薩摩の岩元氏の系図

(問い)ポピュラーな苗字100傑にランク付けされている、岩本、岩元の苗字についてご教示ください。いろいろ調べていますが、岩本に関する記述を探すことが出来ません。
 我が家の実家(鹿児島県川内市)に伝わる岩本家系図によれば、次のように記載されています。

 「平家岩本家系図」(傍系は省略し直系のみを記載。なお、系図の表記は概ねメールのまま
 ・桓武天皇−葛原親王−高見親王−高望−良文−貞道(村岡小五郎)−孝輔−┐
 
  └−貞言(伊作平三)−良元−李基−兼輔−兼重(神崎平太郎)−成道(太郎)┐

  └┬成兼(以下略
    ├兼時五郎又後成時(岩本)−道金八郎右条(以下省略
    └成氏六郎

         (埼玉県新座市在住の岩元様より、02.5.5受け)


 (樹童からのお答え)

○ 全国の岩本(岩元)という苗字については、その数は全国で200位ほどのようで、地域により系譜・出自が違いますが、系図的にはどれもあまり明確ではありません。
  『姓氏家系大辞典』には駿河、甲斐、加賀、因幡、薩摩等に岩本邑があり、それらの地名を負うものと記載があります。そのうち、系譜が知られるものは、駿河では為憲流藤原氏の入江一族、紀伊国熊野では熊野別当一族くらいのようです。『東鑑』には、仁治2年(1241)3月25日条に岩本太郎家清が見えており、盗人の主人として庄田四郎二郎行方が与同罪に訴えています。これに関して、「貞永式目追加」には加賀国坎保地頭の庄田四郎二郎行方が岩本太郎家清と争論云々と見えますから、この岩本は同国能美郡岩本邑より起ったことが推されます。

○ 貴家の出身地は鹿児島県とのことですので、以下は、薩摩の岩本・岩元氏に問題を絞って記します。
 鹿児島県では苗字も地名も「岩元」と表記されることが多く、薩摩地方ではこの表記の地が管見に入った限り、現在3個所残っています。1個所は頴娃郡の指宿岩本村で、岩元とも表記され、現在の指宿市北部の小字(高江山の北東麓の海岸部)にあり、これだけが角川の『日本地名大辞典 鹿児島県』にあげられますが、ほかに薩摩郡薩摩町の中央部で大字永野の小字、同郡樋脇町の西北部の小字にもあります。
  前者の地名が確認されるのは江戸期からということですが、指宿辺りには平安後期〜南北朝期、桓武平氏の流れという一派(指宿・頴娃などの諸氏)が繁衍していたことが史料から知られ、地名もこの一族との関連が考えられます。

『諸家大概』(鹿児島県史料集第6集)という薩摩鹿児島藩士の系譜を記した史料には、「源姓岩元氏は上古不詳建武の頃交名帳にも見得申候、元久公より岩元清左衛門に被下候文書在之候」とされ、江戸初期の家久の御代にも小番などで勤めてきたのは、岩元清左衛門の子孫であると記されます。この記述に見える島津元久公とは、島津宗家の第七代とされ、応永18年(1411)に50歳で死去していますので、室町前期以来この岩元氏が活動してきたことが分かります。
  貴家は平姓ということなので、これとは別の流れだと考えられますが、源姓岩元氏の起源の地は前掲の薩摩郡薩摩町ではなかったかと推されます。というのは、同町辺りには平安後期以降、祁答院という荘園が置かれ、その院司として大前氏の一族が室町初期頃まで活動していたからです。大前氏は、中世には薩摩在国司としして在庁の首座にありました。同氏は宿祢姓をもち、本来、上古以来のこの地の雄族であり、その出自・系譜に関する諸伝があります。実際には、薩摩隼人の流れをくむ薩摩郡領の前公(訓は「サキ」のキミ(姓)か)の後裔だったとみられますが、中世には一族の多くが醍醐源氏(ほかに橘氏、清和源氏とも称したが)の流れと称していました。川内川の流域は古代の薩摩国高城郡であり、同郡には国衙がおかれ、大前一族が繁衍しました。
  川内川とその支流の上中流域にあたる祁答院辺りに起ったこの一族の苗字には、中津川・藤川(薩摩町)や時吉・富光(宮之城町)などがあったとみられ、鹿児島藩士の岩元氏が源姓を名乗っていたとしたら、それは大前一族の出だった故ではないかと推されます。この一族が「道」を通字としていたことに留意されます。とくに、文明頃に湯田古城(宮之城町北端部)に居た大前一族富光道全に留意されるところです。

