぐ南の大生郷おおのごう。水海道市〔現常総市〕北部の大生郷)との関係であるが、それは後で触れることとして、大生郷の西南七キロほどの矢作村(岩井市〔現坂東市の南部〕の矢作)にも戦国期の竜見前城主として倉持氏がいた。城址の前の香取社本殿の文明十五年(1483)の棟札には大檀那として倉持氏・張谷氏が記してあったと伝えられる。

  大生郷の記事が見える梁川八幡神主菅野氏の系図では、その初期段階の五世代六人について、郡領大生天神神主ないしは類似の譜註がある。菅野氏は念西入道の老臣五人のうちにあげられる古くからの伊達家臣の家柄であった。
  ここでの「郡領」とは、伊達遠祖にあたる中村秀宗室たる女性の兄の清重が長兄の弘茂(菅野氏の祖)の後継として豊田郡領で大生天神神主となると記されるから、豊田郡の郡領と知られる。同系図では、菅野氏の祖を天穂日命後裔の「政道」という者としており、政道の譜註の文意は難解であるが、伊達氏の首祖を藤原政朝として、菅野祖の政道の子に位置付けているようであり、政朝は終に伊佐郷中村に居住したと記す。もともと伊達氏の祖が政朝とされていたのは、別の資料からも分かる。伊達氏系図のうち信頼性の高い『伊佐早文書』の伊達家譜では、「伊達先祖、山陰中納言政朝之子孫宗村公、文治五年初而伊達江(「郷」のこと)下着以来」と記される。
  大生郷の近隣には中村氏を名乗る人々も見え、矢作村の東隣の大崎村(岩井市大崎)の草分けの八家の一つに中村氏があげられる。大生郷の西方十数キロの地、一之谷村(いま猿島郡境町一ノ谷)の妙安寺の開基は成然房といい、親鸞の弟子であり、藤原氏(九条氏と言うが、これは疑問)の出で俗名中村行実(幸実・頼国)といったという。この成然房は年代等からいって、中村常陸入道念西の甥くらいだったのかもしれない。
  大生天神とはいま天満社といい、大生郷天満宮・菅原天満宮とも通称されて、大生郷町の南部に鎮座する旧村社である。その祭神は菅原道真といい、社伝によれば、道真の三子景行が延長七年(929)にその遺骨を現在地に遷祀したというが、この伝承はとても信頼できない。菅野氏が菅原姓といい天穂日命の子孫と称するのも、天満宮(本来の祭神は殆どが菅原道真ではない)の奉斎に由来したものとみられ、同様に信頼できないものである。『姓氏家系大辞典』の倉持条には、興味深い記事が見える。それによると、越後国蒲原郡の名族に倉持氏があり、宝暦七年(1757)加茂社発掘の経筒には「治承二年(1178)十月廿四日、倉持宗吉、菅原氏」と見えるということで、倉持氏が菅原姓を称していた例も知られる。
  こうして見ていくと、伊達氏の先の伊佐中村氏と宇都宮・八田氏とは、遠く遡ると同族同祖の関係にあって、実際には下毛野一族の車持君氏ないしは韓矢田部造氏から出自したものではないかとみられる。ともに藤原姓を称し、名前に宗や綱の字が多く見えるという共通点もあげられる。

