3 系図の検討方法についての試論 

        


 
ここに掲げる系図の見方や検討方法については、系図研究の一般論として、かつて「銀座大学」の場で多少話をしたことがあります。個別の具体例は紙数の関係で、とくにあげませんが、それぞれの項目は多くの実例を踏まえたものと考えてください。
 
なお、2004年11月に若干増補するとともに、とくに中世系図の検討方法の留意点について別頁を設けました。勿論、その後も適宜、補正に努めています。

 
(参考)として、基本文献をあげてみました。道具と方法論とは互いに切り離せないことを痛感したからです。

 以下は、多くの人々のご意見を伺いながら、文責は宝賀にあるということで整理してみた経験的な試論です。もちろん、一概に言い切れないこともかなり多いので、個別具体的に考える必要があることにご留意下さい。




 
 はじめに(総論)


 (前提)

 系図の鑑定・研究をきちんと行おうとするのなら、その現物資料を手にとって実見することから始めるべきであるが、それが可能なケースは大抵の場合は殆どないであろうから、できれば関係する写真やデジタル・データベースを確認できれば、と望まれる。併せて、関連資料類も参照が必要となる。
  いま、東大史料編纂所のデータベースがかなり整備され、国会図書館でもそれが進み、国立公文書館宮内庁書陵部、東京国立博物館(東博)、国立公文書館など、早大・慶応大などの諸大学を含む他の研究機関でも、系図史料のデジタルベース・写真の公開が次第にされてきているので、この辺の確認が可能であれば、まずこれをしておきたい。また、明治期の研究者鈴木真年や中田憲信の関係史料がマイクロフィルム化されて(雄松堂出版から発売され、大きな図書館のいくつかで利用できるようになっているのも、研究者にとってありがたい話である。
  このような現物かそれに近い物に接近できる場合には、系図の用紙の紙質、形式、製作者や書継ぎ・転写をした者、所蔵者や伝来の経緯、文章表現・漢字表記など、系図に書かれているものや系図を構成するもの、それを関する経緯など、系図にまつわるあらゆる諸要素が総合的な考察・検討の問題となるのはいうまでもない。

 そうしたアプローチの可能性がない場合に、活字本の史料に頼らざるをえないが、本稿はそうした記事内容の場合の系図のチェック方法を主に記した。活字本では、活字化する過程で採録・編集した者の知識・理解度及び判断力に基づくところがかなり多いので、誤字誤読や系線の読み誤りもときにはあり、これらの問題も含めて、原本や同種史料との関係にも十分な注意をしておきたい。系図を検討した専門学究でも、各種の誤り・誤解を犯すことも皆無ではないことを銘記する必要がある。相互に誤用・転用される漢字もいくつかあるし、略字・崩し字など表記される文字も多種多様なので、系図読解は簡単でない場合がかなり多い(かなり誤読含みのある可能性にも、十分留意しておきたい)。

  従って、ある系図について紹介する本が複数あれば、それらをできるだけ多く集め、比較検討してみることも基本の一つとなる。この作業により、系図の紹介者・採録者の姿勢や読解力などを知ることにもなる。
 
もちろん、最も問われるのが評価者の知識や判断力・鑑定力であることはいうまでもない。そのためにも、良質の系図にできるだけ多く当たって経験を積み重ねることが重要である。いま、学究も含めて、かなりいい加減ないし中途半端な系譜論が横行気味その結果、軽々に偽作と決めつけたり、内容を鵜呑みすることにもなる)であることを、深く憂うものである(これは、自らの手と足で具体的に系図研究をした経験が少ないことに因る場合もあろう)。
 歴史分野の学究が、ある系図について発言したからと言って、それがいつも正しいわけではないことに留意される。それは、権威ともされる太田亮博士の見解でもそうである。また、狭い範囲の蛸壺形の検討も、この関係者にはまま見られる。問題は、これら当事者(とくに学究関係者)が系図及び関連知識に関する自己の無知・非常識や誤った把握・理解を自覚しないことである(そのうえで、上から目線の議論を展開されると、手が付けられない)。

 系図研究は、実際には相当に難しい面もあり、多方面の深い知識を要し、総合的な検討を要するものでもある。歴史関係の知識だけにとどまらない。かつ、具体的な諸事情を踏まえて、バランスのとれた総合的合理的な判断も必要となる。
 だから、大学・研究所の歴史学の教授・准教授とかいう肩書きだけで、系図研究やそれに関連する研究・評価が簡単にできるわけではない(系図史料の検討は、意外に随分難しいものもあるということ)。とくに中世歴史分野の研究家には、系譜仮冒や系図偽造について認識、問題意識が殆どない傾向も往々にして見られ、この辺は残念である。古代史も含めて、歴史研究は常に「偽文書」との厳しい戦いだということである。

 多くの系図史料に当たって、合理的で多角的総合的な検討が十分になされることを望ものである。その場合に、所蔵・伝来者への配慮からか、疑惑・偽造などに関する客観性な評価をときに欠くこともありうるので、この辺の注意も必要である。



 日本の多くの姓氏・苗字については、様々な系譜・所伝・諸書を検討し採集したうえ、総合的多角的な視点から厳しい合理的批判を行うことにより、真系・原型(
ないし、それに近い古態)の探求にさらに努めていかねばならない。これが、歴史・系図の検討に際して重要であり、まず総括的に言えるものであるが、以下にその内容を記していきたい。

