古樹紀之房間

 5 掲示板・応答板      


 メール等の応答板関係のご連絡について

 本HPを見て、ご意見・ご指摘・ご教示あるいはお問い合わせ等がありましたら、次のE-mail Address までご連絡下さい。メールの内容は、
基本的にはHPに掲上・公開されることを前提にお記し下さい(系譜関係が近世・現代まで及ぶ場合には、ご連絡の記事がご本人及び関係者のプライバシー関係で問題がないかどうかを予め十分にご留意下さい)。

  主宰者には応答能力に因ることはもちろん、多忙などで時間的な余裕も必ずしもないときもあるため、全てについてお答えはできませんが(
とくに近世関係や個人の家のご先祖関係は資料が多すぎたり、逆にまったく無かったりで、対応困難な場合がかなりありそうです)、適宜取り上げて(この選択は樹堂にお任せ下さい)、この「掲示板・応答板」のほうで記述させていただきます。問題によっては、「とりあえずの感触」といった内容になることもあります。お答えなどのために問い合わせもせざるをえないときがあります。
  なお、問題によって、かなり時間がかかることがあること、史料の制約等で、ものよっては不十分ならざるをえないことも、予めお断りさせていただきます。


    新:  daiko10wa@infoseek.jp  
    旧:   shushen@mail.goo.ne.jp        

  携帯電話からご連絡いただくこともありますが、その場合に、当方からの連絡や問い合わせを受信拒否されるメール・アドレスでしないでください。そうした対応がままあるようであり、ご注意下さい。


 
応答板


 ※このところ、新しい掲載はありませんが、お答えには適宜、メール応答をしているものもあります。

  樹堂が考えて作成する応答ですが、直ちにお応えできずに留保付きの考えも出てきますし、なかには筆者の勘違いや誤解等もあろうと思いますので、皆様のご指摘等を受けながら、また適宜考え直しながら、増補修正をしていきたいと思います。従って、ここでの掲示内容も、HPの他の部分同様、掲載時点の考えのもので、変更の余地あるものだとご理解下さい。この応答の結果、関係する分野や問題点の検討がさらに進むことができたら、嬉しいことです。
  対象とする時代は、原則的には江戸時代初期くらいまでの時期と考えております(江戸前期以降の個別の家の歴史、人物の経歴については、ご子孫との関係でプライバシーの問題も生じる可能性があり、主宰者としても多少の例外を除き、ほとんど関心がありませんまた、お答えの能力も多分にありません)。検討対象の地域については、原則として沖縄を除く日本国内としています。

  オープンな場でフェアな責任ある応答であるよう留意して、運営していきたいと考えています(個別の応答は原則として考えておりません。ただ、ご質問の趣旨・典拠などを問い合わせたり、簡単な情報交換・連絡は適宜行います。また、HP掲載に際して、匿名希望の場合はハンドルネームを記載してください)。稀覯史料を踏まえての質問・指摘の場合には、出典・出所を併せてお示しいただけると、皆に便宜だと思われます。
  なお、これまでの経験から考えて、フリー掲示板ではないことを改めて記載しておきます。プライベートな内容・部分については、十分配慮いたしますので、その旨、ご連絡いただければ、とも思いますが、原則的に公開することとしており、応答の全てについて非公開ということでは、お答えは致しかねます。記事の削除要請については、その内容に誤りがあったり、誹謗中傷と受け取られかねないものについては、ご連絡をうけて適宜対処しますが、たんに見解や立場が違うという理由だけでは応じかねます。
  お問い合わせの内容によっては、当方からお問い合わせなどをさせていただき、そのうえで掲載する場合もあります。ときに質問者のメールアドレスが間違っている場合もあって、受信拒否のアドレスも時にあり、返事や問い合わせができないこともありますので、ご留意ください。とくに携帯電話からのメールについては、上記の問題点もありますので、歓迎しませんし、発信の場合にはご注意下さい。

