〔補論〕 薩摩平氏と南方神社について



  薩摩平氏(伊作平氏については、岩元氏の系図を検討する前の段階では、桓武平氏とすることにほぼ信頼をおいていたが、検討を深めるうち大きな疑問も浮上してきた。それは、この伊作平氏の一族が諏訪神建御名方命を祀る神社系統(ほとんどが諏訪神社という名)を薩摩各地で奉斎した事情に因るものである。薩摩には、現在、「南方神社」という名の神社が多く分布しており、元の名前が諏訪神社であったが、それらがこの一族の分布地と重なる場合が多いことに気づいてきた訳である。

  具体的には、本文であげた高江・阿久根のほか、伊作(日置郡吹上町)、山川(揖宿郡山川町成川)、加世田(加世田市益山)、指宿(指宿市西鹿籠)、串木野(串木野市羽島)、給黎(揖宿郡喜入町中名)、山門(出水郡東町山門野)に南方神社が分布しており、これらの地にはいずれも薩摩平氏一族が分布しその地名を苗字とした武士を生じた(さらに、上掲の薩摩郡薩摩町大字永野等にもあって、数多い)。
  古代から薩摩には隼人族系統の古族が繁衍し、次いで八幡神を奉ずる勢力の入植があったが、それらの系統では諏訪神を奉斎するはずがないし、実際、十世紀前葉の延喜式内社にも諏訪神系統のものはない。薩摩には、式内社が二社(頴娃郡の枚聞神社、出水郡の加紫久利神社)があり、平安中期以降では、薩摩国府に近い川内市宮内の新田八幡宮(現新田神社)が国司初任のとき、先ず当宮に奉幣し神拝の後、国務を執るというのが例となっていて、権威が高く薩摩一ノ宮とされた。

  信濃にも領地をもった島津氏が十二世紀に薩摩入植して以来、国内豪族を支配していく過程で諏訪神社を建立したともいうが、本来、同氏の奉斎したのは稲荷神であったので、諏訪神社に関与したとしたら既にあった同社をも尊重したというくらいであろう。鹿児島市清水町の南方神社はとくに島津氏との関係が濃いようで、信州塩田荘の地頭職に補された家祖島津忠久が諏訪明神の加護を受けて軍功があったとされて以降、その子孫は諏訪神社の崇敬篤く、島津氏久のときに現在の地に社殿を創建し、社領を寄進したと伝えるが、果たしてそうなのだろうか。
  というのは、忠久が最初に薩摩入部した地は山門院の木牟礼城(出水郡高尾野町)であり、この地に南北朝期の島津貞久のときに諏訪明神の分霊を勧請したといい、次の氏久のときに山門院から鹿児島に本城を遷したときに同社も現在地に遷したというから、鹿児島の前の鎮座地は山門院であった。山門院には薩摩平氏一族の院司(郡司)山門氏がおり、鹿児島にも薩摩平氏一族の鹿児島氏が居住していたからである。こうしてみると、諏訪神社の庇護者として島津氏を否定するものではないが、本来の奉斎者としては薩摩平氏一族が最も考えうるものといえよう。

  日本全国を見ても、諏訪神社の分布は各地に多いが、「南方神社」という名としては少なく、現在では、殆ど鹿児島県特有の名でもある。他の地では、僅かに長野県戸隠村祖山の南方神社、埼玉県のさいたま市(大宮)吉野原及び上尾市上尾駅付近の南方神社が見えるくらいである。このうち、後者の武蔵国では、秩父を中心とした古代知々夫国造の勢力圏において、諏訪神社がきわめて多く分布することに留意したい。これも、知々夫国造の祖が諏訪神建御名方命一族に随従して、神武東侵の際に畿内から関東に逃れてきた経緯に因るものといえよう。このときに東遷した氏族としては、少彦名神系の伊豆国造族・阿智祝族や、物部同族の武蔵国造族(相武国造や房総の海上国造なども含む)などの遠祖などもあったとみられる。
 古代や中世の氏族が母系の祖神を奉斎する例もないわけではないし、武神として名高い諏訪神を崇拝した事情もあったかもしれないので、断定するところまではいかないが、薩摩平氏の祖とされる伊作(胆沢)貞時は、桓武平氏を称したものの、あるいは上古の東遷縁由などにより、武蔵あるいは相模の古族の流れを汲んだ人物であった可能性(その場合には、高望王の諸子のうちの誰か〔良持か〕と猶子縁組したなどで縁由をもった可能性もあろう)も考えられる。
 それ故に、本来の出自氏族が奉斎した諏訪神を遠く薩摩の地までもっていったものではなかろうか。

