尾張と信濃の小出氏

(問い) 小出氏の一族後裔と伝えるわが家の系図を調べているうちに、樹童さんのホームページに辿り着きました。「信濃の工藤姓とその一族」を読み、我が家の系図に登場する人の生活が見えて来る様でした。
 ついては、この関係での樹童さんの考えや史料、もう少し進んで、武田晴信と諏訪頼重との間には小出氏の存在があったのではないかということや名古屋の中村に出て来てからの小出氏の動きなどを示して頂きたいと思います。

(kondowa様、07.6.11受け)


 (樹童からのお答え)

 幕藩大名の小出氏は、父祖が尾張国愛知郡中村の出であり、同郷の秀吉の縁者(伯母婿といわれる)として立身した小出甚左衛門(播磨守)秀政(1540〜1604)を藩祖とする。秀政は天正十三年(1585)に和泉岸和田三万石の城主となり、秀吉の死に際して大坂城本丸の裏門番についた。
その先祖については、『藩翰譜』など後世の系譜では、南家藤原氏為憲流の二階堂支流で、信州伊那郡に居た時氏が尾張に遷ったとする説が多い。時氏には、二階堂支流説(二階堂行政の九世の子孫)のほか、伊東支流説(工藤祐経の子の犬房丸伊東大和守祐時の五世孫信濃守祐信の子)があるが、なぜ伊那郡にいたのか、二階堂にせよ伊東にせよ、時氏から秀政の父・政重までの系譜に諸伝があり、そのつながりに不自然さがあること(「時氏−雅氏−行直−祐行−祐重−政重」とか、「時氏−惟氏−遠光−重光−遠行−光行−政重」とか伝わる)などの事情から、疑問が大きい。鈴木真年翁が『華族諸家伝』で、先祖を時氏とする系譜を記載しているものの、この系図は信頼しがたい。
そうすると、『百家系図稿』巻12に見える「小出系図」が最も信頼性が大きいとしてよさそうである。同系図は、為憲流の工藤四郎大夫家次の孫・家俊が伊那郡林村に住んで林次郎と号し、その子の藤四郎家綱、その子の小井弖孫十郎能綱として以下に小出氏の系譜を掲げる。小井弖能綱の父と伝える者には、ほかに工藤新左衛門尉家能(家俊の子)や為綱があげられるが、『東鑑』に見える小井弖左衛門尉(実名不記載)が年代的に父の位置におかれるか。能綱には為憲流工藤氏と猶子関係があった可能性はあるものの、実系は諏訪氏と同様に信濃の古族・神人部宿祢姓だとみられる。このことは、当HPの「信濃の工藤姓とその一族」に記載したところです。小出左衛門秀政の「」も、信越に多く分布する諏訪神党の呼称によく見え、「神」に由来する。
 
 信濃では小井弖(小井出)と表記されることが多く、小井弖能綱の子の弥二郎師能から数代を経て、摂津守能房のときに建武頃の南北朝争乱期を迎えたとみられる(師能と能房との間は、「宣能−能国−国光−光能」という伝と「師貞−師光−師景−師方」という伝があるが、命名は前者が妥当のようでも、実際には二代ほどか)。
摂津守能房の娘は諏訪宗家の安芸守信有の妻となり、その兄・弾正忠朝能の子、伊賀守有能の系統は代々、諏訪氏に仕えた。応永七年(1400)の大塔合戦のときに、守護小笠原氏方に小井出薩摩守が見えるが、年代的に伊賀守有能の兄弟にあたるものか。
伊賀守有能の長男の加賀守有綱の系統は神官系といわれ、次男の上総介有房の系統は武人系といわれるが、前者は有綱の孫の孫八郎有時が信州大門峠の喧嘩で絶えたようで、有時の家・所領は上総介有房の子の上総介政綱が継いだ。政綱は信州栗林を領し、享徳年中(1452〜55)、諏訪惣領の伊予(ママ)守信満に仕えた。
その後、その子の八郎重継−新八郎吉綱と続いて、その諸子が武田信玄に仕えたことが史料に見える。すなわち、吉綱の長子の小井弖越前守重綱は、栗林庄上金子の城主で、天文十六年(1547)七月の信州佐久郡の志賀城攻めでは、敵軍にあった上州菅原城主高田憲頼を討ち取る大功を立て、翌八月十一日付けで晴信公勘状が出された。その下の藤四郎政澄も弘治三年(1557)二月に信州和田葛山の武功で翌三月に晴信公勘状を受けたといい、後に諏訪因幡守頼忠(頼重の従弟で、諏訪宗家となり信濃高島藩の祖)に仕えたが、その下の弟に丹波守信綱・上総介朝綱がいた。
越前守重綱の子の五郎兵衛重貞は、諏訪因幡守頼水(頼忠の子)に仕え、後に紀州藩家老安藤帯刀重次に仕えたが、元和元年(1615)に死去した。その子の五郎作頼政も安藤帯刀に仕え、その子の五郎作頼豊(一に重貞の子)、その子・小出五郎作・工藤十郎右衛門・小出新兵衛兄弟まで系譜が知られる。頼豊の弟・小出貞綱の子の権右衛門重通も、後に工藤と改めている。小出五郎作の子孫となる和歌山市の小出五郎作氏原蔵の『小出系図並証文』が東大史料編纂所にあり、小井出上総介政綱から後の系図を伝える。
 
