〔本稿についての応答 (1)〕 (1) ko-po様よりのご質問・問題提起(03.2.5受信) 1 三好長慶の先祖というのを読ませてもらったのですが、確かに系譜上、三好氏祖と言われておる「義長」と「長輝(之長)」の間には代数にあいまいというか何代か飛んでいます。 その辺を最大の疑問点として、長慶の先祖の三好氏が、伊予から阿波へ移転してきて、南北朝期のどさくさに、阿波「小笠原氏」に入り込んだ即ち相模の伊勢新九郎が「北条氏」を名乗って鎌倉期の北条氏と血縁関係があったように思わせたのと同じ行為をしたのではないか?という結論のように理解しました。 2 しかし、阿波「三好氏」の場合、本当に「小笠原氏」に入り込んで「系譜」を偽造したのであれば、戦国時代当時から、その出身を疑うような「噂」のような文献が存在していてもおかしくないはずですねえ? 現在の社会でも100〜200年くらいの伝承で各家庭の出自や経歴は伝わっています。南北朝期、もし長慶の先祖が、阿波に土着して会長が指摘されるように小笠原に入り込んでいたなら、メディアの発達していない当時でも知られていたはずです。 鎌倉期から勢力をもっている阿波の諸勢力をまとめて従わせるには、その出自が明瞭でなければ、現実には実行できなかったのではないでしょうか? 3 さらに、長慶は、本家の「小笠原長時親子」や「武田信虎親子」を堺で扶養した事実もありますし、血のつながりがなければ、そんなことはしないのではないでしょうか? (1〜3は、応答の便宜上、受信側で段落分けしたものです) <(1)についての筆者の考え> まず、問題提起に感謝いたします。ご指摘の諸点については、以下のように考えています。 1 「義長」と「長輝(之長)」の間の系譜については、本文中に私見を示しておりますように、「義長」が三好氏であることを否定しておりません。従って、「その辺を最大の疑問点」ともみておりません。 三好氏の出自を疑ったのは、三好氏の確実な祖と阿波小笠原氏との間の人物・世代が不明確で、系譜所伝があまりにも多様で差異がありすぎるということにあります。こうした現象が、後世に系図を仮冒ないし作成された際によく生じる傾向があります。この辺の事情は、本HPの「 系図の検討方法についての試論 」をご覧下さい。 2 三好氏が何時の時点で系図を阿波小笠原氏に架けたのかは、不明です。三好氏の戦国末期頃に分かれた家各々で、同様に阿波小笠原氏の流れだと称していたところをみると、既にその頃までにこうした系図を持っていたものとみられます。その場合、軍事力優先の戦国期に阿波最大の勢力となった三好氏について、その系譜を云々するような豪族はいなかったかもしれません。血統という権威をもって三好氏が阿波の諸豪族をおさえたのではなく、実力でおさえたわけですし、他の豪族でも多くがほぼ同様に系図仮冒をしていたとみられますから、この辺はお互い様であったものと考えられます。三好氏がその配下に小笠原氏末流にあたる諸氏を従え、両一族が多少とも通婚関係をもっていたなかで、阿波小笠原氏の本宗ともいうべき家が早くに(室町前期頃?)消失していたという事情もあります。 主な戦国大名を見ても、鎌倉期の先祖の活動が知られないものはあまり多くありません。下剋上の世の大名といっても、応仁の乱頃以降しか活動や系譜が分からない家は少ないのですが、織田・松平・筒井・浅井・斎藤(道三家)など稀有なグループのほうに三好氏は入れられます。こうした事情から見ても、三好氏が清和源氏の名門小笠原氏の流れであることは不自然といえます。成り上がりの戦国大名の多くは、先祖が不明であったことをいいことに、系譜仮冒をしたものです。勿論、一般論だけで全てがいえることではありませんが。 三好氏の系譜について、具体的に別の形で伝える史料は管見に入っていませんが、同氏に割合近い一族とみられる阿波の久米氏系統が平氏を称していたことは、その出自を疑う傍証の一つにはなると思われます。