赤沢氏の系譜

(問い) 貴HPの「三好長慶の先祖」の中で、小笠原一族の赤沢氏について、「掲載分量の関係で、詳細は省略」として、「不明。板西郡の板西城(現板野町古城)に拠った(『古城諸将記』)」と記されていますが、これを含め、赤沢氏の概要について教えて下さい。また、『古城諸将記』にはどのように記載されているのでしょうか。
  かって読んだ文書には、赤沢重経という人物が阿波国板西城の城主となり、赤沢信濃守を称し、騎馬三千騎の大将となったとありました。時代としては16世紀前半から中頃の人物と考えられるので、天正10年に中富川の戦で討死した赤沢信濃守とは1〜2世代違うかもしれないと思います。この二人の関係をどう考えますか。


 (樹童からのお答え) 
1 まず、真野信治様よりの情報及び見解を紹介します。
 「赤沢氏」について情報の概略を述べると、赤沢氏を調べる上で参考にした研究は以下の通りです。
@『小笠原氏の虚像と実像』中島次太郎著1980
A『伊那』1960.12月号〜翌3月号「佐竹宗三と赤沢宗益」1,2,3,4 伊藤富雄著
B『赤沢氏の家系誌』柴田幸夫1982
C『赤沢氏のあゆみ』赤沢猛1986
D『ヒストリア』80号「細川政元政権と内衆赤沢朝経」森田恭二
E『長野』49号「二川物語、細川政元記記載の赤沢沢蔵軒宗益」
あとは、長野県の多々ある市町村誌の中の関係部分。

 問題点としては、初代とされる源二郎清経(長経第二子)が『尊卑分脈』には載っておらず、不審である、と@で中島次太郎氏は言及していますが、Aで伊藤富雄氏は小笠原氏の分流であり清経が祖であることはまず間違いないとした上で、室町時代に入り三家に分かれたとしています。すなわち、
(1)信濃東筑浅間・・・刑部少輔康経(一に経康)系
(2)信濃更級塩崎・・・伊豆守経興系
(3)阿波国・・・信濃守宗伝(板西城)系

 上記はそれぞれの代表的な人物をあげているのでしょうか。この三流がどのように分岐したかは、確実な系図はありません。系図上で比定することは出来るようですが、全くの混乱状態であると言えます。とりあえず定番となっている系譜としては、次のような模様です。

  源二郎       新太郎             養子(長氏子)    彦太郎      弥太郎
  清経─── 安経─── 経頼─── 氏経─── 常興─── 経光
  伊豆守      治部少輔    式部少輔    (長興)        伊豆守     治部少輔
                             伊豆守、弾正忠


  未だよく調べ切れていませんが、混乱がないのがこの経光あたり迄かとも思われます。
  (3)の阿波国系については、細川政元内衆の赤沢宗益朝経が有名です。赤沢氏の中では、この沢蔵軒宗益が史料上では頻繁に出現しますが、その出自が問題になってます。伊藤氏はその論考中「応仁後記」を紹介し、小笠原の末流であるが始めは卑賤の出であり、常盤十郎朝経と名乗った、とあると述べています。宗益以降の系は以下の通りで、阿波赤沢氏へと繋がっているようです。

           養子
  朝経─── 長経─── 致見─── 致信─── 重清
   宗益        信濃守       信濃守                 出羽守
   沢蔵軒                 宗伝
   永正四没              阿波板西城主

  以上は、未だに情報収集中のもので、総じて言えば、赤沢氏については、あまり良質の史料はないようです。
 
2 樹童のとりあえずの見解
  上掲の赤沢氏についての情報及び見解は、様々な点で示唆深く、こうした系図研究を複数で多角度から行うことの意義を十分感じ、厚く感謝いたしております。これらを踏まえて考え直したところで、試案的に私見等を次に記してみたいと思います。表現がこみ入って分かり難い部分もあろうかと思いますが、その場合は、ご寛恕ください。
  赤沢氏は、大変難解な氏で、初期段階(鎌倉期)の人物についての資料が全くと言っていいほどありません。おそらく、『姓氏家系大辞典』に引く「小笠原諸流系図」の赤沢氏部分は、伊豆起源とか伊豆守の名乗りなども含め、疑問が大きいのではないかと思われます。とりあえず気づいたところを次に記してみます。