 尾張の小出氏は、伊賀守有能の弟・藤四郎有政が尾張国中島郡に遷住して小出と名乗ったといい、その子の刑部房政・五左衛門尉政長親子は斯波家に仕えた。その後は、「五平二政繁−五郎兵衛政武−五郎左衛門政重−播磨守秀政」と続くが、あまり上級の武家とは思われない。『寛政譜』でも、秀政の父の五郎左正重から記される。それでも、系図に事績がないわけではなく、五郎兵衛政武は永禄三年(1560)五月に尾州善照寺合戦で戦功があったといい、五郎左衛門政重は信長公に仕えたとされる。その子が播磨守秀政・新十郎政忠である。
秀政の子孫は大名家(但馬出石藩〔のち絶家〕、丹波園部藩)のほか秀吉馬廻衆に見え、系図に多く見えるので、ここでは省略する。
五左衛門尉政長の弟・三五郎政直の後も系譜に見え、その子「兵部政賢−与三左衛門政雄−五郎七政高−茂兵衛政興−与左衛門政寛……」と続き、この系統は小出宗家に仕えた。播磨守秀政に属した一族に小出平右衛門長政がおり、後に前田利家、秀吉、森忠政に仕えたが、具体的な系譜は不明である。
 こうした「政」を通字とするのが尾張の小出一族だとしたら、上記に見える「時氏からの系譜」は、やはり疑問とせざるをえない。
 
  (07.6.14 掲上)
  

 <kondowa様よりの来信> 07.6.21受け
 早速の掲載、ありがとうございました。史料等の詳しい説明や判りやすく詳しい文章でとても感激です。拝読しまして判りました事は、我が家の小出は『百家系図槁』巻12の小出系図と近いという事です。しかしながら幕藩大名の小出甚左衛門秀政、吉政の名前は我が家の系図にありますが、二階堂支流の時氏の名前はどこにも見当たりません。
 「信濃の小井出」につきましては、まるで我が家の系図の解説そのままの様で驚きと納得が有りました。「尾張の小出」につきましては、我が家の系図では小出甚左衛門秀政は小出五左衛門正重の一男で、この小出五左衛門正重の父は小出上総介政綱の弟の藤五郎政勝で晴信公に仕え1536年12月に海野口の戦いで討死したとあります。討死してしまった藤五郎政勝の息子3人は、尾張の中村に移住し織田信長に仕えたとあります(この時に先に尾張国中島郡に遷住していた小出藤四郎有政の子孫を頼ったのかもしれません)。
 政勝の嫡男で二男の小出太郎五郎政義は稲生の戦いで1556年8月24日に討死。兄弟で長男の五左衛門正重についての事蹟はありませんが三男の弥右衛門秀正が中村に居住し、弥右衛門秀正は老いてから秀吉公に仕えたとあり秀吉公や加藤清正についての記載があります。弥右衛門秀正の子も秀吉公に仕えて摂州中井を領地していましたが大阪の陣の前に武士を辞めて中村に住す、とあります。
 系図については信憑性が無いと言われる物が多いと言うのが常だと言われているので我が家の系図も正しいとは思ってはいませんが、幸か不幸か我が家の系図は寛政譜の作成の為の提出も明治の華族令の系図提出にも関わる事の無く代々大切にされてきましたので、今後も子孫の為に大切にしていきたいと思っています。
 

 <樹童の感触など>

 ご連絡ありがとうございます。
 一般論としていえば、各々の家に伝わる系図類は、すべての記事が正しいものではありませんが、断片的にせよ、貴重な所伝を伝えるものがあります。それが、通行する系図集に影響を受けていなければ、より重要です。多くの所伝・異説を整合的に考えていくと、新しい事実が浮上することがあります。貴家に伝わる系図もそうした要素があるのではないかと思われます。
 今回のご連絡のうち、小出上総介政綱の活動時代は享徳年間(1452〜55)頃とされますから、その弟の藤五郎政勝が晴信公に仕えたのは時代が合わないと思われますが、尾張に遷住した有政の系統と信濃に残った系統となんらかの交流があったことは考えられます。
尾張の有政の系統で、傍系の人物を紹介しておきますと、系図に見えるのは、嫡系の五郎兵衛政武の弟に左京政廉、播磨守秀政の弟に新十郎政忠であり、傍系では与三左衛門政雄の弟に太郎八政真、五郎政親があげられます。このほかにも、系図に見えない人々がいるわけですから、様々な史料の突き合わせが必要になります。 
 
   (07.6.24 掲上)



