三河の大河内氏とその同族
宝賀 寿男
はじめに 大河内氏は、各地にあるが、なかでも中世・近世で著名なものは三河の大河内氏である。譜代の大名として江戸時代に松平(長沢)氏を名乗って三家あり、智恵伊豆で名高い老中松平信綱を出し、明治期には大河内に復して華族に列したが、家伝では清和源氏源三位頼政の後裔と称していた。この氏が三河国額田郡大河内郷(現在の岡崎市域)に起ったことは確かだとしても、初期段階の系図には確認できない点が多く、源三位頼政の後裔という系譜には大きな疑問を感じつつも、これといってさほどの手がかりがなく、長い期間が経過していた。 ところが、最近、『美濃国諸家系譜』のなかに興味深い大河内氏の系図があることに気づいたので、ここに紹介し、併せてそれらを踏まえた試論的な拙見も示して、研究者諸賢のご判断・ご検討を仰ごうというものである。
大河内氏の概要と問題点
発祥地とされる額田郡大河内郷は必ずしも明確ではないが、矢作川支流の乙川流域北岸に位置する洞村あたりにあったとみられる。同村には字大河内(現在の岡崎市大平町字大河内)の地名が残り、『二葉松』には洞村に大河内金兵衛(秀綱)の住居跡ありと記される。 『三河堤』などによれば、源太(源大夫)顕綱が治承三年(1179)に当地に来住して、三河守護足利義氏(頼朝の義弟・義兼の子で、尊氏の五代祖)に仕えたが、これが大河内氏の初祖という。顕綱は、源頼政の養子(甥)の大夫判官兼綱の子と伝えられ、治承四年(1180)に父戦死のとき僅かに二才であったが、母の懐に抱かれて三州に来て大河内に住み(途中に尾張国中島を経由ともいう)、寛喜二年(1230)に五十二歳で死去した(この場合、1179年生まれとなる)というから、実在しておれば鎌倉前期の承久頃の人となろう。
顕綱が頼光流の大夫判官兼綱の子というのは、その三河来住の伝承からみて信頼しがたいが、兼綱の系統は京畿に残らなかったわけでもない。すなわち、兼綱の子の頼兼及びその子の頼茂が二代続けて鎌倉前期に大内守護となっており、源頼茂が承久乱に先駆けて謀反の疑いで追捕され承久元年(1219)七月に自殺したが、『尊卑分脈』には頼茂の子孫が二,三代あげられるから、その係累が残らなかったとはいえない。しかし、通字や事績などからみても、顕綱を頼兼・頼茂の係累とするのは無理のように思われる。そもそも、顕綱という名前自体、信頼性のある史料には見えていない。こうした事情などから、太田亮博士は所伝に徴証に乏しいとして、実は古代凡河内氏(摂津の凡河内忌寸)の末流ではないかとみている。
所伝を続けると、初祖顕綱は、額田郡矢作宿(岡崎市明大寺付近)に足利氏館を置いて所領管理の拠点とした三河守護足利義氏に仕え、その子の政綱(政顕)は足利泰氏に仕え、それ以来、足利支族たる東条吉良氏の家老となって、幡豆郡寺津村(臥蝶ともいい、いま西尾市東南部の寺津町)に居住したが、吉良氏に属する関係は戦国末期まで続いた。こうした事情で、幡豆郡吉良にも大河内の地名があり、同郡長縄に大河内支族がいた。総じていえば、鎌倉期〜室町中期の大河内氏では史料に現れるところは殆どない。
大河内氏で具体的な活動が現れるのは十六世紀初頭頃の大河内備中守貞綱である。貞綱は、永正年中(1504〜21)の人で、吉良氏の被官ながら威を振い、弟の巨海(コミ)新左衛門尉とともに尾張守護の斯波義達と結んで、駿・遠守護の今川氏親と合戦をし、一時、遠州引馬城(浜松市の北方)を占拠したが、永正十三年(1516)に今川氏により攻め滅ぼされた。その子とされる大河内大蔵少輔源信綱(信政かその親)は寺津・巨海の領主で、永正十年に寺津に義光院を建てたことが同年の棟札に見えており、その境内に墓がある。天文三年(1534)の棟札には大河内孫太郎源朝臣信貞が見えるが、この者は信綱の子か孫である。