  ここまでの認識があれば、また新しい資料に気がついてくる。それは、鈴木真年翁編の『諸氏本系帳』四(東大史料編纂所蔵)に所収の「仁杉系図」であり、仁杉氏は伊豆の伊東祐親(曽我兄弟の祖父)の子、伊東九郎祐清の後裔から出ている。同系図では、祐親の兄の伊東武者所祐継(工藤祐経の父)の註として、「母八田七郎藤宗基女」と記される。八田七郎藤宗基という者については、他書に見ないが、氏名からみて宇都宮座主宗円の一族ではないかと推される。これに、工藤祐経の外曾祖父という世代を考えれば、十二世紀前葉ごろの人で、宗円の兄弟くらいの位置にあったとみられる。宗円の子、八田宗綱より前に八田氏を名乗る者がおり、しかも藤原姓を称していたということの意味は大きいものと考えられる。
  「八田」という苗字ないし地名は、古代の矢田部・八田部という矢田皇女(八田皇女とも記される仁徳天皇皇后)の御名代に由来することが多い。常陸国には、八田部を二字化した八部郷が『和名抄』では河内・那珂・久慈の三郡にそれぞれ掲げられており、いま谷田部(古代の河内郡で、筑波郡谷田部町〔現つくば市〕の域)、八田(同・久慈郡で、那珂郡大宮町〔現常陸大宮市〕の域)がその遺称地となっている。しかも、両毛及び常陸地方の矢田部は毛野一族の韓矢田部造氏が管掌していたようであり、『姓氏録』摂津皇別には韓矢田部造に続けて同族の車持公の記事を掲げている。
  同書では、気長足比売(神功皇后)が筑紫橿冰宮にあったとき、海中の物を見に派遣された現古君(うつしこのきみ)が復奏の日に韓矢田部造姓を賜ったと記され、次の車持君には単に上毛野朝臣同祖で豊城入彦命の後としてしか記さない。この車持君氏も現古君の後裔であり、その曾孫射狭君が雄略天皇朝に賜姓した。車持君の末裔が八田を苗字としたことは、こうした経緯からみて自然なことと考えられる。韓矢田部造氏から出た車持君氏も、八田部を管掌ないし関与したことが考えられるのである。奥州磐前郡では蔵持村と矢田村とが近隣に位置しており(現在、いわき市鹿島町の上下蔵持・上下矢田)、これも車持と矢田部との近縁性を示唆しよう。

  車持君と辛矢田部君の東国分布
  車持君氏は、韓矢田部造氏と同族であり、毛野氏族の祖・荒田別命の子、現古命に始まる系譜をもつ。現古命の娘の若多気姫は下毛野君の祖・奈良別君の妻といい、その兄・武額乃君の孫に射狭君がおり、雄略天皇の御宇に乗輿を供進して車持君の姓を賜ったと『姓氏録』等に記される。射狭君の兄・迦波君の後が辛矢田部君氏であり、その子孫が摂津国島上郡野身里に居住し、天平十五年九月の「摂津職移」には辛矢田部君弓張の家族が見える。弓張の後裔は東成郡の郡領家を世襲して、中世には寺井と号し菅原姓を称した(『百家系図』巻59所載の「寺井系図」)。
  「射狭君」のイサは、真壁郡及び新治郡の伊讃郷や伊佐庄という地名につながるが、「迦波君」のカハもその近隣に地名等で現れる。すなわち、第一は明治の加波山事件で有名な茨城県の加波山であり、真壁郡真壁町(現桜川市)と新治郡八郷町(現石岡市西部)の境界にある標高709Mの山である。その山頂には加波山神社が鎮座して、いま祭神を国常立命というが、加波山は山尾や伊佐々の地を含んだ真壁郡伊讃郷のすぐ東北方で、筑波山の東北方十キロほどの地に位置している。
  カハの第二は、上野国群馬郡の式内社たる甲波宿祢神社(かはのすくね神社)であり、いま渋川市北部の川島に鎮座して速秋津日子神・速秋津比売神を祀っている。この祭神の速秋津日子神・速秋津比売神は、水戸(「みなと」で港・水門の意)の神とされており、本来の祭神たる迦波君の転訛(カハ→河か)であろうが、海神族から出た毛野氏族の奉斎神であったことにはちがいがない。鎮座地の群馬郡はもと車評・車馬郡とも書かれたように、車持君に因む地域であった。このように、車持君・辛矢田部君ともに、その始祖の名に因むを居住地・関係地をもち、しかも、ここでも両氏が近住していたことがわかる。
  車持君氏では、その子孫の国子君の娘・与志古媛は、大織冠藤原鎌足の室となって淡海公不比等の母となった。車持国子君の祖先の阿萬乃君は、磐余甕栗宮朝(清寧天皇朝)から磯城金刺宮朝(欽明天皇朝)まで主殿部として供奉したといい、その子孫は主殿寮の官人を世襲して中央にあった。与志古媛の兄・小錦下豊嶋も主殿寮に供奉して、天武天皇の白鳳十三年(684)には車持朝臣姓を賜っている。この豊嶋の後裔については、鈴木真年翁編の『百家系図』巻52に「小池系図」として掲げられ、主殿寮や摂津の在庁官人としてあったことが分かる。

