(「伊達一族とその起源」の3)


   四 伊達一族の諸氏

  伊達氏の諸国分布
  伊達氏は常陸・下野の伊佐・中村庄及び陸奥国伊達郡を中心に発展したが、中世の出雲・但馬・備中・伊勢・駿河等でも伊達氏一族の活動が見られる。これらの伊達諸家についてみてみよう。

(1)出雲・但馬   時綱(与一・修理亮)の子の修理亮朝綱に始まる系統であり、但馬国養父郡小佐郷に地頭職を相伝した。「雲但伊達系図」には朝綱の四世孫にあたる修理亮・次郎蔵人直綱(「朝綱−宗綱−貞綱−義綱−直綱」という形)まで掲げる。但馬国の弘安八年(1285)の太田文には同郷の二分方地頭として伊達五郎三郎(宗朝で、宗綱の弟のように系図に記すが、同人か)が見える。小佐郷の地は、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)の小佐川流域(上流の日畑から石原・小佐・九鹿・八鹿までの地域)であり、小佐には中村、その周辺に伊佐(いずれも八鹿町域)という地名も見える。
  南北朝内乱期には、伊達孫三郎入道道西(貞綱)とその兄弟宗幸・宗重は、千種忠顕に従って六波羅攻撃に参加し、次いで道西と養子の義綱(弥七宗助の子)は足利尊氏の但馬入部に呼応し、建武三年五月に二分方の地頭職を安堵されている。ところが、これが一族の立石入道法阿に宛行われたため、幕府引付方で相論となって解決せず、暦応二年(1339)には両者間で合戦となった。このとき、立石法阿は九鹿城(養父市八鹿町九鹿字城山)に拠り、伊達道西・義綱はその真向かいの山上に伊達城(九鹿字寺坂)を築いた。相論は道西らの勝訴となったようで、貞治元年(1362)には小佐郷内弐分両方地頭職が道西から子息直綱に譲与されている。しかし、その知行は長く続かず、至徳三年(1386)には当郷地頭職は将軍足利義満から京都南禅寺に寄進されている。
  この地の伊達氏の行方は、これ以上史料には見えない。これは、系が断絶したのではなく、但馬の近隣か陸奥の伊達郡に移遷した可能性もあるのではないか、と私は考えている。南北朝期の但馬の伊達氏の動向については、宿南保氏の『但馬の中世史』に詳しいが、同書では没落説を採っている。
  なお、一族の立石入道法阿の苗字の地・立石は、但馬国出石郡立石村(いま豊岡市域)ではなかろうか。
  〔詳しくは、 但馬伊達氏の系譜について をご覧下さい〕    

(2)備中  伊達陸奥守(義広か政綱かにあたる。年代的には前者か)の子の伊達弾正正義が将軍惟康親王に仕えて、備中国野山庄の地頭になり、同地に居住したが、その子孫は野山と称した(『岡山県史』等)。
  正義の子、河内守朝義は日蓮上人に帰依し、建治元年(1275)一説に弘安四年(1281)、野山に妙本寺(上房郡賀陽町〔現吉備中央町〕大字北)を建立し、その子孫は戦国末期まで続いたという。同寺はまた、伊佐大進為宗の子の玄蕃助為綱が叔母大進局の備中分所領を受け継いだという(『諸系譜』巻30、伊達)。野山氏は文明十五年(1483)に北村の古和田に野山城を築いて、戦国期には野山宮内少輔益友が居城して大内氏のち毛利氏に従ったが、その子清右衛門朝経のとき嫡流が断絶したという。江戸期には北村の庄屋は野山氏が務めた。
  野山伊達氏の庶流が哲多郡唐松村(現新見市唐松)にあり、その活動は文明十一年(1479)から見られて、室町幕府奉行人連署奉書(百合文書)が伊達蔵人助・同常陸介宛に出されている。『備中志』には上唐松村の甲籠城に伊達宗衡が拠ったとある。 これと相対して鬼山城があり、伊達一族の杉右衛門尉重国の築城と伝える。永正十二年(1515)に新見氏と多治部・三村連合軍が戦ったとき、唐松要害に拠った新見方の伊達遠江守父子のほか多数が討ち取られたという。天文(1532〜55)頃、唐松の伊達隼人は備中の大族庄氏の配下にあり、庄藤資の室は甲籠城主伊達常陸守の女であった。天正(1573〜92)の備中兵乱では、伊達氏は尼子方に属して戦った。唐松村真壁の仏性寺は、大永元年(1521)伊達四郎兵衛重興の開基と伝える。(以上、『岡山県の地名』等に拠る