信貞の子と称される大河内金兵衛秀綱は、もと伊奈忠次のもとにあり、後に徳川家康に仕えて、三河・遠江両国の租税に関する仕事に携わった。その次男が長四郎正久(1576〜1648)であり、家康の命により長沢松平の甚右衛門尉正次の養嗣となって松平右衛門大夫正綱と名乗り、在駿府の家康の近習出頭人といわれた。その子孫や一族から三河吉田(豊橋)藩主など大名三家及び旗本(松平姓・大河内姓)を多く出したが、大名三家は正綱の実子備前守隆綱(のち正信と名乗る)及び養子(兄の金兵衛久綱の子)の伊豆守信綱から出ている。
この戦国期の大河内氏については、引馬占拠の大河内備中守の名前については種々異伝があり実際に何だったのか(通行する大河内系図には当該者が明確ではない)、金兵衛秀綱は信貞の子なのか、という問題点がある。また、尾張・美濃方面でも通婚・活動が見える大河内元綱の系統はどのような位置づけなのか。さらに、『浪合記』では後南朝の尹良親王に仕えた桃井貞綱が大河内氏の祖になったと記されるが、その所伝が正しいのか、という問題もある。
大河内氏の系図の系統
管見に入っている限りでは、大河内氏の系図はあまり種類が多くない。端的には、皆源三位頼政の後裔とするから、その限りでは大同小異といえよう。内容について、主なグループ(系統)分けをすると、一般に知られるのは次の二ないし三種類といえよう。 A 『大河内家譜』:三河吉田の藩主家が明治に宮内省に提譜したものであり、大筋は「頼政−兼綱−顕綱」で始まり一般に流布する『寛政譜』『寛永譜』とほぼ同様である。幕府への両提譜では、前者はほとんど直系だけの非常に簡単なものであり、後者は兄弟の記述がそれに付加されていて、『大河内家譜』にきわめて近いものとなっている。このほか、長縄の支族大河内善兵衛家の系譜(顕綱の子の貞顕の後とする)も提譜に見える。
B 鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻十二所載の「大河内系図」:基本はAとほぼ同様であるが、支族の系統が比較的詳しく、第二代政顕の兄弟や諸子の後裔などもかなり記される。東大史料編纂所には『秋田・大河内・太田系図』という名で所蔵されるが、「寛永採輯系図第27」と記される。
C 鈴木真年翁編の『百家系図』巻二所載の「大河内系図」:頼政に始まるが、その子の「仲綱−左衛門尉有綱−秀綱(大河内伊豆守従五位上)−右監物允仲詮−政忠……」と続くものであり、金兵衛秀綱に到る系である。そこには、A・Bに見える初代顕綱、第二代政顕の名が見えず、仲詮は第二代政顕の子の仲顕と同人ではないかとみられる。
これらに加え、本稿で取り上げようとするD 『美濃国諸家系譜』第三冊に「大河内家譜」があり、源三位頼政に始まるものの、他書に見ない記事や系譜を載せている。大河内氏の系図研究に役立つと思われるので、ここに紹介する次第である。
『美濃国諸家系譜』は、栃木県宇都宮の中里千族所蔵本を明治五年に謄写した系図史料集であるが、その編纂者・成立時期は不明である。中里千族は宇都宮社家であるが、なぜ美濃の諸氏の系図が遠く離れた宇都宮社家にあるのかという経緯も不明である(多少推測すると、中里千族の父祖にあたるとみられる中里宗昌が、天保頃の国学者で伴信友の弟子であり、自ら宇都宮社家系譜を編纂しているので、こうした横のつながりから入手したものか?)。なお、尾張藩士岡田文園が江戸末期(1860頃)に編述した『新撰美濃志』には、安八郡牧村条に「大河内系図」(系図Dと同内容)を引用して記事があるから、その頃までに『美濃国諸家系譜』は成立し、しかも濃尾地方に現存したことがうかがわれる。 こうした事情にあるものの、その全六冊に記される内容は、中世の系図記事として総じていずれも比較的信頼性が高いものではないかと判断される(私自身は『古代氏族系譜集成』編纂当時から同書を承知していたが、古代に遡る系図の記載は殆どないため、看過していたところ、岐阜の研究者林正啓氏の教示に裨益するところが多い)。それでも、所収の系図については精粗があるとみられるので、個別に十分な検討が必要であるのは勿論であるが、大河内氏の系図についても、『美濃国諸家系譜』所載の系図Dは比較的信頼性が高いと考えられる。その伝来系統は明確ではないが、美濃に展開した大河内一族の牧村氏を含め大河内元綱の後裔について詳しいことから、戦国後期に分かれた大河内支族が伝えた系図であろうと考えられる。