この辺は、本稿で記述しました。松平氏は徳川将軍家となったことで史料も残るのでこれはともかくとして、上掲の織田でも、浅井などの例でも、「その出身を疑うような「噂」のような文献が存在」していたとは、必ずしもいえないと思われます。それに相当するのが、他の系図・諸伝ということです。 鎌倉期や室町期の名門武家諸氏も含めて、長い期間にわたり仮冒の系譜・姓氏を唱え続けると、それが世に真実と思われるようになる例は、執権北条氏や坂東八平氏など数多くあります。それは、武家に限らず、より古礼や系譜を尊ぶ公家殿上人の世界でも現実にあって、藤原朝臣姓の富小路(摂関家の二条家庶流は全くの偽造系図)や清原氏などで仮冒の例が見られます。従って、比較的信頼できる史料などを基礎に、多角度から総合的に系譜・出自を考えていくことが必要と考えられます。 3 親兄弟・一族でも利害が対立すれば、殺し合い追い出しをした時代にあって、三好長慶が誰を扶養しようと、その系譜・血統の傍証になることはないはずです。すなわち、利用価値があると思えばその者に対して扶養・保護も与えただけの話で、長慶の当時すでに清和源氏小笠原氏の流れと称していたとしたら、本家ともいうべき「小笠原長時親子」を尊重して摂津芥川城に保護するのはありうることです。 この事実から三好氏の系譜を考えるのは、思考方法としては逆だと思われますし、時代背景を考えないものだと私には思われます。清和源氏の当時の総本家であった足利将軍義輝を誰が殺害したのでしょうか。 (03.2.9 掲上) (2) ko-po様よりの返信についての応答 <ko-po様よりの返信> (03.2.10受信) (1)三好系譜の疑問点は、諸伝があまりにも多様で差異がありすぎるところである。だから、仮冒ないし偽造された可能性が高い。 #鎌倉初期に阿波の守護職をいただいた小笠原長清の長子「長房」の系に、守護所を三好郡池田大西城においた関係から分家に地名をとって「三好」と称した「小笠原氏」がいてもおかしくないのに何故、宝賀会長はわざわざ、伊予から「久米氏」と同族の「三好祖」らしき人物を阿波へ持ってこなければならないのか。? 鎌倉期を通じて存在した「長房系三好氏」の子孫が脇町付近の岩倉に居住し「式部少輔・三好氏」で南北朝期に武家方として京都から阿波へ入り宮方を制圧して阿波西2郡を領するようになった「義長系三好氏=長慶の先祖」が宮方に属して消え去った本家阿波「小笠原氏」に系譜を結びつけて新生「三好氏」として応仁文明年間に急激に勢力を拡大していったと考えるのが実情に沿っているのではないだろうか。? その間の事情には、系統こそ違え同じ三階菱の流れとして系譜を結びつけるのには抵抗はないと思われます。事実、小生の先祖にも江戸時代、ある藩に仕官する時、遠祖は同じでも、数代にわたって分家になっている人が、自分の先祖を本家に結び付けて系図を提出しているのです。 会長は三好系図には差異がありすぎると指摘されますが、記述に信用性が高いといわれる「長慶」の時代ですら、兄弟姉妹&異母兄弟姉妹が次々発見されているのが現状です。 @高槻市の「西尾家」は三階菱で長慶の兄弟である。 A千利休の最初の妻は長慶の異母妹である。 B岡山の宇喜多直家の弟の妻は長慶の妹である。 さらに「之長」以降の系譜にも、一族内の関係に多様な見方がなされていて確立されていない。 こういっては何ですが、比較的限局的な騒乱で収まっていた地方豪族と異なり、南北朝期から戦国後期まで何度も中央へ進出しては栄枯盛衰を重ねていた三好氏の場合、出自を証明する資料の散逸がとりわけ激しかったのではなかったのでしょうか。? (2)清和源氏の総本家であった足利将軍義輝を誰が殺害したのでしょうか。? #この件にたいしては、長慶およびその一族の名誉のために反論しておきますが、天文二十年(1551年)義輝が将軍になって5年目、伊勢貞教邸に招かれた長慶を酒宴の席で斬りかかり殺害しようとしたのは誰だったか。