(3)伊勢   『東鑑』建久二年(1191)正月条には、女房大進局に伊勢国の所領を与えるかという記事が見え、翌三年十二月条には「女房大進局、先日伊勢国三ケ山を拝領する事」と見える。「駿河伊達系図」にも大進局の註に伊勢三箇山領主とみえる。三箇山(みつこやま)庄とは、鈴鹿郡坂下村(関町〔現亀山市〕北部の坂下)の三子山の南麓一帯にあったとみられる荘園であり、大進局の後は頼朝との間の子・貞曉が領している。
  伊達氏と伊勢との関係は建久年間より早く、『東鑑』の文治三年(1187)四月廿九日条に、伊達一族の伊勢所領が記載される。すなわち、公卿勅使の伊勢神宮参向のさいの駅家雑事に勤仕したかどうかの記事には、勤仕した庄に荻野庄(一方は次官、一方は中村蔵人)など、勤仕しなかった庄には家城庄(地頭常陸六郎)、三ケ山(常陸三郎)、糸末名(中村蔵人)、吉行名(常陸太郎)、松高名(常陸太郎)などがあげられる。常陸太郎・同三郎・同六郎(あるいは太郎の誤記か)は大進局の兄弟で伊達念西入道の息子たちであるが、中村蔵人は不明である。
  大進局の兄弟・四郎左衛門尉為家の子の掃部助経家が、叔母大進局より伊勢山田の所領を継ぎ、その子の掃部助家光以下が相伝していき、その子孫は北畠国司に仕えたが、後に近江国へ移ったのもあるという(『諸系譜』巻30、伊達)。『勢州四家記』には浜田家侍大将として伊達氏が見える。

(4)駿河・遠江  「駿河伊達系図」によると、四郎左衛門蔵人為家の六世孫左近将監資宗、その女婿右近将監景宗が祖であり、景宗は足利尊氏方で合戦し、その功績で駿河国有度郡の入江之庄(静岡市東部の清水区域)の三沢小次郎の跡をもらい、代々知行したという。その後、景宗は今川範氏に、その子弥五郎範宗は今川泰範に仕えたが、子孫は遠州山名庄諸井郷を本領とした。範宗の五世孫与兵衛宗綱は越前松平家祖の秀康に仕え(「秀康卿給帳」には七百石伊達與兵衛と見える)、その子孫は忠直・光長・綱国の系統の松平氏(美作津山藩)に仕えて、明治に至った。この「駿河伊達系図」は、初期分岐の系統ということもあって、全体的に信頼性がかなり高い。資宗の養嗣景宗は為家の五世孫という事情もあって、系譜が混乱したのではないかとみられる。
  遠江国山名郡諸井郷(浅羽町〔現袋井市〕)の中世の領主伊達氏を見ると、天文十四年に伊達藤三郎が今川義元から、永禄五年には伊達与右衛門尉が今川氏真から同郷を安堵されている。伊達山城守景忠は今川氏ののち徳川家康に仕え、天正二年に高天神城で討死したが、子の與大夫景長の子孫は旗本として江戸幕臣にある(寛政系譜)。この一族の流れで、越前松平家や紀伊徳川家に仕える者も出て、明治の外相で伯爵となった陸奥宗光は紀伊家家臣伊達宗広の子である。また、佐野郡伊達方村(掛川市)慶雲寺には今川家臣の伊達縫殿介屋敷跡がある。
  貞治五年(1366)の文書によると、駿河国富士郡の須津荘今泉郷(富士市)の代官は伊達右近将監(景宗か)であり、その子孫は前掲の有度郡入江荘や富士郡神谷村(富士市)に居住した。伊豆国君沢郡中島村(三島市)には明治期まで三島神社の奉幣使を務めた伊達氏があり、これも駿遠の伊達一族か。

(5)武蔵・相模 小田原北条氏や岩槻太田氏に仕えた伊達氏があるが、四郎左衛門蔵人為家の孫、塚目太郎家政が武蔵国ツツ井(一にフツサ)に住んだことと関係があるのかもしれない。