(1) 初代とされる源二郎清経(長経第二子)が『尊卑分脈』には載っておらず、不審であるとの言及(中島氏)は、私もほぼ同感です。清経の名が見えない巻物本小笠原系図もありますが、仔細に見ていくと、清経の名は小笠原系図に見えるものと考えられます。
  すなわち、『尊卑分脈』では、小笠原氏の祖・長清の諸子のなかに見えます。鳴海余一清時、大蔵与二清家(次に記載の大倉余一長隆と同人)、清経(苗字・呼称は不記載)の順ですので、呼称としては「余三」(13番目)ということになります。また、「芥川系図」(「三好長慶の先祖」参照)では、本来は鳴海余一清時、大倉余二長隆、赤沢源三郎清経の順で掲げ、清経の名を後から消し込んでおります。同系図では、長経の子にも清経の名が見え「赤沢源三」とあります。「吉田孫六系図」でも、長清の末子として清経をあげ、「赤沢源二郎、阿州板西郡古城主」と記述されます。
  小笠原長経の第二子としては、信濃小笠原本宗の祖となる長忠があげられますから、清経は長経の実子ではなく、おそらく長清の晩年の子で、兄長経の猶子にでもなったのではないかと推されます。
(この初期段階の赤沢氏についての見解は、真野様のご賛同をほぼ得られているようです)
  ただ、赤沢の苗字がこの清経のときに生じたかどうかは、不明あり(後述の「古城諸将記」参照)、赤沢の苗字が起った地もよく分かりません。

  次に、『尊卑分脈』でも「芥川系図」でも、清経の子については何ら記載がありません。清経の跡は、長忠の次子・小三郎経忠(忠経)が継いだようで、年代的にみておそらくその次代くらいが常興であり、常興の跡を信濃小笠原の嫡宗家の長氏の子・長興(赤沢二郎、弾正忠)が継いだと上掲巻物本に記載されます。
 「芥川系図」の書込みには、何に拠ってか、清経の子に忠経(六波羅孫次郎、賜伊豆守護住赤沢山。その兄弟に安経〔新太郎、赤沢治部少輔〕)−経頼(赤沢式部少輔)−氏常(孫三郎、同伊豆守)−常興(赤沢彦太郎)、と見えます。しかし、鎌倉期の伊豆守護が疑問であるほか、これらの裏付け資料は全くなく、各々の呼称も後世的のように感じられます。従って、信拠性を見出し得ないと考えています。
  室町期の赤沢氏については、殆ど検討をしていませんが、信濃の筑摩郡に戦国期まで続いた家があり、細川政元・澄元に仕えた赤沢氏もその一族だったとしてよさそうです。

(2) もう一つ気になるのは、巻物本「小笠原系図」には、信濃の長氏の子に経氏をあげ、「津毛次郎四郎、観照之子、此代赤沢」と尻付に見えることです。観照は、一般に長経の末子に見えますが、経氏は年代的にみて混入かもしれず、また、赤沢氏の初期段階に見える氏常との混同があるかもしれません。貴兄が定番として掲げる系図のなかには、「氏経=長興」で長氏の子とありますが、この辺も正しいかどうか分かりません。こう見ていくと、清経が本当に赤沢氏の祖かどうかも確認できない事情にあるなど、分からないことずくめです。

