□ 信濃の工藤姓とその一族 (問い)長野県東信地区の工藤姓は、ほとんどが工藤祐経の子孫のようですが、本当でしょうか。本当でしたら、それ以前の系譜はどのようになっていますか。実際は違うのでしょうか。なお、家の家紋は庵の木瓜です。 (樹童からのお答え) 南北朝期まで工藤祐経の後裔に当たる武家の活動が埴科郡坂木を中心に見られますので、これらの流れが現在にまで及んでいる可能性があります。 1 工藤左衛門尉祐経は、建久四年(1193)に富士野の狩り場で曾我兄弟に親の仇として殺害されましたが、鼓の名手で頼朝の信任が厚かったといわれます。その子孫や一族は、執権北条氏のもとで得宗被官等として鎌倉期にかなり栄え、本国の伊豆のほか、伊勢・日向・甲斐や陸奥の安積・岩井・糠部郡などに展開しました。その活動は信濃ではあまり目立ったものではありませんが、鎌倉期には埴科郡の坂木北条・南条(現埴科郡坂城町)、小県郡の有坂(現長門町)、伊那郡の小出(現伊那市春近の小字)などに所領をもち、それらの地のいくつかに工藤一族が残ったことが考えられます。「庵に木瓜」という家紋は、曾我兄弟や祐経が用いたといわれ、各地の工藤一族も使用したとされます*1。 2 東信の埴科郡坂木(坂城)の北条(きたじょう)及び南条を工藤一族が領有し居住していたことは、嘉暦四年(1329)三月日の鎌倉幕府下知状に「坂木南条薩摩十郎左衛門尉跡」、建武二年(1335)九月廿二日の市河経助軍忠状に「薩摩刑部左衛門入道北条仁相構城郭之処」(註:下線の漢字は原文を同義のものに変更)とあることから分かります。『続群書類従』所収の「工藤二階堂系図」には、工藤祐経の孫(子の祐長の子)として祐氏に坂木北条八郎、その弟・祐広に坂木南条十郎とあげて、上記両文書を裏付けます。同系図の底本は、『諸家系図纂』巻18上に所収の「狩野・二階堂・工藤系図」とされています。 建武二年七月には、諏訪三河入道照雲(頼重)など北条氏の残党が北条時行を擁して中先代の乱を起こしますが、このとき工藤一族もこれに加担し、工藤四郎左衛門(どこの工藤か詳細は不明)という名も乱の参加者に見えます。敗れて主謀者の諏訪頼重親子が自害した後の同年九月にあっても、仁科氏などの残党が信濃各地に反抗を続け、薩摩刑部左衛門入道とその子五郎左衛門尉親宗も坂城に城郭を築いて抵抗したので、村上信貞が攻め落としたといわれます。ここで坂木の工藤一族は零落した模様で、それ以降の消息は知られません。 工藤一族のうち「薩摩」を冠した名乗りをする系統は、祐経の子で伊東左衛門尉祐時(犬房丸。後出)の弟・安積六郎左衛門尉祐長(1213〜54)の子孫であり、祐長は陸奥の安積郡に所領をもち薩摩守に補されて、『東鑑』には安積薩摩前司などと見えます。祐長の諸子は、薩摩七郎左衛門尉(祐能)、薩摩八郎左衛門尉(祐氏)、薩摩九郎左衛門尉(祐朝)、薩摩十郎左衛門尉(祐広)として同書に見えて、これらの子孫も「薩摩」を冠した名乗りで『東鑑』に見えています。祐長の子孫には陸奥の安積伊東氏一族、伊勢の長野工藤氏一族などが出ますが、信濃の坂木にも工藤氏を残しました。 また、祐長の長兄祐時の子に伊東左衛門次郎祐朝がおり、早川〔早河〕次郎とも有坂次郎とも号しましたが、有坂は東信小県郡の有坂(現長門町北部の古町の小字)とされます。ただ、この子孫は残らなかったのではないかとみられます。 3 伊那郡の小出(小井弖)にも工藤小井弖氏が居たとされます。この地の工藤一族については、『信濃史料』に所収の「工藤文書」で動向が知られます。 