三好長慶の先祖

            −阿波三好氏の系図疑惑について−

                                宝賀 寿男

      

  歴史学界においては、総じて系譜研究に対する意識が弱いうえに、十分な研究や検討をしないまま、在野の研究者だったということなどの事情で、明治の系図研究家の鈴木真年や中田憲信に対する不信感が根強い模様である。これは研究者の姿勢として問題が大きいと考えられる。その意味もあって、本稿は、阿波の三好氏の系譜仮冒の可能性を取り上げたものであるが、裁判官を本職とした中田憲信の系図収集活動の一端を窺わせるものとして、読んでいただければ、幸いである。

  本稿は、『旅とルーツ』誌の第81号〜第83号(01/5、01/12、02/5)に掲載されたものであるが、ここに掲上するにあたり、本文・註とも少し省略・補正した部分がある。詳しくは、上記誌を併せてご覧いただきたい。


   はじめに

  戦国時代を通じて、京を含む畿内と阿波を舞台に大活躍をしたのが、三好長慶を代表とする三好一族であった。その活動や出自・系図等についての説明は、多くの関係書を見ても、ほぼ同じである。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。
  私はこの三十年間ほど、古代・中世にわたる各種の系譜関係資料を検討してきたが、清和源氏の出という名門武家諸流に対しては、総じて興味・研究の対象外としていた。それは、検討の余地が比較的少ないのではないかと、当初、思い込んでいたからである。そのため、かって三好氏の系図についても多少見てきたものの、具体的に検討を加えることは殆どなかった。
  ところが、わが国の姓氏・苗字の概観的な整理をかなり徹底して続けているうちに、清和源氏という出自を疑ったことのなかった阿波の三好氏について、各書の記述から疑問を示唆する系図に遭遇した。少し調べてみると、三好一族の系図には異伝が多すぎるのである。これほど系図に異伝がある一族は管見に入っていないくらいで、それほど多いということである。
 そこで、三好氏についての各種関係文献にあたってみたところ、更にいくつか問題点が浮上してきたが、関係する資料や諸説等も検討のうえ、これらに対して一応の結論を得たので、本稿としてとりまとめたものである。

  
 1 三好氏への問題意識と関係資料

   三好一族の概要と問題点

  一般になされている説明とは、次のようなものである。
  三好氏は、清和源氏から出た小笠原氏の後裔であり、小笠原長清が承久の変で功あって阿波国守護となり、子孫は鎌倉期には同職を世襲して、南北朝の内乱期になって初めは南朝方で活動したが、阿波守護となった細川氏に降服、三好郡に定住土着して、地名により三好氏を名乗った。以降、阿波細川氏のもとで守護代として勢力を貯えていき、応仁の乱の頃より京・堺など畿内でも活動を現した。三好氏の歴史は三好義長以降から始まるとされており、その歴代は京を舞台に権力奪取のシーソーゲームを何度か繰り返しながら、次第に主家の細川氏を圧倒していき、細川宗家及び阿波・淡路の細川氏を追放・殺害して、三好長慶のときには室町幕府最大の実力者となった。しかし、そうした栄えも長続きせず、長慶の嫡子義興の毒殺、長慶の病死の頃から家臣の松永久秀に実権を奪われ、天正元年(1573)には遂に織田信長により三好宗家が滅ぼされた。

  三好氏についての検討に際して主な問題点として、とりあえず掲げられるのは、
(1) 三好氏は実際に鎌倉期の阿波守護小笠原氏の子孫か。かりに、そうでない場合は、その出自は何であったか。
(2) 義長以降の三好氏歴代の系図関係については、かなり確定的に記載されることが多いが、一般に記されるものでよいのか。なかでも、@義長と之長との関係は祖父・孫でよいのか、A之長の父たる三好式部少輔の実名は何であったか、B長秀と元長との関係は父・子でよいのか、という個別の問題点がある。
  このうち、出自問題((1)のこと)が最も大きいが、以下、具体的に検討を加えていくことにしたい。いくつか関係の書を見ただけでも、阿波の小笠原・三好氏関係の記述には、その系譜・所伝の信頼性について、多くの研究者の思込み・先入観が強すぎるように感じられる。一般論としていえば、中世諸武家・豪族の系譜や所伝は、足利一門など一部の清和源氏といったよほどの名家を除いて、それほど信頼できるものではないのである。


