継体紀の記事重出問題

(問い)
  笠井倭人論考「三国遺事百済王暦と日本書紀」には「継体紀における重出記事の問題」が取り上げられていて、白崎昭一郎氏もこの見解を踏襲されています。しかし、田中俊明氏は一連の事件の記事であり重出ではないと考えており、これが妥当だと考えます。また、継体紀7年条に見える「伴跛」を「星州」と解する旧説は採らず、「高霊」とする新説(金泰植、田中俊明)に従います。この二点について、どう考えますか。

 (参考資料)
   笠井倭人1962「三国遺事百済王暦と日本書紀」『朝鮮学報』第24輯。
      同論考はのち著書『古代の日朝関係と日本書紀』2000年に所収。
   白崎昭一郎1972「継体朝とその前後」『継体天皇の研究』108頁以下。
   田中俊明 1992『大加耶連盟の興亡と「任那」』125〜142頁。

  (神戸在住の友人からの問い合わせに基づくものです)


(樹童からのお答え)
  以下は、現段階における試論として記述しましたが、様々な点に関連する難解な問題なので、細部はまだ再考の余地があります。今回、かなり長い期間考えて、かって書いた「継体天皇の出自と背景氏族」という論稿(
未発表)の結論とほぼ同じものとなりました。問題提起の意味も併せて提示します。

1 二つの問題のうち、後者については、「伴跛」を高霊とする説でよいと考えます。「伴跛の既殿奚=加羅の上首位古殿奚」と考えるとともに、この頃、伽耶諸国のうちでは金官(本伽耶)と高霊(大伽耶)とが有力であり、己の地(
一応、通説のいう「蟾津江中流域」としておく)を百済と奪い合うような強国は、前者ではないとすれば自ずと高霊となります。

2 継体紀7〜10年条と同23年条の記事はついては、今西竜などの多数の説と同じく、重出であり、百済側の資料『百済本記』と日本側の旧記資料との紀年・表現の差異に因むものと考えます(
ただし、継体紀7〜10年条の記事についても、基礎には日本側資料もあり、これが書紀編纂時に百済側資料と合わさって記事が書かれたと考える)。
  両者の記事には、ともにタリ国守穂積押山臣(委の意斯移麻岐禰)・物部連(物部伊勢連父根、物部至々連)という人名、多沙津(帯沙江)・大嶋(慕羅嶋。ともに物部連が退いた地)という地名が共通であり、両国に伝わる伝承においてこの程度の差異が出ても不思議ではありません。この時の年次具体的に何時であったかはともかく(後述)、同一事件を記録したもので、このときに百済は己・帯沙の地(蟾津江の中・下流域)を倭国の支持のもとに獲得して領域にしたと考えます。
  百済側資料では百済が己の地を賜って感謝したことを記し、日本側資料では多沙津を賜ったことを記していても、それは両国記録者の意識に重点の違いが多少あったことによるものと考えられます。

3 田中説では、『書紀』継体紀7〜10年条の紀年をそのまま受け取り、百済はまず516年五月までに蟾津江中流域の己を確保し、次にそこから更に進んで下流域の良港多沙津を目指したが522年までにこの地も奪った(
こちらの紀年は、『書紀』の継体23年〔529年〕よりも繰り上げて、『三国史記』新羅記の記事に拠って新羅・法興王九年〔522年〕とみる)、と考えています。
  しかし、問題の継体7年冬の一年前の冬には、倭国は任那の四県を百済の要請に応じて割譲しています。その四県とは、オコシタリ・アルシタリの上・下タリと娑陀・牟婁であり、全羅南道の殆ど全域に及ぶような広域と解されています。その翌年になって、それよりきわめて狭い蟾津江中流域の己だけをまず与え、その六年後ほどに同様に狭い多沙を与えたと考えるのは、歴史の流れとして無理があります。そもそも、四県割譲の立て役者はタリ国守の穂積押山臣であり、それが継体23年の多沙賜与でもアルシタリ国守の穂積押山臣が奏上者として再び登場します。タリが既に割譲されて百済の領域に繰り込まれた土地であったのなら、522年にせよ529年にせよ、現地に国守として存在できるはずがないのです。四県割譲の翌年くらいなら、残務処理で現地に残っていても、その遙かな後の時期まで穂積押山臣が国守として半島南部に残っていたとみるのは無理があります。

4 それでは、四県割譲とそれに続く翌年の己・帯沙賜与は何時の事件だったのでしょうか。
  『三国史記』の百済記には、この関係では記録がありません。私は、結論的にいえば、『百済本記』は実際よりもかなり早い年次で記録されており、一方、倭国側資料ではかなり遅い年次で記録されていたと考えます。両国資料で採用していた干支(暦)・紀年法が異なり、同じ干支でも意味するものが大きく異なっていたため、『書紀』編纂者は同じ事件とは考えず、その結果、同様な記事を二度掲げた、と私はみています。
  また、割譲・賜与の事件が連続して起きたのは、明らかに継体朝のこと(
継体が大王としての権力確立してから後)と考えますが、私は継体が倭国の唯一実質的な大王となったのは515,6年頃と考えており、それよりも事件はかなり遅いのではないか、とも考えます。一方、田中俊明氏が522年を下限とする事情(加耶国王の新羅通婚)も、かなり説得力があると思われます。下限かどうかは分かりませんが、帯沙賜与事件と密接に関連したのが伽耶の新羅通婚と考えられます。