信濃での北条氏得宗の所領は、将軍家を本所とする関東御領の春近(はるちか)領が中心で、春近領は伊那・信濃国府付近・北信などにありましたが、なかでも伊那春近領では現地に政所をおき、郷ごとに地頭代をおいたうち小出二吉郷には工藤小出氏がおかれたとされています。建長三年(1251)二月五日の小井弖能綱譲状案には、「相伝の所領こゐて・ふたよしのし四さかいのことハ、宮藤右馬大輔子たゝつなの譲状にも見えたり」と記され、「宮藤右馬大輔子たゝつな」という人物が小出に居たことが知られます。 一般に、「小井弖能綱」という者が工藤一族と考えられており、前掲の工藤文書も小井弖能綱の子孫に伝えられたものです。能綱の子を師能といい、この者も工藤文書に見えますが、太田亮博士は、『中興系図』に「小出、藤、本国信州高井郡、紋亀甲内文字、丸内桜花、工藤四郎家光五代、弥次郎師能、これを称す」と記載があると記します(『姓氏家系大辞典』)。その具体的な系図としては、鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻12に所収の「小出系図」があげられ、そこには工藤四郎大夫家次の四男藤原家光(工藤四郎)から始まり、以下は「家俊(二郎)−家綱(藤四郎)−能綱(孫十郎)−師能(孫二郎)−宣能……(以下省略)」と記載されます。 このように、小井弖能綱の近隣の伊那郡に「宮藤(工藤・公藤と同じ)」一族が居たことは確認されます。小出の曹洞宗常輪寺には犬房丸伝説があり、この地に流された工藤祐経の息子・犬房丸が開基した寺だと伝えます。すなわち、仇討ちを果たした曽我五郎時致は捕らえられ、源頼朝の面前に引き出されたところで、工藤祐経の息子・犬房丸が父を討たれた怒りのあまり扇子で時致の顔を叩いたので、武士の面目を汚したとして頼朝の怒りをかい、信州伊那に流されてそのまま伊那に住み、春近郷に領地をもらって善政を施いたので、執権北条泰時に流刑を許されて、伊那の工藤氏の祖となったというものです。 しかし、この伝説には疑問があります。『曾我物語』には犬房丸の流罪は見えないうえ、成長して前出の伊東左衛門尉祐時となりますが、『東鑑』には建保四年(1216)七月条から見えており、建長四年(1252)六月十七日条の卒時記事には「大和守従五位上藤原朝臣祐時卒」と記されます。また、春近郷に伊東祐時の子孫があったことも史料に見えません。この地に在ったのは、同じ工藤一族であっても、上記のように祐経の叔父とされる工藤四郎家光の子孫に位置づけられます。薩摩の鮫島氏に伝わる古系図等によると、家光の子に信濃に住んだ林二郎家俊と鮫島四郎宗家がおり、鮫島四郎宗家は頼朝挙兵の石橋山合戦などに参加した功績で薩摩に所領を賜ります。林二郎家俊は『尊卑分脈』にも見えますが、その苗字の地「林」は、伊那郡林村(現豊丘村域)であり、そこから近隣の小出に来住したものと思われます。 もう一つ留意したいのは、小井弖能綱は工藤家綱(藤四郎)の子ではなかったということです。すなわち、上掲の系図には仮冒があり、小井弖能綱と「宮藤右馬大輔子たゝつな」とは区別されるべきではないかと考えられます。小井弖氏はその系を近隣在住の伊那郡の「宮藤(工藤・公藤)」氏の系図につなげていても、実際には小井弖氏は工藤一族ではなかったはずです。 