諏訪神の越後分祀と小出氏

(問い) 「信濃小出氏一族の末裔」は大変興味深く拝見いたしました。
 
 ところで、私も小出姓でありまして、本家は新潟市郊外の諏訪神社の隣に代々住んでおります。家紋は額縁紋で、諏訪神社ゆかりの小出姓がこの紋を使うと聞いて、信濃から信仰のために新潟まで移り住んだのかと思っておりました。すでに集落は十件程になり寺も無く、近郷含め小作人集落のため、古文書なども無く古い事は全くわからないのですが、諏訪信仰を広げる為に小出姓の者が移り住んで神社を造ったのでしょうか?
 何かご存知でしたらお聞かせください。

  (小出様より、07.9.24受け)


 (樹童からのお答え)

  越後の小出氏については、これまでとくに認識がありませんでしたが、とりあえず調べてみるとなかなか興味深いものがあり、そのなかで分かった点を試論的に記してみます。
 
 諏訪神社は、長野県諏訪の諏訪大社を総本社として全国に約五千社あるといわれ、そのうち県内に約千百社あるが、信濃川でつながる新潟県にはそれより多く、約千五百社もあるとされる。これだけ多数の諏訪神社があるのにかかわらず、新潟県の場合は古社がほとんどないようで、諏訪関係神の名を神社名とする延喜式内社が見えない。
旧県社でも、諏訪神建御名方命を祭神とするのは長岡市表町の平潟神社くらいである。『神道大辞典』に掲げる旧郷社級の諏訪神社を見ても、越後では蒲原郡の新発田(新発田市諏訪町)及び吉田(燕市吉田)、魚沼郡の十日町(十日町市辰甲)、頸城郡の安塚(上越市東部の安塚区安塚)の四社だけである。こうした事情に加え、古代の越後では、頸城郡が諏訪の関係地域だったとしても、信濃川中下流域と諏訪との関係が見えないので、越後では中世以降に諏訪神社が拡がったものか。この諏訪信仰の拡大では、神だけが勧請されたばかりではなく、諏訪神を奉じて越後に到来した氏族もあったとみられる。
越後の諏訪神祭祀の状況のなかで留意したい点がある。それは、式内社の比定社・論社のなかで魚沼郡式内社の伊米(いめ)神社の論社五社のなかだけに、現社名の諏訪神社が二社見えることである。経緯はよく分かないものの、論社にあげられる事情からみても、諏訪神社のなかでは古社のほうだと思われる。この辺の事情から見ていくことにする。
 
 伊米神社の論社とされるのは、次の五社である。
@伊米神社 小千谷市大字桜町に鎮座、天香語山命を祭神、配祀に稲魂女など。
A清水河辺神社 北魚沼郡小出町(現魚沼市)小出島、建御名方命。
B諏訪神社 北魚沼郡小出町(現魚沼市)大字虫野、建御名方命、配祀に保食命など。
C諏訪神社 北魚沼郡小出町(現魚沼市)四日町、建御名方神、合祀に少彦名命。
D一宮神社 南魚沼郡塩沢町(現南魚沼市)大里、大己貴神、少彦名神、奇稲田姫命。

  これらのうち、式内社比定でもっとも妥当性のあるとみられるのが、@伊米神社である(志賀剛氏『式内社の研究』に同説)。当社の鎮座する桜町を中心に、一ノ宮・二ノ宮、伊米田・上伊米(神伊米)、伊米塚、伊米田、伊米ヶ原、宮脇・宮ノ内・天王など、往古の当社の盛大さを示す地名が残り、イメは稲の転訛だという(かつ、「伊那」にも通じるか)。その祭神も、天香具山神別魂ではなく、本来は越後や信濃の古族が奉斎した豊受大神(稲魂女、保食命、奇稲田姫命)とみられる。
長野市伺去(しゃり)にある伺去神社は、古くは小出にあって社宮司社と称し祭神は宇気持命であったが、これを大同三年(807)に勧請したものとされ、文化六年(1809)には当地の諏訪社と山之山両社を合社し、伺去神社と称し現在に至ると伝える。宇気持命とは豊受大神であり、小出の神はもと豊受大神であったことが知られる。

