(三好一族関連)

    三好三人衆についての雑考 

(1) 最近、太田晴道氏が「戦国・三好三人衆の基礎的考察」という興味深い研究を『歴史研究』(第509号、2003・10)に発表されている。
  織田政権が樹立される直前、松永久秀と三好三人衆は一時、京畿の実権を握ったが、彼らは三好長慶の宿老格の武将で、いずれも謎の多い人物たちであった。太田氏は、「三好三人衆を研究することは、三好氏全体の研究に与える影響の大なることはもちろん、戦国末期の京都を中心とする畿内の歴史を解明する上でも、一つの大きな手がかりになるものと考える」と記しており、当時の政治実権としてはたしかにそうした指摘が妥当しよう。
 
(2) いま暫く、太田氏の上記論考に沿って、主要なポイントをあげていきたい。
ア 「三好三人衆」の呼称の上限は、管見の限り一級の史料では、永禄八年(1565)十一月で『多聞院日記』同月16日条に「三好日向・同下野・石成三人衆」とあり、同日記が弘治二年(1556)二月から永禄八年六月までの間を欠くので、三人衆の呼称はそれ以前からあったはずだが、それもそう早い時期ではあるまいと記される。他の史料から見て、この三人衆として活躍した時期は、永禄七年頃から石成友通が討死した天正元年(1573)八月二日まで(従って約十年間)、ということになる。
 イ 三好三人衆の具体的な人名比定と呼称
  @三好日向守:実名は初め長縁、次に長逸(訓はナガヤス)。号北斎。法号は宗功。
A三好下野守:初め右衛門大輔政生(訓はマサナリ)、次に下野守政康。号は釣閑斎、入道して宗渭。
  B石成(いわなり)主税助:実名は友通。
 ウ 三人衆の系譜
@三好日向守:その出自を記す唯一の史料(系図を除く)は『続応仁後記』で、それによると、三好之長の四男「孫四郎長光」の子が日向守長縁。しかし、『細川両家記』等には、「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」の兄弟とされるから、「孫四郎長則」の子という可能性が強い。
A三好下野守:『続応仁後記』には三好之長の次男「孫三郎頼澄」の次男と記されるが、疑問であり、『三好別記』による三好之長の弟・勝時の子である政長の子のほうが妥当であって、「狩野文書」元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によって裏付けられる。一任斎とは政長の子の三好為三(政勝)のことで、書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記される。
B石成主税助:三人衆の二番目。出自不明。今谷明氏『戦国三好一族』では、一説に大和石成の出身かとも伝えられると紹介されるにすぎない。
 
(3) 阿部猛等編の『戦国人名事典』はなかなか便利な事典で比較的穏当な見解が記されるが、同書の記述によると次の通り。
@三好長逸:長縁・孫四郎・日向守・従四位下・号北斎。長則の子。三好三人衆の一で筆頭。
A三好政康:政生・下野守・号釣閑斎・法名宗渭・清海入道。頼澄の子。三好三人衆の一。
  B岩成友通:主税助。氏は石成とも書く。系譜の記述はなし。
  これらの記事は太田氏の検討とも概ね合致しているが、三好下野守政康の系譜については、太田氏の見解が妥当のようである。
 
(4) 「芥川系図」に拠ると、次の通りであるが、同系図も無視し難いものがある。
@三好長縁:初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子。なお、芥川五郎長則の子には孫十郎勝長のみをあげる。
A三好政康:初名政生、三好下野守。政長の子で、右衛門大夫政勝(為三)の弟。
なお、四郎頼澄の子として定清(小四郎、下総守、入道号釣閑斎)をあげる。
  B岩成友通:系図には掲載なし。
 
(5) 試論としての拙考と鈴木真年翁の『史略名称訓義』での記述
ア 以上の検討からいうと、まず「釣閑斎=政康」といえるかどうかが問題である。  この点については、「釣閑斎宗渭」と記される史料(久我家文書)や「釣竿」と記した史料があり、三好三人衆連署書状には「釣竿宗渭」とある(大覚寺文書)ことから考えて、上掲の諸説同様に肯定してよかろう。そうすると、本来は四郎頼澄の子として生まれたものの、父戦死の後に一族の政長の養子となり、定清を改めて、政康と名乗ったのかも知れない。
イ 次に、三好長縁の位置づけについては、「芥川系図」が芥川五郎長則の子・孫十郎勝長の子孫に伝わることを重視すると、少なくとも長則の子ではない(長光の子?)としておいたほうが妥当なのかも知れない。ただ、長縁の初名が定康だとすると、初名定清の政康との関係が兄弟ではないかとも推測される余地が出てくる。長縁と政康とが混同される例が多少見られるのも、実は兄弟だった故かも知れない。
そして、『史略名称訓義』では、三好長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」、三好政康について「豊前守之康の男、三郎と号す」と記述して、まさに兄弟としている。ところが、「豊前守之康」がまた不明であり、この者が次郎長光と同人であったのかもしれない。
ウ 岩成友通については、『史略名称訓義』には「岩成古〔ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。
これは、その出典が不明であるが、傾聴すべき説といえよう。太田亮博士『姓氏家系大辞典』には石成主税助の系譜を記さず、大和の石成(岩成)氏も見えないからである。備後国品治郡に石成郷(現福山市の上岩成・下岩成一帯)があり、この地の出身であったということだが、なぜ細川氏や三好氏に仕えたのかその事情が不明である。
  ただ、細川氏の領国に備中があり、その国人の石川、三村、河村、新見、中島などの諸氏が細川氏に臣従していたともいわれるので、これら諸氏と同様、当初細川氏に仕え、そのうち三好長慶へと属した可能性は考えられる。
太田氏は、前掲論考で石成主税助に関する文書で最も古いものが天文十九年(1550)頃と推定される松永久秀書状であり、その宛名が「石主」となっているが、これは「石成主税助」を略したものであると記している。この頃から活動が知られるわけである。
なお、備前国に磐梨郡石生郷があり、この地を中心に和気朝臣清麻呂を出した磐梨別君(石生別公、石生宿祢)の一族が繁延しており(六国史)、南北朝の争乱期にも「和気弥次郎季経、石生彦三郎」が見えている(『太平記』巻七)。備後の石成(岩成)氏も、備前から古代に分かれた者の末裔であろう。 
 
  以上、太田氏の論考に触発されて、三好三人衆について管見に入った範囲で検討を加えてみたが、かえって議論に混乱を増したのかも知れない。

 (03.9.26掲上)


  関連して、板野郡七条城主の七条氏 もあります。
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