  時間的な都合や能力、当方のPCのコンディション等の事情から、回答が相当長い期間遅れたり、答えられないものもでてきますが、その辺はご寛恕下さい

  最近(09.9〜)の掲示・応答板の内容は、次のとおりです。

  □ 山城の橘姓岩下氏
  □ 三浦備前守と三浦大多和氏
  □ 新羅王家朴氏の系図
  □ 近江甲賀の頓宮氏
  □ 肥前の内田氏について 
  □ 安房里見氏について 
  □ 霧島神宮 税所一族の川畑氏など
  □ 肥前の増田氏について
  □ 『皇胤志』の平家清盛一門の系図
  □ 幕藩大名家保科氏
  □ 土佐・若藤氏 
  □ 山名家重臣垣屋氏の系譜
  □ 福岡藩主黒田氏の先祖の系譜別伝
  □ 八橋茂左衛門とは何者か
  □ 土佐の一圓氏
  □ 武田家重臣甘利氏について
  □ 巨勢氏の起源   
  □ 政所執事伊勢氏の系譜
  □ 三浦甲斐六郎左衛門尉貞連について
  □ 熊本の飯富氏
  □ 雀部という氏 
  □ 土佐の片岡氏
  □ 薩摩の谷山氏 
  □ 武田信玄の家臣飯尾氏 
  □ 額田毘道男という者の系譜
  □ 浅井系図について
  □ 上諏訪社大祝の神氏と下諏訪社武居祝
  □ 永井直勝の先祖
  □ 三菱財閥の岩崎家の系譜
  □ 吉良一族を称する吉川氏   
  □ 浅野長政の実家・尾張安井氏 
  □ 六角氏重臣の平井加賀守定武の本貫地と出自 
  □ 備前児島の中西氏
  □ 三河物部と平岩氏 
  □ 西尾吉次の遠祖 
  □ 畑時能の系譜    附. 伊地知氏の初期系譜
  □ 武家華族脇坂氏の遠祖  
  □ 物部守屋の諸子
  □ 平子氏の系譜
  □ 大鹿首の祖「若子命」
   
  ※ 過去の掲示・応答板の総目次

□ 山城の橘姓岩下氏

 このたびは橘姓岩下氏について聞きます。 岩下氏について、『寛政重修諸家譜』(巻第千三百七十二)に、「岩下 先祖山城國岩下郷に住せしより家號とす」とあります。しかしながら、管見の限り山城国に岩下郷という地名を見つけることができません。信濃国の海野氏の一族(小県郡海野庄岩下郷)の誤りかと考えていた矢先、貴webページの「物部氏族概観()」というページにおいて、「風早直(風速直)、(中略)善友朝臣(岩下−山城国人)、物部首、物部朝臣」とあるのを見つけました。山城の国人に物部氏族の岩下を名乗る一族が居たということでしょうか。 もしこの善友朝臣や岩下氏について詳しいことがお分かりでしたら、ぜひ教えてください。

 (鈴木浩史様より。15.4.22受け)


 (樹堂からのお答え)

 実にマイナーな苗字ですが、私どもとしても、二十年以上にもわたって懸案としていた『古代氏族系譜集成』の追補にも関係するので、この際だと思って調べ直し、一応の試案を「山城の橘姓岩下氏」に整理しましたので、ご覧下さい。
 といっても、鎌倉・室町の両期はほとんど落ちるのですが、その間に多少の動向を示唆する史料もあるということで、かなりの推論を含む試論なのですが。

 (2015.4.23掲上)



□ 三浦備前守と三浦大多和氏 

 三浦大多和氏について調査しており、応永期に活動した三浦備前守について質問します。
 「鎌倉大草紙」に見える三浦備前守は、上杉禅秀の乱の折に、公方持氏を守って活動しますが、公方奉公衆とみられます。彦根藩臣であった三浦十左衛門家の系図に記載のある三浦備前守義高がその人で、三浦大多和氏の流れではないかと思われますが、見解をお知らせ下さい。

