5-1 掲示板・応答板      
                    
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   02.2〜03.4の掲上分
 その項目は以下のようなものです。
  □ 波比伎神の実体
  □ 遠江の久野氏・原氏の一族   関連して久努郷あたりの古社
  □ 継体紀の記事重出問題
  □ 百済王姓三松氏
  □ 薩摩の岩元氏の系図
  □ 美濃の稲葉・林氏
  □ 花房氏の系譜
  □ 常陸の小野崎・那珂一族の系譜
  □ 信濃の工藤姓
  □ 小笠原一族の赤沢氏
  □ 加藤清正の系譜
  □ 少彦名神の実体
  □ 仙石秀久の経歴と出自

                             ※ 過去の掲示・応答板の総目次

波比伎神の実体 
   
  HPには、五十猛神(八幡神、波比伎神)とありますが、八幡神はかもしれない範疇にはいりそうですが、波比伎神については思いつきませんでした。文中にもその説明がなさそうですが、そのうち説明されるのでしょうか、という旨のご質問がありました。
    (瀬藤禎祥様より。02.2.13受け) 
(樹童からのお答え) 答えの文が長くなりましたので、次の頁 波比伎神 をご覧下さい。      (02.2.17 掲載)

久野氏・原氏の一族

  久野氏は華族にはなれなかったと聞きますが、この話は本当ですか、また、原氏の為憲流藤原氏説についてどのような疑問点があるのですか、という旨のご質問です。
   (愛知県在住の方より。02.2.16受け)

(樹童からのお答え) これもまた答えの文が長くなりましたので、次の頁 久野氏・原氏の一族その1 その2 をご覧下さい。    
 (02.2.17 掲載。その後、応答等に応じて適宜追加)

  久野氏に関連して、「久能・鷲巣あたりの古社をどう考えるか」についての応答もあります。 久努郷あたりの古社 をご覧下さい。



継体紀の記事重出問題

  笠井倭人論考「三国遺事百済王暦と日本書紀」には「継体紀における重出記事の問題」が取り上げられていて、白崎昭一郎氏もこの見解を踏襲されています。しかし、田中俊明氏は一連の事件の記事であり重出ではないと考えており、これが妥当だと考えます。また、継体紀7年条に見える「伴跛」を「星州」と解する旧説は採らず、「高霊」とする新説(金泰植、田中俊明)に従います。この二点について、どう考えますか。
   (神戸在住の友人からの問い合わせに基づく)

(樹童からのお答え) 現段階における試論として記述しましたが、様々な点に関連する難解な問題なので、細部はまだ再考の余地があります。問題提起の意味も併せて提示します。次の頁 継体紀の記事重出問題 をご覧下さい。      (02.2.19 掲載)

百済王姓三松氏

  百済王の流れを汲む三松氏について、次の諸点を教示して下さい。
@三松俊雄編「百済王三松氏系図」及び三松俊忠編「三松氏系図」が『古代氏族系図集成』に資料としてあげられますが、どこに所蔵されていますか。
A小杉榲邨編の「徴古襍抄」に「百済王基貞栄爵状」が見えると記されますが、この資料はどこに所蔵されますか。
Bそのほか、「百済王三松氏系図」に関係する論考等があれば、教えてください。
  (奈良在住の三松様より。02.2.21受け)

(樹童からのお答え) @は筑波大図書館に、Aは国文学研究資料館史料館(国立史料館)に所蔵されますが、詳しくは次の 百済王姓三松氏 をご覧下さい。  (02.2.23 掲載)
 また、HP内の 百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介 をご覧下さい。
  (02.3.6 掲載)


薩摩の岩元氏の系図

  ポピュラーな苗字100傑にランク付けされている、岩本、岩元の苗字についてご教示ください。いろいろ調べていますが、岩本に関する記述を探すことが出来ません。鹿児島県川内市にある我が家の実家には、岩本家系図が伝わっています。
  (埼玉県新座市在住の岩元様より。 02.5.5受け)

