(三好長慶の先祖 2)

 3 三好氏の動向と系譜

  阿波三好氏の先祖の動向

  ここまでにあげてきた資料を基礎に、三好氏の先祖について具体的に考えていこう。そのアプローチとしては、吉田・芥川両系図における異分子の摘出分離である。両系図ともに、前段部分が清和源氏小笠原氏、後段部分が三好氏の系図と二つに分けて考えれば、前段部分の異分子は主として三好氏の先祖(候補)であり、後段部分の異分子は主として小笠原氏の後孫(候補)ではないかと推される。両系図と『尊卑分脈』阿波小笠原部分などとを比較すると、南北朝期以降の阿波小笠原氏では総じて「頼」及び「長」「盛」を通字としており、一方、三好氏では総じて「義」及び「長」を通字としていたこと(さらには「為」の字も用いられる)が見て取れる。ただ、両系図を含む関係資料を整合的に整理できない部分もあるので、多少とも大胆に推測しなければ、うまくつながらないことも承知しておきたい。
  先ず、鎌倉期の人々では、小笠原氏の系図の中に入り込んでいる三好氏の先祖(候補)の摘出である。それらしき者は、阿波に分かれた長房の子の世代に早くも登場するが(逆にいえば、これ以上前の世代には三好氏の先祖を登場させる訳にはいかない)、三好氏と思われる人々を中心に、順に見ていこう。なお、三好氏を名乗った時期は不明であり、初期の人々は三好ではない別の苗字をもっていたと考えられるが、この辺の事情はわからないので、苗字としては、とりあえず「芥川系図」に記す「三好」の表記を用いることにする。

@ 小笠原又太郎長房の長子の蔵人長久や長家・長親・長範・長基等の兄弟として見えるのが義近(義親とも記。次郎)・義基兄弟であり、この兄弟が三好氏の先祖候補として初出である。長久は建治二年に五十二才で死去したというが(その場合、生没年は1225〜76)、長久の弟、四郎長親は弘安四年(1281)、沿海警固の功と益田氏との通婚により石見国邑智郡に領地を持ち、石見小笠原氏の初代になった(石見への定着は、その子の四郎次郎家長の代で永仁年間か)。同世代で従兄弟の信濃小笠原氏の孫二郎長政が永仁二年(1294)卒と伝えられており、これらが年代の一応の目処となろう。
  なお、石見小笠原氏の動向を簡単に見ておくと、長親の孫、次郎太郎長胤のとき南北朝争乱期を迎えて足利氏に属し、官軍を敗る戦功があって邑智郡川本村(現同郡川本町)に温湯城を構築して居したといわれる。『三原丸山伝記』など伝えられる系図では、その子、又太郎長氏、その子彦太郎長義と続くされるが、活動時期からみて長氏・長義は兄弟であったとみられるほか、初期部分の系図には相当混乱もある(長氏・長義という名は各地の小笠原氏に見え、要注意)。『石見年表』(藤井宗雄編)等に拠ると、正平九年(1354)九月、温湯郷の要害に拠った荒川三河三郎・小笠原左近将監(長義?)は足利直冬軍に攻め落とされたという。明徳元年(1390)四月には、小笠原長弘(長義の子か?)は石見国河合郷・吉永郷を賜ったことも文書に見える。この石見小笠原氏は石見山間部、江川の中上流域の邑智郡を中心に勢力を保ち、長谷・都賀・高見・山中などの諸氏を出して一族繁衍したが、戦国期に至り毛利氏に降り、子孫はその家臣で見える。ただ残念ながら、石見小笠原氏関係系図には良本がない。

A 次の世代では、小笠原氏の蔵人太郎長義及び賈久・長康・長宗・頼久の兄弟であるが、この長義の改名とも、ないしは代替的な名にもあげられる義久が三好氏の先祖候補であり、長義(その実、義久のことか)が初めて三好を称したという系図もある。その兄弟には三好の傍系先祖が見えないようでもあるが、おそらく為康が候補か。

B その次の世代は、小笠原氏では義盛の世代である。その兄弟として、『分脈』では又太郎長光のみをあげるが、「芥川系図」では三郎長綱のみをあげる。ところが、『分脈』では信濃小笠原の系統、宗長の兄弟に益田(一に矢田)三郎長綱が見えており、同書の諸系統本を比較してみると、長綱及びその兄におかれる小笠原又太郎長頼も、阿波小笠原の系のほうから信濃小笠原系へ竄入したものではないか(その場合、又太郎長頼は義盛と同人で、前掲、明徳の相国寺供養の又太郎頼長の祖ではないかとみられる)、と推せられる。他の系図も併せ考えると、おそらく義盛の兄弟としては二郎(あるいは三郎)長綱があり、その子に又二郎長光・益田三郎長近がある形ではないかとみられ、又太郎頼長については、義盛の子孫に当たるものではないかとみられる(その場合は、年代から見て、孫か)。阿波小笠原氏の嫡子には、太郎・□太郎という呼称が多いことに留意される。
  義盛の死亡時期については、延文三年(1358)八月九日という記述もあり(『諸系譜』巻廿二の板野郡古文書類のなかに所収の「三好家所蔵三好系譜」)、これは一応妥当な時期といえよう。なお、「吉田系図」に記載のように、義盛が正平七年(1352)に四条大宮合戦で、細川頼春と一所で討死したことは、ありえないわけではないが、その場合には、阿波小笠原氏では分裂した行動をとっていたことになる。