  系譜史料が伝えられる由来・経緯(
原本か写本か、製作した者や成立時期、誰・どの家が伝えたか、誰が発見したのかという伝来の事情など)が重要なことはいうまでもないが、多くの系図にあってはこれらが必ずしも明確ではないことがままある。といって、直ちにその内容の信頼度に対して疑問大とみるべきものではなかろう。以下にあげる問題意識を十分にもって、様々な観点から十分な検討が必要と思われる。
   なお、時代により検討視点が多少とも変わってくることがあり、とくに中世系図の検討の視点については、多少追加的に別掲したので、そちらも参照されたい。時代により、系図の記事内容が少しずつ変遷していくこともままあるが、歴史・系図の研究にあっては、より原態に近づくことが重要である。もちろん、必要に応じて、系図変遷の把握も意味がある場合もあるこれは、系図が多種多系統に残る場合に有益な効果をもつことがある。

  いわゆる「偽系図」ひいては偽文書は、その系統の正統性の主張、先祖・近親に有名人・高位者をもつという家系修飾、立身出世・仕官、官位官職や所領・権利関係の保持・獲得などのため、ときには氏・家、一門の存亡をかけて産み出されたものだけに、変造・修飾は江戸期だけに特有のものではなく、古代や中世にあっても多く見られるから、この辺への注意が必要である。
 上古以来、系譜仮冒の動きは絶えることなくあり、しかも頻出してきており、記紀に記載される系譜や『新撰姓氏録』にあっても、勿論その例外ではありえないから、十分な吟味を要する。『東鑑』の記す姓(
自称が多いか)や系譜でも、疑問な記事がかなりあることに注意される。その叙位任官記事に記される姓氏が、本来の正しい姓氏だと受け取るのは、必ずしも適当とはいえないことに留意したい。一方、『平家物語』や『太平記』などの軍記物の記事にも、疑わしいものがあるとともに、一方で正しい系図を探る手掛かりがあることもあるから、各種の史料は十分に丁寧に取り扱いたいものである。様々な個人事情や系図所持者への忖度などから、偽系図の指摘がなされにくい場合もあろうが、歴史原態の探索のためには、冷静な判断が必要となるということでもある。

  国宝指定の「円珍俗姓系図」(
和気系図)は、平安前期成立で由緒正しい円珍自筆書込みのある文書であるが、それでも、その前半の遠祖・出自の部分についての系譜記述は疑問が大きい。同じく国宝の「海部氏系図」にあっては、由来・成立時期も含め内容は疑問だらけであり(偽造系図かそれに近く、史料として殆ど無価値である)、これを国宝指定した公的機関や学究における系図研究の底の浅さ(系図学知識の欠如)が強く感じられる。
  日本史の学究はもっと真剣に総合的に系図学に取り組むことが強く望まれる。歴史探究には、事件に関与する多くの諸人物における具体的な人間関係についての把握が重要であるという認識が弱いのではなかろうか。幕末・明治期などの国学者など、在野の系図研究者を業績の中味や人柄・経歴も考慮せずに“系図家・系図屋”と非難めいた言葉を用いて表し、先入観で各種史料類を排斥して恥じることのない姿勢が、歴史の学究研究者(
学徒)にはかなり見られるのも遺憾である。
  「系図は嫌いだ」と公言する歴史研究者の言も何度か聴いたことがあるが、系図以外の文献史料・史書にも多くの偽文書・偽記事があり、これら資・史料は、十分に検討・吟味のうえ、できるだけ丁寧に扱って、総合的合理的に歴史原態の解明に努めるのが本筋だと思われる。だから、系図だけの問題ではない、ということである。
 

 佐伯有清博士の著『古代氏族の系図』には、「円珍系図」などが取り上げられ、古代氏族の系譜の見方やその問題点も具体的に指摘される。しかし、疑問点は、ここだけで尽きるものではないし、指摘自体が検討されるべき面もある。だからと言って、すべてが無価値な系図ということでは決してない。
 ともあれ、長年、古代系譜の研究を通じて系譜学の発展に尽力されてきた佐伯有清博士のご逝去(2005年没)は、これらの意味でもおおいに惜しまれることである。その後にも、古代氏族の系譜類の発見がいろいろあるからである。


  古代の『新撰姓氏録』からしばらく間を置いて、次に「中世系図」になるが、中世系図のなかでは比較的信頼度のあるものとみられるのが『尊卑分脈』である。この系図史料集の重要性は使えば使うほど分かってくるものであるが、この書についても、藤原氏・源氏・平氏などの公家部分と武家源氏の一定のある範囲以外では、史料に裏付けがないことが多く、系譜の仮冒・附合などで、問題もかなり多く見られるから、同書の記事を盲信してはならない。ましてや、同書に見えない氏・苗字あるいは系図部分については、まず注意して検討にかかったほうがよさそうである。実系の探索や系図学の大成のためには、系図・古文書等関係資料及びその内容の真偽について、様々な形で厳しく十分な史料批判のうえ、史料の分別や適切な鑑定が必須の基礎である。

  このHPで一例として掲載した源平藤橘の諸氏をはじめとして、わが国の氏族・姓氏・苗字の概覧的な記述をまとめるに当たって、繰り返し多くの系図や書物にあたり多角度から検討してみたが、改めて認識した事情も多かった。また、流布する俗説に基づく系譜・姓氏苗字の解説書が極めて多いが、このことは残念である(誤ったないしは仮冒した系譜の所伝でも、なんらかの理由があることが多いので、一概に捨て去ればよいわけではないが、史実探索のためにはできうる限り原型を探求し的確に把握しようとする姿勢が必須である)。
 その一方で、古代の貴重な系譜を安易に否定する記述が多いことは、これも衝撃的であった。『古代氏族系図集成』を刊行された時に、古代からあれだけ多くの系図が伝わるはずがない、これらは明治期に鈴木真年・中田憲信などが偽作したものだという決めつけとか、編著者の宝賀自身がでっち上げたとすら非難されたこともあった。それは、真年・憲信が必ずしも原典を明記しなかった事情とそれを基礎に編纂した当該編著者も、真年・憲信から先に遡る出典を記載できなかった事情があって、こうした諸事情に起因したのではないかと思われるが、両者の掲載記事を、祖先から子孫まで長く見ていくと、その子孫か関係する縁者、諸文庫・社寺が所蔵した蓋然性が高かったことが示唆されるものがある。真年・憲信の勤務経歴(
弾正台や裁判所・検察、修史事業など)やその信条・人柄などの関連諸事情を考慮すると、彼らが誤評価した系図は多少あったとしても(系図研究には、多少の過ちはつきものともいえる)、系図偽造を行う動機が鈴木真年・中田憲信にはまったくない知己・友人関係からの系図検討依頼があっても、そこで事実をねじ曲げる必然性が彼らにはなかった)。憲信には、生涯つとめた裁判官・検察官としての職業プライドも十分あったと思われる。