・・・・・・幕臣「進士賢光」であった即ち将軍の命であった。一説では、その時の警護役が「松永久秀」で、この事件が後の「義輝暗殺」の誘因になったと考えられる。 さらに、文章の端々に宝賀会長の阿波「三好氏」に対する偏見的解釈が感じられるが、阿波守護「細川持隆」殺害についても義賢が一方的に野心から行ったように書かれたのでは困るので一応言っておきたい。 あの事件は、勝瑞城内の会議中の軋轢がもとで揉め始め、持隆が義賢暗殺を画策したもの、それが義賢陣営に知らされ返り討ちにあったものである。 とにかく、三好系譜の資料不足による曖昧さ、不自然さにはその不備な点を追求されても仕方ないが、現時点で阿波三好氏が阿波小笠原氏に架けて系図を偽造しなりすましたという断定は撤回していただきたい。 戦国期、三好家当主であった長慶が絶大な権力を有しながら行使せず、系譜上、遠祖義長と之長との間の空白をあえて繕わず不明にしておいたのは、正直で、それ自体が自分達の出自=京都「小笠原」の子孫の自信の表れではなかったのでしょうか。??? (以上は、文章段落のつなぎ方及び数字番号の付け方以外は、原文を尊重してあります) <返信について樹童からのお答え> 前回の応答に引き続いて、ko-po様より返信が寄せられましたので、ここに掲上し、併せてお応えもあげますが、情緒的な記述も散見していますので、会長からの助言・教示を踏まえて、本HPを主宰する「樹童」からのお答えとさせていただきます。 (1)について(以下は順不同) 1 鎌倉期に守護所を三好郡池田大西城においた関係で、苗字が発生したのでしたら、なぜ『尊卑分脈』に見える鎌倉期の人物に「三好」なる苗字が見えないのでしょうか。可能性として、小笠原一族に「三好」が発生したことはありえましょうが、現実にはその証拠が具体的に存在しないということです。 2 阿波小笠原氏庶流に三好氏が出たことには、大きな不自然さがあることを以下にあげます。貴信にある「分家に地名をとって「三好」と称した「小笠原氏」がいてもおかしくない」という表現には、個別具体的に考えると、不自然なことが多く、かつ大きいということを記します。(この辺は、系図偽造の問題ですので、HPの「系図の検討方法についての試論」をよくご覧下さい) 『続群書類従』所収の「三好系図 阿州」には、阿波小笠原氏の流れとして長房の子に長種・長之の兄弟を置き、長種の子孫に三好氏が出たとして、「長種−長景−長直−長親−長宣−長宗−長隆」の七代をあげ、長隆の婿として京小笠原淡路守長興の子息義長をあげます。 ア この長種から長隆に至る七代の系図における各々の歴代は、信頼すべき史料にも、『尊卑分脈』や「芥川系図」の本来部分、「吉田孫六系図」など割合信頼性の高い小笠原関係系図にも全く見えないものであり、これらは皆、実在性のない者と思われます。 阿波小笠原の祖になる長房の子として「長種」をあげる系図は、三好氏関係のものしかありません。 イ 長種には兄弟を伝えますが、その子長景から長隆に至る六代については兄弟を全く伝えない直系だけの系図で、これは系図偽造によく見られる傾向の一つです。 ウ 三好義長の養父とされる長隆は、南北朝後期の人として活動したことが詳しい尻付として「三好系図 阿州」に見えますが、本稿本文に掲げた史料に見るように、そうした長隆の活動は信頼すべき史料に全く見えません。 エ 長隆が南北朝後期の人として、将軍源頼朝に仕えた先祖の小笠原長清から数えると、長清を初代として長隆は第十代目(九世孫)となります。同期間をカバーする他の氏族の系図の世代で言うと、頼朝に仕えた人物の世代から建武頃の人物の世代までの間の世代が標準的には四世代、長くて五世代ということであり、阿波の南北朝争乱期を具体的に考えると、これらに一世代足したとして、長隆の世代は長清の六世孫ないし七世孫に置かれるのが妥当ということになります。すなわち、長清から長隆に至る世代が多すぎるという不自然さがあるということです。 