  @ないしAに続く世代として、三好氏関係では、両系図に差異がある。それは小笠原氏の長義(これに対応する義久)と義盛に間に竄入された世代のことで、「吉田系図」では義信・義行の二世代、「芥川系図」では義高の一世代としている。前者の場合には、その第一世代に義信(義高と改)・宗行(右京亮、弥三郎)・義邦等の人々をあげられる。義高は建武二年(1335)に武州神奈川で戦死し当時三十九才、というから、それが正しい場合には永仁五年(1297)の生まれということになる。宗行は尊良親王に従って土佐に入り(元弘二年〔1332〕三月のこと)、子孫は安田(安芸郡の安田か)と号したと記される。「吉田系図」の第二の世代は、義行(孫二郎)・義正・義直等となっている。このうち、義行は正慶二年(1333)に摂津尼崎で赤松氏と戦い討死したと記される。阿波の小笠原勢が小勢の赤松軍と戦い打ち破ったと『太平記』に見える合戦である。義行の享年四十六は両系図に見えるが(その場合は1288年の生まれ)、義高の年齢とに齟齬がある。義行の子には、義員(吉永左近允)と清哉(三好孫五郎)があげられているが、この二人は義行の子孫の可能性もある。
  「芥川系図」では義高(義信)が義行と同世代のように記されており、この二人が二世代がいいか一世代がいいかの判断が難しいものの、前掲の生年等の事情からみて、両者が一世代だったと考えるのが妥当のようであるが(「豊永、小笠原氏系図」*8、*12でも、義行・義信を兄弟に置く)、その長幼の順はつけにくい。この場合、三好氏の義高(義信)・義行及び小笠原義盛・頼清の世代辺りが、建武中興頃の活動世代といえそうである。ただ、「吉田系図」では義信に、「義高ト改、……、文永十一年生」とも記されるので、この記事は戦死時三十九才とする記事と矛盾しており、義信は義高の父だったか、義信の子の別人が建武二年に神奈川で戦死したことも、考えられる余地が多少ある。

C 小笠原氏では、次が義盛の子と記載される頼清の世代である。その兄弟として、義房(三好左京亮)、為成(三好小六郎。子に孫一成経)、頼実(孫五郎、阿波権介、宮内少輔)、義隆(久米左京亮)、行盛(小笠原八郎)、光義(野口左衛門尉)が両系図にあげられている。
  このうち、頼実・行盛は小笠原氏で、行盛はおそらく義盛の子弟(世代的にみると、子か)であろう。孫五郎頼実については、頼清の弟で宮内少輔という記事を踏まえると、五郎頼久の子の小五郎頼氏の子であって、頼清(おそらく頼氏と兄弟か同人)の没後にその家督を承けたことが考えられる。頼清の没年については、前掲「三好家所蔵三好系譜」には応安二酉(1369)四月八日、五十六で卒と記述があり、これは一応妥当なところか。「芥川系図」では、頼実に応永三年(1396)七月廿二日、年六十一で卒と見えていて、年代的には頼清と一世代ちがう形となっており、この場合は頼清の子か甥に当たるのが頼実か。なお、同系図では、頼清の子に長重(小次郎、左衛門佐)、その子に武重(左衛門佐。近侍将軍義持公、永享二年四月卒)を続けており、この辺はかなり疑問が大きい(後述の大西氏の系図を参照のこと)。「豊永、小笠原氏系図」では、頼清の子に貞頼をおいて早世とし、頼清の弟に阿州白地城主の左衛門佐武重を置いていて、ともに混乱がある。この貞頼早世の記事は、頼清の跡は傍系(貞頼の兄弟)に伝えられたことを示唆する。
  三好氏では、三好左京亮義房が頼清ないし頼実とほぼ同じ世代の当主であったようであり、義房は義信(義高)の子ではないかとみられる。何に拠ってか不明であるが、『邑智郡誌』に所載の「石見小笠原氏略系図」では「義信−義行−義房」と記している。また、最盛期の三好氏の当主が代々「孫二郎」を名乗り、「吉田孫六系図」記載の歴代のなかに義高・義行を数えているが、一方、「芥川系図」では義高を直系祖先に、義行を傍系祖先に置いている。これらの事情を総合的に考えると、三好氏の家督は義信の死後、その弟の義行が継ぎ(義信と義行の位置交換の場合も考えうるが)、その跡を甥の義房が猶子となった形(「孫二郎」の称も受けたか)で継いだのではないか、と推される。