  これと反対に、ただ古いという由緒を伝えるだけで、偽系図をもてはやす輩もかなり見え、ともに遺憾である。そうした偽作系図の典型が国宝指定のされた『海部系図』と一連史料である。要は、系譜・系図関係の知識を歴史知識とともにしっかり持って総合的に見て合理的に考えることである。そして、記事内容について、個別に細かく記事の裏付けを求め、検討することである。
  古代系図に問題が大きい事情があるのにもかかわらず、その流れを受けた鎌倉期ないし室町期の武家大族・名門の系譜、とくにその出自部分が中世史学界ではあまり疑問視されていないのも、たいへん不思議であった。中世になって、系図を巡る事情がとくに変わったわけではないからである。中世史の研究者には、是非、研究対象とする諸氏について、関連する系図関係知識を備えたうえで、具体的で十分な系図検討をお願いいたしたい。

  数多くの史料にあたって実際の出自の合理的検討を行い、卓越した説を数多く出した太田亮博士の記述・研究はたいへん参考になる。その大著『姓氏家系大辞典』は、よくこうした貴重な所伝を丹念に拾い上げたものだと驚くほどの記事が多くある。こうした認識は同書を使い込めば使い込むほど、分かってくる。それですら、基となる掲載資料の制約も多くあってか(
東大史料編纂所や宮内庁書陵部など関東地方に所蔵される系図史料は、当該大辞典作成の基礎にない)、俗説に基づく記事や誤解の判断もかなり見られる。もちろん史料には解釈・判断の問題が様々に伴うから、記事に疑問な見解もないわけでもない。そして、同書の誤りも実のところかなり多い。それでも、数多くの史料に丹念に当たったことで備わった系図関係見識のすばらしさを痛感することが多い。繰り返すが、このような細かい史料までと思うくらい、本当によく丁寧に本書に採録しているが、その場合でも、個別に是々非々の内容判断が必要であるから、十分注意・吟味しながら、活用されることが望まれる。
  また、できうる限り宝賀が追跡をしてきた明治期の鈴木真年・中田憲信の編著作や見解、関係史料にあっても、当時の学問の限界や史料収集範囲、古代・中世についての歴史観などの制約があって、記事内容を鵜呑みすることは危険である。個別系図毎にに、また個別記事毎に、適宜の検証が必要であり、それが望まれる。
  いわんや、専門的に系図研究をして数多くの系図に当たって検討を重ねてきたとは思われない学者の著作においておや、ということである。歴史の専門家なら、史実やその舞台・背景の解明に関係者の人間関係が重要であることは十分認識されているはずであり、それならそれで、合理的・具体的な検討が強く望まれる。例えば大学教授など学者という肩書きで発表された論考や見解のなかには、底の浅い予断が多い決め付けが現在でも、かなり横行しているのを嘆かざるをえない。おかしな予断抜きにして、「冷静に、自家の利益を没却して総べてに正しい判断を下して行けばよいのである」と太田博士も述べる。

  系図所蔵者を始め、その関係者は心情的なものから、祖先や出自については、とかく甘い分析をしがちであり(
社寺などの所蔵者から今後ともの史料採録を行うために、あからさまな批判を差し控えるほうがよいとの判断も、研究者の心底にあるのであろうが)、先祖を修飾して中央の貴紳・名家につなげる傾向にあることにも、往々見かけられる。実際には、偽書や偽系図は想像以上に多かったものと考えられる。もちろん、最近の「椿井文書」に限らず、偽造文書もかなり多いと思われる。

  各々の系図の問題部分の是非を判定するに当たって、主なチェック・ポイントを以下にあげておきたい(順不同。なかには重複的な内容もあろうし、これで言い尽くしたものでもないので、個々的に具体的な諸事情を踏まえて十分検討していただきたい)。
  これまで鈴木真年関係資料など多数の各種系図にあたってきた経験や、太田亮博士が『家系系図の合理的研究法』
復刊のときに改題して『家系系図の入門』)等で記述したものなどを踏まえつつ、歴史事実に即して筆者なりに整理してみたもので、事件報道の“5W1H”(なかでも、時間と場所の二大座標軸がまず重要であり、さらに誰Who,Whomの要素も無視しがたいほど重要である)に密接に関係するものでもある。
 太田博士も、「常に時代と地理とを考へて行かねばならぬ。此の両者を無視すると飛んでもない変な結果に陥らう」と早くに指摘する。刑事裁判の起訴状に記載される「訴因」も、具体的な証拠に基づき,いわゆる「7何の原則」(
5W1Hに通じる)により特定されている。こうしなければ、具体的な事件の存在・内容も、当該行動(犯罪)もその当事者・犯人も的確に把握できないのである。

  それによって、何故、筆者が系図や出自に疑問ないし新説を提起したのか、あるいは特定の説・所伝を採用したかという事情の一端がご理解いただけるのではないかと思っている。太田亮博士も『姓氏家系大辞典』のなかで、かなり多くの系譜仮冒の指摘を行っているが(
これは、一つの判断だから、なかには誤解・推論もいろいろあるが)、その根拠にも相通じるものがある。個別具体的な問題点については、本HPの掲示板・応答板も参照されたい