(3) 阿波の赤沢氏の由来・系譜も不明に近いものです。
  例えば、『阿波国徴古雑抄』に所収の諸書でも、記述がマチマチです。巻七の「古城諸将記」では、板西城の赤沢宗伝入道について、小笠原氏とし、近藤六親家が子孫なしの事情により赤沢兵庫正宗定に板西城を譲り、宗定も子孫がないことから小笠原家の者を継がせたことで、赤沢氏が小笠原氏となると記されます。その少し後には、矢武上荘に赤沢美濃守をあげ、蜷川氏と記されています。同じく巻七の「城跡記」では、板西城に「主将赤沢信濃守入道宗伝、同鹿之丞、中富川ニテ戦死ス、橘氏」と記されます。
  同書巻三の「故城記」では、板西郡分と勝浦郡分に赤沢殿をあげ、ともに「小笠原 源氏」と記されます。巻三の「太田文」でも板西郡之分に「赤沢殿 小笠原源氏」とあります。こう見ていくと、阿波の赤沢氏が信濃の赤沢氏とどのような関係にあるかも不明です。
  阿波の赤沢宗伝入道が信濃守と名乗ったことから考えて、沢蔵軒宗益(信濃守朝経)の一族であった可能性がかなり大きいとも思われますが、確認できません。阿波に二系統の赤沢氏があったことも考えられます。一伝に沢蔵軒宗益の甥に信濃守重経がいたといいますから、jizou様の記述にあるように、この信濃守重経が宗伝入道の父祖なのかもしれません。

(4) 以上のような事情にありますが、「三好長慶の先祖」では、とりあえず、阿波を中心として次のように整理しております。

「D赤沢  小笠原長経の子の源三郎清経を赤沢氏の祖とする系図が『諸系譜』第十四冊に見えるが、この系統から阿波赤沢氏にどう繋がるかは不明である。赤沢氏の系図には、その祖及び初期段階について混乱が多いが、清経はおそらく長経の末のほうの弟で、その猶子となったものか。この清経以降も資料に見えず不明部分が多く、南北朝期の長興(赤沢弾正忠。信濃小笠原本宗の宗長ないし長氏の子)が赤沢氏の跡を継いだとされている。
  『古城諸将記』には板西郡の板西城(現板野町古城)に拠った赤沢信濃守宗伝が見える。この者は三好義賢の姪婿で、郡内の十六か村を領し三好氏の領国支配の一翼を担っていたが、天正十年(1582)の中富川合戦で討死した。
  なお、鎌倉期、正応二年(1289)二月の小早川定心譲状には、板西郡板西下庄の地頭に小笠原十郎泰清跡が見えており、後の赤沢氏はこの泰清(長房の弟の信濃小笠原長忠の孫)と何らかの関係があったものか。板西郡矢武上荘の赤沢美濃守及び名東郡新居の赤沢鹿之丞は、ともに蜷川氏といい松皮菱紋を用いたが、同紋の赤沢信濃守宗伝と同族であったかどうかは不明。」

(以上の記述は、今後、史料などにより修正も考えられます。)

 (03.2.23 掲上)

 <jizou様よりの返信>(03.2.23受信)

※応答を感謝するとともに、真野様にもよろしくという趣旨で返信がありましたが、以下の内容もありましたので、ここに掲上しておきます。

 …と同時に、とても詳しいので、疑問が更に増加してしまいました(笑)。

  世に出回っている本の中で、赤沢氏について最も詳細なものというと、「寛政重修諸家譜」なのかなと思っています。巻第百九十四で、将軍家の弓馬礼法の師範となった小笠原平兵衛家の系図が載っていますが、これがまさに赤沢家系図ですよね。(諸々の文書の中で、すでに研究し尽くされているのかもしれませんが。)

  ここに、清経から始まって(その出自は巻第百八十七で長経の第二子とされています)、朝経が登場し、小笠原平兵衛常方に至る系図が載っていたので、その部分については、何の疑いも持たずに信じていました。「尊卑分脈」も見て清経の名を確認していたのに、それが長清の子になっていることを見過ごしていました。

  この「寛政重修諸家譜」には、朝経は出てくるのですが、『大塔物語』(註)の赤沢但馬守や赤沢駿河守、赤沢対馬守に相当する人物が誰であるのか不明です。また、『二木家記』に出てくるという赤沢経康も、中富川の合戦で討死したという赤沢信濃守も出てきません。
  ということから、樹童様宛にメールを出した次第です。

(樹童註)『大塔物語』とは、応永7年(1400)に起きた信濃国の大塔合戦を記した史料であり、『信濃史料』に所収。大塔合戦は、同国守護の小笠原長秀のやり方に反発した村上満信や大文字一揆など北信の武士が蜂起して、大塔(長野市域)に籠城した守護側軍勢を打ち破った事件。