(樹童からのお答え) 薩摩の岩元氏については、古代末期から当地に栄えた薩摩平氏の一族莫祢氏との関連が考えられます。上記の問いも本来のものより簡略しており、お答えのほうも長くなりますので、次の頁 薩摩の岩元氏 をご覧下さい。
  (02.5.25 掲載)

  〔補論〕薩摩平氏と南方神社について もあります。


美濃の稲葉・林氏

  美濃の稲葉、林氏について、その系譜・出自をどう考えますか。
美濃の「稲葉、林」についてできる範囲で調べてきましたが、どうしても越智姓河野支流に付会したものであろうかという疑念を払拭することができませんでした。
  (林 正啓様より。02.10.7受け)
 

(樹童からのお答え) 戦国期に美濃で活動がめざましかった諸氏の一つが、稲葉一鉄を出した稲葉氏であり、その縁戚で春日局の夫・稲葉正成を出した林氏もありますが、これも難問ですので、詳しくは次の 応答 をご覧下さい。
  (02.10.17 掲載)

  03.10.5に  美濃の林氏諸家の出自と系譜  を追加掲上


花房氏の系譜

  『太平記』巻九には、六波羅探題陥落時、自害した者の中に「花房六郎入道」という名が見えますが、戦国期の宇喜田家家臣・花房志摩守、あるいは常陸国花房(茨城県金砂郷町)の地と何らかの関連がある者なのでしょうか?
  (茨城県在住の方より。 03.1.13受け)

(樹童からのお答え) この問題については、多くの視点から検討を加える必要がありますが、現段階での推論を重ねた結果では、「花房六郎入道」は戦国期の花房志摩守の傍系先祖ではないかと推されます。詳しくは、花房氏の系譜 をご覧下さい。
   (03.1.18 掲載)


常陸の小野崎・那珂一族の系譜

  小野崎・那珂氏の祖について、藤原氏という所伝は信用の置けないものであるにしても、両氏の居住地(太田・国長)から、多氏の可能性も捨てきれないのではと思うのですが。あるいは別系統とされている「大中臣氏略系図」で有名な中郡那珂氏の分かれということはないものでしょうか?
  (茨城県在住の方より2。03.1.20受け)

(樹童からのお答え) 常陸の小野崎・那珂氏の出自も難解であり、一般に秀郷流藤原氏として通行し、これを否定する見解も太田亮博士くらいしか見当たりません。しかし、太田説の是非も含め、多角度から総合的な検討を要します。詳しくは、次の 小野崎・那珂一族の系譜 をご覧下さい。
   (03.1.26 掲載)


信濃の工藤姓

 長野県東信地区の工藤姓は、ほとんどが工藤祐経の子孫のようですが、本当でしょうか。本当でしたら、それ以前の系譜はどのようになっていますか。なお、家の家紋は庵の木瓜です。
  (長野県上田市在住の方より。03.2.4受け)

(樹童からのお答え) 信濃の工藤氏については、殆ど系図などの史料が伝わらないので、断片的な資料から総合的に考えていかなければなりませんが、南北朝期まで工藤祐経の後裔に当たる武家の活動が埴科郡坂木を中心に見られますので、これらの流れが現在にまで及んでいる可能性があります。
 詳しくは、次の 信濃の工藤姓とその一族 をご覧下さい。 
   (03.2.9 掲載)


□ 小笠原一族の赤沢氏

  小笠原一族の赤澤(以下、「赤沢」と記す)氏の概要について教えて下さい。
  また、阿波の赤沢氏は、『古城諸将記』にはどのように記載されているのでしょうか。阿波国板西城の城主となった赤沢信濃守重経という人物と天正10年に討死した赤沢信濃守との関係をどう考えますか。
  (jizou様等より。03.2.16受け)

