(三好長慶の先祖 3)


 4 阿波の小笠原一族と三好一族の分布 

  小笠原一族・三好一族の苗字と分布

  阿波では、鎌倉期に小笠原氏が栄え、室町中期以降では三好氏が栄えて、「両者が一系でつながっている」と称されたことで、当地では清和源氏小笠原氏の出自と称した氏が多かった。
  小笠原氏は三階菱・松皮菱を家紋としたが、『古城諸将記』『城跡記』『故城記』『大田文』(これらの書は『徴古雑抄』等に所収)などによって、十六世紀後半の元亀天正年間頃に同様な紋で小笠原氏出自を称した諸氏を見ると、阿波全体で四十以上を数える(さらに、同数ほどの源氏出自という諸氏もあった)。このうち、西部の美馬・三好郡と東部の板東郡に分布が多く、各々十以上の氏があげられる。これは、小笠原氏が三好郡の池田大西城を守護所としたことや、三好氏が三好郡に起り、のち板東郡の勝瑞城に根拠を移したこと等の事情によるもので、これら諸氏には実際の小笠原一族と三好一族が混在していた(他の氏族も当然入っていたであろうが)、とみられる。

  小笠原一族の流れを引くと称した諸氏について、前掲諸書に拠り具体的にみてみると、若干の異同はあるが、概ね次の通り。
 板東郡 三好(勝瑞屋形)、板東、撫養、島田、佐井田(斎田)、大代、姫田、
   馬詰、得命(徳命)、野口(一に野江)、北原
 板西郡 赤沢、野口(一に野中)、高志、堤、堀江
 麻植郡 麻植、寄来
 名西郡 高畠、三好(下六条)、津茂(津毛
 以西郡 高輪、八千蔵、一宮、河南
 名東郡 早淵(一に埴淵)、島田、矢三、石川、折野
 勝浦郡 赤沢
 那西郡 立江(小笠原
 那東郡 坂西
 上郡美馬三好郡 三好(足代及び岩倉)、重清、上野、貞光(小笠原)、大炊、西村、原、
   南、中、松尾、敷地、野口。
 なお、阿波郡及び海部郡は無し。

  以上の諸氏の具体的な系図は必ずしも明らかではないが、「芥川系図」などを踏まえて、まず実際の小笠原一族を析出してみよう。この戦国末期の時点でも、小笠原を号している貞光・立江の出自はまず間違いなかろう。
@貞光 美馬郡貞光城(現貞光町貞光)に拠る小笠原尾張守長定が『古城諸将記』に見える。小笠原氏が何時、貞光に来住したかは不明である。貞光村付近には源姓多田氏がいたが、後述する。なお、その隣村の太田村には武田氏がおり、『故城記』に「太田殿 武田 源氏」と見える。
A立江 那西郡の立江城(現小松島市立江)に拠る小笠原左京が『城跡記』にあげられる。文化六年の棟附帳では、立江城主小笠原氏が大林村(現小松島市中央部の大林)に移住して西崎・椋崎の地を開発したという(小松島市役所立江支所旧蔵文書/史窓1)。小笠原左京は、「芥川系図」に小笠原長定(尾張守)の弟に置く長三(小笠原肥前守)と同人か。長三は居那賀郡中庄村と記されており、観応二年の文書(観応二年九月五日の阿波守護細川頼春預ケ状)に立江中庄と見えるから、立江に通じると考えられる。
  貞光及び立江の小笠原氏は、重清以下の諸氏と違って、系図や歴代がはっきりせず、しかも芥川系図にその関係者が見えるだけに、却って小笠原嫡系に近いとみられる。

  以下は、掲載分量の関係で、詳細は省略して(『旅とルーツ』誌掲載の稿を参照のこと)、
  ここでは小笠原一族とみられる苗字とその起源の地のみを記載しておく。
B重清 美馬郡重清村(現美馬町重清
C早淵 名東郡早淵村(現徳島市国府町早淵
D赤沢 不明。板西郡の板西城(現板野町古城)に拠った(『古城諸将記』)
E高畠 名西郡高畠(現石井町藍畑
F板東 板東郡
G折野 不明
H麻植 麻植(麻殖)郡

  現存の資料から考えて、小笠原一族としてよさそうな諸氏は、これらくらいであろう。それでは、阿波小笠原の出と称する残りの苗字がみな三好一族かというと、必ずしもそうではない。そのことは、一宮氏や大西氏等の例があるように、他の氏族が系譜仮冒で小笠原氏の系図に接合させたともみられるからである。とくに一宮氏は古代から続く阿波国一宮大宮司家であって、戦国末期まで大きな勢力を持っていた。