   具体的なチェック・ポイント順不同)としては、次のようなものである。
 
○基礎的な諸史料に記載のある系譜・所伝と整合性があるか。
  先祖ないしは後裔の所伝が、氏族の職掌などからみて符合しているか。親子、兄弟などの血縁関係が、基本史料から見て正しいか。関係ある他氏が伝える婚姻・養子などの縁組が、それぞれの関係する氏において符合しているか。なお、系図の中間に位置する者や命名・官位官職に関し多少疑問があっても、何らかの事情で所伝が失われたり後世の誤解等で訛伝したことによる場合などもあり、出自の所伝自体は正しいこともある。
  この前提として、何を基礎的史料とするかという問題もある。古代以来、数多くの偽書・偽資料が作成されており、中世の家伝資料も含め、史料の用い方には十分な注意を要する。史料の作成基盤や伝来には厳しいチェックが必要である。また、基礎史料とされるもの自体にも、内容的に見て誤りがないわけではない(その史料作成時の編纂者・作成者の認識としては正しくとも、実際の系譜としては正しいかどうかは別問題ということ)ので、盲信しないように留意を要する。
  いま、東大史料編纂所のデータベースがインターネットでかなり多く利用することができるので、『大日本史料』『大日本古文書』や寧楽・平安・鎌倉の遺文に記載される記事とのチェックも欠かせない。ただし、これら遺文類にあっても、疑問な採録や整理分類に疑問がないでもないので、十分な留意を要する。
 最近では、国会図書館のデジタルデータベース、奈文研の木簡データベースなど各種のデータベースがネット利用でき、当時の人名・地名の表記や活動した人物について、重要な手掛かりを与えてくれる。このデータベースにより、記紀や六国史でも、その成立後にあっても、その表記などが変更になっているのを知ることができる。このほか、墓石など金石文の利用ができることもある。
 
○系譜の世代配分、年代配分が妥当か。
  この世代配分については、多くの古代諸氏族の系譜などから、筆者が帰納的に導き出してみた「古代の標準世代」があり、これと合わないものは生物学的に要注意である。古代でも中世でも、1世代が約25〜30年ほどで次の世代へ交代していくというのが、人間について古来からの生物学的な普遍の傾向である。

 
氏により多少のフレはあろうが、標準世代の一例を端的に挙げてみると、「神武世代…(中間に4世代)…崇神世代、以下は“世代”を省略して記すと、景行、成務、応神、仁徳、允恭、雄略、継体、欽明、敏達、推古、孝徳、天武、文武、聖武、孝謙、桓武、嵯峨、仁明…」(各世代の代表的な天皇の名であげたもの)の順で、各系図の歴代が属する標準世代が続いたということになる。

  中世でもほぼ同様に考えられ、例えば鎌倉殿(
頼朝将軍)時の人より南北朝初期の建武頃の人までは、中間世代がほぼ四代という状況にある。建武頃から応仁の乱頃の人まで、中間世代がほぼ三代という傾向もある。さらに、応仁頃から信長・秀吉の時代の人までも、中間世代がほぼ三代という傾向もある(併せると、建武頃の人から信長・秀吉の時代の人までは、9世代にわたるということ)。
 これらの世代配置の傾向は、個別の氏や系統により若干違うことも多いが、大凡の見当として留意しておけば、これより多いか少ないかの世代数のときには、相続・養猶子や系譜仮冒などの検討の基礎となる。こうした標準世代的な系図配分は、多くの系図偽造者が殆ど認識していない傾向があって、系図の真偽の目安になることもある。

 
古代の「神武〜雄略」の時期の世代配分については、崎元正教氏が検討を行い、ここでの記述とまったく同じような結論を導き出している(『ヤマトタケるに秘められた古代史』けやき出版、2005年)。中世あたりでも、ほぼ標準年代が導き出しうるから、適宜、系図のチェックに利用される。

  年代的には、(イ)子を生す年齢や結婚・死亡時の年齢が、生物的にみて不自然ではないか、(ロ)年代がはっきりしている先祖と子孫との間の中間世代の数が、多すぎたり少なすぎたりしないか、(ハ)一人の活動期間が異常に長くないか(短い場合にも、何か理由があるのか)。年齢の記事にも、十分な注意を払いたい。
  こうした年代ないし世代の配分に疑問が出てくれば、系図の仮冒・捏造の疑いが生じるとともに、系譜上の親族関係を示す系線の引誤りや混線の可能性も考えられる。系図には、かなり信頼性の高いものであっても、転記・作成や編纂の過程で、名前の誤記や系線の引き誤りが往々にして出てくるから、この辺にも十分な注意を要する。
  親子関係でも、養子・猶子・娘婿等の関係の所伝にも注意したいし、同一人が別の名で重複して世代にあげられる例や、その逆に複数の者が一つの名前で接合・統合されて出てくる例もある。また、系図によっては、氏や家の主祭祀者・家督・族長という地位や職掌の相続関係(
当然ながら、傍系からの相続もでてくる)を系線で結んだものもあることに留意したい。多くの系図に当たって、関係する系図を客観的に横並べして比較検討することによって、見えてくる事実もあると思われる。
 