  ところで、諏訪神は豊受大神の眷属神として、両神がともに祀られるようになり、伊米神と混同されるようになったとも考えられる。三条市吉田の吉田神社が、祭神は白山比淘蜷_(豊受大神のこと)、建御名方大神などとされる例もある。伊米神社の上記五論社のうち、A〜Cの三社が諏訪関係神を祀る。とくに、A清水河辺神社はもと諏訪神社と称し、祭神・神紋も諏訪神社のものであった。現在地は小出島であるが、社前の地域は諏訪町と呼ばれ、この地域が最近、魚沼市に統合される前は小出町であり、そこに諏訪神社が三社集中したことに注目される。C諏訪神社も藪神郷の総鎮守として崇敬された古社であった。
 
 信濃南部では、諏訪・伊那地方に伊那郡小出(小井弖)の地名があり(中世の小出二吉郷で、現伊那市西春近あたり)、この地に小出諏訪神社(同市西春近山本)があって、地名に因む諏訪社祠官の小出氏がいた。小出氏は、建御名方命を祀る諏訪上社にあって、大祝に次ぐ五官のうち、当初は二官(祢宜大夫・擬祝)を占める有力者であった。大祝が諏訪氏(神人部宿祢姓)で、建御名方命の子の池生神の後裔と伝える権祝の矢島氏もその一族とみられるが、五官筆頭の神長官と副祝を守矢(守屋)氏、残りの二官を小出氏がつとめた。諏訪氏が建御名方命の後裔であり、守矢氏がこれに当初敵対した土着神たる洩矢神の後裔とされるとき、五官の小出氏だけが具体的な系譜・出自は不明であるから、太田亮博士のように「諏訪神家の族」で大祝の同族だ、と単純にはいえない。
いずれにせよ、上記の諸事情から、信濃から諏訪神を奉じて信濃川を下ってきた古族末裔が旧北魚沼郡小出町の諏訪神社も奉斎したとみるのは、自然であろう。新潟市郊外の諏訪神社に関係して小出氏がある場合には、旧小出町のほうからさらに下流に向けて遷住した可能性がある。
新潟市域にある主な諏訪神社としては、西蒲区三方、江南区酒屋町・東本町、中央区旭町通などがあげられる。新発田市北部には小出の地名と小出川が見える。なお、越中では、富山市北東部の水橋地区に小出という地があり、戦国期に久世但馬が守る小出城があって現在は小出神社となっているが、南方近隣の水橋清水堂に諏訪社が鎮座するから、両者の関連が窺われる。
 
 これら諏訪神に関係する諸氏に限らず、信濃から越後に遷住した氏族がいくつか知られる。信濃国佐久郡の清和源氏、平賀氏の一族が、越後国蒲原郡で金津、木津、新津などの諸氏を出した例もある。米沢藩主家となった上杉氏の家中には、須田氏、夜交一族など多くの信濃出自の藩士があった。武田信玄により信濃を追われた村上義清の配下に小出大隅がおり、高井郡の仙仁城を居城としたというが、この一族で越後に行った者もあったかもしれない。