『美濃国諸家系譜』所載の「大河内家譜」の意味するもの この「大河内家譜」を「系図D」と呼ぶことにするが、その特徴は次のようなものであり、これらから大河内氏の系図のなかでは最良の本ではないかと評価される。 @
顕綱から秀綱までの世代数がもっとも多く十四世代(秀綱が顕綱の十三世孫)あり、系図A・Bに比べ二世代多いが、年代配分から考えると、系図Dのほうが妥当である。この直系の兄弟の名前にもかなり差異が見られる。
A
各世代の家督者の没年月日・享年が比較的詳細に記され、親子関係も問題なさそうである。
B
大河内支族の苗字が大河内鴨田、大河内長沢、大河内舞木や岩津、大平などとあげられる。
C
大河内元綱の流れが美濃の牧村氏系統などで詳細に、しかも江戸前期まで記される。最終の年代記事が文禄二年に朝鮮の陣で死去した牧村兵部少輔政吉の娘(町野長門守幸和室、素心尼)の延宝三年(1675)であり、その前の年紀が金兵衛久綱の子の与兵衛光綱の承応三年(1654)であって、この二つが飛び抜けて遅く、あとは慶長・元和頃までの記事なので、いったん成立した系図に二つが追記された可能性も考えられる。
以下に、もう少し詳しく系図Dを見ていこう。
(1)
顕綱から秀綱までの直系は、「顕綱−政綱−行重−宗綱−綱満−貞満−光将−国綱−光綱−貞綱−直綱−信政−信貞−秀綱」となっている。『寛永譜』『寛政譜』などの系図A・Bの系統では、a綱満・貞満の二代が貞綱一代、b貞綱・直綱の二代が真綱一代となっており、この結果、二世代の差異が生じている。
この系図Dが正しければ、『浪合記』に見える桃井宗綱・貞綱親子が大河内氏の先祖であるという記事は間違いということになる。貞綱は永正期に駿河の引間城で滅ぼされた者であり、宗綱は暦応三年(1340)に七二歳で死去しているから、桃井宗綱・貞綱とは時代が違う別人ということである。吉良家伝には吉良貞義の孫、弥三郎有信の子に宗綱という人物がいたと伝え、『浪合記』にも同様の記事があるが、吉良貞義は元弘の挙兵について足利尊氏から相談を受けたり、暦応元年(1338)には今川家との確執解消につとめているから、大河内宗綱とほぼ同世代人であった。
(2)
系図A・Bでは、貞綱・直綱の二代が真綱一代となっているが、系図Dでは貞綱が1449生〜1513没、直綱が1475生〜1527没となっていて、年齢上、親子関係に問題がないと考えられる。貞綱の譜には、菊一揆や引間城で戦死の記事が書き込まれている。
『応仁後記』には、三河の住人大河内正綱らが三河・遠江の在地諸勢力をまとめて「菊一揆」を結成したことが記されるが、この正綱は上記貞綱に当たる。このように、引間の占領者は正綱あるいは欠綱〔欠は正の誤読か〕とも書かれるので、併せ考えると真綱〔訓はマサツナか〕が正説ではないかとも考えたが、「貞、直、真」の漢字は相互に誤記・誤用があるので、なかなか判断しがたく、上記親子のいずれかが真綱であった可能性も残る。
引間占領の協力者である巨海新左衛門尉の実名が成綱と系図Dから知られる。
貞綱・成綱兄弟の長兄にあげる寺津城主但馬守満成が大河内左衛門佐元綱の父であり、元綱の長子が尾張津島の大橋太郎入道禅休(和泉守定安のこと)の養子となった源左衛門重一、その弟が美濃の牧村氏を滅ぼして牧村を名乗った源次郎政忠である。大河内元綱は寺津城主で、家康の生母・伝通院於大の母である於富(華陽院〔ケヨウイン〕、源応尼)の養父として知られる。