   「芥川系図」の意味するもの

  私に具体的な問題点を示唆した系図とは、「芥川系図」(国立国会図書館所蔵の『諸系譜』第五冊に所収)である。それを所収する『諸系譜』はもと六十五冊から成る大部の系図集であり、いまは三十三冊に合冊されているが、主として明治の系譜研究家で判事であった中田憲信の手による編纂と解される*1
  『諸系譜』には、憲信の研究同志たる鈴木真年翁の収集・自書したと思われる系図も収められているが、大審院長児島惟謙(大阪控訴裁判所時代の憲信の上司)など明治の法曹界関係者の家に伝わる系図もかなり多く所載されており、これら系図は判事の中田憲信が職場内で自ら採集したものとみられる。本稿で取り上げる「芥川系図」も同様に、憲信自身の手によって採集されたことがわかる。というのは、同系図には、収集の経緯を示唆する書込があるからである。
  それによると、この系図は甲府県士族芥川圭蔵(元明)家に伝えられたものであり、採集時に芥川元明は、甲府地裁所長であった中田憲信(所長任期が明治25年10月〜29年5月)の部下で、甲府地裁の事務局官員(会計主務官、書記監督)であったことが、明治期の『職員録』『官報』から知られる。芥川系図の記述は、貞純親王から始まって芥川元明の子女(六人のうちの末子が明治23年9月の誕生)の世代まで及んでおり、元明自身については、明治24年12月に会計主務官に任命されたのが最後の日付となっているから、その時点後の遠からぬ時期に謄写されたものとみられる。

  この明治の時点で、永い眠りから一旦目覚めた同系図は、その後、その重要な価値を認識されないまま、また中田憲信の編著作集の中に眠っていた状態であった、ともいえそうである。私自身も、昭和六十年代前半に二回ほどこの系図に出会いながら、今日まできていた。同系図の大きな特徴は、三好氏の初期段階の人々についてかなり詳しい記述(それが正しいかどうかは、もちろん要検討であるが)がなされていることであり、三好氏の系図の原型探索にあたり重要な役割を果たすものと考えられる。
 以下の本稿では、この「芥川系図」等を踏まえながら、三好氏の系図を様々な角度から検討していくこととしたい。


   発生段階の三好氏

  三好氏の始祖としては、室町前期の義長という人物が一般に考えられている。すなわち、義長は京小笠原氏の出で淡路守長興の子であったが、初めて阿波国三好郡に下り、当地在住の外祖父小笠原長隆の嗣子となって在名に因み、三好氏を名乗ったと伝えられており、この所伝に拠るものが一般的な見方のようで、江戸前期以来、こうした趣旨の系譜所伝が広く諸書に記載されている。

  一方、確実な文献による三好氏の初出は、これよりかなり遅い寛正六年(1465)のことであり、阿波守護細川成之奉行人の奉書(『阿波国徴古雑抄』、以下は単に『徴古雑抄』と記す)の宛先で、阿波三郡風呂銭の徴収を命じられている三好式部少輔とされている。その七年後の文明四年(1472)には、同じ三好式部少輔が阿波三郡諸領主に対して犬神を使う輩を探索し処罰するように、守護細川氏から命じられている文書がある。この頃、三好氏は細川氏の守護代としての地位にあったようで、阿波西部にかなりの勢力を有していたことが知られる。この「三好式部少輔」は義長の子ないし孫ではないかとみられている。式部少輔の先代に当たる人物として、文正元年(1466)六月の東寺関係文書に故三好入道の名が見えており、阿波の東条(那賀郡)、故三好・片穂・逸見(以上は三好郡)らの武家が東寺知行所の段銭を出さないとして、強硬に抗議されている。
  ところが、代表的な三好氏の系図である群書類従所載の『三好系図』や『諸家系図纂』などでは、義長の没年が至徳三年(1386)と記されているので、その子孫の式部少輔・之長親子と年代的・世代的にうまくつながらないと考えられている*2。至徳三年という義長の没年所伝を正しいとする場合には、義長と式部少輔・之長親子の活動年代や之長の生没年(1458〜1520で、享年六十三)を見る限り、義長と式部少輔との間に二世代くらいの者が入らなければ、辻褄が合わないのである。

  三好氏の発生を考えるため、先ず三好氏が阿波小笠原氏からどのように分岐したかを見てみよう。この分岐ないし接続の過程は、実のところ、あまり確定的とはいえない。現存する各種系図・所伝は多くの諸説あるからであり、問題となる「分岐・接合部分」に関しては、大きくいって二つの流れがある。
  具体的には、
(1) 小笠原長房の子の長種−長景−長直−長親−長宣−長宗−長隆として、長隆の養嗣子として義長(京小笠原氏の長興の子という)を置くもの……三好氏の系図としては最も代表的であり、前掲の『三好系図』などが記載するが、長種以下長隆までの歴代は史料に実在性を示す人物が皆無であり、信頼性に乏しいものである。なお、、長房と長種との間に長政を置く所伝もある(『続応仁後記』)。

(2) 小笠原長房の子の長久−長義−義盛として、義盛ないしその兄弟の子孫に義長を置くもの……群書類従所載の『十河系図』等に記載されるものであり、『新編阿波叢書』下巻所収の「阿波守護職三好家略記」*3でもほぼ同様に伝える。すなわち、前者では義盛と義長との間に「頼清−頼久−頼貞」の三代をあげるのに対し、後者では「宮内大輔頼清−左近大夫盛衡」の二代をあげている。このように、十河氏系統では、三好氏の発生について別の所伝をもっていたことがわかる。