  古族では、伊那郡式内社の阿智神社(下伊那郡阿智村智里に鎮座)を古代から奉斎した阿智祝氏の一族にも、越後に遷住した一派があった。すなわち、その支族で、同郡赤須村美女ヶ森(現駒ヶ根市赤穂)に鎮座の大御食神社(おおみけじんじゃ)を奉斎した赤須氏の一族にも小出氏がおり、室町中期に越後国蒲原郡に遷住したと系図に見える。
具体的な系図は『百家系図稿』巻一所載の「小町谷系図」(『古代氏族系譜集成』813頁にも所載)であるが、それに拠ると、赤須太郎安任の弟に小出二郎安茂がおり、その五世孫の小出八郎常宗が康正二年(1456)に越後国蒲原郡松野領に遷って上杉氏に仕えたという。その曾孫の八郎左衛門尉泰親が上杉謙信に仕え、その子の八郎左衛門尉常輔が上杉景勝に仕えたと伝える。
阿智祝氏は八意思兼命の子の天表春命を遠祖としており(実態としては少彦名神後裔の伊豆国造・服部連の同族)、その先祖は、諏訪神建御名方命の東遷や諏訪入りに随行してきたとみられるから、阿智祝一族も諏訪神奉斎に関与したことも考えられる。室町中期の小出八郎常宗がなぜ小出を名乗ったのかの事情は不明である。諏訪上社五官の小出氏と同族であって、なんらかの関係(例えば、その家に養猶子の形で入ったか)があったことも考えられる。そうすると、古くからあった諏訪上社祢宜大夫などの小出氏は、本来、阿智祝の同族であったものか。

  伊那郡小出の地は赤須(駒ヶ根市赤須・赤穂)の八キロほどの北方近隣に位置し、小出のすぐ南には原(阿智祝氏の苗字)という地名も見えるから、このあたりの伊那郡北部には阿智祝一族が繁居していたものか。伊那郡赤穂に起こり橘姓と称した上穂・宮田・赤津・小平〔古平〕の一族も、阿智祝の同族かとみられる。
なお、思兼命を祀る神社として、長野市戸隠(旧水内郡)の戸隠神社の宝光社・中社や埼玉県秩父市の秩父神社が知られる。戸隠の宝光社については、平安中期に阿智祝部の一族(徳武氏)が移り住み、分霊したと伝え、秩父神社は阿智祝同族の知々夫国造一族が奉斎した。
諏訪神党の具体的な系譜のなかに小出氏が見えないという事情も、小出氏が本来、諏訪神党の別族であった可能性を考えさせる。あまり決め手とはいえないが、諏訪神族が主に用いた梶葉紋を小出氏が用いないのも、その傍証か。
 
 以上、小出に関係しそうな諏訪神族及び阿智祝族について述べてきました。かなり難解な部分を含んでいることがお分かりだと思われますので、もう少し史料がでてくれば、結論が変わってくる可能性もあります。 

  貴家の小出氏がどのような系統だったかは、歴代の名前や居住地区、由来・経緯などが知られないと判断できませんが、いずれにせよ、遠い祖先が信濃から越後に遷住した可能性が考えられるところです。
 
  (07.10.3 掲上)



 <小出様からのご連絡> 07.10.6及び10.8受け
 
 小出姓に関するご回答、ありがとうございました。
 
我が小出家は、新潟県西蒲原郡巻町松野尾(読みはマツノオ。現新潟市西蒲区松野尾)の大家様(おおやさま。大宅様?)の新宅(しんたく。分家)で、宅右衛門を初代とし勘助郷野に土地を得て40代(多分間違い)になるそうです。
 
松野尾の墓地にて宅右衛門の墓を確認しました。松野尾の大宅様はすでに絶え(年代調査中)、跡地はそのままあるらしいです。同集落には小出姓が数件在りまして、「常」の字の名前が目に付きました。同墓地にて小出姓の新しい墓石の家紋を見ましたが、三家とも額縁紋でも梶葉紋でも有りませんでした。
母親が言うには、新宅なのに宅右衛門という名前がおかしい(意味不明)。つまり額縁紋を継承していない小出は諏訪の系統ではない、と言っていました。このことは集落全部を調べたわけではないのでハッキリしませんが、少なくとも額縁紋を聞いた事が無いそうです。同地区にあった神社は諏訪社ではなく、若宮神社でした(明治期の調査に見られた神明社、諏訪社、宗像社などが一社を除きすべて当社に合祀された模様)。
 