D 次の世代は系図に混乱があるが、一応、小笠原氏の長承(下六条の小笠原兵庫助)・頼氏(宮内大輔)と三好氏の為賢・義資・義勝・義慶等と分けておく。その場合、為賢は為成の子で、義資兄弟は義房の子ではないかと推され、義資が嫡子か。小笠原氏については、この辺りの系図は疑問・不明が多いが、頼氏は頼久の子として『分脈』に見える者で、頼清と同人かその弟とみられることは前述した。ただ、別人の頼氏がいた場合は頼実の子かもしれない。

E その次が、一応、小笠原氏の頼定・長定(美馬郡定光村の小笠原尾張守)・長三(那賀郡中庄村の小笠原肥前守)と、三好氏の義範(三好孫二郎、右近将監)・義重(三好彦七郎。子に板西掃部助義宗)・資信と分けておいて、検討を加えたい。まず、義範以下三名は義資の子ではなかろうか。
 また、小笠原氏の頼定は『分脈』に見える頼貞と同じか(また、頼清の子におかれる貞頼とも同人か)。D及びEの小笠原氏の人々については、Cの頼実が改名して頼久となると記す系図があり、これは『分脈』に見える「頼久−頼氏−頼貞」三代が混同されているのではないかと考えられる。同書に拠ると、小笠原五郎頼久は長義の末弟であり、この系統が世代的に最も新しい時期まで記載されているので、頼久の系統に阿波小笠原の宗家が移行したのかもしれない。この辺りの小笠原氏の人々は、年代的にも問題があり、定光村の小笠原尾張守(長定)は『古城諸将記』にも見えて、ずっと後代の三好長慶・義賢兄弟の頃の人であった模様である。こうした事情から、D及びEの小笠原氏の人々とその系譜には、大きな混乱があったとみられる。
  吉田・芥川両系図はさらに続くが、次に、三好氏の先祖探索に欠かすことのできない基礎、すなわち歴史舞台に登場する三好氏の活動を押さえて、両系図を見ていくことにしたい。


   三好一族の戦国期の活動

  両系図では、以下の部分(F〜Kの世代)が三好義長の世代及びそれ以降となり、この辺りから三好一族の色彩が系図に濃厚に出てくる。また、この頃から史料的にみても三好一族が多く登場するようになってくる。
F まず、三好孫二郎義範の子の義長(太郎、信濃守、左衛門大夫)の世代であり、兄弟には小笠原と名乗る者もまだ見えるが、茲長(三好二郎、左衛門尉、高志下野守)・義量(三好又四郎)・義宗(小笠原孫五郎)・義数(大久保権六)・義実(小笠原彦七郎)・僧珍原と記されて、呼称も順番に付けられており、小笠原と記されるものも含めて殆ど皆が、三好氏の人であろう。なお、義数と義実との間の兄弟にあげられる頼方(椿新左衛門尉)は、命名・称号からみて小笠原氏の者か。

G 義長の次の世代からは、みな三好氏の人々となる。義長の子には混乱があって、両系図からは導き出しにくい面もあるが、他の系図資料なども併せ考えて、長行(長之とも書く。初名義基、孫二郎、兵部少輔)、長重(新次郎)としておきたい。長重は「応仁私記」に三好七郎左衛門長重と見えるが、京で活動した細川成之・政之父子の被官や軍の先陣として「三吉」なる者(実名を欠く*13)が諸史料に見えており、この世代が応仁の乱(1467〜77)を戦った中心世代とみられる。『徴古雑抄』所収の「阿波国三好先祖之事」では、主膳正を称した幸長が文明年間(1469〜87)、北国勢との合戦に武功を立て筑前守を受領したが、これが三好元祖と記す。この幸長とは、之長(長輝)ではなく、その父の長行(長之)に比定とされよう。
  また、長行と義基とを別人で兄弟とする系図もあるが、「芥川系図」のように、これは同人としてよかろう。長輝の父とされる式部少輔も、兵部少輔の前か後の呼称であろう。今谷明氏も、之長(長輝)の父に当る人物(長之)が式部少輔とみている。なお、三好一族では、他に「式部」を名乗るのは、Iに掲げる長秀の孫の阿波岩倉城主、式部大輔康俊(康長入道笑岩の子)だけのようであり、康俊は義基の曾孫であって本来の嫡流筋にあたる。

H その次の世代には、長光(母姓を冒して、武田河内守)、長輝(初名之長、法名希雲〔喜雲〕、孫二郎、主膳正、筑前守)、長尚(三好蔵人)、勝持(勝時、入道宗安、三好越後守)があげられる。この世代から、三好氏の活動が史料が多く見えるようになり、系譜関係などがかなり明確になってくる。

