(三好一族関連) 板野郡七条城主の七条氏 先に、阿波の三好氏の真の出自が清和源氏小笠原一族ではなく、伊予から来住の久米氏族の後裔で、阿波の久米氏との同族であったことが論考「三好長慶の先祖」(以下、「長慶の先祖」と略する)で記述されたが、これに関連する系譜史料が見つかったので、ここに紹介しておきたい。
それは、板野郡七条村(現板野郡上板町七条)に居た七条氏であり、その系譜は東大史料編纂所所蔵の『七条氏系図』『七条氏家系考証』『七条氏本支録』などの七条安次郎・同安太郎氏の原蔵文書に記載される。これら文書の主要部分の把握をしたものの、細部まで丁寧に読み込んでいない部分もあるため、細部に多少の誤解の表現があるかも知れないこともお断りしておく。
1 それら文書に拠ると、その系譜は小笠原長清の七世孫左京大輔義行を遠祖とし、その五男為成その二男喜水が初代であり、喜水は七条出羽守と名乗り、応安八年(1375)正月二六日に享年37で卒去している。
以下、上記文書を踏まえて考察したうえ、七条氏の略系主要部分を記述すると、その子が「第A世の知賢(出羽守、永享二年〔1430〕卒67歳。弟に吉田主殿の養子となった治部智介)−B嘉光(惣左衛門尉、嘉吉三年〔1443〕卒56歳)−C義陸(徳之丞、寛正五年〔1464〕卒52歳)−D利起(出羽守、永正三年〔1506〕卒61歳。妹に三好民部妻などが見える)−E長康(惣大夫、天文二年〔1533〕卒59歳)−F章(〔ママ〕)(「章」の前後に漢字の欠落があるか?孫大夫、天文二三年〔1554〕卒64歳)−G敏仲(孫大夫、天文二一年〔1552〕卒38歳)−H兼仲(孫次郎、天正十年〔1582〕卒29歳)−I兼嘉(孫左衛門、当人)」とされる。なお、もとの系図では、F章(〔ママ〕)(孫大夫)とG敏仲(孫大夫)との親子関係が逆転しているが、ここでは、生没年を考慮して原型と思われる形に訂正して記してある。
2 上記の文書とその記載の内容などについての検討の概略を次に列挙する。
(1) 阿波の七条氏は『故城記』や『阿波国旧士姓氏録抄』に「七條殿 藤原氏 紋鶴丸藤丸」と記載されており、同族の久米氏(祖の左京亮義隆は七条氏遠祖の義行の甥)と同様に藤原姓を称していた。
(2) 三好長慶の遠祖とみられる者に鎌倉後期頃の義高(義信)・義行兄弟がおり、その子の世代(義高の子の三好義房・久米義隆兄弟、義行の子の小六郎為成)の頃に建武年間の南北朝争乱期を迎えていたことは、「長慶の先祖」で記述されたが、義行の子の為成の子孫とする豪族が明らかになったことで、義高・義行兄弟以降の系図が信頼されるものと考えられる。
(3) 七条氏の初代喜水(1339生〜75卒)は、小六郎為成の諸子のうち為賢にあたるものとみられる。為成の諸子は、成経・為賢・為哉の順とされるが、第二番目が為賢であるとともに、喜水の子の知賢の名に着目してのことである。
(4) 板野郡七条村の西方近隣の五条村(現阿波市五条)にあった五条城には、戦国期に高志清之が城主であったことが知られるが、為賢の弟・為哉の子として高志下野守義賢・孫五郎清哉兄弟がいたことは、「長慶の先祖」で記述されており、高志清之は名前などから孫五郎清哉の子孫とみられる。
(5) 五条村の四キロほど西方には同郡吉田村(現阿波市吉田)があり、同地の吉田氏とは入り婿や通婚で密接な関係にあった。具体的には、A知賢の弟に吉田主殿の養子となった治部智介がおり、C義陸の姉に吉田隼人妻が見え、F章(〔ママ〕)の妹に吉田兵庫妻が見える。
こうしてみると、吉野川中流北岸の板野郡の七条から吉田にかけての地域に小六郎為成の子孫が分布していたことが分かる。
(6) 建武頃の為成の四世孫に当たるC義陸(1413生〜64卒)が、応仁の乱頃に活動した人と知られるが、為成の従兄弟の三好義房の四世孫となる三好長行・長重兄弟が応仁の乱において活動したことは、「長慶の先祖」で記述されていて、世代的・年代的に合致する。
なお、『阿波国古文書』七に小笠原長清の十二世孫の三好左近源義基の四男頼真(と同人の)山城国野田城主三好主計頭義矩の母が文明四年(1472)に卒した多伊知義季の娘だと受け取られる記事があり、「長慶の先祖」では三好長行と同義基について、同人と記述されるが、兄弟という所伝のほうが妥当かもしれないことを附記しておく。
(7)