なお、長種が長房の孫(長政の子)という所伝もありますが、その場合には、さらに世代数が増えて不自然さが増します。多くの小笠原・三好関係系図を見たところでは、「長房−長政−長種兄弟」という辺りまでは、あるいは実在性があったかもしれない(三好氏は、長種の子孫という系図部分を追加的に偽造した可能性もあるかもしれない)、という余地も残ることを附記しておきます。 オ 「三好系図 阿州」では、三好義長が南北朝後期の阿波で大将となり宮方を悉く退治して一国を平定したと事績を記しますが、事実と全く反します。そもそも、三好義長の活動時期は本稿本文で記述したように南北朝後期よりも遅く、それは室町後期に活躍した子孫と世代が近いことからも言える話です。 カ 「三好系図 阿州」では、三好義長は小笠原長隆の「婿」であり、「外孫」であると記しますが、この時代ではおそらく両伝は両立しないものと思われます。勿論、天武天皇の結婚例等からみて、生物学的にはありえますが、同系図の記す事績・活動から考えれば無理なことが分かります。 キ 京都小笠原氏の人々は、信濃小笠原本宗の宗長の子の貞長に始まるとされ、『尊卑分脈』や『続群書類従』所収の系図等に具体的に見えますが、小笠原備前守・民部少輔を多く称していました。室町幕府に仕えた武家として、「永享以来御番帳」「文安年中御番帳」などの史料にはこの一族がかなり見えますが、そこには「小笠原淡路守」も「長興」なる者も全く見えません。 以上、少なくとも七項目にわたって「三好系図 阿州」が信頼できないことを縷々あげてきましたが、要は、阿波にせよ、京都にせよ、三好義長につながるという小笠原氏の系図の歴代で、史料に裏付けのある人物が全く見えないということです。『続群書類従』所収の「三好系図」(「三好系図 阿州」とは別本)には、「長房八代信濃守義長住阿州三好邑」として、その間の歴代を全く記さないのも、実際に記せなかったからではないでしょうか。 貴殿が三好氏の小笠原一族出自を主張されるのなら、この問題の「長房と義長との間の歴代」を具体的に根拠を示して実在性を立証されることが最も必要だと考えます。 3 家紋は、一般に、一つの家で幾つも持ったり、多くの流れの異なる家が同じものを用いたり、時代により変遷したりしてなどと、系図研究の多少の参考になることはあっても、出自論の根拠となりにくいことは常識ではないでしょうか。 4 江戸時代に「遠祖は同じでも、数代にわたって分家になっている人が、自分の先祖を本家に結び付けて系図を提出」したことは実際にもあり得たでしょうが、ここで問題としているのは、具体的個別問題としての実際の室町期の三好氏の系図であって、可能性の問題ではありません。 5 「長慶の兄弟姉妹&異母兄弟姉妹が次々発見」とありますが、貴殿のあげる@〜Bの人物が何の史料に拠って、誰が確認されたのでしょうか。それが管見に入っていない樹童には、いずれも疑問な内容ではないかと思われます。また、仮にその幾つかが真実であっても、歴史的に意味のあることだったのでしょうか、この辺には大きな疑問に思われます。ある家伝にそう伝えるから正しいという姿勢は、系図研究において先ず避けなければならないものと思われます。系図研究はまず個々の箇所で疑うことから始まるのではないかとも思われます。 6 「之長」以降の系譜について、諸説ある部分があるのは確かですが、現存する史料から考えると、これが原型ではないかという推論が本論考では記されていたはずです。 7 中世豪族において、栄枯盛衰が激しく滅ぼされた一族であっても、その支族や関係氏族が多少とも系譜を残しており、また信頼すべき記録に残ることがあります。三好氏だけを例外とする見解はなかなか理屈が通りません。 (2)について 1 戦国期の各武将の行動を毀誉褒貶するつもりは全くありません。従って、三好氏一族の「名誉」のためにここで論争するつもりは、全くないことをお断りしておきます。その辺は各人の自由ですが、このHPにそれを持ち込むことはお控え下さい。