I 長輝の子には、長秀(三好下総守、修理大夫。その子に山城守康長入道笑岩等)、長光(三好次郎、あるいは三郎、芥川民部丞)、頼澄(四郎、三好主水正。一に小笠原伊勢守)、長則(芥川孫四郎、あるいは五郎)及び長基(初名元長、法名海雲、孫二郎、弾正少弼、筑前守。生没年は一応、1501〔一に1492〕〜1532)、としておく。なお、長基(初名元長)については、更に検討を要するので、後述したい。本稿で取り上げている「芥川系図」は、芥川五郎長則の子、芥川孫十郎勝長の子孫が幕臣となり、伝えたものである*14。

J 長基の子には、長慶(初名範長、孫二郎、修理大夫。生没年は一応、1522〜64)のほか、義賢(彦二郎、入道実休、豊前守。その子に長治、存保)、冬康(神太郎、安宅摂津守)、一存(又四郎、十河讃岐守、左衛門尉)、冬長(野口五郎兵衛、河内守)の五兄弟とほかに五人の姉妹があげられる。

K 長慶の子には、義興(初名義長、孫二郎、筑前守。1542〜63)と養嗣義継(十河一存の子。初名義堅、義詰、左京大夫)があった。嫡子義興は松永久秀の手により毒殺され、その後に養嗣として迎えた甥の義継は、天正元年(1573)十一月、織田信長の軍勢に河内若江城を攻撃され敗死して、三好本宗は滅びた。

  三好氏の活動は、三好長輝(之長、入道して希雲または喜雲)のころからかなり明確になってくる。ただ、諸書や諸系図の記述に微妙な差異があるものも見られるので、整合的に考えられるところを採用して、要約的に総括してみると次のようなものか。
 三好長輝は、永正三年(1506)、細川宗家政元の要請に応じ、阿波から澄元(政元の養子)の後見役として阿波の軍兵を率いて上京した。長輝は京で頭角をあらわしたが、翌四年、細川澄之(政元の別の養子)を奉じる香西・薬師寺らの一派と対立して一旦近江に落ちたものの、同年八月初めには澄之一派を打倒し、澄元の下で幕政を左右した。
  しかし、その翌年の永正五年(1508)四月には細川高国の活動や足利義尹(のち義稙)・大内義興の大軍の上京の動きに追い落とされた形で、再度近江に逃れた。次の永正六年(1509)六月及び八月に、三好長輝・長秀父子は京都奪還を試みたものの失敗した。このとき、子の長秀・頼澄兄弟は伊勢山田に走り、そこで守護北畠材親(細川高国の娘婿)に攻められ敗死した(なお、長秀兄弟の敗死時期は芥川・吉田両系図には「永正十七年十二月」と記す)。父の長輝のほうは本拠地阿波に戻って戦力を整え、主の細川澄元とともに永正八年(1511)八月に入京したが、まもなく洛中への北口、船岡山の合戦で大内義興・細川高国連合軍に打ち破られて総崩れとなり、ようやく阿波に帰還した。
  しばしの小康状態の後、永正十五年(1518)八月になって管領代大内義興が本拠周防に帰国すると、畿内の政情は再び流動化した。翌十六年冬、澄元・三好長輝らは阿波を発って兵庫に上陸、その翌十七年(1520)三月末には長輝最後の入京を果した。しかし、一ヶ月余経った同年五月には、阿波讃岐の軍兵の離反もあって、細川高国・六角定頼の軍に敗れてしまい、捕えられた長輝と子の長光・長則兄弟は京の百万遍で自害させられた。
  三好長輝の生没年については諸説あるが、阿部猛等編『戦国人名事典』などの採用する1458生〜1520没、享年六十三、とするのが総じて妥当であろう。

 次の三好氏の主役は、三好元長長基、入道して海雲)である。長輝自害後七年経った大永七年(1527)三月、足利義維・細川晴元を擁して管領細川高国を退け、畿内の大勢を握って泉州堺を拠点に畿内支配をした(今谷明氏のいわゆる「堺幕府」)。これもまもなく、元長は柳本賢治兄弟らと対立して、一時、阿波に帰国したものの、享禄四年(1531)春には主君晴元の要請で再び畿内に戻り、六月の天王寺合戦で細川高国を滅ぼした。これでようやく政情安定するかにみえたが、今度は主君細川晴元と対立して、天文元年(1532)六月、晴元に通じた一向一揆に包囲され、元長はその陣所たる堺の顕本寺で一族主従二十余人とともに自害した(死亡時期について、天文二年の三月説、同年六月説もあり)。