小井弖氏に関する文書によると、正治元年(1199)に能綱の父為綱は、京大番役の催促を受けたが、病気のため能綱が代わって守護比企能員に従って勤仕したことが知られ、「すでに正治元年以前からこの地に土着して小出地方を支配した地頭」であったものとみられます(『角川日本地名大辞典20』)。小出氏は、太田亮博士が『姓氏家系大辞典』で記すように、「諏訪神家の族にして、諏訪上社五官の一、擬祝の家」であり*2、当地には諏訪神社が鎮座します。小井弖能綱の子孫は永く当地に住んで*3、神主系と武家に分かれており、これも古族末流を示唆します。小井弖氏は、太田博士の指摘のように、諏訪神家の族で神人部宿祢姓とみるのが妥当だと考えられます。 なお、小井弖能綱の子・師能の七世孫の藤四郎有政は、室町前期に尾張国中島郡に遷住して子孫は斯波家に仕え、のち中村在住の血縁等で豊臣秀吉に引き立てられて小出秀政は幕藩大名小出氏の祖*4となりました。 小井弖師能の子には、有坂弥二郎能仲らもおり*5、この者は弘安二年の「蒙古襲来絵詞」に「有坂いや二郎よしなか」と見えます。小井弖氏が小県郡の有坂に展開したのは、工藤一族と関係した可能性もあります。戦国大名の村上義清は埴科郡坂木の葛尾城に居しましたが、その家臣で高井郡仙仁城を居城としたのが小出大隅とされますから、こちらは有坂に分かれた一族の末裔かもしれません。 4 併せて、工藤祐経を出した伊豆の工藤氏について、試論的に多少付言しておきます。 工藤氏は、『尊卑分脈』などを始めとして通行する系図では、藤原南家為憲流とされており、先祖の為憲が木工助に任じたので家名を「工藤」と号したといわれます。しかし、『源平盛衰記』などに公藤・宮藤と見えるとなると、「木工助」という職名との関連には疑問も出てきます。工藤一族の宗家的な存在である狩野氏が伊豆国田方郡の狩野荘に起こって伊豆の在庁官人として代々狩野介を称し、「狩野」が式内社軽野神社に由来することを考え併せますと、系図的には伊豆古族(伊豆国造か)の末流と考えたほうが自然であろうと考えられます。祐経の兄弟にあたる祐兼が伊豆を称したと『姓氏家系大辞典』に見える事情もあり、一に伊豆次郎祐包とも或る系図に見えます。 また、『曾我物語』に記述される曾我兄弟の祖父・伊東(葛見・河津)祐親入道周辺の系譜が『尊卑分脈』等に記載の工藤氏系図と符合しないことからみると、工藤一族と伊東一族とは本来、別族であったとも考えられます。工藤祐経の父とされる祐次は、葛見入道寂心の義理の外孫で*6、狩野工藤一族から異姓の伊東(葛見)一族に入嗣したということでもあり、これが伊東祐親の本領回復願望を強めた事情ではないかと推されます。工藤祐経が平姓を称したと『曾我物語』に引用される仁安二年三月の平祐経申状も、平家に仕えていただけの事情ではないと考えられます。『尊卑分脈』には、伊東祐親(河津二郎祐近)の父におく祐家について、「実者久津見入道寂蓮子」と記すのも、『曾我物語』の記述趣旨(楠美入道寂心が俗にあっては工藤大夫祐隆と記述)と異なり、久津見入道寂蓮(寂心。祐隆)と狩野(工藤)四郎大夫家次とが別人であることを示していると思われます。真名本『曾我物語』の史料価値はかなり高いものであっても、その記事にはいくつか疑問もある、と私は考えてもおります。 (なお、以上の信濃を中心とする工藤氏についての記述は、とりあえず整理してみたもので、長野県各市町村の歴史をさらに具体的に調べていけば、若干の修正を要する部分も出てくるかもしれません。) 〔註〕 *1 沼田頼輔『日本紋章学』には、「庵に木瓜」家紋は、曾我兄弟や為憲流藤原氏が代表家紋として用いたといわれ(1044,1196頁)、各地の工藤一族も使用したと記される。