  このたび気づいた「芥川系図」はこの(2)の系統に属するが、上掲諸系図ともまた若干異なり、義盛の子として頼清の弟に頼実をあげ、その後を頼氏−義範−義長としている。また、三好を初称した者も他と異なり、義盛とその祖父長久の間に「長義(後改義久と記す)−義高」の二代を置いて、長義に三好左京大夫、義高に三好阿波守と記している。そうすると、(2)の系統のなかでも少なくも三通りの系譜があることになるが、分岐・接合部分について、こんなに系譜所伝が多く異なるのでは、三好氏が実際に小笠原氏から出たのかが相当程度疑わしくなってくる。
  従って、まず確実なところから押さえて、系譜の検討を加えていくことにしたい。


 2 阿波の小笠原氏の歴史

   鎌倉期の阿波小笠原氏と三好氏との関係

  承久の乱の功により守護となった長清以来、小笠原氏が阿波の守護職を鎌倉期世襲したことは、ほぼ確かである。阿波守護としては長清、その子長経が史料から知られており、長経は阿波麻殖保での争論や土御門上皇の阿波への迎えで『東鑑』*4に記事がある。その後の動向は史料には見えないが、その子孫は長房以下、阿波守護職を保持して鎌倉末期に至ったとみられている。長房は比較的早死したようで(「芥川系図」には宝治二年〔1248〕に年四十四で卒と記す)、『東鑑』にはその名は見えず、それ以降の阿波小笠原氏についても記事がないが、江戸期に発見された重文の『光明寺残編』から、小笠原五郎が鎌倉末期の守護とされる*5。この小笠原五郎については、吉井功兒氏が長久の末子頼久に比定されており、私もこれが妥当と考える。南北朝の争乱期にあって阿波小笠原氏は、当初、南朝方に立って足利一門の阿波守護細川氏と戦ったが、利あらず、やがて小笠原氏は細川氏に降ることになる。この頃から応仁の乱頃までの期間(百年弱)、阿波小笠原氏に関しては断片的な史料しかなく、三好氏の動向については、信頼すべき史料が皆無である。

  多数見た三好氏関係の記述や資料のなかで、管見に入ったかぎりでは、『戦国三好一族』の著者今谷明氏のみが、三好氏の出自に疑問を留保しているようである*6。今谷氏は、三好義長の至徳三年の没年から疑問を感じて、義長の代で始めて小笠原の姓を捨て三好氏を名乗ったこと、及び三好なる苗字が南北朝期に起ったことは、「『三好系図』その他が正しいと仮定しての上のことであり、事実は相当に疑わしく、伝説の域を出ないのである」、と記述する。
  これ以外の多くの三好氏関係記述では、三好氏の出自に何ら疑問を持たずに三好関係系図を信頼しすぎる傾向が見られる。こうした事情により、呼称・官職名だけしか史料に記されていない阿波小笠原及び三好一族の具体的比定に当って、相当なくるいを生じさせているおそれがある。史料に裏付けのない中世武士の系図について、どうしてこのように無批判になれるのであろうか、私には不思議でならない。じっくり検討してみると、鎌倉期の名門武士の系譜も疑問なものが相当程度多く、室町前期でも同様である。ましてや、下剋上の戦国期においておや。というところであるが、なるべく先入観をいれずに冷静に分析を進めてみたい。

  小笠原氏は甲斐国巨摩郡小笠原村(現中巨摩郡櫛形町東部の小笠原)に起り信濃に進出して、室町期には信濃守護となり、甲斐・信濃に一族庶流を多く分出するが、この氏にあっては鎌倉期以来、本宗家の交替が数回見られる。鎌倉期では当初、信州佐久郡伴野庄に拠る伴野氏(長清の子、六郎時長の系統)が惣領の地位にあったが、弘安年間、姻戚安達泰盛の霜月騒動に関与して衰退するとともに、長清の長子たる弥太郎長経−源二長忠の系統に移り、彦二郎長氏(長忠の孫)が小笠原惣領職となったとされる。南北朝期に尊氏に従い信濃守護となった彦五郎貞宗は、一般に長氏の孫とされている*7。その後、貞宗の曾孫の代には筑摩郡の深志家と伊那郡の松尾家とに分立して抗争が続き、そのまま戦国期に入り、江戸期にはこの両系統とも幕藩大名家で続いている。
  阿波の小笠原氏は、弥太郎長経の長男又太郎長房の子孫が主流であり、小笠原氏のなかでは長男の流れであった。それが、信濃小笠原氏を主とする立場から忌まれてか、幕藩大名家呈譜の『小笠原家譜』(東大史料編纂所所蔵)や『続群書類従』所載の系図等では、阿波小笠原祖の長房の位置づけが長経の次弟に置かれるという形で、庶流的に変化させられている。阿波では、これに加え庶流の重清・赤沢・貞光・高畠・早淵などの小笠原一族があったとみられる。
  阿波小笠原氏からは石見国邑智郡の大族小笠原氏も分出しており、この系図にも不明な点があるものの、又太郎長房の子の麻植(一に麻績)四郎長親の流れがそうであるとみられる。