  三好元長の生没年については諸説あって判断が難しいが、一応、『戦国人名事典』などの採用する「1501生〜32没、享年三十二」として検討を進める。その子長慶の死亡は永禄七年(1564)のことであり、享年は四十二説と四十三説が見られるが(従って、生年は1523ないし1522)、いずれにしても大差がなく、父や次弟義賢(1526頃〜62)との整合性がとれている。一方、元長の享年については、太田亮博士は記さず、四十二才説(芥川系図)もあって不安定であるが、実のところ、元長の生年は1501(文亀元年)より若干早くて良いのではないかと思われる。元長の子女には男子五人、女子五人(うち一人は養女。四人は各々一宮、海部、大西、有持氏の妻)があげられており、これらの母が数人いたとしても、子の数からは享年の三十二は若すぎる感じがする。
  この元長の生没年により、長輝との系譜関係に差異が出てくる。すなわち、仮に元長生年1501説をとる場合には、長輝が数え年四十四のときの生まれであって、長輝の子とも孫ともとりうるからである。元長生年がそれより五年ほど早ければ、長輝の子としてしか考えられない。長輝と元長との関係としては、系図でも学説でも、祖父孫説(中間に長秀が入る)と父子説があって、太田亮博士など前者の立場のほうが多数のようである*15。一方、『阿波将裔記』『三好家成立記』(ともに『群書類従』合戦部に所収)や上掲の「阿波守護職三好家略記」などは、元長を之長の男なりとする。
  私は、「芥川系図」にも記すように、「実は長秀弟、長秀戦死後、その跡を承く」とするのが妥当と思われる。長輝と元長との間に満四十三の年齢差が仮にあったとしても、当時の祖父・孫としては若干きついように感じるほか、傍証らしきものもある。それは、長輝と同時に自害した長光・長則兄弟の呼称である。この兄弟について、十六世紀後半の成立で史料価値が高いとされる「細川両家記」では芥川次郎・同弟孫四郎と記すのに対して、前掲の芥川・吉田両系図では三好三郎・芥川五郎と記しており、これは元長が家督となってから当主が代々名乗る「孫二郎」を称した結果生じたズレに依るものではないかと推される。おそらく、元長は長輝の末子であって、長兄長秀の死後、家嫡に立てられたものであろう。「三好家略記」では、初め彦四郎といったと記している。

  なお、長秀の子には、民部大輔一秀・山城守康長がおり、前者は元長と共に堺の顕本寺で自害した。後者は、河内高屋城主・三好笑岩入道として知られており、信長に降って阿波一国を与えられ、秀吉の甥・孫七郎秀次を猶子としている。山城守康長の子の徳太郎康俊(式部大輔)は阿波岩倉の城主であったが、天正五年(1577)三月、長曽我部元親の来襲を受け、別宮浦で討死し、その子小太郎俊永は元親に降った、とされる。俊永は降人として土佐に行き、その子孫は彼の地にあるともいう。

 元長の子の長慶については、天文十一年(1542)以降、宿敵木沢長政を討つなど、次第に地歩を固めていき、同十八年(1549)には父の敵で一族の三好宗三入道を敗死させ、遂には主君であった細川晴元を追放し京都を制圧したが、これ以降の三好一族の動向は、相違も少なくなるので省略する。

 活動が顕著になる三好長輝以下の世代について、以上のように生没年を押さえていけば、その父祖の活動年代検討についての基礎となりえよう。
  まず、長輝の父の世代が前述のように応仁の乱を戦った世代であり、「吉田系図」に三好氏の祖義長についての記事で、「文明十七年七月十七日卒五十三才」(すなわち、生没年が1433〜85)とあったのは、本来、義長の子の義基の記事であったことがわかる。同系図では、義長と義基が合体されていて、義長の記事に「義基ト改」と記され、その子に直接、長輝があげられているからである。
  次に、義基の父たる義長については、世代的に考えると(当時の一世代は25〜30年ほどか)、応仁の乱の始まる少し前に死去したとみられるので、前掲文正元年(1466)文書に故三好入道と記される人物に当たると推される。義長が三好氏の先祖として多くの系図にあげられたのは、おそらくこの時代(十五世紀中葉)に三好氏が大きく勢力を貯え、存在が顕著になったことによるものであろう。

  ここで、これまでの整理として南北朝期以降の三好氏歴代を推定してあげておく。
  建武頃の(1)義高(義信)ないし義行から始めて、その子の(2)義房−(3)義資−(4)義範−(5)義長−(6)義基(のち長行)−(7)之長(のち長輝)−(8)元長(のち長基。その長兄に長秀)−(9)長慶−(10)養嗣で甥の義継、ということになろう。この間、(10)を除いて皆、実子関係としてよさそうである。