  伊達支族の苗字
  伊達一族は伊達郡と伊佐・芳賀郡に住んで、その地名を苗字として名乗る支族をかなり多数分出した。そうした苗字をあげると、次の通りである。

  先ず、念西の諸子から出た初期分岐の苗字である。
伊佐  念西の長子皇后宮大進為宗が常陸国伊佐庄に住んで号したとされる。為宗の子とみられる伊佐大進太郎は、承久三年六月宇治川合戦に際し溺死している。伊達氏の系図では宇治川で死んだのは為宗本人とし、娘(北条一族佐介越後守時盛の妻)しかいなかったので、弟の為家を養子として家を相続させたと記される。しかし、為宗の子に玄蕃助為綱をあげ、叔母大進局から備中の領地を相続したとする系図もあり、為綱以降は「宗行−行方−時方」とつなげる。
  『東鑑』には文治五年〜承久三年条に伊佐三郎行政(後述)が見えており、名前の行も政も伊達一族によく見られる字であり、活動年代等からみて念西の弟ではなかろうか。北条氏の系図(『系図纂要』所載)には、北条義時の妻妾で有時(前掲の佐介時盛の従兄弟)を生んだ女性が伊佐二郎朝政女と見えており、北条氏研究会による「北条氏系図考証」(『吾妻鏡人名総覧』所収)では、伊佐二郎朝政は伊佐三郎行政の兄の可能性があると指摘している。これは、前掲する伊佐為宗の娘の婚姻からみても、妥当な指摘と考えられる。そうすると、伊佐氏には朝宗(また宗村、頼宗)、朝政、行政の順で兄弟がおり、朝宗の娘が源頼朝の妾となり、その従姉妹にあたる朝政の娘が頼朝の義弟・北条義時の妾となったことになる。

殖野  念西の次男為重は殖野次郎と号し、下野に住したという。この殖野を名乗る氏も、その苗字の地も不明であり、殖野も同訓の植野という地名も、伊達郡や真壁郡には見えない。しかし、植野村なら、下野の都賀郡(いま鹿沼市南上野町)、安蘇郡(いま佐野市植野町一帯)、上野の群馬郡にあったので、安蘇郡の植野とするのが妥当か。この安蘇郡植野は足利郡只木の付近であり、群馬郡植野なら車(車持)に通じる群馬ということに留意される。
  殖野氏の活動は、下野常陸から遠く離れた若狭国三方郡の前河荘(三方町〔現若狭町〕の北前川・南前川の一帯)に現れる。鎌倉前期の元久元年(1204)に島津一族の若狭忠季に同荘地頭職を返付され、子の忠時が相続したが、やがて罪を得て得替し、越後国の殖野大炊助為時が補任された。更に、子息胤時が相伝知行したが、建長年間(建長は1249〜56)に領家との相論が起って対問半年ののち、死去したので、猶子の有茂があとを継ぎ、これまた間もなく死んだため、地頭職は別氏に替わったとされる(蓬左文庫所蔵の「斉民要術裏文書」の若狭前河荘事書等)。この経緯から知られる殖野為時は、年代的に為重の子と推されるが、越後のどの地域にあったかについては、不明である。

塚目  四郎為家の子の為時は、伊達郡塚野目村(いま国見町塚野目)に住んで塚目二郎と号した。その子塚目太郎家政はのち武蔵国ツツ井に移ったという。塚野目村には八幡神社・鹿島神社などがあった。いま塚目という苗字は宮城県角田市に多く見え、伊具郡横倉村(角田市)の金屋屋敷には、江戸期に肝入役もつとめた塚目氏が居住した。

飯坂  念西の四男為家は信夫郡飯坂(福島市)に起こった飯坂氏の祖とされる。為家の四代小次郎政信(為家−塚目二郎為時−伊達中村小次郎家綱−家信、その弟政信)の代に飯坂を号したという。政信の後は、その子小次郎俊信(暦応三年死、年63)、その子小次郎近信……と続いた。
  戦国期の当主飯坂右近宗康には男子が無く、宗康の娘が伊達政宗の側室となったことで、政宗の子・権八郎宗清が飯坂の名跡を継いだが、宗清にも子がなく、その後も桑折氏などから次々に養嗣が入った。遂には、原田甲斐の事件に巻き込まれ、寛文中に飯坂家は断絶している。権八郎宗清は黒川郡吉岡(現黒川郡大和町)に住んで、吉岡八幡宮を建て黒川郡の総鎮守とした。また、飯坂重房の次男豊房は、応永の上杉禅秀の乱に功があり(伊達持宗に属して戦功ありともいう)、信夫郡余目庄の下飯坂・佐葉野等を与えられ、下飯坂氏を号した。