一族として戦国期にたいへんな活力を示したという評価を個人的にもっているが故に取り上げたという背景も、実のところ、ないでもありません。 2 「現時点で阿波三好氏が阿波小笠原氏に架けて系図を偽造しなりすましたという断定は撤回していただきたい。」という表現自体が穏当とは思われません。本HPの「古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ」という頁を良く読んでいただくことを強く希望します。そこには、「感情論や信念の押しつけという反応はご容赦下さい」とも表現しております。 なお、系図仮冒の可能性が大きいという推論はしていても、それがほぼ間違いないとしても、「断定」まではしておりません。ましてや、合理的な論拠なしに、感情とか信念だけで説の「撤回」を求める姿勢は、系図研究では疑問が大きいものです。 3 長慶の「自信の表れ」とか、そうした情緒的な表現は、冷静な議論の対象にはなりえません。 4 貴殿は、「遠祖義長と之長との間の空白」を何故か前回も強く気にしておられますが、ここを筆者が出自・系譜関係の論点としては全く気にしていないのは、本稿を良く読んでいただければ分かることであり、それは前回の応答でも記述されたところです。 (03.2.15・16 掲上。その後に微調整あり) (3)阿波三好応答3 引き続いて、次のような趣旨のメールがありました。 <ko-po様より3> (03.2.17受信) 1 二度もメールを送りましたが、同じ「三好」を名乗るものとして、ついついムキになりました。日本史上において、永く不遇を託ってきた「三好長慶」の家系研究を、始めて目にして神経が少し昂ぶったようですが、冷静に考えれば、無視されるよりは研究される方が名誉なことですね。 2 確かに、現存する系譜資料だけから分析すれば、仮冒偽造と判断されてもいたし方ないかもしれません。近い将来、疑問点を払拭できるような資料が見つかることを期待するしかありません。 3 小生の遠祖は、長慶の養子「義継」の長男、「義兼」というものですが、戦国資料では、河内若江城で死亡となっており、三好系図には、弟のみが記載されているのです。 ですから、正規資料に記載されていないから、別の系図に記載されている人は偽称だ実在しないという考えには、素直に頷けないところです。 <樹童からのお答え> 03.2.22 1 私どもとしても、三好氏の系譜を取り上げて検討しましたものの、三好氏自体をとくに非難しているわけでは決してありません。現在の姿勢としては、足利一族などごく特定の諸氏以外の「清和源氏」と伝える諸氏の殆どについて、その系譜・所伝を疑いつつ厳しく検討をしているわけですから、その意味でどの氏に対しても公平に系図批判をしているつもりです。勿論、系図研究として取り上げるだけの役割を歴史的に果たしたと評価してのものですが。 なお、長慶など三好一族に阿波小笠原の血が母系を通じて流れ込んでいる可能性はあろうと思われますが、男系中心の現存系図史料からは分かりません。 2 系譜仮冒は、かりにそうであった場合も、その実際の出自や系譜を探ることはたいへん難しく、その観点でいえば、三好氏の場合は、割合良く先祖探究ができることが重要かつ貴重だと思われます。戦国期に大きな役割を果たした三好氏の原動力を探る意味で、これらの検討は必要だと考えています。ちなみに清和源氏各流の諸氏は、武田氏などごく一部を除くと、応仁の乱以降は殆どが活力を喪失しており、貴顕名流の血も時代により栄枯盛衰があるようです。わが国古来の先祖(遠祖神)信仰は、本来、もっと素朴なもので、名血信仰ではなかった筈です。 3 「長慶の養子「義継」の長男、「義兼」という」人物については、私どもの管見に入っておりません。『続群書類従』所収の「三好系図」には義継の子として「仙千代」が挙げられ、若江で病死と記事があります。