教示の資料から推測される事は、諏訪氏の内訌があった1456年に(落ち延びか)越後国蒲原郡松野領に移った小出八郎常宗からの系図らしいこと、何代目からの支流か?額縁紋の継承家は?
これらはこれから探すことにして、更に前の時代の阿智祝氏や諏訪社との事などまたわかりましたら、お教えください。
信仰の拡大のために越後に来たのではないらしいこともわかりました。
 
ちなみに魚沼郡小出町に小出という人は昔から一人も居ないそうです。小さな出村と言う意味の小出からついた地名だと思っていましたがまちがいの様なので、小出町役場のほうに今度聞いてみます。
 
 いくつか面白い記事を見つけたので、お知らせいたします。
『巻町史』に拠れば松野尾村の庄屋は小出八右衛門、日蓮上人が佐渡に流される時(1270)に警護についてきた鎌倉武士になっていました。農民町人出の庄屋とちがって代々威厳の有る庄屋だったと記録されていました。
 
屋号からみてもこの庄屋が小出八郎常宗だと推測されますが、町史の調査は松野尾での聞きとりと江戸末期に作られた松野尾村家系図らしく、家系図の時点で庄屋は鎌倉武士出身を否定しなかったのかが不思議です。  
やはり家紋の継承がポイントになってくると思いますので、松野尾で調べたいと思っています。八右衛門の墓は残っているし、難しいがなんとかなりそうです。珍しい家紋「額紋」なので、目にされていたら教えていただきたく添付しました。
 (※ 以上の文について、整理などで若干の修正・追記しています。)
 
 
 (樹童のお答えなど)
 ご連絡ありがとうございます。これを受けて、気づいたところを書いてみます。
 
 諏訪氏の内訌 
康正二年(1456)の諏訪氏の内訌は、大祝伊予守頼満とその兄で惣領安芸守信満が争って兵火をまじえたことであり、『諏訪御符礼之古書』に「此年七月五日夜、芸州・予州大乱」と見える。諏訪氏における祭政の分離は室町前期頃から出てくるが、大祝家の頼満とその子頼長は永享二年(1430)以来、引き続いて大祝の位にあって勢力を増大し、諏訪惣領の兄信満に対抗したことが乱の要因であった。
この争いを機に、もとは上社前宮(茅野市宮川)の神殿(ごうどの)に居住していた両家であったが、惣領信満は上原城(茅野市ちの字上原。天文十一年〔1542〕に諏訪頼重滅亡まで居城)を築いてそこに移住し、大祝頼満のほうは前宮に残って、大祝家と惣領家とは分裂状態となった。その後も、大祝家と惣領家との争いは続き、文明十五年(1484)正月には大祝家の左馬助高家(一に継満。頼満の子)が下社大祝金刺氏、高遠氏と組んで惣領家の政満(信満の子)を謀殺する事件(文明の内訌)も起きた。

  小出氏が越後に遷ったのが、康正二年の諏訪氏内訌を要因としていたのなら、当時、ご先祖は諏訪神人をしていたことになりますね。
 
額紋
 額紋については、沼田頼輔博士の『日本紋章学』に興味深い記事がありますので、紹介します。
 (1) 松浦静山著の随筆集『甲子夜話』(1821年成立)に、当時の旗本で使番の小出亀之助(二千石)の家紋が「額ノ中ニ二八ト文字アリ」として、「二八」の文字は先祖が武功で十六個の首を取ったことに因むと伝えることが記される。沼田博士は、「扁額は神社寺院に掲げる神聖なものだから、あの玉垣・千木堅魚木を紋章に選んだのと同じ意味で用いたもので、これに二八の文字を記したのは、二十八宿の頭文字をとったものらしい」とコメントして、「信仰的意義に基づいたものと考えられる」と推論する。
 (2) 額紋を用いた姓氏は、『寛政重修諸家譜』に、藤原為憲系の小出氏と、同じく藤原氏支流に属する小出氏とがある。そして、その同氏同紋であることから推測して、両氏は同じ祖先から出たものであろう」と記される。
 