  こうした系統から東国の車持君氏が何時どのように分岐したかは、「小池系図」からは知られない。おそらく、ごく初期に、阿萬乃君には前掲系図に見えない子か兄弟がいて、その子孫が両毛や常総に分布したものであろう。東国では、先に掲げた常陸国真壁郡・下総国豊田郡のほか、上総国長柄郡に車持郷があり、上野国群馬郡も車持部関係の居住地とみられる。とくに群馬西郡には車持大明神・車持若御子明神があるが、久留末(クルマ)と訓み、車馬郡とも書く群馬郡群馬郷の地名は車持部の居住により起こったもの、と太田亮博士は考える。『除目大成抄』には、天元四年(981)に武蔵権大掾正六位上車持宿禰守忠、安元二年(1176)に相模大目車持宿禰牛貞が見えており、これらは東国車持君の宿禰姓を賜ったものか、とも博士は指摘する。
  常陸の東北部、多珂郡には車村(いま北茨城市華川町車)があり、この地の車城が群馬城とも記されるので、やはり車持部に関係があったと考えられる。城跡内の八幡神社は車氏が城内の守護神としたという。この車氏は砥上氏ともいい、藤原南家二階堂氏流と称するが、疑問である。車氏は文明中滅ぼされて、岩城一族(古代石城国造の末裔)の好間三郎隆景に城主が代わったが、新城主の好間氏もまた車氏を名乗ったという。この後裔、車丹波の一族戸田定隆の子、隆久は車氏を称して仙台藩中にあったが、のち絶家した。多珂郡で近隣の大塚村に起った中世の大族に大塚氏があり、八田一族伊志良氏の庶流であったことに留意しておきたい。
  下野国足利郡に起って将軍足利尊氏を出した清和源氏足利氏の有力家臣に、倉持氏がいた。いま東北大学の所蔵となる「倉持文書」が残されており、それによると、倉持氏の本領は下野国足利庄の赤見駒庭郷にあったらしく、各地に散在する足利氏の所領を管理していた。とくに陸奥では加美郡の殼積郷・沼袋郷などの地頭代職をつとめており、倉持左衛門尉忠行が文永三年(1266)に足利家時(尊氏の祖父)から地頭代に補されて入部した。南北朝期にあっても同氏の地位に変化がなく、室町期に及んだことが知られる。殼積郷は宮城県加美郡宮崎町(現加美町)米泉で、その西隣の沼袋郷は同町沼ケ袋であり、米泉村の鎮守は八幡社、沼ケ袋村には鎮守の妙現社と熊野社がある。足利庄の赤見駒庭郷とは、佐野市西北部の赤見からその南方の足利市東端部の駒場にかけての地とされ、乾元二年(1303)の足利貞氏下文案では、倉持師経は同郷半分を安堵されている。