   阿波三好氏の初祖と久米氏

  これまで見てきたことからわかるのは、三好氏の先祖たち何人かの実名と、これらの者が遅くとも建武中興の少し前頃までには、阿波に関係していたことである。そこで、次の問題は、彼らが上古以来の阿波住民であったか、あるいはどこかの時点で阿波に来住したのか、という点である。この点についても、両系図には手がかりを示唆する記述がある。
  すなわち、南北朝後期の小笠原頼清とほぼ同じ世代の三好一族に、義房・義隆という者が系図に記載される。このうち、義隆について、「久米左京亮と号し、予州久米荘に居した」という譜註があって、吉田・芥川両系図に共通して見える。この久米氏も後に阿波に居住しており、なかでも著名なのは阿波国名東郡芝原(現徳島市西北部の国府町辺り)の城主の久米安芸守義広である。義広は、天文二十一年八月、女婿三好義賢(長慶の次弟)が主君の細川持隆(その妹が義広の妻)を討ったため、復仇のため挙兵して三好勢を攻めたが敗れ、自害した。

  『姓氏家系大辞典』に掲載の久米氏の系図では、三好長輝が伊予国喜多郡久米庄を領して久米氏を称したといい、長輝の子の元長の弟に久米義広をあげ、その子に義昌(赤松氏を称、仕蜂須賀氏)・義房を記載する。久米義広の父祖は、永正十六年(1519)の三好長輝の最後の上洛の際に海部・久米・河村などの国人層として見えるから、この系図は勿論、疑問である。その一方、「芥川系図」には南北朝期ごろの左京亮義隆の子に左京亮茂宗、その子に久米三郎為永・同弾正忠成基の兄弟を記すから、この兄弟の末流に安芸守義広が位置づけられよう。三好・久米のどちらにも同族と伝える系図があるので、互いに同族であったことは否定し難いと思われる。
  また、『諸系譜』所収の阿波古文書類では、第十九冊の名東郡古文書類の中に「芝原村久米家所蔵久米系図」があり、久米義広については、長輝の子の長基(元長)の弟に置いて同様であるが、その子に義久・義貞・某(六郎兵衛)・義国をあげて異なっている。次ぎに、第二十冊の名西郡古文書類の中に「久米家所蔵古文書并久米系図」があり、久米義広の弟・石見守義澄が養嗣として入った久米家の系図が記載される。これは不思議な系図であり、孝霊天皇の後胤、陸奥大臣惟康の苗裔として、阿波国浦新庄の遠藤武者盛任の後とする。その三代の孫、建治(1275〜78)頃の頼員から具体的に歴代があげられるが、名前には「惟」をつける者が比較的多い。義澄の養父を惟喜(その父が義昌、その父が惟任)として、義澄以降は義尚、その子を義信としている。この系図は、どの程度、信頼できるか疑わしいが、「孝霊天皇の苗裔の遠藤武者盛任」という辺りは、伊予の越智・河野一族の系図を意識しているのであろう。
  久米氏については、『故城記』に「名西郡分、久米殿、平氏、立二引竜十文字」と載せ、一本には「源氏、二引竜十文字」と記される。太田亮博士は、阿波の「宮任殿、浦殿、白鳥殿、高川原殿、箕局殿、徳里殿、行万殿」等、何れも平姓久米氏の族とす、と記している。また、『城跡記』では、高河原城・徳里城とも主将白鳥氏で、二ツ引両・平氏と記している。久米氏が何時、伊予から阿波に来て、その後の分岐過程がどうだったかは不明であるが、南北朝後期頃に三好氏と久米氏とが分離したという系図の所伝は、とくに不自然ではない。

  本稿の最初に掲げた三好氏の先祖「義長の没年が至徳三年(1386)」という所伝も、「義長」ではなく、実質的に阿波に定着した者が、至徳三年頃に死去した意味と読み替えれば、総じて辻褄が合うのではなかろうか。その者とは具体的にいえば義房とみられ、次に初めて三好を名乗った者とは、おそらく義房の子の義資かその次代の義範(義長の父)であろう。その頃に、阿波の細川家臣で最大の勢力であった阿波小笠原氏が著しく衰退したような事情(その本宗の断絶も考えられる)があって、これが、郡名である三好を名乗った要因であったと推される。三好の初称時期は不明だが、おそらく義長の成人以前で、父とともに義長が三好を名乗ったものではなかろうか。
  三好氏の先祖は、建武中興の前後から、伊予に片足を置きつつ伊予につながる阿波山間部に進出してきていて、南北朝後期になると阿波に本拠を移し、阿波守護細川氏の下で勢力を貯えて、次第に小笠原氏に替わっていったものであろう。その際、小笠原氏の後継と称して、両系図を接合させ、源氏を名乗って家紋(松皮菱及び三階菱)も小笠原氏と同様なものとしたとみられる。その間、小笠原氏一族と三好氏一族との間には、かなりの通婚や猶子例も生じたことが推される。
  三好氏に少し遅れて阿波に来た久米氏は、平氏を名乗り、家紋も従来のものを用いたが、それでも三好同族という所伝は保持したのである。全くの偶然かもしれないが、三好氏の本拠が三好郡の芝生で、久米氏の本拠が名東郡の芝原であり、伊予国宇摩郡柴生(現川之江市)から阿波国の三好郡芝生(現三野町)、阿波郡柴生(現阿波町)、勝浦郡芝生(現小松島市)へと「シバフ(しぼう)」という地名がほぼ等間隔で連続して見える(斎藤茂氏の指摘などに拠る)。伊予でも喜多郡粟津郷のうちに「柴」という地(現長浜町南部)があり、現大洲市域に接していた。


