〔本稿についての応答 (2)〕



「三好長慶の先祖」−阿波三好氏の系図疑惑について−に関する疑問 
(05.4.13受信)

  私は以前、ko−po名で投稿した三好辰男と申すものですが、今回改めて本稿を精読して納得の行かない点が浮上してきましたのでお尋ねします。
 
(1) 系図資料の偏り

 本稿では三好家の傍流である芥川氏・十河氏の系図を元に阿波小笠原氏との接合部を疑問視しておられるが、参考資料としては宗家筋にあたる三好義興・義継あるいは岩倉三好氏の系図も含めて分析するのが理想ではないかと考えられます。
  私が最近拝見した義興の遺児の子孫の方の系図には、小笠原氏との接合部について貴方が金科玉条のように申されておる「文脈」(『分脈』のことか?)に登場する人物になっており意味不明であった「長直・長親・長宣・長宗」と称号の横書き等も記載されておりました。長慶の実子の子孫として最も真相に近い情報を伝えているのではないでしょうか。
説明するまでもなく、分家筋は宗家のものを書き写す場合が多いわけだから、その機会が増えるたびに内容が変化して意味不明の部分が生じるのは避けられません。
  この点に関して三好氏歴代の氏名に関して私見ではありますが、戸籍名である「小笠原名」と通名である「三好名」の二種を使いわけていたのではないかと考えています。即ち「小笠原長行=三好義基」、「小笠原長輝=三好之長」、「小笠原長基=三好元長」という風に信濃を含め京都、阿波に多数分布する小笠原氏との区別をつけるために通名を多く使用したのではないでしょうか。
  この考えで三好系図を理解すると「義長」の父とされている「長隆」は義長の小笠原名にあたる。ですから、系図に記載する場合も宗家筋は小笠原名で列記し分家筋は通名で列記して区別しているのではないかと考えられます。
 
(2) 系譜仮冒の矛盾

  本稿では、我が国最古の原住民、山祇族の流れである伊予の三好氏が建武の中興の前後から、伊予に片足を置きつつ阿波山間部に進出してきていて、南北朝後期になると阿波に本拠を移し阿波細川氏の下で勢力を貯えて次第に小笠原氏に替わっていったものであろう、その際、小笠原氏の後継と称して、両系図を接合させ、源氏を名乗って家紋も小笠原氏(三階菱)と同様なものにしたとみられる。(著者記)とボロクソに推論されている。
  また本稿では至徳三年(1386年)ころ死去したとされる人物で伊予から来住して定着した三好義房(義長の曾祖父)の頃、阿波の細川家臣で最大の勢力であった阿波小笠原氏が著しく衰退したような事情(その本宗の断絶も考えられる)があって、これが、郡名である三好を名乗った要因であったと推される。 とも述べられておる。
  ここまでの著者(宝賀氏)の説明では、伊予出身の名門ではない氏族・三好氏は阿波の名門である小笠原氏に南北朝後期に系譜仮冒して、
 (イ)小笠原長房の子孫の三好氏である、 
 (ロ)小笠原長義の子孫の小笠原氏である、(三好義房)・・・と称していたはずである。
(イ)の場合、三好(伊予)から三好(三好郡)になり改姓の意味がないし、系譜所伝の「京都小笠原氏から養子に迎えた義長から三好を名乗る」とも結びつかない。
(ロ)の場合、折角、系譜仮冒して名門小笠原氏の仲間入りしたのに、逆行して日本最古の原住民の子孫である卑しい、三好氏に戻ることになり系譜仮冒がばれる要素になっていたかもしれない。
  特に、三好氏が阿波小笠原の後継と称していたのであれば、守護細川家臣で最大の勢力であった阿波小笠原宗家が著しく衰退した事情等があれば、なおさら「小笠原氏」を強調しなければならないはずである。
(イ)(ロ)のいずれの場合も、義長の先祖の三好氏が元からの小笠原氏であれば、「通名の三好氏」から「公式名の三好」への変更ということになり所伝とも合わせて考えると良く理解できる。
  上の阿波小笠原氏への系譜仮冒に関して抵抗なく理解できるケースは、たとえば「鎌倉初期、守護小笠原長清の家臣の某氏が三好郡に定住し勢力を貯え南北朝の騒乱期に主家を凌ぐ勢力になったときに先祖を小笠原長清の子につなげて小笠原氏を自称する」・・・というのであれば無理がない。
 