石田  為家の孫の明円は、文永・弘安年間、伊達郡石田村(同郡霊山町〔現伊達市〕石田)に住んで石田次郎と号した。明円(助僧都)は「駿河伊達系図」には為家の子とするが、年代や次郎という呼称からいって疑問であり、おそらく為家の子の経家の子か。仙台藩士にはこの後裔の石田氏が数家ある。下館市域には石田村(下館市〔現筑西市〕西石田)や飯田村(石田村の近隣で、いま同市飯田)があり、真壁郡にも倉持村の南に石田村(真壁郡明野町〔現筑西市〕東石田)があった。

矢部  為家の六世孫で室町初期頃の人に、矢部孫三郎と号した氏貞がいる。
氏貞の系譜については、父は蔵人五郎盛貞(忠経の孫で、経盛の子)、氏貞の子に三郎左衛門定朝と「駿河伊達系図」に見えている。
 この苗字の発祥地は伊佐中村の谷部村(下館市〔現筑西市〕谷部)であろうか。谷部村は中館村の北西に位置し、「やべ」と同訓である。なお、福島市域には、飯坂の南、松川の北岸に谷目とも矢目とも書く地(いま福島市北矢目・南矢目一帯。目は部の転訛か)があり、為家の系統が飯坂辺りにあったことを考えると、実際にはこの地名が常陸から移されてこの地に起こったのが矢部氏かと考えられる。先に、古代の矢田部・八田部が八田・谷田部という地名につながることを記したが、谷部・矢部も同様と考えられる。

  なお、岩代の岩瀬郡狸森(現須賀川市東南部)に豪族矢部氏がいたので、付言しておく。南北朝期の二階堂時藤入道道存の家人に矢部又二郎がいたことは白川文書に見え、『伊達勤王事歴』には延元四年(1339)九月に矢部又治郎が見えている。その系は戦国期の頃、「矢部主税祐−越前守−伊勢守常貞(弟に貞武・貞徳)−下野守盛貞」と見えて、矢部下野守のとき、天正十六年(1588)に伊達氏のために滅ぼされたという。居城の木船城は源正義(矢部下野守)が築いたと伝える(以上は『姓氏家系大辞典』の記述による)。
  この岩瀬の矢部氏については素性が不明であり、上掲の系譜も疑わしいといわれるが、源姓と通字等からみて、なんらかの形で伊達一族に関係した可能性はなかったろうか。上掲正義はおそらく矢部氏初祖の法名であろうし、伊達氏が源姓も称したことも前述した。狸森の西北十数キロの越久(現須賀川市北西部)の地にも矢部豊前がおり、須賀川二階堂氏の家臣であったが、のち二階堂氏に背いて天正十七年十月の伊達政宗による須賀川城攻めには与力して、越久の地を安堵されている。

得江・徳江  塚野目村の東隣徳江村(国見町〔現伊達市〕徳江)には、建武ごろ伊達得江三郎蔵人頼景が住み、元弘の乱の功績により岩崎郡の徳宿肥前権守の所領を与えられている(建武二年九月六日付け陸奥国宣、岡本元朝家蔵文書)。天文五年六月には、徳江次郎左衛門は伊達稙宗により伊達領内の寺社領の霞についての取り仕切りを許されている(「伊達稙宗証状写」伊達家文書)。仙台藩士には、伊達政宗に召し出された徳江蔵人を祖とする徳江氏のほか、伊達郡徳江に由来する徳江氏が数家ある。いま徳江という苗字は栗原郡高清水町に多いという。徳江氏には源姓で市大夫高次を祖とする藩士もいる。この徳江氏の分岐過程は不明である。

伊達崎・田手  念西の子の六郎実綱は、伊達郡伊達崎に住んで伊達崎と号した。その子孫は田手といい、田手式部宗光は伊達晴宗の代に伊具郡角田城に移り、伊具西根総成敗に任じられた。宗光は輝宗治世のとき秘かに相馬氏に通じて叛を企てたが、その子宗時は輝宗に奉仕したことで家格が一家から一族に下げられるに止まった。宗時の孫高実の跡は、藩主伊達忠宗の八男肥前守宗房が継いで一門に列され伊達姓を許された。宗房の子の助三郎村房は、元禄年間に藩主伊達綱村の嗣となって本家を継ぎ、吉村と名乗った。