 (安部川智浩様より。15.4.5受け)


  (樹堂からのお答え) 

 三浦氏の諸流は大族だけに多くありますが、本宗家と会津芦名一族、越後の三浦和田一族の系図が主に知られるくらいで、大多和系統の室町時代の動向はよく分かりません。可能性をいろいろ当たってみたところを「三浦大多和氏とその系図」で書いてみましたのでご覧下さい。

 (2015.4.12掲上)  



□ 新羅王家朴氏の系図  

  新羅王の初代王たる赫居世の先代に「飯氷命−朴巫牙−提炎−力−波羅那−玄若−伽留−相述留−閼斤−健達−麻留」という系譜、及び、4代脱解王の先代に「知古(天日矛の弟)―沙莫―麻智−烏流−解布留(―脱解)」という系譜がある説が鈴木真年編の百家系図稿などにあることについてですが、これを『古代氏族系譜集成』に載せておられますが、これについて説明見解をお願いしたいということであります。
 また、飯氷命という名はとってつけたようなもので日本書紀に稲飯命、古事記に稲氷命とある命(神武帝の兄)の末尾の漢字たる飯と氷を繋げて考えだされた人名であって、ありえない名称と思います、等々。
 このほかにも天日矛以降の系譜などについても日本書紀・古事記の提示する系譜とはいくつか相違点が見られますが、それも合わせて詳しい説明があればありがたいです。
 
 (日本歴史研究所より。15.1.16受け)
  

 (樹堂からのお答え)

  新羅など朝鮮半島の王家関係者の系図は、いろいろ疑問があるのが多く、当の韓国には古い系図はまったく残らず、明治期の鈴木真年も、どこから収集してきたか分からない系図を何本か、その著作集のなかに所載していますが、いくつも矛盾する内容があり、真偽を判断しがたい実情にあります。このため、十分なお答えにはなりませんが、「新羅王家朴氏の系図」に現段階の試案を書きましたので、ご覧下さい。

 (2015.4.10掲上)



□ 近江甲賀の頓宮氏  

 近江の黒川氏・頓宮氏・土山氏を個人で調査、研究している者です。
 頓宮氏は新訂寛政重修諸家譜などの記録には一切残っていなく、名があるとするならば、妻は頓宮氏の娘などといったものだけで、頓宮氏はどのような一族だったのかは分かりません。これについて、なんらかの教示がえられるでしょうか。

 (黒鈴様より。15.3.8受け)

 (樹堂からのお答え)

 頓宮氏は『姓氏家系大辞典』には「ハヤミ」条に記事がありますが、具体的な出自の記事がなく、検討困難な氏です。ご指摘のように、周防の内藤氏から出て、甲賀や吉備に分かれたもののようです。内藤氏の系図には、頓宮氏の分岐が記載されますが、ご指摘などを踏まえて、改めて考え直し、頓宮氏と内藤氏との関係などについても検討した結果を、試論として「頓宮氏と内藤氏」で掲載しましたので、ご覧下さい。
 近江との関係を考えることで、難解であった周防の内藤氏の出自についても手がかりが得られたことで、感謝します。

 (2015.4.6 掲上)



□ 肥前の内田氏について

 肥前の内田氏について、ある歴史のホームページには、久留米市の玉垂宮付近や糸島市高祖に多いとか、物部氏族に内田臣、また、肥前内田氏、高木氏の族なるべし、などという記載がありました。
 この記載が正しいとすると、肥前の内田氏の先祖はニギハヤヒにもつながることになりますが、信憑性はあるのでしょうか。また、姓氏録の内田臣は千数百年前の近畿の姓名だと思われますが、どのような経緯で、肥前の内田とつながるのでしょうか。
 なお、実家がある横武という集落には室町時代に少弐一族の横岳氏の横岳城があり、これが横武の集落名の由来と思われますが、横岳城の石碑には「施主内田」となっているそうです。横岳氏と内田氏の関係についても、知りたいところです。                     <一部簡略表現>
 (uchida様より。13.02.12受け)