  伊達氏の初期からの家臣に只木氏がある。只木氏はのち但木と書き、先祖は只木伊賀守重信といって伊達念西に仕えた老臣五人の一人といい、念西が伊達郡に移った際、伊達郡徳江村(現伊達郡国見町徳江)に移った。その子孫は伊達氏の宿老をつとめ、伊達郡梁川亀岡八幡宮の応永年間(1394〜1428)の棟札には「大檀那藤原朝臣兵部少輔持宗、只木伊賀守橘顕行」と見える。只木氏は下野国足利郡只木村、いま足利市東端部の多田木に起ったといわれる。同氏は、橘姓で左大臣諸兄の後裔であって橘・圏内井字の家紋を用いるというものの、具体的な系図は知られず、その発祥地多田木は赤見駒庭郷の駒場のすぐ南に位置しており、伊達郡徳江村の氏神は三島明神ということも考えて、実際には、おそらく足利郡の倉持氏の同族ではなかろうか。
  これに関連して、初期の宇都宮一族で橘姓を名乗った例にも留意される。宇都宮朝綱の子、氏家五郎兵衛尉公頼について、栃木県塩谷町の佐貫石仏から発見された建保五年(1217)銘の銅版曼荼羅には、「下野国氏家郡讃岐郷」「右兵衛尉橘公頼」と記される。氏家氏の苗字の地は、『和名抄』の芳賀郡氏家郷(塩谷郡氏家町〔現さくら市〕氏家一帯)であり、氏家一族から出た者が南北朝期に斯波氏に属して奥羽に移り、大崎・最上氏の執事となっている。その子孫が仙台藩士に数家あるが、伊達一族の梁川氏の家臣にも氏家氏があり、伊達家との縁由が示唆される。陸奥紫波郡主斯波氏に仕え、その没落後は南部氏盛岡藩に仕えた氏家氏もあった。
  氏家公頼の子の高信は、河内郡中里村(河内郡上河内町〔現宇都宮市〕中里)に住んで中里筑後守を号し、延応元年(1239)宇都宮社務職に補された。その子孫は宇都宮社家として存続し、江戸期には神主等の社家であった。「宇都宮」とは下野国河内郡の名神大社二荒山神社のことで、その祭神は毛野の祖豊城入彦命・大己貴命・事代主命・建御名方命とされる。同社を奉斎した宇都宮一族が毛野一族末流とみられるのは自然である。なお、宇都宮氏の祖宗円の活動年代については、所伝では前九年の役に際して天喜元年(1053)とか康平三年(1060)に宇都宮下向というが、子孫の在世年代からいってこの所伝は疑問であり、『日光山歴代記』に「十一代座主宗圓、永久元年(1113)補任」と記されるほうが妥当である。宇都宮氏の有力家臣が芳賀(波賀)氏であり、宇都宮氏との間に相互に養嗣関係が見られる。

  伊達氏の奉斎した神社も興味深い。梁川の亀岡八幡宮は、鎌倉鶴岡八幡宮からの勧請ともいうが、実際には下野国芳賀郡にある亀岡八幡宮に由来するものとみられる。伊達氏の祖中村秀宗が下野守となって芳賀郡に移住したという伝承があることは、先に述べた。芳賀郡の亀岡八幡宮の宮司家には下毛野朝臣姓の東宮氏があったことが知られるが(鈴木真年著『苗字盡略解』)、東宮氏は下野清党芳賀氏の一族に出たという所伝もあり、これが本当なら、天武天皇の後で清原真人姓という芳賀氏の系譜は仮冒の可能性が大きい。
  亀岡八幡宮は芳賀郡益子町東北部の小宅(この地に芳賀一族小宅氏が起こる)に鎮座するが、近隣に芳賀富士(272M)や富士山という地名が見えることは興味深い。伊達氏が居住した梁川城(伊達郡梁川町〔現伊達市〕鶴岡)の本丸跡には、初代朝宗の勧請と伝える富士権現宮が鎮座しており、その天和三年(1683)六月五日の棟札には「朝宗公文治年中、於伊達郡、築城於鶴岡、称号久礼坪城」と記される。棟札には富士権現を再建した山田喜左衛門と神官菅野神尾大夫の名も見える。常陸の新治郡にも亀岡という地(西茨城郡岩瀬町〔現桜川市〕亀岡。下館市の伊佐城跡の東北約十五キロに位置)があり、その西方に富士権現社がある。富士神社という神社は茨城県にかなり多く見え、下館市では伊佐山の北隣小川(伊佐城跡の西南約5キロに位置)に旧村社(祭神木花開耶比当ス)があるほか、下妻市下木戸及び大串、筑波郡谷和原村箕輪、龍ヶ崎市八代町、東茨城郡小川町幡谷に同名の神社が鎮座し、那珂郡や鹿島郡にも分布している。