   南北朝期の阿波小笠原氏の動向

  南北朝の争乱期に、阿波の小笠原氏がどのような行動をとったかは、本問題探索の基本である。『太平記』や『徴古雑抄』等に所収の文書などから、次のように整理されよう。このなかで、特に官職名・通称で記載される者についての実名の比定には十分な注意を要する。

○元弘三年(1333)三月十日に摂津の尼崎付近で、後醍醐天皇の命をうけて入京しようとする赤松勢五十余騎に対して、幕府方の阿波の小笠原は三千余騎で押し寄せ散々に打ち破った(『太平記』巻八)。「金勝寺本」には小笠原下総助実宗とあって、その系図等が不明も、実宗の名に似ている小笠原四郎長宗にあたるか。あるいは、鎌倉末期の阿波守護と推される小笠原五郎頼久(長宗の弟)のことか。

○建武三年(1336)四月廿日、漆原三郎五郎兼有は、小笠原弥太郎・有田二郎らとともに武家方として、淡路国司高倉少将の軍勢と播磨国大倉谷宿南浜で交戦した(黄薇古簡集)。

○延元元年(1336)五月下旬、湊川合戦の直後に後醍醐天皇は比叡山に籠られ、足利尊氏の軍勢がこれを囲むと、宮方の危急に応じて阿波・淡路から阿間・志知・小笠原の人々三千余騎が京都に駆けつけ、足利軍と戦った(『太平記』巻十七)。なお、その四年後の興国元年、同書の巻廿二にも淡路の武島(沼島で、三原郡南淡町の南端に位置する島)に関連して、安間・志知・小笠原の一族と見えており、同様に宮方として行動しているので、これも淡路の小笠原氏か。

○三好郡池田の大西城に拠る小笠原阿波守義盛は、宮方として讃岐の宮方に呼応して、建武四年(1337)六月、讃岐の財田城(現三豊郡財田町。三好郡池田町から一山越えた地)に拠ったが、僅か一ヶ月にして敗れて武家方に降った(桑原文書)。そののち、興国元年(1340)八月、細川刑部大輔頼春の指揮の下、阿波の坂東坂西や小笠原ら讃岐阿波の軍勢は、伊予国世田城(東予市)の大館左馬助氏明を攻めたが、その前哨戦たる千町原(現周桑郡小松町辺り)の合戦で南朝方の金谷経氏らの軍を打ち破った(『太平記』巻廿二)。

○観応元年(正平五年。1350)十二月から翌年にかけての観応の擾乱の際には、小笠原宮内大輔・河村小四郎らが尊氏党の阿波守護細川頼春と戦っている。すなわち、観応二年(1351)七月、小笠原宮内大輔は東条(現徳島市)で細川軍と戦い、同十月には河村小四郎が細川軍と戦い、打ち破られた(飯尾家文書)。この文書には、欠字の人名記載が見えるが、一宮城の一宮六郎二郎(成光。傍点部分は欠字)も細川方から同年正月に攻撃されたと解されている。

○正平七年(観応三年。1352)閏二月、阿波守護で侍所所司の細川頼春は、足利義詮を討つため京に攻め入った南朝方の和田・楠木軍と戦い、四条大宮に防いで戦死した(『太平記』巻卅)。このとき、頼春以外の戦死者は記載がないが、阿波の武士でも同時に討死した者があったのではないかとみられる(後ろで適宜記述)。

○正平七〜十二年(1352〜7)の頃、軍忠注進を催促し、兵糧料所を預けるなど、小笠原宮内大輔が阿波の南朝勢力の中心となっていた。この時の小笠原宮内大輔は、正平九年の軍勢催促状の花押から頼清とみられている (小野寺、菅生、小川などの祖谷山古文書)。

○正平十七年(1362)七月、讃岐の白峰合戦(坂出市)に際し、幕府方の細川右馬頭頼之(頼春の子)に対抗して南朝軍に降った細川相模守清氏の軍に、小笠原宮内大輔が阿波国の軍勢三百余騎を率いて加わった。このとき、淡路の沼島(前掲)の小笠原美濃守は清氏に同心して、頼之軍の渡海の路を差し塞いだ(『太平記』巻卅八)。この白峰合戦において、細川頼之方は敵の清氏を討ち取り、決定的な勝利を得た。
 その翌年にも、阿波大西の城に小笠原宮内大輔の軍があったことが見える(『阿府志』)。これに関して、『徳島県史』では、小笠原宮内大輔成宗(長宗の子とされる成宗に比定したうえで)も遂に細川頼之に降って正平十八年美馬郡重清に退隠した、と記されるが、この県史の小笠原宮内少輔の比定は、根拠が弱く疑問がある。