  この関係では、まだ検討を要する部分もあるが、ここでは先ず問題提起として記しておくこととした次第である。

 (02.5掲上、05.8.16や24.7.11などに若干補修)



 (上記問題提起の答えの一案など)

 後日分かったことは、伊作平二貞時は、頼光四天王の一人とされる碓井荒太郎貞道の一族(年代的に見て、弟か叔父か)であり、碓井貞道は古族の相武国造の末流とみられ、平姓とも橘姓とも称したが、『前太平記』には、「諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞道を生む」という記事があるとのことである。
 (とりあえず概要を記したが、時間があれば、後日補足することにしたい。)

 (06.5.10 掲上)

 「坂東諸流綱要」(『系図綜覧』下巻に所収)では、高望の子の下総介良持の子として、致持と貞時をあげ、後者には「子孫在鎮西」と記事があり、その子に宗俊、その子に宗行(大宰少弐)とあげる。平宗行の活動事績は確認できる。
 (06.5.26 掲上)


 <福ケ迫 忠様からのご指摘> 2012.6.22受け

 ホームページにありました「薩摩平氏と南方神社について」の論考を読んで、若干の違和感がありました。
と言うのは、鹿児島の「南方神社」は江戸時代、「諏訪神社」神社と呼ばれており、祭神の健南方神にちなんで「南方神社」となったのは明治以降のことです。

 これは、藩の巡検使?が鹿児島一円を回って次々に変えさせていったもので、改名の時期を追っていけば、巡検使の足跡が分かります。
 したがって、「南方神社」は「諏訪神社系統」ではなく「諏訪神社」そのものです。ただ、祭神に健南方神のほか「事代主命」を合わせ祀っている社の多い点が、本来の諏訪神社と違い、鹿児島の特徴です。
 そういうわけで、薩摩平氏と南方神社には何の関係もありません。「平氏の一族が南方神社という諏訪神建御名方命を祀る諏訪神社系統の神社を薩摩各地で奉斎した事情」と言うものは存在しないことになります。
 あるとすれば、「諏訪神社と薩摩平氏」ということになります。
 薩摩平氏の支配地域と諏訪神の関係性については、視点として非常に優れていると感じます。南方神社の名称に固執するあまり、論旨が違ってきている気がします。
 差し出がましいことを書きましたが、平氏支配地域と諏訪神の関係性については、私自身なるほどと思った次第です。ですから、諏訪神社が南方神社に変った経緯と、「南方神社」の語句を「諏訪神社」に統一すると、いいのではないでしょうか。 

 ※この趣旨を受け、本文も一部手直しをしましたが、明治以降に「南方神社」に変わったことは、この来信記事に置きました。また、読まれる方からは、今は神社名としてない「諏訪神社」よりも、現在の「南方神社」のほうが地域的に分かり易いものと思われます。

 
<樹童の感触>
 
 様々なご指摘・ご教示に感謝いたします。

 薩摩平氏が実際に桓武平氏の出であったか、上古代の氏姓国造の末流であったかは、まだよく分かりませんが、その一族が奉祀した神社も関係すると思われます。
 相模の相武国造の先祖が、神武東遷のときに畿内から諏訪神一族とともに(随行して)東国へ遷住したのではないか、と考えており、祖神ではなくても(女系をたどれば、その祖という可能性も残るが)、 この経緯を踏まえて、相武国造の末流諸氏が諏訪神奉斎を行ったのではないかとも考えています。

 (2012.6.23 掲上)

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