華陽院の美貌は当時有名で、その多くの夫のなかに家康の祖父・松平清康がおり、また夫の一人であった川口帯刀宗定(系図Dでは又助盛秋〔盛祐が正しい〕)は大橋和泉守定安の実弟であった。華陽院にあたる女性は系図Dでは、元綱の娘に@水野右衛門大夫忠政室(信元及び伝通院母。永禄二年死、法名華陽院玉桂慈仙。一説に満成の女)、A川口又助盛秋室(一伝に始め水野忠政に嫁し、後に川口盛秋に嫁す)、とあげられる。@Aが同人であることは各種史料のいうところである。
中世の尾張津島の有力者大橋氏は、支族が三河の額田郡で大河内の近くに大橋村を開拓しており、本来尾張古族の末流とみられる。両者の氏族系統は異なるとみられるが、大河内氏の初期段階から通婚などで大橋氏と密接な関係があったものと推される。また、『寛政譜』などには、元綱の父を大河内兵庫頭満澄(一説に光綱弟におく)とするが、年代等から考えて但馬守満成と同人であろう。
(3)
大河内金兵衛秀綱の居住地については、額田郡の大平村大河内(『額田郡志』)とも、その北隣の同郡洞村(『二葉松』)ともいうから、いずれにせよ、ほぼ同じ地域を指す。この地にあった大河内氏は、吉良家の家老となって幡豆郡寺津(系図Dでは額田郡寺津と記す)に居た大河内氏の本宗ではなく、別地に居た支族であった可能性が強い。秀綱は、吉良家中のトラブルで吉良家を去って、伊奈忠次の配下で代官として活動したというが、前半の吉良家中にいたという証拠はなく、信貞とのつながりもないように思われる。系図Dでは、信貞について「孫太郎、法名彭水」と記すのみで、事績も生没年も記されていない不自然さが見られる。
上記系図Cには、金兵衛秀綱についての別系「大河内系図」が掲載されている。それによると、源三位頼政を大祖とするが、その子の伊豆守仲綱、その子の左衛門尉有綱として、この有綱の子に大河内伊豆守秀綱を置いて元祖とする。大河内秀綱の子に右監物允仲詮、その子の左近将監政忠であり、政忠の十一世孫が大河内孫太郎秀親、その子に金兵衛尉秀綱を掲げている。元祖とされる大河内秀綱は、先にあげた大河内顕綱に相当し(同系図には顕綱の名は見えない)、右監物允仲詮は、政詮の子の行重(この流れが大河内本宗)の兄にあげられる仲顕に該当しよう。そうすると、幡豆郡にあった大河内本宗の跡に金兵衛尉秀綱が入ったということになる。系図Dでは、金兵衛秀綱は信真の子とも養子ともいうと記す。
なお、左衛門尉有綱は舅の源義経と行動をともにして頼朝に背き、文治二年(1186)に大和で北条時定に追われて自殺したと『東鑑』に見えるので、子孫を残したことは考え難い。
大河内支族とその同族の拡がり 系図Dの提起した問題は多様であり、受け取り方によっては、大河内氏の同族は三河に多く分布したことが推察される。それを以下に試論的に記述してみる。 (4)
大河内支族の苗字も興味深い。なかでも、二代目の政綱が別名が重綱で大河内鴨田太郎と号したこと、その子の綱茂が岩津木工次郎と号したことに注目される。そのほかの苗字が長沢・舞木・大平と記されるのと併せ考えると、長沢が加茂郡(いま豊田市東南部の長沢町)、鴨田・岩津や舞木・大平は額田郡(いずれも岡崎市の乙川北岸)にあり、上記で触れた洞村大河内がいま岡崎市大平町大河内となっている。鴨田は大平町の西北、舞木は大平町の東南に位置しており、鴨田には戦国期松平氏の菩提寺の大樹寺(関係はないだろうけれど、後述の家紋にも留意される)があった。
これだけでは決め手にならないが、仮に大河内氏が三河古来の豪族だったとすると、古代の鴨田連との関係が想起される。その氏人は『続日本紀』天平宝字八年九月条に見え、伊勢大神宮への奉幣の遣使として神部の鴨田連島人があげられる。太田亮博士は「神部」も姓氏名と考えるが、「新日本古典文学大系」の註にあるように、神祇官の下級職員という職掌名とするのが妥当であろう。三河の賀茂郡賀茂郷や額田郡鴨田郷の名前のもとになった一族の出自が山城の鴨県主の一族ではないかという可能性があるが、古代の尾張国中島郡には鴨県主の一族の中島県主・中島連があったから、大河内氏初祖の顕綱が尾張国中島を経由してきたという所伝が実は先祖のものであったのなら、これは三河の大河内氏の遠祖関係を示すものかもしれない。この一族が古くから額田郡に根を張っていたのなら、当地に鎌倉前期に入ってきた足利氏と縁がつながり、その家臣となったことも自然であろう。