(3) 守護細川氏との関係

  本稿では、南北朝後期に勢力を貯えた伊予出身の三好氏が細川氏の下で勢力を増強し、小笠原宗家の所有していた領地を継承して阿波最大の勢力となったと説明しているが、室町時代前期は守護の威令が有効に働いていたと考えられるので、空白となった小笠原宗家の領地を守護の許可なく三好氏が独断で手にいれるというのは現実的ではない。
  この場合、小笠原宗家の親族が宗家の衰退を補うように、その領地と勢力を継承していったと考えるのが自然であろう。
  私見ではありますが、岩倉を本拠にしていた義長の先祖=長慶の先祖が、その親族であると推測します。そうでないと、南北朝時代の後(1380年〜)から1400年代初めに西阿波三郡を支配し守護代として細川氏の家老職を代々勤めていたという歴史的事実と、そこに至るまでの年代を考慮すると、それだけの大業を伊予からの新参者が短期間で実現できるとは思われない。
  上のことが短期間で実現できるのは、応仁の乱以降の戦国期にはいってからでしょう。
  南北朝期、阿波国内の土豪の領地が株式化され証券取引所に上場されているのであれば、伊予の三好氏が金の力で西阿波三郡を「LOB」で買収できたかもしれない。

  (05.7.10 掲上)



 <樹童からのお答え>

1 総論上記の(1)にも若干関連します

  三好氏に限らず、系図研究は多角度から総合的に冷静に行っていくことが必要です。三好氏及び小笠原氏関係の系図は、中田憲信編纂の『諸系譜』に多数所収されておりますが、なかでも同書の第一七冊から第二三冊までに、中世・近世の阿波の系図・古文書が名東郡、名西郡、勝浦郡、那賀郡、海部郡、板野郡、美馬郡及び三好郡の郡毎に収められているのが大変参考になります。これらを参照いただければ、阿波の三好・小笠原の系図所伝がきわめて混乱し、異説が多いことが見て取れます。
  これらに『尊卑分脈』、『群書類従』、『諸家系図纂』などに掲載の通行する系図史料等、できるだけ多くの資料を併せ考えて、系図の原型を探る試みが必要となってきます。これら数多い系図のなかから、命名方法・官職・称号・世代などを含め記述がもっとも信頼性がおけそうなものを選んで考える必要があり、それがHPに記載の系図だったわけです。従って、本宗家であれ、庶子家であれ、内容がもっとも妥当であれば、それを取り上げる必要があるわけです。早くに遠隔地に分かれた庶流の家に貴重な系図・所伝が残されることが往々にしてあります。
 
2 個別のお答え
 
(1)について

@ 三好長慶の実子・養子となって三好本宗を承けた三好義興・義継については、その子孫と明確に認められるものはおりません。十六世紀後葉に三好本宗が断絶・滅亡したと考えるのが自然であり、その際に系図などの家伝資料があったとしても散失損失されたとみられます。阿部猛等編『戦国人名事典』でも、「天正元年(1573)、義継が敗れ本宗家は滅ぶ。また阿波三好氏は同五年、讃岐三好氏も同十四年に滅んだ」と記載されており、この辺が歴史認識の基礎となります。
  近世以降において、三好義興ないし義継の子孫と称する家は、瀬戸内の伊吹島に限らず遠く仙台にもありますが、それらが一族門葉であっても、直系の後裔とするのはきわめて疑問です。例えば、仙台藩家臣の三好氏は、長慶の後はその子義経(義継の誤記か)−義元と続き、義元は井内を称して京都に浪人し、慶長年間に伊達政宗に銃術をもって五百石で仕え、それ以降良之−良成−義冬……と続いたと伝えますが(『宮城県姓氏家系大辞典』角川書店刊)、義元が義経(義継の誤記か)の子とするのは疑問もあり、これが正しいとしても古くからの系図所伝を保持していた保証はまったくありません。瀬戸内伊吹島の三好氏についても、ほぼ同様なことがいえます。
 