 一方、貴家の系図(「平家岩本系図」)を見る限り、平安後期以降、薩摩に栄えた平姓の莫祢(アクネ阿久根、英祢とも書く)一族の出となります。なお、薩摩の平姓諸氏の系図については、『川内市史』等鹿児島県下の市町村史に掲載がありますが、これらの書に見えない貴家系図は貴重な所伝史料と思われます。かって、「鎮西平氏の流れ」という論考を宝賀会長が『旅とルーツ』誌第66〜68号(1994〜95)に掲載しておりますので、併せてご覧下さい。薩摩平氏の概観が分かると思われます。
  莫祢氏の出自については、十世紀中葉頃の高名な武士で、安和二年(969)の変に際して謀反党類として追討をうけ越後に配流となった平貞時*1(伊作平二貞時。『二中歴』には胆沢平二貞時と記)の孫、島津荘の設立者で従五位下大宰大監たる平季基の子孫であり、代々、莫祢院(阿久根市域のおかれた荘園で、島津荘の寄郡)の院司を務め、鎌倉初期の建久八年(1197)の図田帳には莫祢院司成光が見えます。莫祢院司の初代とみられるのが神崎平太兼重(活動年代としては十世紀後葉頃)ないしその孫・成兼*2(十一世紀中葉頃の人か。前葉の天治・大治頃の人とも伝える)であり、薩摩郡高江郷(川内川下流南岸の現川内市高江一帯)に住み、のち莫祢(具体的には、現阿久根市の波留付近か)に移住したと伝えます。
  その系図は、各種系図を綜合してみると、貴家の系図と概ね異同なく、「貞時(貞説・貞言。伊作平二)−貞元(良元)−季基(季元)−兼輔(兼助)−兼重(成重。神崎平太)−成道(神崎太郎)−成兼(莫祢太郎)」となります。神崎平太兼重の弟・七郎大夫良忠の子に川辺平次郎大夫良道がおり、薩摩南部に繁衍する伊作(薩摩)平氏の祖となり、この流れから薩摩・頴娃・指宿(揖宿)・阿多・給黎・加世田・谷山など多くの苗字が派生し、これら諸氏は南北朝期まではかなりの勢力を保っていました。建久の図田帳に拠って指宿氏一族が栄えたことが知られる指宿市北部において、前掲の岩本(岩元)があり、しかも高江山の北東麓に位置したことは興味深いものがあります。おそらく、岩元の苗字は、指宿一族が高江同様、莫祢院ないし薩摩郡からもたらした可能性があります。
  貴家の系図では、神崎太郎成道の弟・五郎兼時が後に成時と改め岩元氏の祖とされますが、岩元氏の初期段階の系図が不明確な内容となっており、その記述は時代と系線の混乱がかなりあるようで、あまり信頼できないのではないかと思われます。これまでに見た系図では、五郎兼時の子孫は樹童の管見に入っていません。ご実家が川内市湯田にあるとのことですが、平姓岩元(岩本)氏は莫祢一族として莫祢院かその前の居住地高江郷の付近に起こり、川内市辺りに代々居住したのではないかと思われます。
  そう考えていくと、莫祢院のなかの地名に「岩元(岩本)」があった可能性も考えられますが、現在、それを探す手だてが殆どありません。それでも敢えて探索してみると、莫祢の港は莫祢氏が居城とした前掲波留の賀喜城の付近、俗に船卸岩(ふなおれいわ)と呼ばれる地にあったとされ、また莫祢には岩船神社があり中世初期の創建といわれますから、これに関連して「岩元」の地名も生じた可能性がないともいえないと思われます。
  波留の付近には南方神社(諏訪社と同じ)があり、同名の南方神社が川内市高江にも鎮座することにも留意しておきたいものです(この辺の事情は〔補論〕を参照されたい)。両社の関係については、莫禰氏五代成友が、その旧領薩摩郡高江寄田の諏訪神社の分霊を歓請して祭ったといわれ、県指定民俗文化財「神舞」(かんめ)を奉納することでも知られています。

 莫祢院か高江の辺りから岩元氏が起ったとしても、その発生時期は相当遅くなってからのことと思われます。というのは、鎌倉初期の莫祢院司成光の五世孫・彦太郎成村が南北朝期の人であり、文和四年(1355)二月二三日付けの島津師久の東郷左京亮宛書状に「凶徒莫祢彦太郎入道成因跡」と見えますが、その子の良忠(この後が阿久根氏本宗で、「岩本系図」には、その子・大和守良守まで見える)の弟に成兄(ナリスケ)という者が系図に見え、同名同訓の人物が岩本氏の系統にも同じく見えるからです。
  両系統の成兄が同一人物だとすると、岩本系統で成兄(ナリスケ)の二代祖(祖父)にあげる「八郎兵衛尉 戒名道金」、三代祖にあげる「道金 八郎右衛門尉」と見える人物も、本来、両者同一であって、その活動時期もせいぜい鎌倉末期頃ないし南北朝初期となり、前掲の五郎兼時の子に道金をおくのは系線の混乱ではないかと考えられます。道金の父におかれる成時は、本来は兼時と別人であって、おそらく道金その人ではないかと思われます。
  また、道金は法名と知られますが、鎌倉期の莫祢一族の法名を見ると、「覚」を用いる例(覚道、真覚、明覚、覚本など)が多く、「道」を用いる例は殆どないこと(一方、大前一族の人々には諱、法名に道が見えること)から考えると、あるいは源姓と称した大前一族の岩元氏との何らかの関係(養猶子関係とか通婚など)が莫祢一族に生じて、平姓岩元氏が生じたことも可能性として考えられます(この場合、苗字の岩元は薩摩町のほうに起源があったことになるが、他の検討も要する)。居住地であった川内川の下流域と上中流域とが密接な関係にあったことは、湯田などの同じ地名がいくつか分布することからも知られます。
  この辺の事情は、貴家に所伝の系図からは窺えることはできませんが、鹿児島県下の公共図書館には「岩元氏系図」が所蔵されるとのことであり(丸山浩一編『系図文献資料総覧』)、この系図との突き合わせも必要ではないかとも思われます。