   久米氏一族と伊予国

  三好・久米一族の故地が伊予国喜多郡の久米荘だとすると、どういうことが分かってくるのであろうか。
  喜多郡の久米荘は、端的には史料に見えないが、『和名抄』の喜多郡久米郷の後身とみられ、その郷域は、旧喜多郡大洲町・喜多村・久米村・南久米村辺りを含んで現大洲市の中心部を占めていたと思われる(『愛媛県の地名』)。この地域は、古代の久味国造の領域に隣接(ないし近隣)しており、久米郷という郷名からいっても、久味国造一族が開発・居住したことに違いなかろう。久味国造は神別の久米氏族に出て、軽島豊明(応神)朝に久味国造に定められた伊与主足尼の子孫であり、久米直・浮穴直などの姓氏をもっていた。三好氏が南北朝後期に久米氏と分かれたとしたら、久米直の末流であったと考えるのが自然であろう。

  阿波の三好氏が伊予の出自としたら、伊予にも戦国期に三好を名乗る人々がいたことも肯ける。古代久味国造の領域は、現松山市の東部からその南方の上・下浮穴郡に広がっていたが、戦国末期、旧温泉郡湯山村の菊ヶ森城(現松山市東部の食場町)は三好長門守秀吉の居城であった。三好秀吉は主家河野氏の滅亡により浪人となり、一時広島に流浪したが、子孫は帰住して湯山村の庄屋を務めたという。その家記によると、石手川上流の湧ヶ淵(松山市宿野町)の大蛇が美女に化けて村民に害を与えたので、鉄砲の名手であった三好秀吉の長男蔵人之助秀勝がこれを退治したと伝える。この三好氏の系譜は不明であるが、おそらく阿波三好氏と早くに分かれた同族だったのではなかろうか。
  三好氏の喜多郡における同族は具体的には不明であるが、もと喜多郡宇津の大野城(現大洲市菅田町)の城主で、河野氏により迎えられ上浮穴郡の久万大除城にあって土佐の長曽我部氏に備えた大野氏は、古代久味国造の族裔であった可能性がある。大野氏は大伴姓あるいは橘姓とも伊予親王の御子浮穴四郎為世の子孫ともいうが、その居住地などからみれば、古代久味国造の族裔とみるのが自然であろう。一伝に大伴姓というのも、久米氏族と大伴氏族が上古にあって同族であったことを考えると、興味深い。大野一族には本宗のほかに、東殿・尾首殿・尾崎殿・木戸殿や城戸・菅田氏がおり、これらの子孫は、江戸期には現上浮穴郡の久万町(父野川村)や小田町にあった諸村(寺村、立石村、本川村、中川村、上川村)の庄屋を務めた家をかなり出した。なお、阿波にも系譜不明であるが、那賀郡に大野氏がおり、『故城記』には「那西郡分、大野殿、源氏、カトスハマ」とあげられている。

  久米氏族はわが国古来の原住民、山祇族の流れであり、伊予でも本来、主に山間部にあったが、山岳地帯を東に進んで、阿波の山間部の三好郡に至ったものであろう。今谷明氏は、三好氏の出身地である阿波奥郡など四国の山間部が、犬神信仰など異なる土俗があり、焼畑農業や平家落人伝承に彩られているように、畿内とは相当に隔たった異文化の地域であることに留意しておきたい、と述べるが(『戦国三好一族』)、まさにそうした地域で、わが国古来の山祇族の末裔三好氏が成長したものと思われる。