例えば、陸奥には戦国初めに曾我氏と工藤氏があり、庵ニ木瓜紋を用い(132頁)、伊東・久須美などの諸氏も庵ニ木瓜を家紋としている(1202頁)。 *2 小出氏が諏訪神家の族で、「諏訪上社五官の一、擬祝の家」の場合、その具体的な出自は不明も、能綱の父が為綱といったなどの事情に着目すると、十一世紀後葉に大祝になったものの「三日祝」と呼ばれる短期間だけに過ぎなかったと「諏訪系譜」に伝える大祝二郎諏訪為継(一に為綱)の後裔ではないかと推定される。 *3 小井弖能綱の子孫は永く当地に住んで、諏訪因幡守頼永に仕えた後に紀州の安藤帯刀家に使えた江戸前期の人々まで鈴木真年翁編の系図に見える。なかでも、所領関係で諏訪信満からの文書が残る小井弖上総介(名は政綱と系図に見える)や武田信玄からの文書が残る小井弖越前守(同、重綱)も見えて、信頼性が高いと思われる。 *4 大名家小出氏の系図には別伝があり、為憲流でも二階堂庶流とし、二階堂行政の九世左衛門尉時氏を祖と伝えるが、具体的な世代の名も知られず裏付け史料もなく、信憑性に乏しい。 *5 小井弖師能の子には、有坂弥二郎久親(須坂有坂祖)、同弥二郎能仲、同盛綱(工藤四郎、海ノ口有坂祖)等があげられるが(斎藤哲次郎著『有坂氏』)、これらは工藤氏系統の有坂氏なのかもしれない。小出氏の系統は、師能の子の又次郎宣能の後である。 *6 工藤祐経の父祐次については、『曾我物語』は葛見入道寂心の義理の外孫(後妻の連れ娘の子)で実際は寂心が連れ娘に通じて生ませた実子と記すが、伊東祐親が「異姓他人の継娘の子」とみたように寂心実子説には疑問があり、狩野工藤一族から異姓の伊東(葛見)一族に入嗣したものではなかろうか。『曾我物語』も『尊卑分脈』も、狩野工藤氏の系図と伊東葛見氏の系図を混同しているのではないかと私には考えられる。 (03.2.8 掲上) <追補>伊那の野口氏 『姓氏家系大辞典』ノグチ条に拠ると、伊那郡野口邑より起こる野口氏は、工藤氏族で、狩野家次の裔家兼を祖とすると記される。狩野家次は、上掲の「工藤四郎大夫家次」のことであり、これは小井弖の工藤一族かと思われる。 同書には続けて、『伊那武鑑』に「野口氏の宅跡は手良村野口にあり。其の先・小出犬房丸の末孫、世々郷士十八貫文を領す。天正十年二月、織田信忠討入の時、主家と共に没落、民間に降る」と記載されることを記している。 <追補>生島足島神社の祠官家を世襲した工藤氏 『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 /長野県姓氏歴史人物大辞典』によると、 1 県内では上田市・佐久市に工藤姓が多く、郡部では小県郡丸子町に多い 2 上田市下之郷の工藤氏は、式内社生島足島神社に関わり、江戸時代を通じて大祝・大神主・五官といった祠官家に見られる。 樹童案ずるに、生島足島神社祠官家の工藤氏が伊豆の工藤一族の出とはまず考えられないから(母系を通じて、関与するようになった可能性もないではないが)、信濃の海神系古族(科野国造ないし諏訪同族の神人部)の末流が工藤を名乗ったものであろう。その場合、上記の伊那郡の小出(小井弖)居住の小井弖氏と同族であったことも考えられる。 |
(備考) 本項に関連して、尾張と信濃の小出氏 も参照されたい。 |
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