寺本〔寺木か〕  念西の子の九郎為保は、寺本蔵人大夫と号したと系図に見える。寺本の苗字の地は不明であり、常陸・下野及び伊達郡周辺には寺本という地名は管見に入っていない。あるいは、芳賀郡中村の遍照寺の付近の寺内に通じるものか。
  但馬伊達氏の系統が世襲する但馬国小佐郷の地頭職について、承久三年(1221)に為安から妻の尼常陸局に譲られており(承久三年八月二五日付の関東下知状、『鎌倉遺文』2812)、それが尼の娘伊達尼(従兄の伊達修理亮時綱の妻で法名妙法)を通じて孫の五郎七郎資朝及び阿波孫五郎(ともに朝綱の子)に伝えられている。この本来の所有者為安は寺本蔵人大夫為保に比定できると松浦丹次郎氏が記述しており、妥当な見解であろう。そうすると、寺本は但馬の地名かとも考えられ、小佐郷の近隣には「寺木」の地名を名乗る日下部一族もあるので、おそらく伊達一族のほうも寺木の誤記ではなかろうか。

舟生  伊達氏の第十二世成宗の宿老に舟生氏があり、第九世政宗の時の船生道蝸斎の後かとみられているが、伊達郡舟生村(船生郷・ふねをの郷とも文書に見え、いま梁川町〔現伊達市〕北部の舟生)に起こった伊達一族とみられる。その具体的な系譜は不明であるが、南北朝初期の伊達行朝の書状に、一族修理亮七郎ためかず(為員か)の娘が相伝の舟生村に所領を持っていると主張したことが見える。舟生村には雲但伊達氏の貞綱が元弘三年(1333)八月に安堵を受けた田在家もあり、修理亮という官名は時綱以来、この系統に頻出するものであることから、前掲の「ためかず」もその一族で、雲但伊達系図の助七郎為氏と同人か近親ではないかとみられる。
  舟生氏は、稙宗のとき享禄元年(1528)に、舟生右馬助の妻に判書を賜って舟生伊豆守より買った地所・下長井荘白兎郷内戸隠在家を永代安堵されているが、江戸期には亡じている。

  次に、伊達本宗からの分かれであるが、初期の本宗系譜に混乱多いことから、そのころ分岐した苗字については、分岐過程は判明しがたいものもある。
粟野  伊達郡粟野(梁川町〔現伊達市〕粟野)に桑折高館を築いて住んだ義広は、粟野次郎と号した。その子とみられる刑部丞粟野新三郎資国については先に多少述べたが、資国は伊達郡・信夫郡のうちに所領を持っていた。その四代藤三郎重直のとき南北朝期にあたり、北朝足利方に属して名取郡に二千貫余の地を賜り従五位下駿河守に叙せられ、康永二年(1343)名取郡根岸城(仙台市)に移った。その五代後の大膳亮忠重の寛正年間(1460〜66)には北目城(仙台市郡山五丁目)に移り、その子駿河守定国のとき文明中に伊達成宗と戦って降り、外臣として名取郡北方三十三郷一円を領した。以降、高国―長国―宗国(重国)と続いて秀吉の奥州仕置により没落し伊達氏の家臣となった。
  これと同系統の粟野氏が数家、伊達藩士にあるほか、宮城郡の留守氏の臣にも見えるが、みな同族であろう。名前には重・国を用いる者が多く見られ、北目の粟野氏は諏訪神社を再建した。また、出羽国置玉郡粟野に居た粟野氏も、宮内の熊野権現鰐口銘に「藤原朝臣粟野美濃守政国、明応十戊午(1501)…」と見えるから、やはり同族であろう。

飯田・半田  義広の子とみられる資光(一説に資綱の子)は藤原為光の子となり、伊達郡飯田村(同郡霊山町〔現伊達市〕中川)に住んで飯田(また半田)右兵衛と号し、建長年間(1249〜56)に伊達・信夫両郡の目代となった。その子修理資治は同職で惟康親王に仕え、その子左馬助資清のとき元弘・建武を迎えた。また、次掲の桑折氏の後で飯田(南半田)紀伊守宗親に始まる飯田氏が仙台藩士にある。宗親は桑折景長の子で、天文の乱の際には父に従わず稙宗に奉仕した。