(樹童からのお答え) 赤沢氏については、細川政元の重臣で十六世紀初頭頃の畿内で活躍した赤沢沢蔵軒宗益(信濃守朝経)が著名であり、江戸期には赤沢経直が小笠原に復して徳川将軍家の弓馬礼法の師範となり存続しましたが、小笠原一族から出た大族のわりにその出自(初期段階)や具体的な系譜が分明ではなく、信濃でも阿波でも赤沢氏は、ともに難解な氏といえます。
  樹童としても、不明な点が多いので、小笠原一族に造詣の深い真野信治様のご教示を踏まえつつ、なんとか現段階での見解の整理を試みた次第です。そうした留保付きの見解ですが、その詳細は 赤沢氏の系譜 をご覧下さい。
  (03.2.23 掲載)


□ 加藤清正の系譜

  加藤清正のルーツ及び、清正の子孫(子供が何人で名前が何かなど)を調べています。 よかったら、教えてください。私の一族が清正の末裔と聞いているもので。
  (hide-pon様より。03.3.9受け)

(樹童からのお答え) 秀吉によって大名に取り立てられた加藤姓の武士には、虎之助清正のほかに孫六嘉明、作内光泰がおり、両者の子孫は幕末まで幕藩大名として存続して明治には華族に列しましたが、清正の家は子の忠広の時に家中で内紛があり、その子光正の不行跡等を理由に改易となりました。忠広は出羽庄内に配流となって正統は絶えたものの、この地に庶子を残したとか忠広の妾腹の子孫が筑前に住したなど、子孫があったと伝えます。

  清正は、その母が秀吉母・天瑞院と姉妹(ないしは従姉妹)と伝えられ、秀吉の係累関係の歴史雑誌特集に何度か取り上げられてきております。そのなかで、加藤忠広の子孫についても記載があったように記憶しておりますが、私どもの関心の対象範囲を超えているので、いま直ちに思い出しません。大きな図書館などで、こうした関係の書籍雑誌を調べてみては如何でしょうか。

  ここでは、主として清正の先祖について記載したいと思いますが、清正の系は一般に嘉明・光泰とは異なるものとされ、かなりの検討と説明を要しますので、 加藤清正の先祖と一族 をご覧下さい。
 (03.3.15 掲載)


□ 少彦名神の実体

  花房氏・小野崎氏・那珂氏の件に関連して、花房氏の箇所(注4)で、少名彦命と天日鷲命の両者は同一神とされてますが、その関連についてもっと詳しく教えて下さい。少名彦命と立速日男命も同神ととらえてよいのでしょうか。
 (touta様より。03.3.15受け)

(樹童からのお答え)
1 総じて言えば、 崇神朝前代では神や人の名が氏族系統により異なる様々な形で伝えられており、同神異名や異神同名を良く分別して考えていくことが必要と思われます。
 少名彦命と天日鷲命とは、所伝からみると、同一神とは思われませんが、その子孫や先祖、氏族系統に関連する職掌などを考えていくと、同一神とするのが実態ではないかと考えられます。詳しくは、 少名彦命と天日鷲命との関係 をご覧下さい。

2 立速日男命は、『常陸国風土記』のみに見える神で、どのような神に相当するのか端的にはいいきれない面がありますが、所伝からすると、少名彦命(あるいは、その子神くらい)と同神とするのが妥当ではないかと考えられます。
 (03.3.23 掲載)


仙石秀久の経歴と出自

  天正13〜14年、仙石氏が讃岐を支配したとき、西沢氏が同道した話から、仙石秀久が讃岐にきた経緯はどのようなものかに興味があります。いつ頃、秀久と豊臣秀吉との出会いがあったかが分かるとよいのですが。
  (香川県在住の斎藤様より。03.3.26受け)

(樹童からのお答え) 仙石秀久が秀吉に仕えたのは比較的早く、美濃の斎藤氏没落の後といわれます。その辺の事情や、仙石氏と家臣の西沢氏については、 美濃の仙石氏と西沢氏 をご覧下さい。
  (03.4.5 掲載)

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