中世系図を見る視点先に記した系図の検討方法についての試論を踏まえて、とくに中世(鎌倉期〜織豊期)において特徴的な系図検討の視点を参考のためあげておきたい。もちろん、個別具体的な事情を十分踏まえる必要があり、すべてが公式的に解決できるものではない。近世系図でも、ほぼ同様な事情があるし、偽造頻度は中世系図よりも高い傾向もある。 系図研究の検討の際の主な視点は次のとおり
(1) 総じて系図の一般流布本には疑問が多いことがある。俗に「偽系図」という言い方があるが、その定義の仕方によっては殆どすべてが偽系図となりうる。しかし、そこまで厳格に考えて偽系図の疑いのあるものを全て史料から排除したら、歴史的な人間関係も含め、見つけだすべき真実すら流し棄てることになる。
系図は「継図」とも書くように、本来、先祖から書き継がれてきた文書という特徴がある。つまり、時の経過に応じて、何度も書き足したり(様々な意味でその際に修補がある)、また別途、分家などの事情や古くなって朽ちてしまったことなどの事情で、他の文書から転記されたということでもあるから、これを段階を追って考える必要がある。系図の内容に応じて、適宜、部分毎に見ていくことも必要だということである。
総じて言えば、出自部分(系図のはじまり部分)に問題があるものが多く、その後ろの後半部分はかなり信頼してよいというケースもある。もちろん、最初からまったくの偽造系図もあるが。 そこで、中世系図においては、
“実系の探究”、いいかえれば系譜仮冒の十分な検討が必要となる。
戦国期に勢力を伸長した諸武家諸氏が祖系を名家出自に修飾、架上する例がかなり多い事情がある。 地域の武士団の形成過程、武士の移動(奥州藤原氏征討、承久の乱、元寇、南北朝争乱など)の検討。
落胤伝承、通字(当初は兄弟通字、のち歴代通字)、祭祀、家紋、通婚や養子・猶子関係、官職・通称等の名乗りかた(その世襲)や複数の名前等が検討のポイントとなる。
また、誰(どの系統)が系図を伝えたか。本拠地を早くに離れた支族のほうが良質の系譜を却って保持する場合もある。
そのための研究資料として、 一次史料 『東鑑』(吾妻鏡) 源平争乱期〜文永三年(1266)の記事
〔時頼没後三年後、時宗執権就任の二年前〕
『鎌倉遺文』『大日本史料』や各種の公家日記など。
これら文書ばかりではなく、金石文などの検討も必要となるが、いずれにせよ、これらの場合には、偽文書に十分注意のこと。『鎌倉遺文』『大日本史料』に収められているからといって、疑問な文書や記事がある。『曾我物語』や『太平記』などの小説・軍記も参考にならないものでもない。だから、学者が「一次史料、二次史料」と言おうが、「一級史料、二級史料」と言おうが、内容を十分に吟味する必要性があることに変わりがない。
系図集:『尊卑分脈』 左大臣洞院公定(生没が1340〜99)の編集とされるが、その父祖・子孫を含む洞院家歴代の業績・成果ともいえよう。その成立年代からいっても、中世の系図集としては比較的信頼性が高く、基本的なものであるが、武家系図の部分については要注意点がかなり多いし(これに掲載のない武家系図は、その出自の信頼性にますます疑問が出てくる)、公家系図のなかでも問題があるものがある。
総じて、南北朝期ごろの者まで記載されるが、附載書込として室町後期に及ぶ記載が若干ある。しかし、附載書込部分は伝わる系統により異なるから、また更に注意が必要となる。 なお、各家の系図については、鎌倉期(ないしそれ以前の時期)に作成のものは少ないが、それでも現在に伝わるものもある。
cf.近世の系図集 浅羽本や『諸家系図纂』『群書類従』『系図纂要』や単発の各家の系図。大多数の系図ないし系図集は近世に作成されたものであり、時代が離れるだけ信頼性に欠ける要素が多くなってくる。これら近世の諸系図集には、十分な注意を要する。
これらも含めて、多数の系図を比較検討のうえ、主な参考書としてあげられる太田亮著『姓氏家系大辞典』『家系系図の合理的研究法』や豊田武著『家系』(日本史小百科)、近藤安太郎著『系図研究の基礎知識』などで、基本的な検討を加えることが必要。総じて系図には様々な疑問が多いことに留意。 (2) 歴史的事実の調査・確認のためには、一般論として、事件報道の5W1H(下記の下線の事項)、とくに場所Whereと日時Whenに十分注意して行う必要性が大きい。検察官が犯罪事件を把握して起訴の是否を判断するときに用いるのが、六何(あるいは八何)の原則であり、5W1Hを押さえたものとなっている。