七条氏で史料など見えて知られる者は、戦国期の七条孫大夫と七条兼仲、七条求馬があげられる。このうち、七条孫大夫は細川讃岐守持隆が家臣の三好義賢により殺されたときの久米義広方に名前が見える。すなわち、『七条氏家系考証』によると、持隆は天文二一年壬子八月十九日に自害したので、芝原の久米安芸守義広は主君の仇討ちのため、同志の佐野丹波守、野田内蔵助、七條孫大夫、仁木日向守、小倉佐助等と兵をあげたとされる。
そうすると、七條孫大夫に当たる者がF章(〔ママ〕)とG敏仲の親子のいずれかであるが、天文二一年〔1552〕八月二七日に討死したG敏仲のほうが、その二年後の天文二三年〔1554〕七月二〇日に卒したF章(〔ママ〕)よりも可能性が高いか。どうも、細川持隆の殺害時期及び久米義広らの仇討ち合戦の時期が天文二一年から同二三年にかけての期間のうち、何時だったのかが所伝により異なり、正確に特定できないうらみが残る。
(8) 次に、七条兼仲は、怪力で有名な豪傑で板野郡七条城主であったことが知られ、天正十年(1582)、四国統一を狙う長宗我部元親が阿波に侵攻してくると、十河存保に加担して阿波の中富川の合戦に参加し、この合戦で討死した(『戦国人名事典』にもほぼ同様の記事がある)。七条城近くには、兼仲を祀る若宮大明神があったが、いまは松島神社に合祀されるという。
「七条氏家系考」は十河存保方の討死者としては、矢野伯耆守入道以下の名をあげるなかで、「七条孫次郎」の名も見えるから、これが兼仲に当たることは『七条氏系図』と合致する。また、『阿州城跡誌』では「七条城 七条求馬 中富川ニテ討死」と記し、『板野郡城跡二十ケ所』では「七条城 主将七条求馬 天正十年落城」と記すから、「七条求馬」も孫次郎兼仲と同人とみられる。
中富川合戦は天正十年八月二八日になされて阿波方が大敗し、その後二十日ほどの籠城戦がなされたから、『七条氏系図』記載の兼仲の戦死が天正十年九月十五日が正しいときは、その後の籠城戦のなかでの戦死だったということになる。
(9) 川部正武氏のHP「武将系譜辞典」のなかの記事では、七条氏について、まず七条隼人孫太夫をあげ、次に「兼仲:1582死、隼人の孫・求馬」という内容で記し、さらに「右京:仕生駒高俊」とあげておられる。ご参考までに記したが、上記の記述との不整合はないと思われる。
(10) 『七条氏系図』の記載に拠ると、孫次郎兼仲の子のI孫左衛門兼嘉が最初に系図を作成した当人とされて、その後の系図記載がないから、同系図は十七世紀の初頭頃に作成されたものと推定される。記述には、F章(〔ママ〕)とG敏仲との親子関係転倒の誤りはあるものの、年代・世代とも問題がほとんどなく、総じて信頼のおける系図と考えてよさそうである。
なお、孫左衛門兼嘉の子孫は続き、弘化五年(1848)の七条文道や原蔵者の七条安次郎・安太郎らがそれに当たるとみられる。
3 久米氏の分岐に少し先立つ時期の鎌倉末期〜南北朝初期頃に、三好氏と分岐した七条氏や高志氏が阿波に存在したことは、三好氏の先祖はその頃までに阿波に入国していたことが知られる。これら初期分岐の諸氏が藤原姓を称していたことでも、三好一族の本来の出自が清和源氏小笠原一族ではなかったことが確認される。
(06.5.21掲上)
<川部正武様からの指摘> 06.5.21受け 七条氏は公家出身説(?)など謎の多い氏族ですが、 三好一族というのは大変興味深く思いました。 ただ、七条兼仲の生年(1554年?)と七条敏仲の没年(1552年)を考えると親子関係は無いことになってしまいますね。
<樹童のお答え> 七条氏系図の原典を踏まえて本文記述をしましたが、原典に拠る第D世の利起以降の生没年をあげますと、次のとおりとなります。 D利起 1446〜1506
E長康 1475〜1533
F章 1491〜1554
G敏仲 1515〜1552
H兼仲 1554〜1582
上記記事にみるように、G敏仲とH兼仲の間ばかりではなく、E長康とF章との間にも年齢的な疑問が出てきます。この2つとも、おそらく原典作成時になんらかの誤記誤伝があったものとみられます。
G敏仲とH兼仲との関係においては、おそらくH兼仲の行年(享年)二九という記事が三九の誤記ではなかったかと推されます。原典では、G敏仲が四十歳のときの子となって、それほど不自然ということでもないのですが、H兼仲がG敏仲の長子で、下に達大夫紀利(岡田主計養子)及び女(石川某妻)があげられますから、兼仲は、敏仲の実子としてよさそうですし、行年三九の誤記だとすると、敏仲が三十歳のときの子となって自然なように思われます。
(06.5.22掲上) |
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