  南北朝期、三好(美馬)郡祖谷山にあって最後まで細川氏に抵抗を示した菅生氏も、源姓小笠原の族と伝えるが、その実、三好氏と同族ではなかったかと推される。東祖谷山の菅生家所蔵の古文書には、たんに小笠原長房の末流として、具体的な系図は示さない*16。祖谷山には喜多氏もおり、陸奥宮城郡から来住した小野寺氏の後というが、これもおそらく陸奥出羽の小野寺氏とは別族であり、伊予国喜多郡から遷った三好・久米氏と同族で故地の名を名乗ったのではなかったろうか。阿波岩倉城の三好徳太郎(笑岩入道の子)に見られるように(『古城諸将記』)、阿波小笠原の族と称して三階菱の旗を伝えた四国の諸氏は、みな同じ流れであった可能性もある。また、土佐嶺北、長岡郡豊永郷の小笠原・豊永氏も、おそらくそうであろうし*12、土佐国安芸郡井之口村(現安芸市)から出た三菱財閥の岩崎氏についても、甲斐源氏武田・岩崎一族の末裔ではなく、久米ないし三好の同流だった可能性があろう。
  阿波の諸氏には、その出身地を伊予とするものが他にも見られており、『徴古雑抄』所載の諸書に拠ると、越智・河野一族の流という越智・新居・古川・高市(武市)・池田・小牧などの諸氏、伊予住人大森彦七盛長の末という長塩氏のほか、後述の矢野一族があげられる。久米一族なども併せて考えると、戦国末期の阿波有力諸氏のなかでは、伊予関係者がかなり大きい割合を占めていたことがわかり、往時の阿波・伊予の交流が密接であったことが推測される。
                                


 〔註〕


*12 豊永の小笠原氏については、その嫡系の小笠原幹夫氏が高知県立図書館に寄贈した資料があって、『大豊町史』に掲載される。それによると、小笠原頼実の子の刑部大夫頼忠の子の右京亮道資と続いて、その子の備中守資宜が土州豊永に来住し長岡郡一万石を領し豊永と号したとされる。備中守資宜は永正七年(1510)に五十五歳で没し、以降は越後守資貞−信濃守盈貞−筑後守道賀−式部大輔道実−松寿丸であり、道賀の弟に内蔵介茂政、中務丞実吉などをあげている。
  これらの豊永一族の人々は寺社関係の銘文・棟札に見えており(『姓氏家系大辞典』オガサハラ第17項参照)、その系図は越後守資貞以降はかなり信頼性が高いとみられる。銘文・棟札に見えるものでは、『南路志』所引の豊永郷粟生定禅寺鰐口銘に「土佐国長岡郡粟生村定福寺敬白、明徳二年辛丑十二月、大願主源頼忠」、また大平天王社棟札に「天文四年十二月、檀那源朝臣資貞」、中屋妙見社棟札に「天文十九年十二月、小笠原盈貞」、寺内豊楽寺鐘勧進帳に「天文廿四年五月敬白、小笠原筑後守道資、小笠原道実、小笠原松壽丸、豊永内蔵介茂政」とあるという。
  明徳二年の大願主源頼忠が阿波の小笠原一族とすることは十分ありえるが、頼忠とその子とされる右京亮道資とは年代的にも合わず、また通字にも違いがあって、道資以下は頼忠の跡を襲ったということで、源姓小笠原氏を名乗ったものではなかろうか。同系図の記事には、先祖小笠原越後義長の四代目孫が豊永と革めたとも見えており、小笠原越後義長とはおそらく三好義長のことではないかとみられる。その場合、豊永氏の実際の出自は三好一族であり、年代的には三好義資−資信の子孫に備中守資宜以下が位置づけられるのではなかろうか。

*13 「三吉」という表記は、三好とも三次とも書く備後の大族三吉氏について多く見られ、その一族が室町幕府の御番帳や『応仁記』(応仁の乱の当時、大内氏に従った三吉式部大輔が在京したことが見える)等に見えるので、阿波の三好氏と分別して考えることが必要となる。本稿でも引用した三好氏関係の従来研究がその辺を分別しているかは、多少不明な点もあることをお断りしておきたい。

*14 東大史料編纂所には別本の「芥川氏系図」があり、福井県鯖江の芥川強蔵本を明治三十六年に謄写したものである。それによると、芥川長則の子の孫十郎長遠(孫十郎勝長と同人か)の長子という長嗣の子孫と記される。こちらの系図は三好長輝から始まるが、長遠以下の世代・人物は、本稿で取り上げた「芥川系図」には全く見えない。

*15 元長を長輝の孫とみる説について、管見に入ったところで代表的なものをあげると、吉川弘文館版『国史大辞典』、阿部猛等編『戦国人名事典』、三省堂編『コンサイス人名辞典 日本編』の「中世姓氏要覧」三好氏、長江正一著『三好長慶』、『日本の名族十 四国編』の三好氏、新人物往来社版『日本史総覧 中世二』所載の「武家系図」の三好氏の二本(318頁、365頁)など、極めて多い。なお、『南海治乱記』では、やや変則な形だが、「長輝−之長入道喜雲−元長入道海雲」として、長秀を之長の兄としている。

*16 『諸系譜』第二十三冊所収の東祖谷山村菅生新九郎所蔵文書では、小笠原長房が文治建久の頃、阿波国守護職となり阿波に居住して、その末流の菅生大炊助が祖谷山に引き籠り居住したと記される。しかし、菅生氏は小笠原氏が祖谷山に引き籠もって発生したのではなく、南北朝争乱期には既に発生していた。

  (次に続く


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