  これら沼田博士の記事に拠ると、旗本の小出氏は尾張系の小出氏の後裔となるから、信濃出身で藤原為憲系と称した小出氏は、用いた家紋から、実際には神官系(諏訪の古族後裔)であったことが明らかになってきます。
  なお、家紋は時代によって変わることがあり、また複数の家紋を使い分けることもありますので、これだけでは決め手にならないこともあります。
  また、「常」の通字は、室町期の大御食社祠官小町谷氏の人々や、小出氏の人々に多く見えており、後者では、上杉景勝に仕えた八郎左衛門尉常輔、その子の常俊(慶安期)・常貫兄弟にも見えます。この世代より後は、小町谷氏の伝える系図に見えませんので分かりませんが、江戸期でも実名に同じ通字を用いたことは考えられます。
 
  (07.10.8 掲上)
  

 
  上記について、来信・応答がありますので、記載します。

 <小出様よりの来信> 07.10.27受け
 この度も貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。
 
 少しずつ調べはしていますが進展しないのが現状でして、墓地が村の共同墓地なので一度区長に会って話を聞きたいと考えています。
 またご意見を伺う事も有ろうかと思いますので、その時はよろしくお願い致します。
 
 聞きこんだ話で興味深かった事がありました。
 燕市の戸隠神社(燕市宮町)については、信濃川を社が流れついてその地に祭られたと言うことであり、市街地の地主は今も川中島の頃に長野から移ったお寺の関係者が所有しているそうですし、信濃川の川辺りの集落には長野から川伝いに移ったといわれる集落が結構あるというとのことです。
 また、集落に空き家が出来てそこに新しく入った家は出ていった人の屋号で呼ばれているから、同一系図でない事もあるそうです。
 調べて見ると知らなかった事が見えてきて、何気なく生きていても先祖が居ての現在
だなと感慨にふけっております。
 
 
 <kondowa様よりの来信> 07.10.29受け
 『諏訪神の越後分祀と小出氏』について私も大変興味深く拝読致しました。
 
 諏訪神社と我が家の小出に関する事についてですが、やはり家の北側には諏訪神社が奉られております。しかしながら、我が家の家紋は長剣梅鉢紋です。菩提寺の加藤清正の生誕地とされる寺の『小出』と書かれている墓石のなんと全部のお墓の家紋が長剣梅鉢紋です。越後の小出家さんの額紋と関連があるのかと疑問を持ちました…信濃の小出氏は元々は梅鉢紋だと系図にはあります。享徳三年(1454)の諏訪氏祭政分離頃に、小出家も神官と武人の家に分かれ、神官はそのまま梅鉢紋とし、武士の小出は長剣梅鉢紋とした様です。
 
 その長剣梅鉢紋の小出の分家は尾張に前回の投稿での経緯で中村に住み、豊臣秀吉の時代に小出吉政が秀吉から一六葉の菊御紋を授けられたが、恐れ多いとし、その一六葉の菊御紋を『額』に入れ『額に二八』としたのです。一六葉の御菊を文字に著しているので、『額』だけの紋は、小出秀政以降の子孫か或いは吉政の子孫の分家と思われるのではないでしょうか。(我が家の系図においては小出秀政と小出吉政は親子ではなく兄弟です。吉政の子孫のお墓も、我が家の菩提寺に存在します)
 秀吉と中村の小出と住いの立地の関係については、現在に残る豊臣秀吉生誕地といわれる豊国神社内の公園に小出秀政邸址の碑が在り、その20メートル東に加藤清正生誕地といわれる小出の菩提寺があります。豊国神社の北側には諏訪神社が奉られておりまして、今でも諏訪町という町名です。また、室町時代に信州から尾張に住したとされる街道沿いの小出有政の屋敷跡と思われる所にも、諏訪神社が現在でも立派に奉られてました。これもやはり何か関係があるのでしょうか。
 