○歴代の名前等に不自然なものがないか。
  命名法は時代の変遷に応じて変化があり、その者が属する時代に適しい名前かどうか。この辺の感覚は、多くの一級史料に触れ、また信頼性の高い系図類に触れることにより、次第に涵養していかねばならないものであるが。このための人名の基礎史料が、『日本古代人名辞典』全7巻、『大日本史料』や六国史、『寧楽遺文』『平安遺文』『鎌倉遺文』などである。
  古代では、名前に付けられる「天、命」やカバネ(
臣、連、直、宿祢など)には時期が限定されており、これが時代相当かという問題がまずある。例えば、「天○○命」という名前は、神武朝以前にしか現れないはずなのに、それより後代になる者にこうした命名があるとそこに疑いが出てくる。
  古代と中世では、名前(
実名、諱、通称)に用いられる字や冠辞・尊称・呼称などに大きな差異がある。また、古代では、平安時代になると、同じ世代で「通字」が見られ(兄弟通字、世代通字)、それが平安前期の承和・貞観期から十一世紀ごろまで、かなり強い傾向で現れる。
  ところが、数世代の過渡期を経て、平安末期頃ないし中世以降では、系統により長い世代(
歴代)にわたって通字が頻出する(歴代通字)。こうした通字の傾向も、親族関係の大きな判断要素となる。逆に、通字がない時代において通字的な命名が見られると、そこに疑問も生じる。
 通字や呼称・通称、官職名、法名に不連続が見られる部分は、十分検討する必要がある。太郎・次郎三郎などの名乗り・通称が親・子・兄弟などの関係と符合するかという点にも留意。
  ただ、系図が何度も書き写される過程での、人名や官職等の誤記・誤転写もかなり多かったことに注意しておきたい。こうした誤記・誤字には、一定の傾向が見られることもある(
ただ、「左・右」については判じがたいこともある。字体が似ているうえに、両方に任じたれいなどもあるからである)。
 名前に限らず、姓氏の記載に疑問なものもある。史料に裏付けのない「姓氏」の記載があれば、疑問も出てくることに留意したい。
 
○先祖歴代の官位・官職や活動の事績が時代と符合したものか、誇張がないか。
  官位・官制は時代により変遷があり、系譜の註に記されるものが根本史料の記事に合致しているか。国造・評造・評督・郡司といった地方官職にも十分留意する必要がある。また、「姓(カバネ)」の記載法にも注意。
  往々にして、史実に合わない事件・事績・戦功が家柄や個人を飾って記載されることもある。ただ、歴代の名が正しくとも、事績や官位・官職について誇大表示される例もある。『公卿補任』や『歴名土代』(
中世関係)などの叙位・任官の記事との整合性を十分チェックする必要もある。
 
『江源武鑑』等のいう佐々木六角氏の義実以下の三、四代が、叙位任官や通婚の記事などで後世の偽造であることは明らかであるが、最近、ある学究がこの「佐々木屋形三代」を認める記事を書いていることに驚いた次第である。このように、大学教授くらいの肩書きがあっても、系図関係の基礎知識すら持たない者も意外に多いことに十分留意する必要がある。総じていうと、いわゆる大学学究の関係者は、系図研究(及びその基礎研究)を軽視しすぎており(だから、十分な関係知識を持たないまま、系図の評価・判断という行動をしがちである)、安易な発言は慎まれることも要請されよう。
 
○地名の具体的な比定に誤りがないか。地理的移動が不自然ではないか。
  系譜・所伝のいう関係地名の比定は、問題ないか。『和名抄』など地名の沿革や変遷を含めて、詳細な地図で具体的に地理・地形状況を確認したほうがよい場合が多い。国土地理院の地図も、インターネット上で公開されているので、適宜利用したほうがよい場合がある。同じような地名でも、地域・国が異なる場合があり(氏族移動に伴う地名移動も見られるが)、また、訛伝もかなり見られる。
  古代の地理・環境が中世や現代とかなり変化がある場合も、出雲などを含めかなり多くある。古代の湾入、潟湖や河川の流路なども、中世・近世には古代から大きな変化を見せる場合がある。同じ地名が複数ある場合もあり、時代に応じて地名変化や領域変化もままあるので、時代を踏まえつつ、地名比定を的確に考えたい。
  古代でも中世でも、居住地の大規模な遠距離移動は、源平争乱・奥州征伐・承久の乱や南北朝など大争乱の結果として生じたものを除いて、実際にはあまり多くなかった。多くの諸氏では、当地への転入や貴紳落胤の伝承があったとしても、実際には往古からその地に引き続いて長く居住していた可能性のほうが大きいということである。それが、先祖からの系譜を失ったり、自己家系を飾るために、著名な氏・家あるいは有名人に系図を架上させたりで、先祖の系図が変えられることもままある。
  鎌倉幕府による関東御家人の奥州・西国への転配置など、氏族や個人の移動の契機・要因が合理的であって、それに関する良質の史料の裏付けがあればよいが、そうでなければ、移遷の問題はしっかり検討しなければならない。当時の具体的な地理的条件・関係地名をよく吟味して、遷住の所伝が正しいかを判断する必要がある。流浪伝承はとくに要注意であり、また、主家とともに関係する重要家臣たる諸氏の移動・所伝についても、併せて考慮する必要がある。
 
○氏族や一族のもつ祭祀対象・奉斎神と祖神が符合しているか。
  氏族の奉斎神は、出自探索の大きな手がかりとなる。自然神・抽象神のようにみえても、具体的な個人と受けとられうる神がおり、また、母系の祖神や職掌上の祭祀神も祭祀対象にあったことに注意される。氏族が居住した地域において、どのような式内社・古社があり、その祭神の原態が何であったか(祭神の名が転訛する場合もある)、どのように祖神奉斎に関与したかを検討する必要がある。
  古代に限らず、中世武家でも氏が奉斎した氏神が何であったかという検討はたいへん重要であり、往々にしてその実際の出自を暗示することがある。ただ、中世にあっては、一族の祖先神ではなく、地域の産土神をも併せて信仰・奉斎したこともあり、また出自・系譜の変更・仮冒あるいは母系などの事情からそれらに応じて奉斎神を変えることもあるので、この辺にも注意を要する。戦乱などで当該社が荒れ果てて、祭祀神や社伝を失う例もないでもないし、近世にあっては、延喜式内社の比定をめぐって数社で争いが起きたところも少なくない。
  総じていえば、その地の古社に祠官として長く奉仕する氏は、国造・県主など当地の古族末流(
あるいは、これらと姻族・養猶子・縁故関係で、祠官家の姓氏・系統の変更もあるが)であったケースが多い。
 