  芳賀郡と伊達・中村氏
 下野国芳賀郡には中村庄があり、この地には中村八幡宮があって、その南二町ばかりに中村氏が拠ったという古城跡(中村城跡で現遍照寺、方形の土塁・堀が残る) がある。その末流の中村玄角入道・同息小太郎が宇都宮旗下にあり、天文十三年(1544)に下館城主水谷正村のために滅ぼされて、中村庄十二郷を奪われ、その子の時長は米沢に走って伊達政宗の臣となったという(『水谷蟠龍記』など)。『下野国誌』の芳賀郡中村遍照寺条には「中村常陸介宗村の後孫日向入道玄角・天正十三年戦死、男小太郎時長・慶長二年歿」と記されている。八幡宮の所伝によると、文治の奥州合戦に赴く際、中村城主中村宗村は当社に武運を祈願したといい、建武より文明にかけて伊達行朝・宗遠・政宗らが社殿を修理したと伝える。これらの所伝では、朝宗についての言及がなく、伊達氏の初祖を宗村とみられそうなことに注目される。
  芳賀郡中村庄は、いま栃木県真岡市南西部の大字中の一帯であり、中村八幡宮や遍照寺は下館市中館の伊佐城址の僅か九キロという北方のごく近隣に位置している。中村の南隣には若旅村(いま真岡市若旅)があったが、入道念西の孫・経家(四郎為家の子)が居住したと「駿河伊達系図」に見える下野国若田部(一伝に「部」は「郷」に作る)は、この「わかたび」だったものと考えられる。太田亮博士は、『元亨釈書』等に釈勝道が姓若田部氏で下野芳賀郡の人であると記し、若田部氏について毛野氏族と考えている。
 「駿河伊達系図」では、念西の子の二郎為重に「下野国住中村領主」と註されるが、この註は本来弟の資綱に掛けられたものであろう。また、経家の近親に伊達中村小次郎家綱(飯坂氏の祖)も見え、この中村も下野の中村とみられる。中村庄の建武時の地頭としては常陸大掾一族の小栗重貞が見え、十五世紀中葉の小栗氏の滅亡により宇都宮氏・芳賀氏の支配に替わったが、こうしたなかでも、伊達為重ないしは経家の流れが戦国期まで続いたのかもしれない。
  以上のことから、伊達氏の祖が下野国芳賀郡にいたという所伝は、認めてよいのではなかろうか。

  仙台藩士には、先祖が下野国芳賀郡にいたという芳賀氏が数家ある。宇都宮家臣の芳賀氏は清原真人姓というが、仙台藩士の芳賀氏では清原姓・藤原姓・紀姓・源姓と姓氏がまちまちであり、こうした相違もその実際の出自を示唆する。これら芳賀氏は伊達氏先祖とともに奥州に来住したものであろうか。伊達氏累代の家臣という清原姓芳賀氏は、芳賀対馬忠綱を祖とし、その子因幡が伊達政宗に仕えた。栗原郡高清水の伊達家臣石母田家の家中にも芳賀氏があり、宮城郡の留守氏の年来の被官の筆頭も芳賀氏であった。このほか、はじめ会津の葦名氏に属し、のちに葛西氏に仕えて陸奥磐井郡等に居住した芳賀氏もあった。
  「ハガ」という地名は常陸国にもあり、『和名抄』に那賀郡芳賀郷と見え、東茨城郡常澄村(現水戸市)の栗崎(その鎮守を芳賀明神という)に比定される。また、信太郡に羽賀村(稲敷郡江戸崎町〔現稲敷市〕羽賀)があり、この地の羽賀彦三郎が小田氏の被官として、足利成氏と信太庄で戦っている。仙台藩士の芳賀氏のなかには、これと同系統のものもあったか。信太郡には屋代(八代)村もあり、この地も仙台藩士の屋代氏と関係があるのかもしれない。先祖の屋代閑盛が伊達尚宗の宿老となったという屋代氏は、藤原姓で置賜郡屋代庄に住んだというが、その子孫の勘解由兵衛景頼が伊達政宗の奉行を務めた。

  以上、伊達氏の遠祖について、多角度から見てきたが、資料が乏しく断定はできないものの、多くの関係者からみて、毛野氏族の出とみるのが比較的自然な模様である。

   (続く)

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