桑折  伊達郡桑折村(いま桑折町本町一帯)に起った一族で、その祖は一般に伊達義広の長子親長とみられている。『東鑑』には正嘉元年(1257)十月の将軍宗尊親王の大慈寺供養に参加した者の中に伊達左衛門蔵人親長が見えており、その四年後の弘長元年(1261)二月条仁王会に見える伊達右衛門蔵人も同人であろう。
  永仁五年(1297)九月の関東下知状には、伊達郡内桑折郷田在家とみえ、桑折心円(親長の子の政長か)の息女藤原氏女が田在家を兄時長に押領されたと訴えたが、結局時長は相論の対象となった同郷の土地を安堵されている。南北朝期になると、桑折氏は惣領の伊達行朝から離れて北朝方に転じ、正平元年(1346)には奥州管領吉良貞家に属して、翌年八月陸奥南朝の牙城霊山城を攻め落としている。のち桑折郷を安堵された伊達長門入道がおり、長門権守に任じた桑折政長か北畠顕家に仕えたという康長かとみられている。
  桑折景長は天文十一年(1543)稙宗の三男時宗丸が越後上杉氏に入嗣しようとするのを、中野宗時と謀って阻止し、天文の伊達家内乱を起こした。次に、桑折播磨守貞長は奥州探題伊達晴宗のもとで、牧野弾正忠久仲とともに奥州守護代に任命され、その子宗長は輝宗・政宗に仕えた重臣であり政宗の摺上原合戦で働いている。宗長の子の政長は朝鮮戦役で釜山で死んだため、宗長女婿の石母田景頼は桑折を号した。仙台藩士には藤原姓で、桑折豊後綱長を祖とする桑折氏がある。
  桑折氏はその出自に異説があり、『伊達世臣系譜』では祖を義広の子の孫五郎政長とし、その子六郎宗康は奥州安藤氏の乱に功あり、その子下野守康長は北畠顕家と同じく関東を攻めて功ありと記す。一方、『伊達世臣譜略』では所伝に第四世政依君の庶流とし、先祖は孫五郎政長でその子が左近将監某とし、いま按ずるにとして、『東鑑』に見える伊達左衛門蔵人親長を第三世義広の長男で政依君の庶兄とみて、前掲文書に見える心円を親長入道で政長の父かと記す。この辺はいろいろ混乱が見られることに留意しておきたい。

八幡  伊達本宗に代わり八幡宮に代参した八幡氏は、中村常陸入道宗村の子の八幡太郎義宗を祖とすると伝える。義宗の後裔の紀伊守宗永は、伊達尚宗のときにはまだ幼少だったので、小梁川家が代参したといい、その後に養嗣が入ったものの断絶した。義宗が宗村の子とするのは疑問で、おそらく義広の近親で、太郎親長と同人ではなかろうか。

瀬上  伊達宗綱の三男(一説に宗綱の子の基宗の次子ともいうが、年代的に宗綱の子でよかろう)の五郎行綱は、嘉元年間(1303〜06)に将軍久明親王に仕えて、信夫郡瀬上村(福島市瀬上町)を与えられ、瀬上と号した。その跡は行康―宗康―康清―宗清…と続き、宗清から七代目の瀬上景康は輝宗・政宗に仕えて相馬・岩城氏と戦っている。その子孫は仙台藩士にあって家格は一家で磐井郡涌津を領した。

  これ以降は室町期に分かれた苗字である。
伊佐岡  伊達行朝の子の宮内太郎行員が初め常陸の伊佐城にあって、その子孫が伊佐岡と号したことは、先に述べた。

大条  伊達宗遠の子の孫三郎宗行は、伊達郡東大条(梁川町〔現伊達市〕東大枝)村の袖ケ崎城に住んで大条(大枝)を号した。その跡は内記宗景―掃部宗元―三郎宗澄―左馬助宗助と続いて、その跡は留守景宗の子が継いで左衛門尉宗家といい、伊達晴宗に仕えた。この系統が仙台藩士に数家ある。

小梁川  伊達持宗の三男中務少輔盛宗を祖としており、盛宗は伊達郡東根小梁川村(梁川町〔現伊達市〕小梁川)に住んで号し、その子尾張親朝・信濃宗朝兄弟の子孫は仙台藩士にあるが、信濃宗朝の後は 古田 を名乗った。小梁川親朝は永正十一年(1514)最上氏の兵と出羽村山郡で戦って大勝し、長谷堂城を占拠した。その子親宗は天文の乱に際して晴宗に奉仕しており、永禄五年(1562)には中野宗時とともに上洛し、その際に北条氏康にも謁見している。この親宗のころから屋代高畠城に居住しており、親宗の子・盛宗は元亀元年四月、中野宗時一党が相馬に逃走するとき、これを妨げなかったとして叱責を受けている。
  なお、盛宗の長兄義宗は伊達郡掛田(霊山町〔現伊達市〕掛田)の城主で源姓という 懸田 播磨守詮宗の養嗣となり懸田兵庫頭といったが、この子孫は天文年間の俊宗の子の義宗のとき、伊達晴宗に反乱して滅亡した。掛田村の村社は亀岡神社であった。俊宗の次男藤田七郎晴親は相馬郡に走り、黒木城に拠った黒木胤乗は晴親の嫡子を養子として 黒木 中務宗元といったが、弟堀内四郎宗知とともにまた伊達輝宗に帰属して仙台藩士にある。晴親が継いだ 藤田 氏は、伊達家累世一家の臣であり、伊達郡藤田村(国見町〔現伊達市〕藤田)に因む苗字で、伊達一族とも大江姓、利仁流藤原氏ともいう。晴親の子藤田宗俊のとき政宗に仕えた。