 「越後の小出氏」さんの日蓮上人の佐渡流刑の時に、小出八右衛門が付き添ったとありますが、流刑の後に日蓮上人の息を引き取ったとされる池上本門寺について記しますと、小出氏の先祖の藤原氏を先祖とする工藤氏の娘が印東氏に嫁いで、日蓮上人の直弟子日昭の母となり、池上氏にはその日昭の姉が嫁ぎ、池上氏の屋敷で日蓮上人が没したので日蓮聖人霊跡として寄進したと言われています。また、日昭の妹は平賀氏に嫁いだ経緯やその息子の何人かが日蓮上人の弟子となったなどと深い繋りがあったからと推測されるのではないでしょうか。
 我が家も先祖代々日蓮宗です。尾張の小出は越後の小出氏さんと何らかのの繋りが在る様に思いますが、如何でしょうか。
 
 
 <樹童の感触・報告など>
 上記二つの来信についての感触及びその後の調査で分かったことなどを記します。
 
 戸隠神社の宝光社については、平安中期に阿智祝部の一族が移り住み、分霊したと伝えたことを先に記しましたが、燕の戸隠神社の奉斎者がどの系統だったのか気になります。燕市街地には、宮町の南西近隣の水道町(ともに信濃川左岸の地)に諏訪神社もあります。
 
 小出氏の家紋については、各種あったようで、『日本紋章学』には、@菊花紋(豊臣氏からの賜与か)、A桐紋(これも@と同様な事情か)、B梅紋(剣梅鉢・八重梅鉢、大名家小出氏)、C柊紋(諏訪神党の上原氏も使用)、D桜紋(裏桜・山桜)、E額紋(旗本小出氏)、F巴紋(三頭右巴)、と数多くあげられます。
 
3 日蓮宗と小出氏との関係 
 鎌倉時代中・後期の日蓮の直弟子で日蓮六老僧といわれるなかに、筆頭の日昭及び日朗がおり、ともに下総の印東一族の出と伝えられます。両僧の事績は、諸史料から次のように整理されます。
日昭嘉禎二年〔1236〕?〜 元亨三年〔1323〕)は、日昭門流・浜門流の祖で、字は大成弁、弁阿闍梨と称される。もと天台宗の僧侶で、日蓮が佐渡配流の間も鎌倉を離れず、幕府に陳情を提出するなど、同じく六老僧の一人日朗とともに活動し、鎌倉の法華寺を拠点として布教を行った。鎌倉幕府の弾圧に対処し、日昭の指導力で教団の維持ができたとされ、師日蓮に厚く信頼された。日昭が工藤祐経の屋敷跡に建立した法華堂が現在の実相寺とされる。
日朗寛元三年〔1245〕〜 元応二年〔1320〕)は、日朗門流・池上門流の祖で、号は筑後房、大国阿闍梨と称される。若年から日蓮に師事し、佐渡に配流の師・日蓮のもとを八回も訪ね、文永十一年(1274)には赦免状をもち佐渡に渡った。鎌倉の比企谷に建立した長興山妙本寺を拠点として布教を行った。正応元年(1288)には池上宗仲の協力のもとに、武蔵国池上の長栄山本門寺の基礎を築いた。下総国平賀に長谷山本土寺(現在は松戸市に遷)を開創し、これら三寺(「朗門の三長三山」という)で関東の教団確立につとめたが、越後国の長久山本成寺(新潟県三条市)も日朗ゆかりの寺とされる。
 