 <真野様よりの追加情報>(03.2.27受信)

 ……(一部前略)……
1 jizou様の問い中の「信濃守重経」は、『信濃史源考』記載の赤沢系図によると、沢蔵軒朝経の弟、福王寺修理亮幸純の子ということになっております。ただ、この系図の信憑性については不詳で、『福岡県史』近世資料編所収「御当家末書」中の「小笠原赤澤系図」に重経は見出せず、幸純は「又称赤澤大和守」となっております。

2 ところで阿波系の赤沢氏についてはよくわからない部分がありますが、沢蔵軒宗益以後に信濃守系が阿波に割拠していたのはほぼ確実ですが、その出自はわかりません。
 伊藤富雄氏は、その論考「佐竹宗三と赤澤宗益」の中で、「四国阿波の赤澤氏は三好氏との関係によるものである」とし、『続史籍集覧』所収の「みよしき」に、三好一統の約四十家ばかりが挙がっており、それには「赤沢信濃。同姓同国坂西郡之住」と見えているとのこと。一度この史料を確認したいと思っております。阿波三好氏の動向についても情報があるかもしれません。
  以前に阿波赤沢氏出自を考えた際に、試論レベルですが、板西氏との絡みがあったのを思い出しました。
3 「細川政元政権と内衆赤沢朝経」で森田恭二氏は、赤沢経隆・澤蔵軒朝経父子が信濃に於いて小笠原氏主流の内紛に敗れ、細川政元を頼って延徳元年ごろまでに上洛したが、実はそれ以前から以下の史料にある通り赤沢一族が在京していた、と考察しています。
@ 応永十九年「大伝法院領和泉国信達庄沙汰次第事」中の「阿波殿奏者赤沢三郎」
A 康正二年「信濃史料」細川持賢の関東出兵催促状に「委細赤沢新蔵人政吉可申候」
B 長禄二年小笠原政康の出陣要請に「赤沢政吉」の断りの書状あり(出典不明)
C 延徳元年「蔭涼軒日録」細川政元の犬追物興行に「赤沢兵庫助」参加
D 「実隆公記」に細川典厩被官人として、「赤沢兵庫助政真」が記されている
 A以下に見えるように細川典厩家内衆に赤沢氏が存在したのは事実ですが、@の赤沢三郎とつながりがあるかどうかです。(阿波殿は細川基之に当たります)少なくとも政元内衆の澤蔵軒宗益の近親者ではないことは時期的に確かであり、「政」が通字のようです。

4 次に、板西氏についてですが、「古城諸将記」中の初代板西城主「近藤六親家」がキーパーソンになります。この「近藤六親家」というのは鎌倉初期の阿波住人で『平家物語』等の複数史料で確認できますが、正式には藤原姓で「近藤六郎周家」というようです(註)。 『伊那温知集』には、当初源義経に属し、四国を案内して功あり、義経没落後、文治三年信濃国伊那郡郊戸庄地頭人に任命され現地に下り家名を板西と改めた、とあります。阿波居住のまま赤澤兵庫正宗定に城を譲ったという「古城諸将記」以外の史料はここまでほぼ一致しておりますが、ここからが複数説に分かれます。すなわち、
@ 周家の系統は戦国時代まで続き、板西左衛門周次は武田信玄に属し六十騎の将となる
A この郊戸庄は建武年中に小笠原貞宗の軍功により与えられ、三男刑部少輔宗満が治める。
B 近藤氏系板西家の家名断絶後、小笠原宗満がその跡を継ぎ板西孫六宗満となる。
(@ は「飯田細釈記」、Aは「伊那郡実録」等、Bは「信陽雑誌」等に記載)
  加えて「飯田郷史考」などには、信州に下向したのは、周家ではなくそれより数代以降のことであろう、とあります。年代的には肯けますし、飯田郷近辺については、確か鎌倉期は阿蘇沼氏の所領であったと記憶しています。