義継は、永禄12年(1569)3月に足利義昭の妹と結婚し、その4年8か月後(1573年11月)に生害していますから、他の子供は年月的にまず無理な話ではないかと思われます。上掲「三好系図」には、「義継生害、家長那須久右衛門介錯幼息而後自殺」とも記されます。 従って、同系図には義継の子として長元(加治氏の祖)をあげるのも、「吉田孫六系図」に義継の子として矢野蔵人大夫義宗及び矢野伯耆守宗時をあげるのも、ともに疑問だと考えられます。勿論、彼らの譜註に見える記事の年代とも合致しません。本稿に引く「芥川系図」には、義継の子としては誰も記しません。この辺りが歴史的には穏当なところではないかと思われます。 一般論として、有名人ないし貴紳の庶子落胤の所伝を完全に否定できるわけではありませんが、実際の先祖はどうだったか(所伝からいって、三好一族の出自の可能性があろうと思われます)を探すほうがよいようにも感じます。 4 私どもとしては、現存史料の制約のもとで考えたのがHP掲載の文ですが、今後ともいろいろ検討をしていきたいものです。三好一族について、良い史料があれば、情報をお寄せいただければ幸いに存じます。 <ko-po様より4:「三好義継の後裔」> (03.2.24受信) 参考までに、義継の子、義兼について少し述べさせていただきます。 香川県観音寺市の西方の沖に「伊吹島」という小さな島(煮干イワシの産地)があるのですが、そこの住民は三好姓が多く、遠祖が三好義継の長子、中務少輔義兼で母は足利義昭の妹「寧姫」であることが「観音寺市誌」にも公式認定されています。 義兼は若江城落城前に阿波に逃れて、そこで成人したのですが、長曽我部の阿波侵入後、三好長冶の妻の実家である観音寺市財田町に一族郎党身を寄せていたのですが、最後の頼みである讃岐の「十河存保」の九州「戸次川の戦い」での戦死(1586年12月)、その後のお家断絶にともない止む無く、翌天正15年(1587)、観音寺市沖・伊吹島に渡ってきたのです。 何故、伊吹島かと申しますと、「観音寺市誌」の記載では、最初、義兼の異母弟「義茂」(義継が将軍義輝の妾であった小侍従の局を側室にし、二人の間にできた子。若江落城当時は乳飲み子で、元服するまで小侍従の局の実家である某公家屋敷に匿われていたらしい。 元服後、一族である十河存保が讃岐に呼び寄せ、政情の安定するまで、西讃の豪族「大平伊賀守国祐」の家老「合田氏」が居住する伊吹島に従者二人をつけて来島させ即ち匿わさせた。 しかし、三好家の武運つたなく頼みの十河家が断絶すると伊吹島に先に来た「義茂」だけでなく、兄の「義兼」の一族郎党(家来50騎〜80騎)も路頭に迷い仕方なくというか、とりあえず伊吹島へ避難してきたのではないかと思われます。 (私見ですが、伊吹島は平安時代から京都の貴族の荘園領地であったらしいから、もしかしたら、義茂の母、小侍従の局の実家が所有していたので、その伝を頼って十河存保が世話したのかも知れません。今も伊吹島は言語学的に発音が「平安時代の終わり頃の発音と一箇所しか違わない日本で唯一の方言」ということで注目され「金田一春彦」氏も視察に来たことがあるのです。) それは、さておき、天正15年に伊吹島にきた、義兼一党は先住の合田氏と争いになり、天正18年義兼が合田氏に鉄砲で狙撃され深手を負い自刃して、一時、島を撤退し観音寺市の山本町で再起をはかり、義兼の4人の男子が成長したのち、合田氏への復讐戦を行い勝利を収めたということです。 以上の事実関係に関しては、観音寺市内にある四国88ヶ所札所第68番「神恵院(じんねいん)」の当時の書状に記載されていることが判明しています。 <樹童からのお答え> 03.2.28 1 「観音寺市誌」については、これまで管見に入っておらず、情報ありがとうございました。本HPでは、基本的に主な検討対象を古代中世の系図としており、近世部分の系図は殆ど取り扱っていませんが、そのうち同書も閲覧してみたいと思っております。