梁川  伊達稙宗の子の左衛門宗清が、天文廿二年に伊達郡梁川の梁川城(梁川町〔現伊達市〕鶴岡・桜岳)に居して梁川氏を称するが、天正の奥州仕置により政宗は岩出山に移り、宗清も当城を離れた。
岡村 伊達稙宗の子の晴三郎(法名宗栄)が伊達郡岡村の行者極楽院の養嗣となったが、十七世紀後葉の延宝中にその裔孫が仙台藩に召し出され、岡村氏と称した。
杉目  伊達晴宗の子の宮内直宗が杉目(信夫郡杉妻村で、いま福島市杉妻町)に居して号するが、また伊達ともいう。

大立目  出自不明であるが、伊達郡大立目村(保原町〔現伊達市〕大立目)に起こった氏である。永禄二年(1559)に紀州熊野に参詣して、このとき熊野本宮別当が出した証判に「奥州伊達一族大立目下野守朝安当家累世一族臣なり」と記される。仙台藩士には、一族に列してその第一座を占めた家のほか、この系統の大立目氏が数家あり、藤原姓という。苗字の地、大立目村には八幡宮・薬師堂がある。 

内谷  観応三年(1352)十一月四日の奥州管領吉良貞家施行状には、陸奥の加美郡の地に関して伊達内谷民部少輔が見える。内谷氏は、伊達郡内谷村(国見町〔現伊達市〕内谷)を苗字の地としたが、これも具体的な出自が不明である。伊達稙宗治世下の天文四年(1535)中野など宿老級の下にあって行政をした家臣のなかに内谷氏が見える。

  以上が伊達一族から出た諸氏であるが、本宗なども含め、その奉斎した神社が八幡宮のほかは富士神社・諏訪神社など、主にいわゆる海神族系(出雲系)の氏族により奉斎された神々であったことに留意される。


 (以下に、「五 伊達氏の家臣諸氏」についての検討が続くが、すでに論考が長くなったので、ここでは元の原稿の要点だけをあげておくことにしたい

  伊達氏の初期段階からの家臣諸氏
  伊達氏の出自と関連して、その初期段階からの家臣を見ていこう。『伊佐早文書』所収の「伊達家譜」では、初代の常陸入道念西の時代の宿老として伊波野・堀越・菅・只木・原田・赤間・泉・阿弥・葦田とあげている。また、『伊達世臣家譜』所収の「但木家譜」には、念西に仕えた老臣五人として伊波野・堀越・菅野・原田・但木をあげている。菅は菅野と同じであり、只木・原田についても先に記述したので、ここではそれ以外の諸氏のうち、「泉」の一部に関して菅原姓伊佐氏についてのみ記述することとする。
  なお、伊達氏の家臣団統制にあっては、実際の一族も組み込んだ一門・一家・一族・着座などという班席が定められ、有効に機能したといわれるが、もともとの伊達本宗との嫡庶・血縁関係を示した語が当主との親近性・奉公・婚姻などの深甚により秩序化されたのでる。

 泉氏については不明であるが、戦国期の伊達家臣に名取郡岩沼城主泉田伊豆守(伊達晴宗に仕えて名取郡堀内・長岡等を給与される)があり、この泉田氏が泉にあたるものか。前述したが、伊達郡には泉田村(国見町〔現伊達市〕泉田)という地名があり、同地には貴船神社がある。