○淡路の沼島の小笠原氏は系譜不明も、阿波小笠原氏の一族とみられている。その活動については、興国元年(1340)に伊予へ派遣される脇屋義助を備前児島に送ったが(『太平記』巻廿二)、紀伊の安宅一族が足利義詮から観応元年(正平五年、1350)にその討伐を命ぜられている(『徴古雑抄』所収の安宅文書)。永く宮方に立って抵抗した小笠原美濃守一族も、正平二十二年(1367)頃に阿波守護細川氏に降ったといい(『予章記』)、既にこの頃には小笠原宮内大輔の活動は見られない。

  なお、阿波の南朝方の動向について併せて述べておくと、その主戦力は阿波の「山岳武士」と呼ばれた人々であり、種野山の河村・小屋平・三木などや祖谷山の小川・落合・西山・菅生などの諸氏は、天険の要害に拠って永く細川氏に対抗したが、一三七〇年代から八〇年代初頭には相次いで細川氏に降り、この頃で阿波の南北朝期の争乱は終わった。康暦二年(1380)に祖谷山の菅生氏が帰順したのが、反細川勢力の最後のようである(松家文書)。

  以上が、徳島県や三好氏の関係資料に見えたものであるが、管見には入ったところでは更にまだ幾つかあげられる。
○村田正志氏が南北朝関係の史料を採録した「風塵録」(『村田正志著作集第七巻』所収)には、尊氏兄弟の軍勢が菊池・阿蘇など宮方を撃破した筑前多々良浜合戦直後の延元元年(1336。南朝側では、二月に建武三年を改元)四月、宮方武家六十五人が武者所として編成された交名が「武者所結番事」として記載されている。それによると、新田越後守義顕(義貞の嫡男)を一番の筆頭にして、二番には新田左馬権頭貞義(新田一族堀口家貞の子)が筆頭で、なかに宇都宮右馬権頭泰藤・小笠原周防権守頼清らがあげられる。
  なお、『建武記』に見える元弘四年(1334)正月編成の関東廂番定文交名の三番のなかに見える「讃岐権守長義」について、小笠原長義(長久の長子で、前掲長宗・頼久の兄)に比定する見解もあるが、これは疑問が大きい。廂番にあげられる総員三十九名は、その殆どが関東の武士で、しかも足利一門被官層及び旧幕府官僚の二階堂氏一族で半数ほどを占めていて、西国の武士は見えないうえに、年代的にも疑問(「芥川系図」では嘉元元年〔1303〕卒と記)だからである。問題の長義の比定は難解であるが、かりに小笠原一族だった場合には、信濃の彦次郎長氏(貞宗の実父)の弟、弥五郎長義のほうがむしろ妥当であろう。

○貞治二年(1363)六月、伊予守護代仁木兵部大輔義尹と小笠原左近将監盛衡は、南朝方の河野通直を攻め、一万余の兵で伊予国鴨部庄(現越智郡玉川町)に向かったが、河野方は夜討ちをかけて、これを切り崩した(香西成資著『南海治乱記』巻之一)。この春から、細川頼之は伊予を攻め、一旦平定して守護代に仁木義尹を任じたが、仁木が率いたのが阿波讃岐の兵であった。そのなかで、小笠原盛衡だけが特掲されていることに留意される。

○明徳三年(1392)、将軍義満以下公卿や大名が参列して営まれた相国寺の供養の際に、細川頼元に従った郎等二十三騎のなかには、小笠原備後守成明、小笠原又太郎頼長のほか、海部・柿原・河村・大西・飯尾などの阿波の武士や伊予・讃岐・備前の武士があげられる(『相国寺供養記』)。

  この後二者の史料も、三好氏関係としては挙げられていなかった。十八世紀前葉までに成った『南海治乱記』の記事の根拠は不明だが、これが信頼のおけるものとすると、興味深い形で阿波小笠原氏の系譜がつながる。すなわち、小笠原左近将監盛衡は、「盛」の字や「左近将監」(「芥川系図」では義盛の註にも記載)の共有から、年代的にみて義盛の子と推される。前掲の「阿波守護職三好家略記」では「義盛−頼清−盛衡」と記して、盛衡に左近大夫と註していることも、想起される。
  明徳の小笠原備後守成明は、おそらく盛明の誤記で(異見もあり、要検討)、盛衡の弟かとみられ、小笠原又太郎頼長は盛明の甥で、盛衡の子ではなかろうか。頼長は、その「又太郎」という号からいっても、阿波小笠原の嫡系的存在で、年代的には前掲の弥太郎(義盛)の孫くらいに当たるからである。この辺の系図関係については、後でまた検討を加えることにしたい。

  以上の阿波小笠原氏の活動を見ると、その時々に応じ立場が変わっているが、鎌倉期の阿波第一の勢力としての立場保持から、当初、足利氏により阿波守護に任じられた細川氏に対抗したもののようである。建武三、四年頃の小笠原阿波守と小笠原弥太郎は同人で、義盛とみられる。義盛は細川氏に降ったが、その一族の宮内大輔頼清は長く南朝方として奮闘したものの、これも遂には(1360年初頭までには)細川氏に降った、としてよさそうである。