  次ぎに、三好一族とみられる諸氏である(これも分量の関係で詳細は省略して、苗字・起源の地のみ記載)。なお、三好元長兄弟の世代以降に他家に養嗣として入った芥川・安宅・十河・野口の諸氏は、特に問題がないようなので、ここでは取り上げない。
@野口  不明。板東郡・板西郡に居(『故城記』
A高志  名西郡高足郷(旧高志村。現上板町高磯一帯)か。この一族に吉野。
B斎田  板東郡斎田村(現鳴門市
C大久保 大久保の地名は那賀郡・海部郡にあるが、どの地の大久保かは不明。
D吉永  板東郡吉永村(現鳴門市大津町吉永
E川田  麻植郡川田村(現山川町
F板西  板西郡(板野町
G笹川  不明

  このほか、小笠原・三好氏との関係で問題となる大西氏や矢野氏についても、併せて記しておく。
  大西氏は阿波西部の大族で、三好郡田井荘の大西郷(現山城町から池田町西部にかけての地域)に起り、白地城(池田町白地)を居城とした。その関係資料を総じて見ると、系譜を阿波小笠原氏に架けるものもあるが、出自には異説が多く*17、阿波小笠原一族から出たことは否定してよい。おそらく阿波忌部の末流で、近藤氏の後ではなかろうか。
  矢野氏は以西(名東)郡矢野村(現徳島市国府町矢野)に居住した。阿波の矢野氏は、伊予の矢野氏が遷住したものとみられる。伊予の矢野氏と同様に橘姓(実は越智氏族から出た冒姓)であり、本拠の矢野村に大山祇社が鎮座する事情も、傍証にあげられよう。


  まとめ

  以上、三好氏を中心に検討し、関連して阿波の有力諸氏の動向等も見てきたが、
(1) 阿波の三好氏が従来認められてきた小笠原氏の出自ではなかったこと、これも含め戦国期の阿波の有力諸氏でかなり多数が小笠原一族の出自と称していたが、その殆どが系譜仮冒であったとみられること、
(2) 中田憲信編纂とみられる『諸系譜』が中世及び戦国期の阿波検討に際して、重要な資料となること、
などがわかってきた。同書は国立国会図書館に原本一セットが所蔵されるのみであるが、現在、『諸系譜』全巻は雄松堂出版の手によってマイクロフィルム化されて販売されている。大きな図書館では購入してこれを備えるなど、従来に比べ利用しやすくなっている事情にもあるので、その紹介も兼ねて本稿を記述した次第である。
  阿波の小笠原氏・三好氏については、まだ相当に資料不足の感もあり、阿波小笠原の庶流たる石見小笠原氏など周辺諸氏・一族の系譜などが更にわかってくると、明確になる部分も必ずや出てこよう。
  本稿で記述してきた小笠原氏及び三好氏の略系について、一部推定を含む形で現段階の整理をして、挙げておきたい。<阿波小笠原、三好氏略系図>参照

  先にも述べたように、南北朝期の両氏関係者については異伝が多く、かなりの混乱・混同も見られるので、新たな資料が出てくれば、当然再考の余地があることもお断りしたうえでの提示である。また、本文では書き及んでいない部分も若干あるが、この辺も更に資料がほしいところである。
  とりあえず本稿はこの辺で終えることにするが、信濃や石見等の小笠原氏も含めて、更に問題意識をもっていきたいと考えている。なお、本稿作成に際して、香川県在住の斎藤茂氏から豊永小笠原氏の系図等について貴重な教示を得られたことに、改めて謝意を表しておきたい。
      

 〔追記〕

  本稿の『旅とルーツ』誌掲載中に、小笠原氏について知見の多い真野信治氏のご教示をうけた。そのなかで、徳島市の史学研究誌『ふるさと阿波』(170、171号)に掲載された若松和三郎氏の論考「建武政権前後の阿波小笠原氏について」は、建武期の阿波小笠原氏の動向について私の気づいていなかった資料を数個掲載しており、私見の再検討に役立った。これら資料を提示するとともに、再考した結果も追記しておきたい。

(1) 本稿に挙げなかった新資料は次のようなものである(「……」以下は、若松氏の記事を踏まえた私の解釈)。
○金沢文庫蔵「鶴見寺尾庄図」建武元年(1334)五月十二日に「寺尾地頭阿波国守護小笠原蔵人太郎入道」。……寺尾は武蔵国師岡保のうちで現横浜市鶴見区寺尾付近であり、この図に現れる「小笠原蔵人太郎入道」とは、若松氏も指摘するように、『尊卑分脈』等からみて、阿波小笠原本宗の長義であることは認められる。しかし、この長義について、『建武記』所載の同年正月「関東廂番交名」にあげられる「讃岐権守長義」に比定することは、「蔵人太郎入道」として官職名をあげず既に入道している事情から見て、疑問が大きい(小川信氏の指摘に同旨)。