  泉田伊豆守の子孫は仙台藩の重臣で一家に列しており、藤原姓で、伊達輝宗に仕えた泉田式部景時を祖とする。その次男助太郎重光(中務大輔、安芸守)は政宗に仕えて文禄四年(1595)の重臣連名のなかに見え、居城を磐井郡東山薄衣村(岩手県東磐井郡川崎村〔現一関市〕)に移した。その子孫は亘理・西大条・中島などの諸家と養子関係が見られる。
  この伊達家の累世一家の臣という泉田氏の家伝によると、文治五年(1189)の奥州平定の功績で河内五郡二保を賜った河内四頭の一氏に泉田氏があり、泉田(いま宮城県黒川郡大郷町不来内字泉田)の地に拠ったので泉田と号したが、建武の後、大崎家の客となった。この分かれが伊達氏の家臣であると伝える。泉田の地は黒川郡川内の北方近隣に位置し、鎌倉期では菅原姓の伊佐氏が領していたことが知られる。先に、伊達同族とみられる菅原姓の菅野氏や菅原姓の車持氏について述べたが、泉田村の伊佐氏は初期に分かれた伊達一族ではないかと考えられる。下館市域の中館村の近隣には泉村(下館市〔現筑西市〕泉)という地名があり、中世には伊佐城の支城上館が置かれたという。
  田代文書によると、承元二年(1208)四月十三日付けの菅原某譲状では十郎政光に地頭職が相伝され、嘉禎元年(1235)十二月二日の菅原政光譲状では大谷保内三宅郷(現黒川郡大郷町味明あたり)の地頭職が子の土用鳩丸(有信)に与えられた。さらに、弘長元年(1261)五月廿九日の菅原有政相伝状では、三宅村の一部が有信の弟有政(伊佐八郎)に渡された。その後、正応四年(1291)有信の子の信行と幸信が宮家村地頭職をめぐり相論して、弟幸信が勝訴したが、永仁三年(1295)の菅原幸信譲状によると、幸信に子がなく乳兄弟の田代普賢丸(和泉国大鳥庄地頭の田代顕綱)に相伝したとある。泉田村のほうは、弘長元年(1261)・文永元年(1264)・建治二年(1276)の文書で、菅原有政の所領が認められる。『東鑑』暦仁元年(1237)二月十七日条には、将軍藤原頼経の入京に際しての随兵として伊佐四郎蔵人と泉田兵衛尉や伊達八郎太郎・中村縫殿助太郎・伊達判官代が見えており、先の両者は近親であろう。
  こうして見ていき命名法も併せ考えると、黒川郡の伊佐・泉田氏は、先に常陸入道念西の近親と考えた伊佐三郎行政の子孫ではないかとみられる。『東鑑』では、伊佐三郎行政は文治五年六月から建久六年(1195)三月まで四回見え、そこから大きく飛んで承久三年(1221)六月の宇治川合戦に見える。最後の記述は年代的に若干の疑義があるが、前掲の菅原某とは伊佐氏の三郎行政のことで、常陸入道念西の弟に当たる者ではないかと、私は考えている。

  以上、伊達氏に長期間、臣属してきたと伝える諸氏も見てきたが、ここで取り上げなかった諸氏のなかには、伊達氏から早くに分かれた同族ではないかとみられるものも、かなりあった。そうした同族諸氏が藤原姓ばかりでなく、菅原姓や橘姓あるいは源姓(八幡神奉斎に由来か)までも名乗っていたことに気がつく。八幡神を奉斎する氏に藤原姓は疑問であり、こうした事情も、伊達一族が実際にはこれら諸姓とは別系統だったことを示唆する。

 伊達氏についての一応のまとめ
  奥州伊達郡の「伊達」という地名は、この地域に先住した丈部一族がその遠祖神たる伊達神、すなわち五十猛神(八幡大神の実体)の名を付けたものである。丈部と並んで、上古からの奥羽の開拓氏族として吉弥侯部があったが、吉弥侯部の同族毛野氏族から出たとみられる伊佐・中村氏(のちの伊達氏)が鎌倉期初頭の戦功により伊達郡に進出し、遂には奥州第一の勢力となって江戸時代の仙台藩主伊達家につながっていく。このような概略が、塩竈神社祠官諸家の系譜検討等や本稿作成を通じて得た現段階での結論である。

  伊達氏研究にかかってから、中世の系図書『尊卑分脈』を様々な角度から見直す機会を得た。南北朝期まで記載される同書の内容は、随所に仮冒系図が付加されているものの、基本的には相当信頼性が高いことが認識され、それとともに、同書に記載のない伊達氏が藤原氏出自ではありえないと、改めて認識したものである。伊達氏及び家臣団については鎌倉期の資料が乏しいので、その検討には限界があるが、この辺りでひとまず本稿を終えることとしたい。本稿を叩き台にして議論が展開することを希望する次第でもある。

 (本稿は、平成8年7月15日に一応完成して、その後適宜補正したものである

 (02.12.30 掲上。07.9.8地名補正を主に追補)



 但馬の伊達氏については、別途検討し、それを中心に応答もされているので、次の頁をご覧下さい。
 
       但馬伊達氏の系譜について


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