  小笠原宮内大輔頼清とその周辺

  南朝方として活動した中心人物小笠原宮内大輔頼清について、その続柄は不明である。おそらく、『尊卑分脈』に見える義盛の従兄弟か弟かとみられ、名前等からみておそらく前者であろう。その場合、鎌倉末期の守護五郎頼久の子か。頼久の子の小五郎頼氏と同人かどうかは不明も、頼氏にも宮内大輔と譜註に見える系図があるので同人の可能性もあるが、おそらく別人か*8。なお、南北朝動乱期にあっては、文書等には具体的な人名は頼清以外は見えず、阿波小笠原氏の動向は研究者の間でもなお未整理の状態といわれており(吉井功兒氏)、史料に見える小笠原宮内大輔などの具体的な人名比定には十分な検討を要する。
  南北朝後期に成立した系図書『尊卑分脈』(以下、単に『分脈』とも記す)の系譜・記事は、総じてかなり信頼できるとみられている。しかし、武家部分は注意して見ることが必要であるほか、成立の後に追加された附載書込は別であるとして、本書の内容を峻別する姿勢が必要とされよう。
  同書の阿波小笠原氏関係の記事については、数か所の附載書込が見られるが、これら附載書込部分には不審点が多くあり、取扱いには十分な注意を要する。すなわち、
@ 長宗に宮内大輔と註するのも、長宗の子に一宮宮内大輔と号する成宗を置くのも信頼できない。一宮氏は後世の系図では全て小笠原長宗の子孫とするが、これは出自仮冒であるとみられる。長宗が一宮城に拠ったことは信頼したとしても、一宮大宮司一宮氏は古代粟国造の族裔が連綿として続いたものであり、一貫して「成」を通字として戦国末期まで一宮大宮司職を世襲した(後述)。

A 宮内大輔頼清も附載書込に見えるだけなので、その位置づけには気をつける必要がある。頼清は、『分脈』書込等に義盛の子とされるものの、前述のように、義盛の従兄弟という位置づけのほうが妥当か。なお、南北朝争乱期の小笠原宮内大輔は、『分脈』の性格や頼清の花押などから考えて、みな池田大西城に拠った頼清としてよさそうである。

B なお、この附載書込にすら見えない三好氏につながる阿波小笠原氏系譜部分(前掲の(1)で、長種から長隆に至る七代の系図)は全く後世の偽作である。また、京小笠原氏で義長の父とされる淡路守長興なども、『分脈』には記載がないうえに存在を裏付ける史料もない。この長隆及び長興の系は、総じて世代数が多すぎるようにも思われる。

  南北朝争乱期の阿波小笠原氏の中心人物、宮内大輔頼清と周辺については、さらに検討を要する。それは、『徳島県史』に注目すべき記事があるからである。同書では、『徴古雑抄』記載の「吉田孫六系図抜粋」によれば、義盛に「(前略)本姓ヲ改メテ三好ト云。文和元年壬二月二十日四条大宮ニテ頼春一所ニ討死、四十九才」、頼清に「文和元年壬二月廿日父ト共ニ戦死三十二才」、と記載されている。しかし、『徳島県史』は、吉田系図には不備な所が多く、頼清は祖谷山古文書に正平九年(1354)十二月十七日付けで頼清と署名のあるものが三通現存していると指摘する。確かに、頼清についての記事では、「吉田孫六系図」は問題が大きいが、その系図の全体を見たとき、思いがけないことも浮上してきた。
  問題の「吉田孫六系図」は、前掲の「芥川系図」を所載する『諸系譜』にも記載があり、しかも、その主要部分が『徴古雑抄』記載分より更に詳細に掲載されていたのである。『諸系譜』については若干前述したが、その大きな特徴として、三十三合冊のうち八合冊という大部で、徳島県下八郡(麻植郡、阿波郡を除く諸郡)の寺社旧家に所蔵される古文書・系譜類を多数収録していることが挙げられる。この採録者は筆跡・内容などからみて、中田憲信・鈴木真年以外の人物であることしか分からない。中田憲信は明治二十四年十月から翌年十月まで一年間、徳島地方裁判所検事正*9として在勤しており、そのとき以降に協力者を得て、この大部の古文書類を入手したものではないかと推せられる*10
  徳島八郡古文書を通観してみると、実に多くの小笠原・三好氏関係の系譜が記載されており、その各々の系譜で小笠原氏と三好氏との接続部分がマチマチとなっているが(前掲の接続部分とも、また違うことに注意)、いずれも頼清ないしその兄弟の後に三好氏を置いていることに留意される。ここでも、長種の流れの三好氏は否定されている。これらを含め、接続部分の系図*11が実に多種多様に見られるが、なぜこれほどの異伝が生じたのであろうか。
  素直にみるところ、多種多様な系図の意味するものは、「三好氏が小笠原氏から出自した実態がない」といいえよう。