 ところで、日昭と日朗との関係は叔父・甥といわれており、『当門徒系図次第』によると、日昭は、父が印東治郎(次郎)左衛門尉祐昭、母が工藤左衛門尉祐経の娘 (妙一尼公)であって、日昭の姉は池上左衛門尉宗仲の母となり、妹は下総国葛飾郡の平賀二郎有国に嫁ぎ日朗を生んだ、とされます。父の印東祐昭は、伊豆伊東氏の一族とも千葉介一族ともいわれており、印東次郎左衛門が日蓮に吉祥丸(日朗)を託したともいうから、この辺は日朗と日昭との系譜・伝記と混同されているかともいわれます。
 この辺の系譜所伝は多分に疑わしいところがあります。というのは、日朗が印東氏に出たことは確かなようですが、日昭の系譜が必ずしも明確ではないからです。日昭の号の弁阿闍梨は、後深草帝に仕えた女官「弁内侍」の例に見るように、父親が太政官の弁官であったので呼ばれた可能性があるとみられます。日昭と工藤氏との関係も、実のところ、裏付けるものはないようです。一方、日朗の父は有国とされますが、印東氏とも平賀氏ともいわれます。後者の場合、下総国平賀(現在の千葉県匝瑳市野手で、家居は現在は興栄山朗生寺となるという)の出身といわれますが、下総の平賀氏の素性は知れず、『姓氏家系大辞典』には「小金本土寺過去帳に平賀十右衛門あり」と記されるだけです。
 印東氏は、千葉一族の上総氏の流れをくむ有力武士であるともいいますが、実はこれも訛伝です。印東氏には、千葉一族のほか、古代印波国造の流れを汲むものもあり、こちらのほうの系図に日朗の名前が見えるからです。そして、その系図には日昭の名前が見えません。
 
 話が紆余曲折しましたが、いずれにせよ、狩野・工藤の一族には法華信仰が見られるといわれ、工藤祐経の一族が信州小出の地と関係深いことはたしかですので、小出一族に日蓮宗との由縁が出てくるのも不思議ではありません。
 
4 諏訪神官の小出氏の近世以降の系図 
 旧高島藩主諏訪家の家臣であった延川和彦が著し、飯田好太郎が修補して大正十年に刊行された『諏訪氏系図』(正続二冊)という諏訪一族及び神官諸家の和装の系図集があります。たいへんな労作で、現在、長野県立図書館などに所蔵されています。そのマイクロシート化されたものが、同図書館のご教示により国会図書館に所蔵されることが分かり、これに当たったところ、諏訪神官であった小出氏二家の系図の記載が続編にありましたので、その概要を記しておきます。
 小出氏は二家とも江戸中期頃に家名を改めており、旧祢宜大夫家は守屋に、旧擬祝家は伊藤となって明治期に至ったことが知られます。また、戦国末期ごろまでの神官小出氏の系図は不明であって、その遠祖を伝えるにとどまります。
 
(1) 旧祢宜大夫家の略系では、建御名方命の子の八杵命の後裔として、中興の初代を神胤胤ママ。祢宜小出美濃)として、その子の広胤(祢宜小出比礼雄)−貞文(祢宜小出伊豆)−貞栄(祢宜小出玄蕃允)−重秀(祢宜大夫。副祝守屋従辰の子で貞栄の女婿・養嗣。この代に家名を小出から守屋に改める)……以下、五代後の明治期の弘文(祢宜大夫守屋要人)とその子の健吾まで記載される。中興初代の祢宜小出美濃の年代は不明も、妻は擬祝小出貞満の娘で、その娘は擬祝貞則の妻とと記されるから、戦国末期ないし江戸初期頃の人とみられる。八杵命のとの間の先祖は、まったく記されていない。
 
(2) 旧擬祝家の略系では、建御名方命の子の別水彦命の神孫と伝え、神貞満(小出舎人)から系図を始めます。貞満は天正十八年(1590)三月に歳五十九で死去したとあり、以下は、その養嗣・女婿の貞親(小出主膳。副祝昌親の子)−貞則 (小出靱負)−貞辰(小出舎人)−貞好(貞辰の養嗣・女婿。この代に家名を小出から伊藤に改める)……以下、四代後の明治期の定之(伊藤守礼)とその子の愛丸(高野子爵家から養嗣)まで記載される。小出舎人貞満の先祖も記されていない。
 
 (07.11.11 掲載)

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