 
(樹堂からのお答え) 

 全国には内田の苗字が多く、地域や系統別に考えていく必要があります。お問い合わせについては詳しくは答えることはできませんが、一応の取りまとめとして 肥前の内田氏 をご覧下さい。

 (2013.2.14 掲上)



□ 安房里見氏について

 戦国時代に安房に栄えた里見氏について質問します。
 安房里見氏は義実の時から、南上総の押さえとして鎌倉公方足利成氏の意向実現のために安房での活動を開始しました。その系譜を検討してみると、いろいろ問題があることが分かり、とくに義実の祖父・家兼の位置づけ、里見義実の出自と美濃や出羽の里見氏との関係、義実の子の里見成義の実在性などに関心があります。これらの点について、ご見解を教示願います。            <来信の趣旨を記載>

   (安部川智浩様より。2013.2.1受け

  (樹堂からのお答え)

 たしかに安房里見氏については、その初期段階に史料欠如で確認できないことが多いと指摘されていますが、その周辺の一族・諸氏などから見ていくと、なんとか足跡が辿れそうでもあります。現段階で管見に入った史料等を基に、とりあえず一応の見解を試案として示してみましたので、 安房里見氏の系図問題 をご覧下さい。

 (2013.2.5 掲上)



□ 霧島神宮 税所一族の川畑氏など

 下記2点についての資料が有りましたら、提示してください。
 1.「霧島神宮 税所一族の川畑氏」
 2.「都城島津 木幡栄周」
 
 当方の調べでは、
1.については、「川畑左近将監」が始祖のようで、同族重久氏の文献に「川波田」等の文献は有りますが、以降の資料が見当たりません。
 
2.については、都城の修験者「木幡尊王院栄運」の子とあり、都城市島津の家臣で都城の教育に貢献したことまで分りましたが、家系の流れが不明です。
 
   (福岡市の川畑祐二郎様より。2012.12.28受け)

 (樹堂からのお答え)
1 税所一族の川畑氏については、重久氏の一族で川畑左近将監までの系図がありますので、 大隅の税所一族の川畑氏 をご覧下さい。

2 木幡栄周については、幕末期の儒学者で明道館初代学頭という記事は見ましたが、それ以上は分かりません。『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川日本姓氏歴史人物大辞典)が角川書店から刊行されており、大きな図書館にはおいてあると思われますので、同書を当たってみてはいかがでしょうか。

 (2013.1.7 掲上)



□ 肥前の増田氏について

 私の父の本籍は佐賀市東与賀町大字飯盛です。 
 増田氏の系譜関係ではここに昔、豪族の館があったと、昔、ある歴史書(『吾妻鏡』?)を読んだ事があります。菩提寺は本籍から直ぐ近くの佐賀市東与賀町の「地蔵院」です。昔の増田の墓も残っています。
 私は専門ではないのですが、暇を見つけて肥前?増田氏を調べたいので、適当な文献をお分かりでしたら教えて下さい。
 
(京都市在住 増田 茂様より。2012年10月21日受け) 

 (樹堂からのお答え)
 肥前の大族高木氏の一族に益田氏がありますが、これと同じではないかと思われますが、その系譜関係は不明なことが多く、とりあえず、当方が分かる範囲で 肥前の益田氏の系譜 という記事を書いてみました。多少とも参考になると幸いです。

 (2012.11.4 掲上)



□ 『皇胤志』の平家清盛一門の系図

  中田憲信の『皇胤志』の平家清盛一門の系図のなかに見える国盛、行盛、惟重などについてその位置づけ等を尋ねます。
                                                <来信の趣旨を記載>

  (日本歴史研究所殿より。2012.8.16受け)

  (樹堂からのお答え)
 『皇胤志』は、皇族系図としては内容は豊富で、比較的に見て優れたものですが、清盛一門については、落人伝承もかなり書き込まれるなど、疑問な個所もかなりあり、十分な吟味を要します。詳しくは 平清盛一門の関係者 をご覧下さい。