○近隣に居住する一族や諸氏と系譜・所伝・家紋等が符合しているか。
  同名ないし類似の名をもつ旧豪族が同処や近隣に居住している場合には、それとの系譜整合性が説明できるかどうかをよく検討する必要がある。近隣諸氏との間になされた通婚関係により、世代等のチェックもなしうる。母系により、同じ氏・苗字となった例もあるので、この辺にも留意を要する。
 その一方、遠くに離れた支族や早くに分岐した支族が、出自の正説や良い記録・系譜を別途によく伝える例もある。当地に伝わる地誌などの多くの史料類とも種々突き合わせ
て、総合的に系図史料を考えていく姿勢が必要であり、こうした検討が等閑にされている例が多い。
 中世以降の系譜では、家紋も検討の対象の一つとして留意しておきたいが、一つの家・氏で、いくつかの家紋を併せて複数用いたり、時代により家紋が変更される例も多いので、これが必ずしも決め手にならないこともある。
 
○貴人・有名人の落胤ないし庶子と伝える祖先がいるか。
  源頼朝や為朝の落胤とか平家一門の落人などを始め、全国各地にある落胤伝承はまず信頼しがたい。中央の貴顕から養子を迎えた(これにより、姓も改めた)、貴顕の地方配流により氏が発生したという所伝についても、総じて疑問が多い。
 その一方、急に立身した土豪・平民に近いと思われるような人物・氏でも、その先祖からの系譜が伝えられるはずがないと思いこむべきでもなかろう。ただ、三河松平氏の譜代の家臣諸氏については、殆どの系譜が要注意である。東海地方出身の江戸期の
譜代大名や、織田信長・豊臣秀吉などにより引き立てられた戦国期の成り上がり大名の系譜には、大きな疑問があることが多い。
  落胤ないし庶子という所伝が実際にあったとしても、歴史的に意義のあるケースは、まず殆どないのが歴史の実態といえよう。「後南朝」などと称して、南朝の皇族関係者の子孫を名乗る一族も見られるが、仮に実際にそうだったとしても、これが歴史的に意義あるものかは疑問が大きい。平家の落人伝承などは、まるで信用できない。
 
○先祖の同一人物とみられる者が、一連の系譜の複数箇所に記されていないか。
  人物・系譜の複数箇所での記載ないしは系譜所伝がいろいろ異なる者は、その者の系譜上の位置や所伝が不安定なことを示唆することが多い。ただ、現実に複数の者の養子・猶子になった者も見られるので、養猶子関係に無理がないかどうかを、世代配置も含めて、よく検討する必要がある。
 
○他の系図史料に見えない者、基本史料で確認されない者を中間の世代に置いて系図を続けていないか。
  こうした人物が系譜上の重要な地位を占めるのは不自然である。なかには重要な史実も混じる可能性がないとはいえないが、概していえば、系譜仮冒のための加筆とみられる。歴代の名が、一族に伝える系譜の間で区々である場合は要注意である。
  その一方、遠祖を同じくした古代氏族において、同一人物(
)を別の名で伝える例もある。とくに崇神朝以前では、同人()異名の例もかなり多かったことに留意される。大化前代ごろでも、また奈良時代に入ってでも、同一人が史料には異名・異表記で現れる場合がまだかなりあり、注意を要する。
  こうした
同一人物()の見極めは古代においてたいへん重要であるが、中世でも時にこうした見極めが必要となることがある。戦国期まででも、一人が時期により名を変えながら多くの名を用いた例も多い。文書により、同じ人物が別名で登場することがままある。とくに、中世文書で苗字と官職名で宛先・記事等が記されている場合に、それが具体的に誰にあたるかという見極めが問題になる。この場合に、学究が比定した者であっても、実のところ、かなり誤りが散見するから注意を要する。
  その後の時代でも、表記が異なる場合はもちろん、名前や呼称を地位変動に応じて頻繁に変更したり、地域により複数名を名乗る例もあって、
異名同人や同名異人の判別など人物の同一性の確認には十分な注意を要する。神々の場合は、少彦名神や大己貴命、天目一箇命など、同神が異名で現れたり表記される場合がきわめて多いことに留意されたい。
 
○複数の出自や系譜を伝えていないか。
  藤氏、平氏ないしは源氏などと、出自・姓氏(本姓)を複数に伝えるものには注意を要する。とくに地方の藤・源・平・橘姓など中央の貴姓を称する武家諸氏には、十分に検討する必要がある。一系の系譜で相当な名家でも、時代によりある時期は橘、ある時期は佐伯、ある時期は藤原と称したという例もある。公家でも、中下級の藤・源・平・橘姓などについては相当の注意を要する。総じて言えば、武家の藤・平・橘は殆どが系譜仮冒であるし、源姓でも系譜仮冒例はかなり多い。
  また、『東鑑』などの基本史料といえども、そこに記される姓氏が実際の出自・姓氏とは異なること(
自称が公的に認められた形で記載された場合など)もあるので、姓氏の記事を鵜呑みすべきではないことに留意される。なお、複数の出自所伝を持っても、養猶子関係などがあった事情で、実際に妥当する場合もある。
 