  以上の考察を踏まえると、貴家の起源は鎌倉末期頃の八郎右兵衛尉道金(その実名は成時で、このときに岩元を名乗ったか)にあって、その子で南北朝期の大炊助成光、その養子(成光の三女子のいずれかの婿か)と推測される九郎成兄、以下は「成忠(右兵衛、淡路守)−成秀(禅助)−成正(太郎助)」と続いて江戸期に入ったものとみられます(但し、成正に至る間に数代の世代欠落が考えられる)。

 さて、先に鎌倉末期頃ないし南北朝初期の人と推定した岩元家祖の道金(成時)の父祖は分かるのでしょうか。これまで見てきた限りでは、「岩本系図」には系線引誤りなどいくつかの混乱も見られますが、これは何度か書写しの過程を経てきた系図には付き物の事情でもあります。この一連の混乱の結果、本来の系図でははっきりしていた道金(成時)の父祖が不明となったのではないか、成時と兼時を混同したのではないかと考えられます。
  こうした見地からみるとき、莫祢本宗以外では、@成忠の弟・成行に始まる遠屋(遠矢)の系統、A成綱(実は成綱の父の成光であるが、「岩本系図」では成光が脱落)の弟・成家に始まる松崎の系統が各々、数代の子孫を記述することに注目されます。このうち、前者は南北朝期までの子孫を具体的に記しており、ここに岩元系統をつなげる要素は少ないと思われます。一方、後者の松崎系統は、成家以下は、その子・成政、さらにその子・成基、その弟に成続(山口)・成通(濱田)・成豊(樋脇)と兄弟四人をあげ、そのいずれもが世代的にみて成時の父に相応しいものがあります。
  この四兄弟の苗字はそれぞれ地名に因ったことが考えられますが、現在、このうち樋脇が最も大きな地名となっています*3。すなわち、薩摩郡樋脇町となっていて、その中心部・塔之原の樋脇町役場(国鉄時代の旧線宮之城線樋脇駅付近)の西北近隣に岩元の小字(大字倉野のうち)が見え、さらにその東北三キロには山口の小字も見えることが分かります。こうした地名分布から考えるとき、樋脇成豊の子に岩元成時を置くのが最も自然で、一族の分出過程として蓋然性が高いものと考えられます。

  ここまで紆余曲折を重ねて来ましたが、なんとか結論まで辿り着いた感があります。すなわち、貴家岩元氏については、鎌倉末期頃に薩摩郡岩元に定住した薩摩平氏莫祢一族の一派で樋脇氏の庶流が地名に因り名乗ったことが、ほぼ推定されるということです。

 〔註〕
*1 平貞時の系譜については、いくつかの所伝があるが、活動年代や周辺の名前から考えると、高望王の子の良文か良持かの「子」(養子・猶子の場合も含む。前者の場合だと良文−貞道、その弟・貞時か)で、世代的にみて、将門征討に功績のあった平貞盛の従兄弟くらいの位置づけではないかと推される。その子孫の大宰大監平季基・兼輔親子は『小右記』等の史料に確認され、平姓を名乗っていたことは認められる。とはいえ、疑惑の多い東国の桓武平氏の出であるので、彼らの桓武平氏の出自は疑念がないわけではない(〔補論〕を参照)。
 なお、「岩本系図」を含め伊作(薩摩)平氏の初期系図には、遠い一族の為賢が混入するなど様々な混乱が見られることに注意したいが、ここではそれら混乱については詳しくは触れない。
*2 成兼の活動した時期については、十一世紀前葉の天治・大治頃の人という所伝があり(『角川日本地名大辞典』鹿児島県に記載)、また、『姓氏家系大辞典』に見える「寛元四年(1246)神崎太郎成兼英祢を賜ふ、これ莫祢氏の祖なり」という記事(『莫祢氏代々記』でも、同じ年代を記す)もあるが、前後の人物から活動年代を考えると、十二世紀中葉頃の人とするのが最も妥当かと思われる。なお、神崎とは肥前国神崎郡のことであり、祖の平季基及びその父・貞元がともに大宰大監となったことで、大宰府付近にも所領があったことが知られる。
*3 樋脇は江戸期に塔之原を中心に樋脇郷とされたことから、町名につながったものとみられる。もとは塔之原に樋脇城があり、戦国期の城主として樋脇因幡守が居て、当時、北薩摩の戦国大名に成長していた入来院氏の家臣の中でも第二番目の給地高をもっていたとされる。この樋脇氏は、莫祢一族の後裔か。

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 (02.5.25に掲示)