  「吉田孫六系図」(以下、単に「吉田系図」ともする)は『諸系譜』第十九合冊に収録されており、「東名東村吉田孫六系図」という題で、前略及び後略の形(新羅三郎源義光から十河存保の孫世代までの部分の歴代)で記載されるが、『徴古雑抄』所載のものが簡単な歴代とその記事だけの抄出であるのに対し、傍系も含めてかなり詳細なものとなっている。しかも、徳島八郡古文書のなかでも、最も詳しい三好関係系図と評価される。それによると、吉田家は十河存保の後で、その子存英の子の長保が父戦死後に名東邑に居を構え、武姓の零落を恥じて姓を吉田と改め農となる、と記されて終わっている。
  その主要部分は前掲の「芥川系図」と相通じるものがあり、江戸期に阿波と甲斐とに分れて系図が伝えられた経緯を考えると、両者の共通部分には十分留意する必要があろう。また、「吉田系図」は系線・記述などに多くの混乱があるものの、むしろ素朴な原型を伝える部分もあるとみられる。例えば、三好氏の祖義長については、「母伊沢志摩守高景女」「文明十七年七月十七日卒五十三才」とあって、「芥川系図」と同じである(ただし、後者では母についての記事は墨で消されていて、この抹消は後書きか)。三好氏の先祖検討にあたって、この義長の二点は重要なものであるが、義長の生存期間については、その子義基の記事ではないかとみられる箇所もあるので、後で更に十分な検討を加えたい。また、伊沢高景は後醍醐天皇に仕えた伝承があり、年代的には高景の曾孫播磨守高綱(妻が三好左京亮義房の姉妹ともいう)のほうが妥当か。

  そして、「吉田系図」からは、三好氏が阿波小笠原氏の系図に如何に工夫して混合ないし接合させたかを窺わせる点が多く、徳島八郡古文書など各種資料を基礎にして、吉田・芥川両系図の小笠原氏の者と三好氏の者とを適切に分離させれば、室町期における小笠原氏の後孫と三好氏の先祖についての何らかの手がかりが得られそうである。
  こうした観点からみて、『徳島県史』で問題視された文和元年(正平七年)閏二月の四条大宮戦死の記事も、本来は小笠原氏の義盛・頼清についての註ではなく、三好氏の先祖の誰かの註であったのではないかと考えられる。
                                

 〔註〕

*1 国立国会図書館の『帝國図書館和漢書書名目録』では、『諸系譜』を「鈴木真年稿本」として整理しているが、実際には、鈴木真年翁の系図研究の同志・友人であった中田憲信が主な編著者であったとみられる。これについては、尾池誠氏が指摘し(『埋もれた古代氏族系図』、1984年刊行)、私も基本的に賛意を表している。拙稿「鈴木真年翁の系図収集先(下)」(『家系研究』第20号、家系研究協議会、1988年12月)を参照のこと。また、マイクロフィルム版『『諸家系図史料集』解題目録』(雄松堂出版、平成七年一月発行)の95〜96頁の記述も参照されたい。

*2 長江正一著『三好長慶』(昭和四十三年六月刊、人物叢書)の4頁。長江氏は、義長と之長との間について、「その間、長之一代としては合理的でない点があるが、現在では残念ながら、三好の世系はこれ以外には考えられない状況である」と記述する。

*3 「阿波守護職三好家略記」とは、十河存保の子孫とする系図を持つ阿波郡秋月村の板東家に伝える文書を基礎に、三好氏の興亡について渡辺豊樹が昭和四年に編述したものである。このほか、三好氏については、『群書類従』合戦部所収の「阿州将裔記」「三好家成立記」「三好別記」「十河物語」がある。

*4 貞応二年(1223)五月廿七日条には土御門院が土佐から阿波に遷御するに関して、阿波の守護小笠原弥太郎長経に連絡した記事が見え、同三年十月廿八日条では、阿波麻殖保に関して地頭小笠原太郎長経が争論して勝訴した記事があり、嘉禄三年(1227)二月十三日条には、守護人小笠原弥太郎が阿波院(土御門院)の御所造営の記事がある。貞応二年以前では、二十年間、小笠原弥太郎長経に関する記事がなく、当初は将軍頼家の近臣として現れ、建仁三年(1203)九月に比企能員の乱に関して、中野・細野等とともに拘禁されたのが頼家近臣関係記事の最後となっている。

*5 佐藤進一著『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』(東大出版会、1971年刊)に所収の「光明寺残篇小考」。佐藤進一氏は、小笠原五郎の名前を特定していないが、吉井功兒著『建武政権期の国司と守護』176頁では、『尊卑分脈』を踏まえて頼久に比定しており、妥当ではなかろうか。

*6 今谷明氏の記述では、「 三好氏は鎌倉時代の阿波守護家、小笠原氏の分流であるという。というのは、南北朝期から応仁頃にかけての三好氏に関する確実な文献も見当らず、いずれも後世に作られた系図類など、伝説の域を出ないからである。」(『戦国三好一族』28頁、昭和六十年、新人物往来社刊。下線は宝賀によるもの)。なお、同書には卓見が他にもあり、適宜、今谷氏の名とともに紹介させていただく。