   (2012.9.7 掲上)



□ 幕藩大名家保科氏

  保科家と荒川家の接点について調べています。
「信濃の保科家の系譜」の中のAの項「正則の父としてのB正利(正尚ともいう)」については、どこかに出典根拠の資料があるのでしょうか。など
                                                 <来信の趣旨を記載>

  (福福庄庄様より。2012.6.19受け)

 (樹堂からのお答え)
  幕藩大名につながる保科氏の系譜については、十五世紀中葉より前の歴代は不明としかいいようがないほど、諸伝が混乱していますが、管見に入ったところを一応の整理してみましたので、幕藩大名家保科氏の戦国後期の系図 をご覧下さい。

   (2012.7.18 掲上)  



□ 土佐・若藤氏

  若藤氏については、現在高知につきあいのある親戚等居ないなどの事情で情報が入手出来ずにいます。高知県高岡郡仁淀村高瀬の出です。
  自分で調べられた範囲で書くと、
@貴HP古樹紀之房間からは、「清和源氏 頼義の子義光の流れ 佐竹一族  若藤?土佐国高岡郡人」という記事が見てとれました。
A他に佐竹一族の集いの掲示板にて書込みがあり、若藤は高知県の四万十市中村から江川崎に向う国道441号線の途中にあること、若藤氏は若藤城の城主で土佐一条家の家臣であったこと、「高知県地名大辞典」に「若藤源大輔」の名と記事があること、
などが分かっております。
 上記内容以上の詳細な情報等有りましたら是非教えて下さい。
                                                 <来信の趣旨を記載>

 (若藤晃由様より。2012.5.16受け)

 (樹堂からのお答え)
  若藤は現在、愛媛県に多い苗字とされ、幕臣にも若藤氏があって『寛政重脩諸家譜』には源氏であげられますが、その系譜は必ずしもはっきりしません。いま、管見に入ったところをとりあえず記しますと、常陸の佐竹一族の出とされており、次の 土佐・若藤氏 についての記事になりますので、これをご覧下さい。

   (2012.7.16 掲上)



□ 山名家重臣垣屋氏の系譜

 「桓武平氏概観」拝読いたしました。これによると自分の家の系図が少々疑わしくなってきまして、さてそれならば自分の本当の先祖は誰なんだと思い、問い合わせたものです。
 当家の血統は、龍野脇坂藩家老垣屋駿河守、室町時代では山名家四天王筆頭の家系で、室町時代によく先祖の名前が出てきたので所謂戦国成り上がりではないと思っておりますが、はたしてどこからどこまでが真実なのか分からなくなってまいりました。明徳の乱からの成り上がりなのか、それとももっと昔の古部族なのか。この辺を含め、できれば古くはたどれるところまでたどってほしいものですが、江戸時代以降はきちんとした文献があって菩提寺(龍野普音寺)のものを写したと言われていますゆえ、この時期の調査はしなくてもかまいません。 
                                                    <来信の趣旨を記載>
 
 (城闕崇華様より。2011.10.26受け)

 (樹童からのお答え)
  垣屋氏の系譜はかなり難解で、『姓氏家系大辞典』にも桓武平氏としながら、その出自の具体的な記載がありません。一方、インターネット上では、坂東平氏の土屋氏の一族などという形で記事がありますので、ご参考になるのではないかと思われます。一応、とりあえずの形でまとめて整理してみましたので、 垣屋氏の先祖と一族系譜 をご覧下さい。
 
  (2011.11.4 掲上)



□ 福岡藩主黒田氏の先祖の系譜別伝  

  福岡藩主黒田氏の先祖については、諸説ありますが、インターネットの下記のページに詳細な研究が公開されており、私見では、これが最上のものと見ましたが、いかがでしょうか。ご意見をうかがいたいと存じます。
 黒田家前史小論
 http://www.geocities.jp/themusasi4/site/s02c.html
 