(その後、同書を閲覧いたしましたが、伊吹島の三好氏の所伝が記載されていました。これは、「公式認定」というには疑問ですし、またそれで史実というわけでもありません。) 2 ネット検索をしてみたところ、「伊吹島 歴史散歩」というHPのなかに「三好氏 調査資料」という頁( http://www6.ocn.ne.jp/~kmiyoshi/page008.html )があることに気づきました。江戸前期には既に三好氏が伊吹島の政所に任じたようであり、その定住がそれ以前であったことは確かなようです。同島の三好氏は、江戸期を通じて同島で大きな位置を占めており、近世の歴史で欠かせないものとなっていました。 ただ、活動年代的な観点から、三好義継と三好中務少輔義兼との関係を考えてみますと、この二人を親子とするのは、所伝からいえば生物学的に無理があるようです(近世の個別の家について云々することは基本的に本HPの範囲を超えますので、これ以上ここでは記しませんが、具体的に各々の年齢を計算してみるとお分かりになると思われます)。 (以上) (03.2.28 掲上、その後の追記あり) |
<参考> 家系研究協議会の会誌『家系研究』第35号(2003年4月)には、伊吹島の三好氏関係の記事が2つあります。三好秋光氏による「姓氏について−観音寺市伊吹島−」、島野穣氏による「三好家一族と観音寺市伊吹島」ですが、これらによりその所伝の概略を知ることができます。 <三好兼光様よりのご連絡> 05.2.13受け 愛知の三好です。「伊吹島歴史散歩」を運営しています。最近掲示板で、三好長慶の先祖ということで、宝賀寿男さんの書かれた文章で書き込みがありました。たどって行くと、私のHPも応答の中で紹介されていましたが、ko−poさんの言われていること、樹童さんの書かれていることにも、私が聞いている伊吹島三好氏の来歴と若干違っていまして、一人歩きされると困るなあと思い、HPに伊吹島三好氏系図を入れましたので、見て下さい。 義継と義兼の関係は父と子だと思っています。義兼の行年が系図では33才となっていますが、私はこれは、23才と思っています。義兼の行年33才と書いてある系図は私ところの先祖(義兼末子の系図)のみです。江戸時代に書かれていますが、長慶の亡くなった年齢を73才と書いていますから、元となった系図から転記する時に間違えたと思われます。伊吹島の伝承では、義茂、義兼は兄弟となっています。屋敷跡の兄貴の方の義兼の方が高い位置にあります。 生理学的にも無理があると言われた根拠は義兼の行年33才をそのまま取り入れたからではないでしょうか。伊吹島八幡神社の大絵馬に義兼が伊吹島に来たいわれの絵馬が義兼死後150年を経た子孫が奉納しています。その絵馬には若武者姿で描かれています。 義茂(大川市太郎)は、義継が亡くなったとき、阿波に落とさせ、家臣に守られ伊吹島に来ています。香川氏、伊予の宇摩郡、新居郡の押さえとして、伊吹島に客分として家臣に守られて来ています。伊吹島は讃岐の西端にあります。島からは、西讃、東予がよく見えます。押さえとしてと、島なら安全で、三好の棟梁の子が大きく育つのを待っていたのではないかと思います。篠原、岩田、川端等の家臣団の子孫が島に住んでいます。 義兼は義継とやす姫の間の子ではないが、義継の子供には間違いありません。阿波に落とされ、勝瑞で、存保と行動を共にしていて、長曽我部の侵攻で、小豆島に退却し、存保は播磨の秀吉に救援依頼に行くとき、伊吹島の義茂の身辺が危ないので、存保の指示で、 伊吹島に救援に来たのが始りです。教科書では、三好氏は消えていますが、伊吹島で連綿と続いています。HPに伊吹島三好氏系図を入れてますので、見て下さい。嫡男家の系図の写しの長慶の部分も入れています。今後とも三好氏について情報ありましたら教えて下さい。 <樹童の見解等> ○ 情報提供、ありがとうございます。 ○ 一般に、落胤伝承の真偽判別は難しいことが多いものですが、様々な事情を総合的に考えていく必要があります。 