※刑事裁判の起訴状における公訴事実の記載方法 六何の原則(@〜E。これを拡充して「八何」ともいう) 「誰が(誰とともに),なぜ,いつ,どこで,誰に対して(何を),どのように(方法),どうした(行為と結果)」 Who(with Whom),
Why, When, Where, to Whom or
What,How, What as Result
犯罪の @主体, A契機,B日時, C場所, D客体, E方法,F行為と結果
場所・地名については、実際の地理的状況を地図(NetでMapionなどの利用も可能)で確認し、吉田東伍『大日本地名辞書』、角川『日本地名大辞典』、平凡社『日本歴史地名体系』などで、具体的な使用や表記の時期や歴史的な地名変遷の経緯等を確認。地方史関係の歴史書にも参考記事があるので、いろいろ調べた方が良い。
日時については、中世の場合には、暦は古代ほど留意することはないが、やはり要注意。年号の書き間違いや数値の書き違いなどが往々にしてある。また、生没年・年齢など日時のチェックも必要であって、世代比較が必要な場合もかなりある。 (3) 中世の系図には、古代ないし中世のある時点から始めて、しばらく一世代一人(ないし、世代によりごく少数のものも入る)という形の直系を数代続けるものも見られるが、こうした単系の系図には十分注意する必要がある。系図は兄弟・親族や通婚・養猶子関係を通じて、記事の真否をチェックできるものがかなりある。また、中間の世代の名前が欠落する形で伝えられる系図にあっては、この中間部分に疑問が出てくるものもあることに、十分留意される。 (4)具体的に適宜、土岐一族の系図を例にとって、考慮すべき問題点をあげてみれば、 @
世代比較
これは、生物学的に妥当な年齢差(25〜30歳ほど)で世代の交代をしているかという観点からの問題であり、中世の世代についていえば、実子関係でいうと、概ね世代推移に次のような傾向がある。
a 鎌倉殿(頼朝将軍)から建武頃の人までの世代……中間に四代(ないし五代)ほど
1180年の頼朝挙兵(あるいは1192年に将軍補任、鎌倉幕府開設)、1333年に幕府滅亡であり、その間は約150年。
土岐氏では、鎌倉期の歴代数がやや少ない問題点がある。 b 建武から応仁の乱頃の人までの世代……中間に三代ほど(建武期の先祖から数えて5代目) 鎌倉幕府滅亡の1333年あるいは尊氏将軍就任の1338年から応仁の乱1467年勃発まで、その間は約130年。
c 応仁の乱頃から織豊期(信長・秀吉・家康頃)までの世代も、中間に三代ほどの世代。言い換えれば、織豊期の人から四世代先祖に遡れば応仁・文明頃に活動した人となる。
1467年から下って、1573年の室町幕府滅亡、1585年の秀吉関白、1603年の家康将軍で、約130年。
例えば、小田原北条氏 初代の早雲庵長氏から滅亡時の氏直まで北条五代といわれる。
一方、土岐氏では、応仁時の成頼から頼芸まで三代、その子の頼次(1545〜1614)まで四代だが、頼芸(1502〜82)は享年八十一歳と異例の長寿のうえ、当初の後継者を失い、最後に家を継いだ頼次は父頼芸が44歳の時の子という特殊事情にある。頼芸の弟、常陸江戸崎の土岐原氏の治頼の系統では、子の治英、孫の治綱・胤倫と続いて、頼芸の孫世代のときに秀吉の小田原征伐にあい没落しているから、やはり五代という計算。 また、中世以降では、公家でも武家でも、系図に養猶子関係が多く現れており、それが所領・位階官職などに関連し、しかも註記なしで実子のように記されることに注意を要する。また、家督や祭祀の相続順で系譜にあげる(系線でつなげる)のが親子のように受け取られる〔記される〕事例もある。赤松氏でも上杉氏でも、養猶子関係が多く史料に見えるが、それが系譜に不記載のものもかなりあるか。
A
誤記・誤字と異体字等の表記