 (黒田重治様より。2011.08.17受け)

 (樹童からのお答え)
 福岡藩主黒田氏の祖系は難解ですが、お問い合わせは、多可郡黒田村の荘厳寺に伝わる黒田氏の系図をどう評価するかということだと思われます。とりあえずの試論を記しましたので、 荘厳寺本「黒田家略系図」についての試論 をご覧下さい。
 
  (2011.9.8 掲上)



□ 八橋茂左衛門とは何者か

  東大史料編纂所所蔵の『諸氏本系帳』4には、近江六角氏・佐々木氏流れの三井氏の家系図が載っており、これによると、始祖信尭から8代目の乗春が三州八幡村(現豊川市八幡町)に移住、11代目の光忠は「生八橋村、仕神君、丸ニ三引」と記載されています。
 『三河堤』などには、「永禄7(1564)年の三河一向一揆終焉後、浄教寺の八橋茂左衛門が家康家臣になった」ことが記されています。
 知りたいのは、この光忠と八橋茂左衛門とが同一人物ではないかということです。
 また、この様なことを調べるための史料・方法について教えて頂けたらと思います。
 
 (三井様より、2011.8.30受け)

 (樹童からのお答え)
 浄教寺から出て家康家臣となった八橋茂左衛門については、史料に乏しく、明確なことはいえませんが、一応の推測的なものを 浄教寺出の八橋茂左衛門の素性 として試案的に記してみましたので、ご覧下さい。

 (2011.9.3掲上)



□ 土佐の一圓氏

 高知県安芸市の一圓といいますが、先祖は安芸市井ノ口黒岩に住して一圓右京之進と云うもので、武術指南役として安芸国虎に仕えていました。安芸国虎の落城の折り矢流合戦で討ち死したと伝えられています。当家系図には、黒岩治部とその弟で一圓右京と二人の名前があります。ちなみに安芸黒岩の一圓家の家紋は丸に桔梗です。
   …(中略)…
 室町期の土佐における一圓姓の名の載っている資料をご存じであれば、ご教示頂ければ幸いです。
  (一圓電気様より、2011.7.20受け)

 (樹童からのお答え)
  土佐の一圓氏は著名ですが、その系譜は殆ど知られません。貴家の家伝にいうように、黒岩氏の一族であれば、黒岩氏の関係を調べれば何らかの手がかりになるかもしれないので、この辺は 土佐の黒岩・一圓氏 をご覧下さい。

 (2011.8.5掲上)



□ 武田家重臣甘利氏について

  HP「古樹紀之房間」で、飯富氏、山県氏、またネットで板垣氏の系図は判明しましたが、甘利氏に関しては、室町以降、虎泰まで全く情報がありません。
 板垣氏と並び武田信玄の家老とも言うべき甘利氏の系図がどこにも無いのが不思議なのですが、何かご存知ないでしょうか。
 
  (熊野三山様より、2011.7.24受け)

 (樹童からのお答え)
 たしかに甘利氏の歴代についての系図が見当たらないようですが、私の古いメモのなかに手がかりがあり、お答えできることが分かりました。次の 甲斐武田氏一族の甘利氏 をご覧ください。
 
 (2011.8.4掲上)



□ 巨勢氏の起源  

  九州の筑後地方の古代史を勉強しておりますが、貴ホームページの「雀部という氏」項に、「筑後から起った巨勢臣一族」との記述があり、この巨勢臣について大変興味を覚え、連絡させていただきました。
 @「筑後」とは、今の地名でいえば、どのあたりになるのでしょうか。
 A巨勢臣の名は何というのでしょうか。
 Bその他、この巨勢臣に関するものをご教示お願いします。
 
 (福岡県久留米市の妹川様より 2011.3.28受け)

 (樹童からのお答え)
  巨勢氏は武内宿祢後裔諸氏のなかにあげられますが、その出自・系譜は難解です。一応、現段階の感触的なものを 巨勢氏の起源と系譜 にあげてみましたので、ご覧下さい。
 