○先祖や歴代にあげられる人物が実在したものかどうか。
 他の史料や系譜に全く現れない人物(史料に裏付けのない人物)も数多いので、個別に実在性の判断がつきにくいことも、往々にしてある。上記の項目でチェックして、総合的に見て特段の問題がなければ、一応、実在したものとして検討を続けざるをえないが、系図の個々人について、実在性があるかどうかの問題意識は常に保持する必要がある。
  なお、戦後の歴史学では、当然の前提として十分な根拠なしに、記紀に現れる上古の特定人物の否定し切り捨てる傾向があるが、これも問題が大きい。本来、神話的な要素や虚構の排除とは別の問題であろう。ある歴史的な事件は、一人の英雄だけでなされるものではなく、具体的な場所で、それに参加(加勢、敵対)した複数の人々が同時に担ったものである英雄史観の排除の必要性)。こうした複数の人々が、後世に残された子孫の存在などから、合理的整合的に存在したとみていいとき、相対的に相互に存在が傍証され、補強されるとみてよかろう。
  この意味で、上古代に関する歴史学においては、単独の英雄のみに焦点をあてて、この者だけを取り上げるような“英雄史観”はまず排除されるべきである。それとともに、神武天皇や倭建命、神功皇后、武内宿祢などを頭から否定することは、合理的な研究姿勢ではない。「神」とされるような名称「天、神」を持っていても、頭から虚構で後世に造作された者とみることは、むしろ疑問が大きい場合がある。
  津田史学はその提唱当時に、十分な意義があったと思われるが、現代では総合的に考えると、導かれた結論では疑問な見解もかなり多い(
津田博士の見方がほぼ妥当でも、それが誤解・誤用された場合がままあるようである)。いずれにせよ、個別具体的な十分な検討が必要であり、非論理的で粗雑な歴史観を議論・検討の基礎・前提に置くことは、史実・原態の探求をめざす系譜研究の進展にはつながらないと銘記すべきである。津田史学及びその結論だけを金科玉条とするような津田亜流の歴史学者には、総じていえば、かえって合理的な科学的研究姿勢を欠き、結論先取りか先入観支配、主観的な傾向が見られる。歴史研究が信心であってはならない。
  歴史学にかぎらず、系図研究においても個別具体的に丁寧に行う必要があり、冷静で合理的な判断が今後ともしっかり求められるべきである。

 
その一方、一見不合理そうな系譜所伝でも、所伝・伝承を安易に切り捨てるべきではない。
  その不合理さは、伝来期間の中で生じた「訛伝」の結果にすぎないこともあり、出自・系譜について貴重な示唆を与えるものもあるということである。総じていえば、系図の始源的な部分に誤認識や系譜仮冒があったりする例が多いし、重要な支族分出の箇所でもそうした傾向がないでもない。
 だからといって、そうした疑問箇所を含む系図・所伝の全てが使えないものでもない。断片的な系譜伝承であったとしても、特定個所としては真実探求に有効なことがある。
総合的な系図全体の考察も欠かせないが、長い年代にわたる系図が、一時期に一挙に編成されたとみないほうがよい場合がかなりある。
 太田博士の著にも、材料はなるべく多く蒐集すべきであり、たとえ採るに足らぬ口碑伝説でも驚くべき事実を語ることが少なくないとの指摘がある。
  多くの地域史の関係書のなかには、その土地の地理・実情を踏まえて氏族伝承を検討したものがかなりあり、できる限り多くの関係史料・資料を集め、総合的に、これらを併せて比較・参照したほうがよい。これまで系譜研究を通じて、所伝や歴史のもつ重み・深みを度々感じたものである。


 3 
まとめ

  以上、体験的に気づいたポイントを挙げてみたが、一応のまとめをすると次のとおり。

(1) 流布する俗説や仮冒された系譜(
ないしは不確かな系譜史料)に基づいて、歴史学の学説が安易に立てられることは問題が大きい。
  坂東八平氏や鎌倉北条氏が実際にはみな桓武平氏の出ではなく、近江の佐々木氏が宇多源氏ではなく、赤松氏や名和氏がともに村上源氏ではなく、それぞれ祖先・出自の関係には十分な注意を要する。藤原氏や清和源氏の出自という武家にも系譜仮冒が極めて多い事情にある。
  わが国の氏族・姓氏・苗字の概覧的な記述を整理する過程で、疑問が大きい称清和源氏諸氏には、衝撃的なほど多数遭遇した。称桓武平氏や称橘氏も同様である。藤原姓武家の主要流派、秀郷流・利仁流・為憲流の諸氏などでも、仮冒の多いことでは、また殆ど同様である。
  こうした事情の下では、摂関家藤原氏嫡流に排除されて地方に活路を求めた中央の貴顕が転進し任地先などの事情で地方に根付いて、そこで武士の起りとなったという従来の歴史認識すら、疑問が大きくなる。むしろ、殆どのケースが、当該地域の古族の末流に位置づけられる(
古族から女系を通じてつながることもあろうが)。地域古族の女婿となって有力な子孫を伝える例も皆無ではないが、多くは古族の男系が中世までつながっているとみられる。
  また、中世武家でも、室町期の高・上杉・伊勢などの大族や鎌倉期の坂東武士をはじめ、殆どが出自に疑問がある。室町期の坂東武士についても同様であり、関東管領上杉氏の重臣の大石氏や太田氏なども系譜仮冒がある。ところが、中世史学界にはまだその出自・祖系に関する疑問認識にきわめて乏しい。実態を踏まえた中世史・中世武家の再構成のためにも、有力武家の系譜・起源を厳密に、かつ具体的に検討する必要があろう。これは系図研究を通じて改めて認識した次第でもあり、学界に提起したいものでもある。