もう一つ気になるのは、「岩津」という苗字である。これは、鴨田の北隣の地域で、後年に松平氏本宗が根拠とした地であり、下記の謁播〔アチハ〕神社も中世の岩津郷域にあったとされる。
なお、あまり決め手にはならないが、家紋について触れておくと、大河内氏のいくつかの家紋のうち、蝶紋は松平・小栗・本目ら松平一族と共通であり、骨扇紋は深溝・長沢松平や若林・長井氏、藤原姓の酒井氏、さらには嵯峨源氏の渡辺氏などと共通であった。
(5)
大河内氏の系図(系図Bの系統)には興味深い苗字も見える。それは本田氏であり、どの程度信頼がおけるかどうかは不明であるが、初期の分岐の流れに見える。すなわち、初代顕綱の子とされる貞康の子に四郎左衛門尉顕宗(一伝に貞康の兄で、長縄大河内氏の祖とされる次郎左衛門尉貞顕の子)、この顕宗の弟(一伝には子)に本田入道兼宗、その子に四郎左衛門貞宗その子の貞範が見えるが、一伝として貞宗の弟に八郎助宗、さらにその子に右馬允助定があげられることである。兼宗の子として助宗、その子に助定、をあげるのは、これまで管見に入った限りでは真年翁編の『百家系図稿』巻13の「本多系図」だけであるので、信拠できる記事かどうかは不明である。それでも、三河譜代の大名家で一般に関白藤原兼通の子・左大臣顕光の後裔と称される本多氏の尾張居住初代というべき助定が、三河の大河内氏一族の出というのである。
これはかなり意外な所伝であるが、本多が本田とも書く例は、本多氏の本宗家とみられる伊奈本多氏にも見られ、洞村あたりが大河内氏の発祥地で、かつ、本多一族の重要な居住地でもあったことからいって、あながち不自然な系譜所伝とはいえない。洞村には古城跡もあり、本多平八郎助時が松平氏第五代の長親に仕え、以来助豊―忠豊―忠高―忠勝の五代が居住したが、平八郎忠勝は家康の浜松移転に従ったという。額田郡欠村(大平)にも本多氏がおり、これは家康に仕え三奉行の一人で鬼作左と呼ばれた本多作左衛門重次の系統である。
本多氏の系譜については、賀茂県主支流で賀茂神領下司として豊後国本多に住み後に尾張三河に蔓延した、という所伝もある(真年翁編『華族諸家伝』本多条)。藤原姓を称した本多氏が加茂社の神職となったという所伝もあり、これらは通行する出自所伝への疑問を強くさせる。宝飯郡伊奈郷の本多氏(膳所藩主家)の家譜によれば、もと本田氏といい、累代、山城国愛宕郡賀茂郷に住したが、定助のときに東三河の伊奈に来て代々伊奈城に拠るという。ここでは、豊後の話は出てこない。伊奈の本多氏の立葵紋については、上記の家譜に「先祖山城州賀茂社職也、依位立葵為家紋」と記される。この所伝が史実であれば、本来、賀茂(鴨)の葵紋を持っていたことも考えられるし、山城に居たのは随分古い時代の話となろう。
本多氏の一族には、現に神職の家もあった。宝飯郡篠束村(いま同郡小坂井町篠束)の篠束明神神主に本多善大夫(『二葉松』)、本多出雲守光臣があり、後者は江戸末期の平田篤胤の門人で「国内神社記」の作者であった。碧海郡桑子村(いま岡崎市大和町)の犬頭大明神の社家にも本多氏があった。篠束明神は天王社ともいって大国主命及び素盞嗚神を祀り、犬頭大明神は木祖神を祀り、いま桑子神社となって白鳥神社に合祀されている。こうした事情からも、本多氏は三河ないしその近隣の旧族の出自と窺われるが、これは譜代大名本多氏の先祖が加茂社の神職であったという所伝とも符合する。
京都賀茂社の祭は葵祭として有名であり、それは『年中行事秘抄』によると、賀茂氏の先祖神がその父(鴨御祖神)を知るための神事に夢のお告げにより葵・楓・蘰を用いたという故事に由来するといわれる。