本件についていえば、三好義兼が三好一族の出であったことまで否定しているわけではなく、義継の実の子とされる点に疑問を呈しております。三好兼光様は、義兼の享年が23才と考えておられるとのことですが、男子5人と女子1人という子女をもうけながら、享年が二十代前半ということは、まずありえないと思われます。 なお、義継が死去した後、三好家督が義兼にあるという系図の主張でしたら、それはそれで、ありえないとは言えないことです。 (05.2.20 掲上) <三好兼光様よりのご連絡(2)> 05.2.21受け 先の掲載に加え、もっと検証している文章を掲載していただけるとありがたいです。義兼がやす姫の子でないと書きましたが、もう少し詰める必要があります。 義継は、永禄12年3月(1569年)、信長の媒酌でやす姫と結婚します。天正元年(1573年)若江の城で自刃します。23才です。義兼23才では、子供6人はまずありえないと樹童さんはお考えですが、義継もたくさんの子供があります。一人の女性からだとありえないですが、側室が何人かいれば、有り得る人数です。義兼は天正18年(1590年)に亡くなります。やす姫の子供だと21才数えの23才になります。 伊吹八幡神社に義兼が奉納した鏡が大小2個現存します。天正15年(1587年)、義兼と子供男子4名の名が入っている大きい鏡と義兼と義茂の兄弟の名が入っている小さい鏡があります。第5子(末子)の名前はありません。義兼が亡くなった時、末子は3才未満です。 義兼が義継の実の子とされる点に疑問があると樹童さんはおっしゃられていますが、伊吹八幡神社の奉納鏡、系図、伊吹島の伝承から明らかです。 伊吹島には、2回にわたり三好氏が入ってます。弟が来てから10数年後、兄が来ています。兄弟間の争いは聞いていませんし、義兼が義継の子供でなければ、家督は義茂に行っているはずです。 樹童さんの疑問に答えられたかどうかわかりませんが、今後ともよろしくお願いします。疑問点があれば、連絡下さい。私も考えてみます。 <樹童の見解> ○ 伊吹島以外の三好氏の系図や史料等で、義継の子について記しているものがなく、客観的に考える必要があると思われます。いまのところ、伊吹島だけの資料・所伝だけでは、落胤伝承は肯定しがたいものということです。 (05.2.27 掲上) <三好兼光様よりのご連絡(3)> 05.3.2受け 1 前回の樹童さんの義兼の子供5男1女はまずありえないと書かれたことに対しての私の説明で納得していただけたと判断していいでしょうか。 2 伊吹島以外に義継の子供について記しているのがないので、肯定しがたいとお考えのようですが、では、私を含め、伊吹島三好氏は、どこから来て、誰の子であるか樹童さんはお考えでしょうか。 その答えがないと私達に対しては説得力がないと思います。落胤伝承ということばは、私は個人的に好きではありません。 3 私達は先祖が伝えて来た系図、口伝、奉納鏡、絵馬の伝承等を信じるのみです。義兼の子供で伊予川之江に住んでいる人、芸州倉橋島に住んでいた人もいます。播磨に住んでいた伝承も聞いています。 伊吹島以外から義継、義兼の名が出てくること楽しみにしています。楽しみながら検証して行きましょう。 今後ともよろしくお願いします。 <樹童の見解> ○ 義兼の子と称する諸子について、ほとんどが同母であれば、義継と義兼との関係が生物学的に無理な状況にあることは変わりありません。 ○ 義兼なる者がどこから来たのかは、現存資料からは不明です。なんらかの手がかりが求められるとしたら、家来筋の家の苗字や来歴等から探る方法があるのかも知れません。 不明なこと・所伝と史実確認(肯定)がなされることは、別問題です。 (05.3.13 掲上) (さらに応答は続きますので、次頁 をご覧下さい) |
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