 <kondowa様よりの来信(2)> 07.6.26受け
 
 ご指摘をありがとうございます。
 樹童さんご指摘の小出上総介政綱の活動時代についてですが、小出加賀守有綱の孫の有時は系図に於いては甲州大井森にて討死とあります。樹童さんのご説明には有時は大門峠の喧嘩で没したとありましたので大門峠の喧嘩は当時の合戦で幾つか勃発していたとされる小競り合いの事と思われます。もしそうでしたら系図の大井森での討死と合致します。
 その有時が没した天文11年(1542年)後に有時の家と所領は加賀守有綱の弟の上総介有房の子である上総介政綱が継いだとあり、溯った1452年からの享徳年間の時点で活動しているのは有時の祖父の加賀守有綱の代あたりではないでしょうか。私の解釈として『有時が没しまった事に拠って、【享徳3年(1454年)3月26日に諏訪信満公より御書仕え】のある上総介政綱の家ではあるが、神官系の伯父の有綱の小出家も武人系の家である上総介政綱の小出家が継いだ。』という内容ではないでしょうか。この享徳3年は諏訪氏の祭政分離の年だったと思いますので諏訪信満公から御書き仕えがあった家は武人系の上総介政綱の小出家であったと考えられます。
 
 また、上総介政綱は天文16年(1547年)信州佐久郡志賀城合戦で大有功をあげて天文16年8月11日に晴信公から感状有りと系図にある事から上総介政綱の活動時代は享徳年間ではないと考えられます。結果、弟である藤五郎政義は晴信公に仕えていた(系図では晴信公に仕え天文5年12月信州海野口の戦討死とあります)と考えても良いかと思います。
  また、小出播磨守秀政邸址の碑は先祖が住んでいた中村に有り、この点からも秀政と秀正は繋りがあった(系図では甥と叔父)と考えられるのではないでしょうか。藤四郎有政が住んでいたと考えられる尾張国中島郡は犬山城(近場での移転は在りましたが)に近く織田広近の城跡や斯波家に仕えていた家臣の屋敷跡が在り、そこから街道を南方面に向いますと清洲城が在り、また南に向いますと小出播磨守秀政邸址の碑の在る中村があります。
 
 以上、拙い解釈かも知れませんが、樹童さんに読んで頂けたら幸いです。宜しくお願いします。
 

 <樹童の感触など>

 再度のご連絡等ありがとうございます。問題を2つに分けて、整理してお答えしてみたいと思います。
 
 まず、検討の前提ですが、ほぼ同じような系譜を伝える2つの小出系図があります。
 1つはA『百家系図稿』巻12所載の「小出」系図であり、もう1つがB工藤重時氏(上諏訪町)所蔵の「工藤氏系図」(出典が正確ではなくて恐縮ですが、おそらく『信濃勤王攷』)です。
 このうち、記述の内容から見て、前者のほうが精度が高いと判断しています。たとえば、師能と能房の間の四代について、「宣能−能国−国光−光能」という伝(A)と「師貞−師光−師景−師方」という伝(B)があり、命名的には(A)のほうが妥当と考えています。また、(A)は政綱と重綱との間に重継・吉綱の二代を入れるに対し、(B)は政綱と重綱とを親子で結びますが、年代的にも世代的にも(A)のほうが妥当です。尾張に遷住した藤四郎有政の系は(A)に見えますが、(B)には見えません。
 ただ、(B)の記事が(A)よりも詳しいものがあり、例えば、貴信に見える「有時の没後に伯父有綱の家を政綱が継ぎ源信満公に仕えたこと、享徳3年(1454年)3月(この部分は欠字)26日に信満公の御書があること」が上総介政綱の譜註に見えます。おそらく、貴家所伝の系図は(B)に近いのではないでしょうか。晴信公に仕えたという藤五郎政義は、(B)系図には見えませんが。
 こうした事情がありますから、多くの系図を突合させて、実態ないし原型の史実を探ることが必要と思われます。
 
 さて、小出上総介政綱の活動時代という具体的な問題点に入りますが、
 小出上総介政綱の直接の記事
@ 甲州大井森にて討死したのは、(A)(B)ともに有久(有時の父)と記し、そのうえで、(A)は有時について「信州大門峠の喧嘩」を記します。有久、有時ともに、孫八郎という通称は同じですが、場所は甲州と信州との違いがあります。
A 政綱の年代については、(A)は享禄年中(1528〜32)に諏訪伊予守信満に仕えたと記し、(B)は享徳3年(1454年)信満公の御書をあげますから、これは、信満の生没年(1423〜90)と武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の四代の祖という続柄からいって、(B)のほうが妥当です。
 信州佐久郡志賀城合戦で大功があった人物
(A)(B)ともに越前守重綱と記しております。 また、小出五郎作原蔵の『小出系図並証文』でも、越前守重綱と記されます。
 
 こうした諸事情を考えると、小出上総介政綱とその周辺の人物や活動年代がはっきりしてくると、考えられます。
 
 (07.7.12 掲上)


  ※越後の小出氏については、 諏訪神の越後分祀と小出氏
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