*7 鎌倉期及び建武期の信濃小笠原氏の惣領については、吉井功兒氏の*5前掲書(241〜2頁)は示唆深い記述をする。その指摘のように、鎌倉後期の信濃小笠原氏について、『尊卑分脈』の系譜の譜註は信頼できない部分もあるが、私は、小笠原惣領職は彦二郎入道道円(長氏)、その子小笠原信乃前司(弥二郎宗長)、さらにその子とされる彦五郎貞宗へと伝えられたとみている。
 南北朝期に信濃で小笠原氏の勢力を大きく伸ばしたのは、彦五郎貞宗であり、足利尊氏の麾下にあって信濃武家方の旗頭として各地を転戦するなど大いに活躍し、その功により信濃守護職を与えられ、また、『三儀一統』を著し武家礼節の祖とされる。貞宗は、どの小笠原氏の系図でも、弥二郎宗長の子として記されているが、その生没年(1292or94〜1347)や彦五郎の呼称、その兄弟とされる者の異伝などから考えると、実際には宗長の弟で(宗長の叔父・弥五郎長義の子という可能性もあろう)、小笠原家督を継いだため子として伝えられた、とするのが妥当ではないかとみられる。

*8 吉井功兒氏は、(イ)元弘四年正月の関東廂番結番交名に見える讃岐権守長義を阿波の小笠原長義と解し、(ロ)『尊卑分脈』の阿波守護家流の系図は誤りが多く殆ど信用できないとしたうえで、義盛は長義・頼清・頼久・長宗らと兄弟かと推している(*5前掲書の176〜8頁)。しかし、(イ)は誤解であり、(ロ)については、誤りの多いのは『尊卑分脈』書込部分であって、本来部分はむしろ信頼してよかろう。おそらく義盛・頼清は同世代(長義兄弟の子の世代)であり、それぞれの行動や名前からみて、従兄弟とみるのが妥当ではなかろうか。なお、「芥川系図」では頼清・頼実を兄弟とするが、土佐の豊永氏に伝わる「豊永、小笠原氏系図」(『大豊町史』所収)では、単に一族とし、頼実が改名して頼久となると記しており、これは疑問であるが、頼実が頼久の近親ないし子孫であったことを示唆する。
  阿波小笠原氏の動向については、一般には、小笠原義盛は阿波西部にあって、その叔父長宗は東部の一宮城に拠ったが、義盛その子頼清の二代にわたる抵抗もむなしく、敗れた、と解されているようである。しかし、この推測は、『尊卑分脈』書込や出自疑問のある一宮氏関係等の系図・所伝を鵜呑みしたことに基づくものもあり、『徳島県史』『阿府志』などの人物比定や記述には、かなりの疑問がある。

*9 当時の制度では、検事は裁判所の組織のなかにあったが、判事から検事になるときは「検事任官」の手順がとられた。中田憲信は、秋田地裁検事正から明治二十四年十月下旬に徳島地裁検事正に転じ、ちょうど一年後には再び判事に任官して甲府地裁所長に転じた。

*10 中田憲信の徳島勤務は僅か一年だけであり、そのときに『諸系譜』所載の徳島古文書類を全て入手したかどうかは不明である。後年、憲信は明治三十三年から三十七年春までの期間、帝国古蹟取調会で調査委員として活動しており、同会の六人ほどの調査委員のなかに阿波出身の国文学者小杉榲邨(こすぎ・すぎむら。1834〜1910)がいたので、榲邨が『阿波徴古雑抄』を編じた資料類のなかから、憲信が協力者に依頼して興味ある部分を謄写させたことも考えられる。

*11 『諸系譜』所載のもので目についたところでは、
@板野郡の三好家蔵「小笠原流三好系譜」では「義盛−頼清−長俊−長一−直慶−元長」(これも十河存保系)、
A名東郡の小笠原和三郎家蔵「清和源氏小笠原系図」では「義盛−頼清−義長−義基−長輝−之長−長基(元長)」、
B同郡芝原村の久米家所蔵「小笠原流久米系図」では「長久−頼久−頼氏(その弟に義盛)−頼貞−某−長継(三好孫七郎)−長輝(本名之長)−長基(本名元長)」、
C小杉榲邨編の『阿波国徴古雑抄』の続編として刊行された『続阿波国徴古雑抄』(一)には、三好長慶の子・左京大夫義詰(義継のこと)の後と称する坂東氏の系図「小笠原三好系図」(見性寺所蔵。寛政五年に謄写と記載)が掲載されており、それには、小笠原長清の弟南部光行の後とする系図となっている。この三好系坂東氏の系図は、『諸系譜』には名西郡の板東家所蔵「三好流板東系図」として掲げ、元長からの系図部分が記述される。
Dこのほか、まだ多くの小笠原関係系図が「徳島古文書類」のなかに記載されるが、主な系図はほぼ取り上げたと思われるので、あとは一々は記載しない。詳しくは、同古文書類を参照されたい。

  次へ続く


系譜部トップへ  ようこそへ  古代史トップへ