○「賀茂社行幸供奉足利尊氏随兵交名」(朽木文書・小早川家証文)建武元年(1334)九月二十七日に「小笠原七郎頼氏」「小笠原七郎次郎頼長」。……足利尊氏の随兵総員四九名のなかに、細川帯刀直俊等と共に両者の名が見える。この「七郎頼氏」は、『尊卑分脈』五郎頼久の子に掲げる「小五郎頼氏」と同人であろう。「七郎次郎頼長」は系図には見えないが、年代的に考えて頼氏の子弟と推される。

○「阿波守頼氏請文写」(疋田家本『離宮八幡宮文書』)建武二年(1335)九月二日に「阿波守頼氏」。……若松氏もいうように、前掲の「小笠原七郎頼氏」と同人とされよう。なお、一年後の延元元年(1336)九月には、南朝方の武者所結番に「小笠原周防権守頼清」が見えるが、阿波守頼氏とは別人の一族で、おそらく頼氏の弟ではないかと推される。

○『仁和寺文書』観応二年(1351)四月十一日付けの「小笠原源蔵人宛文書」(『大日本史料』第六編之十四所収)、及び『高橋文書』観応二年(1351)七月四日付けの「小笠原源蔵人、小笠原蔵人太郎」(『南北朝遺文』中国・四国編第三巻所収)。……ともに阿波国内の地での遵行を命じた幕府奉書であり、「小笠原源蔵人」は、年代的に考えて前掲の「小笠原蔵人太郎入道」(=長義)の子と推されるので、義盛に比定されよう。「小笠原蔵人太郎」は称号からみて、「小笠原源蔵人」の子ではなかろうか(実名は不明、左近将監盛衡か)。こう考えれば、義盛と頼清はほぼ同時代の人で、義盛が北朝方、頼清が南朝方で一族争ったことがはっきりする。

(2) 小笠原一族諸氏の系譜は不分明なものが多く、私としても何度も考え直したが、確認し得ない事情にもある。そうした制約の下であるが、本論で記述した内容を多少とも変更する方向に傾いている諸点を、留意すべきものとして最後にあげておきたい。

○前掲の長義・義盛の活動年代や石見小笠原氏の発生時期などの検討から考えて、阿波小笠原本宗の系譜には、長久と長義との間に一世代の欠落があるのではないかと推される。その場合、間に「彦太郎長氏」という人物が入るのではなかろうか。この考えの下では、石見小笠原氏の祖・四郎長親等『尊卑分脈』に掲げる兄弟は長久の子、長氏の兄弟に位置づけられよう。

○阿波小笠原一族の重清氏の系譜はかなり複雑であるが、長房の弟、小三郎長時の子の又三郎長宗を祖として、その子長尚が夭折して、阿波本宗家から四郎長親が継ぎ、その子左近長宣(長則)の跡をまた本宗家から四郎長宗が継ぎ、以下は長利−長勝……と受け継がれたものか。長親は信州筑摩郡麻績郷地頭として麻績四郎とも号した(その子に麻績三郎長光がおり、石見で活動した)。また、長宗が一宮城に居て「一宮」四郎と号したとしても、退隠してこの地を退き美馬郡重清に在城したと伝えており(『諸系譜』巻十九所収「小笠原一宮系図」)、戦国期まで続く一宮氏はもともと異姓別系統であった。
  この重清氏や赤沢氏に限らず、小笠原一族では信濃・甲斐と阿波の双方に所領や活動の舞台をもつものが幾つかあって、系譜関係を複雑にしている。
                                

〔註〕

*17 斎藤茂氏の論考「阿波における小笠原家の守護舘に関する所論」(『大豊史談』第20号、平成元年)では、大西氏について「山城谷村史」など様々な資料が記載され、検討がなされている。 


 (以上は平成12年5月了。HP掲載に際して若干修正)

 (02.11.24掲上)

  〔本稿についての応答 (1)〕     (03.2.9 掲上)

  〔本稿についての応答 (2)〕     (05.7.10 掲上)



 (関連ないし補足の論考)

  〔三好三人衆についての雑考〕  (03.9.26 掲上)

  〔板野郡七条城主の七条氏〕   (06.5.21掲上)

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