(6)
葵紋の分布は、戦国時代ではほとんど三河一国であって加茂明神の崇敬に基づき、本多氏のほか、松平氏、伊奈氏、島田氏(碧海郡矢作)が用いたとされる(『日本紋章学』)。伊奈氏は関東郡代伊奈熊蔵忠次の家で、同国宝飯郡伊奈にも関係する苗字とみられ、伊奈村の隣・小坂井村には伊奈忠次の屋敷があったと『二葉松』に見える。忠次の家は幡豆郡小島に本居し、葵紋を用いたという(『日本紋章学』)。同氏の系譜には異伝多く、清和源氏足利一族の戸賀崎・荒川の末流とも、信濃国伊那郡から来た神氏(保科同族)ないし藤原氏とも伝えるが、いずれも徴証に乏しい。その出自の手がかりは伊奈氏の一族に稲熊氏が見えることと思われる。
忠次の伯父康宿は稲熊を称し碧海郡大浜城は最初この氏の居城であったとされるが、額田郡稲熊(現岡崎市稲熊町)が苗字の起源地とみられ、この地には額田郡の式内社稲前〔イナクマ〕神社(稲隈天神)が鎮座する。稲熊町は鴨田町の東南方、洞町・大平町の西北方近隣に位置することにも留意される。稲前神社の祭神は天照大神といわれるが、その当否は不明にせよ、稲隈天神に見るように天孫系の神を祀る模様である。この地は伊勢神宮の神領地であったと伝え、上記鴨田連の伊勢遣使も想起される。
稲熊氏も三河の神職に見え、宝飯郡竹谷村(蒲郡市)の若一王子権現神主家などがあげられる。そうすると、もともと額田郡で稲前神社を奉斎する一族が宝飯郡に展開したのが稲熊・伊奈一族ではなかったかとみられる。同紋の本多氏も宝飯郡に神職の家をもっており、もとは額田郡にあったとみられることは先に述べた。大河内金兵衛秀綱が当初、伊奈忠次の配下にあったという事情も述べたが、これは偶然だったのだろうか。宝飯郡には古代の賀茂郷があったこと(『和名抄』)にも留意される。
(ついでにもう少し述べておくと、額田郡の式内社二社のもう一つが謁播〔アチハ〕神社(謁磐明神)で、鴨田郷厚石里(現岡崎市東・西阿知和町)に鎮座した。この鎮座地の地名に因む阿知波氏は松平氏の同族であって、松平一族の多くも葵紋を使用した。
松平泰親の子という(一説には信光の子という)信季は、永享年間(1429〜41)に額田郡西阿知波の城主となり、阿知波右衛門大夫と号して、以下は信親―信豊―信秀―信利と五代が領主であったという(『岡崎市史』第6巻)。「三河古今城塁誌」には西阿知和古城の主を松平右衛門重則或右近としている。この氏は、命名や年代等から見て、元の松平一族の別れ(太郎左衛門信重かその近親の後裔か)かもしれない。祖の信季の活動年代は、親氏(信武)・泰親とほぼ重なるから、おそらく信武の兄弟か義弟ないし従兄弟くらいの一族であったのではなかろうか。信武には太郎信広、次郎信親、三郎信光という諸子があったとも一に伝えるから、阿知波氏の祖にあげる信親は、信武の子という次郎信親に重なるか。
このように見ていくと、親氏が継いだという古来の松平一族も鴨県主同族の末流という可能性もあるのかもしれない。そして、親氏・信光の系統も自ら称した賀茂朝臣姓ではなかったのかもしれない。その一方、謁播神社の祭神は三河国造の祖たる千波夜命とされ、疑問が多い伝存書『大同類聚方』には当社の神主が額田部連とするから、こちらは物部氏族系統である。従って、この辺には種々検討すべき諸点があり、ここでは問題提起までにとどめておく。)
これらの事情から総合的に考えると、三河の大河内氏や本多氏は、古代の鴨県主同族で、尾張の中島連の一族であった鴨田連の末流に位置し、額田郡の式内社・稲前神社を奉斎する古代氏族の末流であったのかもしれない。
以上のように、大河内氏や三河国額田郡の関係諸氏の系譜には興味深いものがあり、さらなる展開も考えられるが、史料に乏しいこともあって判断がつきにくく、とりあえずこの辺で筆を置くこととしたい。
(06.9.13掲上)
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