 宗満以降の板西氏の系譜は以下の通りです。(『信濃史源考』より)
   孫六       兵庫頭    伊予守             内蔵助    伊予守
  宗満───由政───長由───政忠───政重───政俊── 

  実はこれらはすべて板西氏調査の際に見出した史料ですが、こちらも「政」が通字として使われてます。さらに「古城諸将記」の赤沢兵庫正「宗定」と「宗満」、由政の「兵庫頭」と宗定の「兵庫正」などの一致箇所が存在する点、信濃板西氏と阿波赤沢氏が、譲られた関係にある前領主が「近藤周家」で一致している点などがあります。飛躍するかもしれませんが、仮に上記典厩家内衆の赤沢氏が「阿波殿奏者赤沢三郎」と繋がりがあり、強いては阿波板西城主系の赤沢氏の流れであれば、信濃の板西氏の一流から阿波赤沢氏が発生した、或いは同等に分岐した、という試論もありうると考えた次第です。
  ただ、なぜ「板西」ではなく「赤沢」を名乗ったかがわからないところです。それと、前述の伊藤氏の説では阿波赤沢氏は三好氏に属していたとの説なので、ここでも食い違いがあります。

  以上、とりあえず以前の記憶をたどって記しました。

(樹童註)「近藤六郎親家」は、阿波古族の忌部の出であり、後白河上皇の寵臣で鹿ヶ谷事件で平家に斬首された西光法師(俗名藤原師光)の子。その具体的な系図は『古代氏族系図集成』阿波ノ忌部の項(923頁)に見え、「春日神社文書」貞応三年五月廿一日宣旨案には、その子の忠連が見える。


 <樹童のまったくの雑感>
1 赤沢氏については、種々問題(例えば、次に掲げる問題)があるようで、多くの中世史料からこまめに史実を集めて考えていく必要がありそうです。
2 赤沢の苗字の地については、小笠原牧のあった甲斐国巨摩郡の赤沢村(現南巨摩郡早川町赤沢)が最も蓋然性が高そうですが、同じ巨摩郡でも、山間部であり小笠原氏居館のあった櫛形町小笠原からやや遠いことが気になります。
3 赤沢氏が室町前期の応永頃までに発生していたとしても、具体的にいつ頃発生したかは、まだよく分かりません。
4 赤沢朝経が当初、常葉十郎と名乗ったという所伝(未確認)もあるようで、その場合、常葉(常盤)氏は『尊卑分脈』に見える小笠原長氏の子の常盤十郎二郎光宗を祖とする水内郡常葉村に起った氏とされます。赤沢弾正忠長興は、小笠原長氏の子とされますから、常盤十郎二郎光宗とも兄弟という関係になり、微妙に交錯することになります。この辺も、よく分かりません。

  (以上は 03.3.1に掲上)


 <その後の樹童の雑記>

1 先に、清経は長経の実子ではなく、おそらく長清の晩年の子で、兄長経の猶子にでもなったのではないかと推されること、清経の子に忠経(六波羅孫次郎)が出て、その子が赤沢式部少輔経頼であると伝えること、を記述しましたが、これらに関して少し補足しておきます。

『続群書類従』巻124に所収の「小笠原系図」では、長経について治承三年五月に山城国六波羅館で生まれたと記し、その二男に清経をおいて「或六波羅二郎。赤沢山城守受譲。」と記されます。さらに、清経の子に六波羅孫次郎忠経があげられるわけで、その系統が赤沢を名乗る前は、「六波羅」を苗字とした蓋然性が高いものと考えられます。これが、何時の時点で、赤沢に変わったのかは不明です。なお、六波羅という苗字は、現在でも長野県にあり、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』でも記されます。
 
中田憲信編の『諸系譜』第14冊に所収の「赤沢」系図があり、例えば、清経については、伊豆国守護住赤沢山城とし、「寛元中信州水内郡更級郡ヲ賜リ住于羽生館赤沢三郎……」と記されます。『諸系譜』自体は所蔵元の国立国会図書館で閲覧できますので、ご興味のある方はご覧いただいたらと思います。赤沢氏についてのかなり詳しい系図といえますが、少なくとも初期段階の系図は、信頼性がかなり低いものではないかと考えられます。