系図には誤記・誤字が多く見られ、しかもそれが相互に誤用される傾向にある。例えば、土岐一族関係系図によく見える漢字でいうと、澄と隆、綱と継、秀と季、貞と員、光と元など。訓みが同じで、用字が異なる表記(貞と定、能と義・吉など)もある。これらの異体字の表記にも注意が必要。
これに関連して、同名異人、同人異名(一人が複数の名前をもち、その変遷がある場合)の問題もある。この関係は、史料をよく比較検討して判断する必要。
B 姓氏と苗字 (姓氏:源朝臣、苗字〔名字〕:土岐)
古代の複姓に対応するような複苗字(複姓:蘇我田口臣、複苗字:佐々木六角)が中世には大族でかなり見られる。
各種史料に土岐明智氏、土岐長沢氏などの形で現れることから、土岐一族かどうかの判断材料となる。ただし、一族に準じた土岐鷹司氏(藤姓)の例もあることに注意。
通称に現れる氏姓の表記 源太などの例 源、平、藤、橘、紀、中、菅、江、物、伴や大(大宅)、野(小野)、善(三善)、宗(惟宗)、清(清原)、豊(豊原)、神(甚とも。大神)など。これらの混用もある。 なお、藤太・藤兵衛など「藤」を名乗る武士は総じて言えば、系図原態が藤原姓ではなく、むしろ地方古族の末裔を示しているとみたほうがよい。同様に、佐藤・斎藤・加藤・安藤など「藤」がつく苗字も、実際の出自は殆どが藤原姓でなかった例が多い。総括していうと、武家の藤、橘、平の姓の大部分は仮冒の姓氏に因るものか。
沼田頼輔『日本紋章学』などにより、家紋の検討も適宜、行う必要がある。ただし、家紋は複数ある場合や使用の変遷もかなり多くあるので、一応の参考にはなるが、系譜関係の判断の決め手にはなりがたい面もあって、使用には十分な注意を要する。
C 武士の呼称(通称)
ex 次郎、小次郎・新次郎、孫次郎、彦次郎、又次郎、弥次郎 子・孫・曾孫は一般に小(新)、孫、彦と世代的に続くが、又、弥も使われる。 いつも長男が太郎、次男が次郎、次が三郎……十郎、与一(余一)、与二という順になるわけではなく、特殊事例もあり、個別具体的に検討の必要。
ex 河野四郎通清の長男が四郎通信で、以下は五郎通経、六郎通助、……と続く例(四、五、六、……という形)。
また、三浦氏では三浦介義澄の長男が平六義村、次が山口次郎有継、一人おいて平九郎胤義、十郎友澄と続く変則型(「六、七、八、……」+「太、次、三、……」)。これは鎌倉期の三浦本宗の先祖に「平六」を名乗る中興の祖・為継がいたためとみられる。
次郎三郎〔次郎の三男〕 :三郎二郎〔三郎の次男〕とは意味が異なる。
左衛門三郎と三郎左衛門〔父が左衛門尉の三男と三男の左衛門尉という差異〕
武蔵太郎(旧国名+太郎。武蔵国司である者の太郎) 苗字が省略される場合もある。
『東鑑』によく見える通称名の表記 法名 親子などの一族で法名についても通字的なものがみられる。
烏帽子親や養子・猶子関係も呼称に影響することに留意。
ex 兄の曽我十郎と弟の曽我五郎の兄弟〔これは、各々の烏帽子親の差異によるもの〕
官職名・通称、あるいは幼名の世襲も見られる。また、通称は複数、時期により変遷が見られる場合もあるので、注意。
土岐本宗では、室町前期の惣領の頼益以降、嫡子・歴代は代々「二郎、美濃守、左京大夫」を襲名した。頼益は池田美濃守頼忠の次男(月海太郎光忠の弟)で、二郎はこれに因る。
D 官位・官職
武家でも叙位・任官の記録が見られるが、『公卿補任』『歴名土代』などの記録と整合性があるかのチェックが欠かせない。とくに、叙爵のポイントである「従5位下」以上の叙位記事には十分に注意のこと。
通称として歴代の人々が同様な官職名などを用いる例があるが、それが具体的に誰にあたるのかの見極めも重要である。 (5) 中世系図においては、かなり信頼性が高そうなものであっても、古族の末裔が古代部分を切り捨てて(先祖の系譜が不明になっているケースもあろうが)、源平藤橘という中央の貴紳の系譜に接ぎ木、架上して全体系図とする例もかなり見られる。 これに限らず、系図検討に当たっては、全体検討は勿論必要だが、個別に具体的な個所個所を注意深く検討・吟味することも重要であることに留意したい。通婚などを含め、一族や他氏との世代比較も、有効な検討方法になりうる。世代数が不自然に多いなどの形で現れることもある。 (以上) (04.11.23掲上、08.11.10、09.3.7、20.12.7などに追補) |