 (2011.4.2掲上)



□ 政所執事伊勢氏の系譜

  HPに掲示のある政所執事伊勢氏の系譜について、さらに見解を伺いたいと思います。
 
 『新編岡崎市史20(総集編)』によると、『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継がおり、伊勢氏の先祖とありますが、伊勢前司藤原俊継及び、その父の肥前々司藤原俊経について見解を賜れればと思います。 
 
 (川部正武様より 2011.1.4受け)

 (樹童からのお答え)
 政所執事伊勢氏の先祖の系譜について、史料が乏しいため、難解な面が多く、先に伊勢三郎義盛に関連して桓武平氏ではない疑いを記述したところですが、最近分かってきたことも含めて 伊勢俊継とその一族 に追加補訂的に記してみましたので、なんらかのご参考になりましたら、幸いです。

 (2011.1.10 掲上)



□ 三浦甲斐六郎左衛門尉貞連について

 元亨三年(1323)、北条貞時13回忌に銀剣一振などを奉納したと円覚寺文書にある三浦甲斐六郎左衛門尉(貞連)の系譜についての質問です。
 三浦貞連については、ほぼ同時代に佐原盛連を祖とする者が3名、盛連の弟・政連を祖とする者が1名の合計4名が系図に見えます。盛連を祖とするのは、@会津の三浦政盛の子、貞連(六郎左衛門尉)、A甲斐守行連の子、貞連(六郎左衛門尉)、B安芸守時明の子、貞連(六郎左衛門尉、因幡守)であり、政連を祖とするのはC少納言房実雅の子、貞連(十郎)です。
 これらの貞連について、同一人かどうかも含め、貞連の実系についての整理の仕方について御教示をお願いします。
 
  (安部川様より 2010.12.27受け)                 ※問いの一部は省略

 (樹童からのお答え)
 ご指摘のように、三浦一族ではほぼ同時代と思われる位置に「貞連」を名乗る者が四名も見えますので、たいへん混乱を感じます。これらを整理する端的な史料に乏しいため、確定した考えとしては示せませんが、現段階の一応の答を提示して、今後の整理に向けての一助にしたいと考え、三浦貞連の位置づけ を試案的に整理してみましたので、ご覧下さい。  

 (2010.12.29 掲上) 



□ 熊本の飯富氏

 我が家に伝わる『家譜』は、江戸後期に聞書きで書き直したとされており、前半の部分では、武田家の臣であった者が山城神足の星出家より妻を縁組し、その間の息子が外祖父の養子となり、後に星出の姓を名乗ったとされています。
 江戸期の熊本においては、細川家老である米田監物の家中として代々あり、明治になり一族で「飯冨」に復したとされています。それ以前の飯冨について知りたいのですが、我が飯冨氏の出自について一般的な見解はどうでしょうか。
 
 (熊本県 飯冨様より、2010.12.2受け)

 (樹童からのお答え)
 ご先祖が武田家臣の飯富氏とのことですが、信玄の頃の飯富兵部虎昌が著名なわりに、この氏の系譜はほとんど伝わらず、今の段階で分かった範囲で、甲斐の飯富氏とその一族 ということで記してみました。
 
 (2010.12.4 掲上) 



□ 雀部という氏 

 雀部とは、どこに繋がって行く系統なのでしょう?
 何も知らないのですが… 。簡潔に遡れませんでしょうが、繋がって行く先の概要だけでもご教示下さい。
 
 (大阪のmekira様より、2010.8.29受け)

 (樹童からのお答え)
 雀部は、仁徳天皇(大雀命)の御名代で、全国的に多く分布しますので、一概に言えないのですが、その伴造は雀部臣、後に雀部朝臣という姓氏ともち、武内宿祢の後裔氏族と称していました。その戦国期・江戸期までの動向は、よく分からない面が多いのですが、とりあえず整理したものとして 雀部氏の動向 をご覧下さい。  

 (2010.9.2 掲上)