5 あれこれ考えて、四県割譲が520ないし521年、己・帯沙賜与がその翌年の521ないし522年のことだった、と私は考えます。このころ、百済は高句麗を敗り、中国南朝の梁に初めて朝貢するなど強国となり、使持節都督百済諸軍事寧東大将軍に任じられています。521年12月の梁・高祖の詔書には、百済王の余隆(武寧王)は領土を海外に守り遠く朝貢してきたので官位を授与した旨の記載があります(『梁書』百済伝、『三国史記』百済記)。半島南部の割譲・賜与は、こうした百済の再起伸展と軌をを一にしていたものではないでしょうか。
  後年の欽明元年9月になって、大伴大連金村はかって裁決した任那四県割譲を物部大連尾輿等に失政と追求されて失脚します。その四県割譲の年次が「男大迹天皇六年」と尾輿等の奏言にあり(『書紀』)、これは当事者の記憶とみられるとともに、前掲の日本側資料と合致します。この継体六年とは、継体が実際に名実備わる大王となった年(
515ないし516年)を元年とした数え方ではないか、その場合には継体六年は520ないし521年とされることになる、と私は考えます。己・帯沙賜与はこの四県割譲に比して重くはないこと、両者は一連の事件として考えたほうがよいものと示唆されます。

6 従って、己・帯沙賜与事件をとってみれば、『百済本記』等の年次は八,九年ほど繰り下げて考えるべきであり、日本側資料のみに基づく継体23年条は逆に七,八年ほど繰り上げて考えるべきだとみるわけです。
  なお、私見は平子鐸嶺氏の説(
四県割譲が520年、己・帯沙賜与が翌年の521年)とほぼ同説であり、一方、笠井倭人氏は帯沙賜与を聖王三年(525,6年に当たるか)とみられていて、私見とはかなり異なっております。



(附記)

  併せて、『百済本記』に関係する事件の年次問題についても、以下に記述します。

7 『百済本記』の性格については、木下礼仁氏の好論考「「日本書紀」にみえる「百済史料」の史料的価値について」(
『朝鮮学報』第21・22輯、1961。後に『古代の日本と朝鮮』1974に所収)があります。同論考等を踏まえて、次に記述します。
  『書紀』には百済史料が三書(
百済記、百済新撰、百済本記)26個所見えており、そのうち百済本記は継体3年から欽明17年まで18個所あります。これら百済史料は「推古期遺文」との表記法大系における極めて高い近似性があり、「推古期遺文」の筆者が船史王後(百済の貴須王の後裔で、推古・舒明両朝に仕え641年に没。船首王後墓誌を遺す)と推されています(大矢透博士)。百済史料三書の編纂者が船史王後ないしその近縁者だとすると、百済から渡来の史料を基に七世紀前・中葉頃に日本の地で成立したのがこれら史料ということになります。

8 『百済本記』には、高句麗関係記事が3個所見えるという特徴があります。この記事は年次も含めて概ね『三国史記』高句麗記の記事と合致していますが、『百済本記』が後年に倭国で複数の資料を基礎に編纂されたとすれば、高句麗関係記事の年次が正しくとも、それと同じ年次に記載される倭国(日本)の記事がそのまま同じ年次だったとは、必ずしもいえる話ではありません。複数の資料で、干支の意味するものが異なっていた可能性があるからです。

9 具体的には、継体紀25年条割註に見える『百済本記』の記事、高麗王安の弑逆(531年)と「日本天皇及太子皇子」(
天皇と太子皇子の二人と解釈)の同時崩薨が実際には異なった年次であったのではないかと考えられます。先に、同書の日本関係記事ついては、実際の年次は八,九年ほど繰り下げて考えるべきではないか、と記しました。この時差調整が適用されると、531年は539年ないし540年に繰り下げられるということになります。
  この時期に天皇と太子皇子の同時死去がありえたとしたら、宣化紀四年条に見える記事(
天皇が春二月に崩御、十一月に皇后・孺子の天皇陵への合葬〔両者の死亡時期は記事からは不明〕)がそれに該当します。その場合、孺子とは古事記に見える皇后の子・倉之若江王が該当する可能性があります。私は、欽明天皇の即位時期(=欽明元年の前年)を539年ないし540年と考えていますから、時期的にはこれに合致するものと思われます。「日本天皇及太子皇子」は、上掲の百済史料の編纂者等の事情から考えても、古田武彦氏等が主張する筑紫君磐井の親子ではありえません。

10 また、欽明天皇の即位を531年とみられる記事をもつ『上宮聖徳法王帝説』でも、宣化天皇の存在は「檜前天皇」と表記して認めていることに留意されます。同書は、欽明天皇の即位時期を百済系史料に拠っていたものではないでしょうか。仏教公伝の年次も、松木裕美氏が論考「欽明朝仏教公伝について−公伝年時を中心として−」(
『東京女学館短大紀要』1978)で提示した線で考えていくべきものと思われます。



  以上の継体・欽明朝の紀年記事の解釈はきわめて難解ですので、様々な事件・資料と整合性をとれるように考えていくことが必要です。各種資料の干支・紀年を現行のものと同じだと思い込むのは、きわめて問題が大きいと思われます。

     (02.2.19に掲示)

    
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