A 『尊卑分脈』の史料の重要性については、その昔、系図研究を始めたころはあまり感じませんでした。ところが、長く研究を続けているうち、成立が古くその当時の比較的信頼のおける系図史料に基づいて編纂されたことが実感として分かってきました。もちろん、同書には多くの誤りもありますが(従って、個別具体的な検討は欠かせませんが)、それでもまだまだ他の系図史料に比べ、信頼性が格段に違いがあります。これは、系図研究の基本認識でもあります。
  同書に見えず、他の系図に見える記事は、戦国期以降の仮冒・附載などという疑いが強く、十分な検討を要するということでもあります。一伝に三好氏の先祖にあげる「長直・長親・長宣・長宗」については、実在の証拠も、実在した場合に三好氏の先祖であったという証拠もまったくありません。また、義長が京都小笠原氏から養子に迎えられたことも疑問が大きく、京都小笠原氏の系図に義長なる者がおりません。この辺の事情は、本編に記載のとおりです。
 
B 「戸籍名である「小笠原名」と通名である「三好名」の二種を使いわけていたのではないかと考えています。即ち「小笠原長行=三好義基」、「小笠原長輝=三好之長」、「小笠原長基=三好元長」という風に信濃を含め京都、阿波に多数分布する小笠原氏との区別をつけるために通名を多く使用したのではないでしょうか。」という貴見は、まったくの想像で、歴史的な議論とはいえません。
  三好・小笠原は苗字(いわば通名)に過ぎず、本姓は源朝臣であった(と称していた)、ということです。一人が複数の苗字を併称していたことはありますが、その場合も「太郎、次郎」などという呼称の部分が異なることはあっても、苗字により実名が異なって、それを同時期に併せて用いたなどと聞いたことはありません。
 
(2)について

  貴見の趣旨が私にはやや不明な部分もありますが、とりあえず、次のように説明しておきます。
@ 山祇族の流れが卑しく、清和源氏が尊いとは私は必ずしも思いませんが、当時の系譜尊重のなかでは、一般に清和源氏や小笠原氏により重要な価値を見出していたであろうことは十分に考えられます。
  ところで、阿波の三好氏の先祖が伊予にあったとして、そのときに三好氏を名乗っていたことは考えられません(おそらく久米氏かその一族の苗字)。阿波の三好郡に居た当地の有力な氏だからこそ、三好を名乗り、それが義長かその近い父祖の時代であったとみられるということです。しかも、阿波の小笠原氏に直接つなげることができずに他所(京都)から養嗣に入ったとして、接続の無理を説明しようとしているものです。
 
A 室町前期において、阿波小笠原の宗家がどのように残っていたかは不明(南北朝後期に細川氏と対立していた事情がある)であって、その一族が守護細川家臣に仕えたことは『相国寺供養記』などの史料で確認されますが、細川家臣の最大の勢力であったかどうかも不明です。ただ、前代の守護として阿波小笠原の後継と称する意味は十分にあり、三好氏と阿波小笠原後裔とはおそらく何らかの通婚関係(多少の養猶子関係も含めて)はあったのではないかともみられます。義長が本来の阿波小笠原氏(しかもその本宗)の家督であれば、三好に改める必然性はないものと思われます。
 
(3)について

  三好氏が阿波小笠原の後裔と名乗るようになったのは、上記にもありますように、両者になんらかの縁戚などの関係があったのではないかともみられます。室町前期の阿波小笠原氏の領地がどのくらい、どの地域にあったのかは不明ですので、貴見には従えないところです。貴見の言われる「南北朝時代の後(1380年〜)から1400年代初めに西阿波三郡を支配し守護代として細川氏の家老職を代々勤めていたという歴史的事実」は、阿波小笠原氏についてはありません。三好氏が応仁の乱の少し前代頃に西阿波の守護代クラスに成長していた事実を取り違えていませんか。
  なお、細川氏の阿波・讃岐などの家臣団で、南北朝期〜室町前期に他地から来てその地の有力者になった例は枚挙にいとまなく、讃岐の香川、安富などの諸氏を例としてあげておきます。

 (05.7.10 掲上)


 
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