(2) 姓氏や苗字についての整理作業は、当初予想した以上に日数を要することになり、既に四、五十年ほどに及んでいる。この作業を通じて、横断的・総覧的に多くの姓氏や苗字を見てきたが、そのなかで新たに気づいて考え直した点も、実のところ多々あった。
  各種系図の比較検討にあたっては、
室町前期に成立の『尊卑分脈』がやはり重要な系図資料であると再認識した点もあげられる。すなわち、同書に掲載の系図には公家部分についてかなり信頼性が高く、武家部分についても成立当時の段階(あるいは鎌倉末期・南北朝初期ごろまで)まで世に伝えられた系図が知られて、たいへん重要であるということである。ただ、室町中期頃までの記事追加や系譜記事の変更もあったようで、この辺には十分な注意を要する(とくに、清和源氏の例では、源為義について、義家の孫とするか直子とするかにより、所載系図の古さを考える基準になりそうである)。
  それでも、疑問の箇所が『尊卑分脈』にかなり多数あるが、同書に不記載の系図部分・人物については特に出自に要注意ないしは疑問大のものと考えていかねばならない、と改めて感じ入った次第でもある。その意味で、同書では武家の桓武平氏関係系図が極めて不十分というのも、実際には桓武平氏の流れを汲む武家が世に殆ど存在していなかったという事実(
平氏としてよいのは、越後城氏や常陸大掾氏くらいか。伊勢・伊賀の平氏の一族にも、系譜は十分に要注意)を端的に示すものとして、よく理解しうるものである。

  明治期に中田憲信が主となって、鈴木真年の収集系図等も踏まえて編纂したとみられる『諸系譜』(
国立国会図書館所蔵)が、『尊卑分脈』の補遺的な系譜をかなり採集していることもわかる(といっても、補遺部分の記事がすべて正しいわけでもない。いま、『諸系譜』は国会図書館のデジタルデータベースでネット閲覧ができる)。憲信の編纂史料類は、東京国立博物館(東博)にも所蔵され、ネットで『神別系譜』などのデータベースが閲覧できる。また、真年翁や太田亮博士が実に丹念に多くの系譜関係資料を収集し、それを踏まえて貴重な指摘をしていることも、さらに認識した次第である。これら先学の貢献に対し、改めて敬意を表したい。現代の系図研究は、これら幕末・明治期に精力的になされた系図収集を無視して進めることはできないことが痛感される。
  更には最後の段階で、古墳など考古学関係資料や祭祀・習俗等も、文献に残らない事情を示唆することが分かり、とくに吉備氏・毛野氏や出雲国造の関係では、古墳など考古遺跡が重要な意味をもつようなことが分かって、衝撃を受けたところでもある。

(3) ある一つの事情から芋蔓式につながって、思ってもいなかった系譜関係や古代の地理・神祇関係(例えば、古代の郷名・郷域や式内社の比定)等の疑問が解明してきたことも、これまで様々に体験した。当事者の理解と関連知識が増せば、それだけ系図からえられる知識が多くなり、系図の把握・解明が進むということで、当たり前といえば当たり前なのであるが。
  このため、関係する系譜史料など資料をできるだけ多く集め、これらを丁寧に扱って個別具体的に比較検討すること、安易に切り捨てないことが肝要である。流布する所伝は勿論のこと、いわゆる大家・学究の説く説や固定観念にとらわれずに、様々な角度から自分の頭で冷静かつ具体的に考えていくべきであろう。先学の様々な研究・見解を適宜、踏まえつつ、かつ、それに囚われない柔軟で合理的総合的な思考が必要である。


 総括

 
系図学は歴史学の関連・補助分野であるが、一方、その判断・評価に当たっては、歴史知識のみならず、考古学・地理学・祭祀学・民俗学等、ときには数学・統計学なども含めて多くの諸科学・諸技術の成果も含めて総合的・合理的な見地からなされる必要がある。有効な系図資料は、歴史学研究に寄与することは言うまでもない。
  そのための手段として、系図学関連の多くの知識を貯えるとともに、現代地名・歴史地名や地理配置・変更についての詳しめの地図・地名大辞典及び地方史料と、統計学や計算機・PCを手に持ちつつ、できるだけ多くの系図・研究資料に当たって、鑑識能力を高める必要がある。
  それとともに、具体的な系図研究においては、関連する多くの系図史料を十分に比較検討し、偽書・偽史料を排除して、さらに実証的客観的総合的に系譜探求を続けていく必要性が改めて強く感じられる次第である。歴史分野の学究といえども、系図分析を的確になしうる学究がきわめて少ない事情を認識しておく必要がある。


 長い年代をカバーし歴史の大きな流れに適合するような偽史書・偽系図の作成が、たいへん難しいということも、学究にはほとんど理解・認識されておらず、安易に「造作論」が言われるのは、たいへん困ったことである。この辺には、津田博士の思考方法・見方の悪影響・誤解が出ている面もあろうが、この辺は、博士の真意ではないと思われる。

  だから、大学や研究機関の教授とか名家名門とかいう肩書きに惑わされず、思込み・予断をできるだけ排して、厳しい史料批判を貫く姿勢を的確に堅持する必要があること、合理的・論理的な検討を行うべきことはいうまでもない。なお、「史料批判」を「史料否定」の義だと誤解する向きもあるようだから、「史料吟味」という表現のほうが良いのかも知れない。
  系図研究を十分行えば、『東日流外三郡誌』や『古事記』序文などの偽書性も明らかになる。すなわち、秋田孝季とか稗田阿禮とかいう実在性のない人物(
信頼できる史料から見て、実在性の裏付けがまったく取れない人物)がまともに取り上げられているからである。国宝指定の『海部系図』にも、実在性の裏付けのある人物は基本的に同系図に記載されていない。

  歴史学と系譜学とは合い携えて、その相互チェック作業のなかで、史実(
ないし伝承の原型・原像)の具体的な解明に進んでいくべきものである。そのために、偽史料との弛みない戦いのなか、果てしない努力も続けられよう。  

 (06.7.11、07.9.10、08.4.29、09.3.7、10.9.25、11.9.9、20.11.09や20.12、23.05などに追補)



    中世系図の検討方法の留意点

  (参考) 系図研究にあたっての基本文献の一例


 
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