 例えば、赤沢の伊豆起源を疑問視するのは、赤沢氏は清経を含めてその一族が『東鑑』に全く見えないことからです。伊豆の守護は鎌倉期は一貫して北条氏家督(『日本史総覧U』)ですから、これに任じようがありません。しかも、赤沢の地は現在の伊東市南端部にあって、国衙からこんな離れたところを所領とするはずがありません。
 
3 赤沢氏が鎌倉期に発生していたという確実な史料は管見に入っておりません。この関連で、信濃小笠原の中興の祖・貞宗の母について、吉川弘文館『国史大辞典』は赤沢伊豆守政経の女と記しますが、安田元久編『鎌倉・室町人名事典』では貞宗の母について何ら記しません。何の記述に拠ってこの記事が書かれたかは不明ですが、『続群書類従』巻125所収の「小笠原系図」では、貞宗の母について「中原経行女」と記しますから、赤沢氏女という説はやはり疑問のようです。

とにかく、『東鑑』でも『尊卑分脈』でも、赤沢氏について何ら記さない状況ですから、史料的にどうしようもありません。
 
 (以上は 03.4.4に掲上)

  (赤沢氏について、さらに情報があれば、今後とも掲載していきます)


 <梶谷様からの追加情報など>

 
  備中国浅口郡柏島村松山城主に赤沢氏があり、先祖の系譜は不明も、備中守護細川氏の細川通頼(通政か)に仕えた赤澤(左・右)馬之佐宗照を初代とし、以下は「五良四郎宗照−兵庫之助宗榮(弟に久祐宗白)−九兵衛……」と続いている系図があるとのことです。
  初代の宗照は細川高國が義晴将軍のもと柳本賢治と対陣した大永七年(1527)二月の桂川合戦に参加し、同年四月七日に討死したと同系図に記されます。

  その系譜を考えるに、細川典厩家の右馬頭持賢(1441生〜67没)に仕えた赤沢三郎四郎朝宗という者がおり、年代的にその孫か曽孫くらいの世代に初代宗照が当たるのではないかと推されます。川部正武氏によると、朝宗より後ろの世代に位置づけられそうな赤沢一族に政吉(新蔵人、康正頃〔1455〜57〕)、政真(兵庫)、宗定(兵庫)があげられる(ただし、これらの人々の親族関係は不明)、とのことなので、「宗」という字や「兵庫」という職名の共有などから考えて、上記右馬之佐宗照は兵庫宗定の関係者ではないか、あるいは同人とか兄弟くらいの近親に当たる可能性もある、とも推測しています。
 以上、梶谷様からの情報などを基に若干の推測を記してみましたが、さらに具体的な史料がでてくると考えの変更を要するかもしれません。
   (06.4.15掲上、4.16補訂)

  赤澤家について、新しいことが少し分かったので連絡します。(06.7.29受け)

(1) 系図は誰から始まるのかについて、前は、赤澤左馬之佐宗照と、言いましたがその前の人に、赤澤修理亮という人がいたそうです。
赤澤修理亮は、応仁年間(1467〜1469)には鴨山城(現在の鴨方町)の城主細川氏の臣として住んでいたといわれます。
赤澤家の先祖は応永十四年(1407)細川満国が備中守護として鴨山城に移住したとき、信州(長野県)からつきそって来た家臣で、はじめ柏島畑山城に居城、その付近を領有。赤澤左馬之佐宗照のときから備中浅口郡柏島村松山城(森本松山城)の城主になりました。
  
   (2) そのほか、
永禄元年(1592)赤澤兵庫之助宗榮と赤澤久祐宗白(久助)は、主君細川元通とともに毛利輝元に従って朝鮮征伐に出陣し蔚山で奮闘しました。
 
赤澤久助は関ケ原の合戦に際し、豊臣秀吉の恩にむくいるため、手兵を率いて真田幸村の軍に投じましたが、戦いに利あらず近江国膳所赤沢谷で負傷し、敵軍に包囲されて壮烈な討死をとげました。
赤澤兵庫之助も関ケ原に参戦しています。

  (06.8.21掲上)

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