□ 土佐の片岡氏

  私の片岡家親戚筋は全員が高知県吾川郡仁淀川町の出身だそうで、その故郷訪問の前のルーツ調査にご協力頂けないでしょうか。
 私が調べる限り、片岡家の出自は平家に仕えたようでも血統が平家というわけではなさそうで、一説には清和源氏、一説では藤原となっています。先祖が近江在住の豪族で、朝廷より上野(群馬県)平定を指示され下向し、そのまま領地を拝領しその地の地名をとり片岡と名乗ったようです。その後も朝廷を支持し、時の平家に仕え壇ノ浦へ従軍したが敗北。遠縁を頼り四国へ逃げ込み定住した模様です。
 
 (愛知県の片岡様より、2010.8.13受け)               ※ご質問の趣旨を掲載。

 (樹童からのお答え)
 土佐の片岡氏は、戦国期に土佐西部の高岡郡を中心に勢力をもった名族ですが、その系譜は宇多源氏、醍醐源氏等々で混乱しています。詳しくは、土佐の片岡一族 をご覧下さい。

 (2010.8.16 掲上)



□ 薩摩の谷山氏

 私の祖父・谷山純忠の出身地が鹿児島県東市来で、太平洋戦争で硫黄島の戦いで戦死しました。先祖は島津家の家臣と聞いており、幼いころ家系図(巻物)を見た記憶があります。鹿児島の古いお墓に「平朝臣・・・」と記されており、出は平家だと思います。近い世代ですと、西南戦争に西郷隆盛と同行して、西南戦争の出兵(?)の碑(西郷隆盛の墓の近く)に名前がありました。谷山金次郎又は孫右エ門です。
 インターネットで谷山城と南北朝の戦いや懐良親王のことを拝見して、わが先祖の発端を知りたく、ご連絡しました。
 
 (東京都 大江様より、2010.8.1受け)           ※問いは趣旨を踏まえて若干変更。

 (樹童からのお答え) 

  薩摩の谷山氏は薩摩南部に繁衍した薩摩平氏(伊作平氏)のなかでも名門で、南北朝期には谷山隆信が懐良親王を迎えて大活躍しました。その後は低迷しましたが、薩摩藩士に残りました。詳しくは、薩摩の谷山氏とその一族 をご覧下さい。
 
  (2010.8.2掲上)



□ 武田信玄の家臣飯尾氏

  『姓氏家系大辞典』の木村氏(但馬)の項にある武田信玄家臣の飯尾右京進直利の出自を調べています。
 武田家臣には三善氏流の飯尾助友・祐国や自称清和源氏浜名氏流飯尾正孝(浜松市立中央図書館蔵「清和源氏飯尾引間氏関係資料」所収系図)がいたようですが、ご教示頂ければ幸いです。また、浜松の曳馬城主飯尾氏については、三善氏流と浜名氏流が混同されているようですが(前掲資料)、浜名氏流飯尾氏の実像はどのようなものだったのでしょうか。よろしくお願いします。
                                        
  (兵庫県 木村様より、2010.7.26受け)

 (樹童からのお答え) 

 飯尾氏は各地に諸流あり、阿波の三善氏流飯尾氏が著名ですが、これも含め具体的な系図がよく分かりません。戦国時代の甲斐の武田家に飯尾氏が見えますが、三善氏流とは別流のようです。詳しくは、飯尾氏の諸流 をご覧下さい。  

 (2010.8.1 掲上)  



□ 額田毘道男という者の系譜 

 本HP掲載の『「天孫本紀」物部氏系譜の検討』の中で宝賀さんは、
 「B額田毘道男命の子の新河小楯姫が生んだ子の穂積臣祖大水口宿祢の同族に額田臣(同、山城神別では伊香我色雄命の後裔)があり、」と書かれていますが、このBにある「額田毘道男命」とは、古事記に出てくる「日名照額田毘道男伊許知邇神」と同一なのでしょうか?
 私の乏しい知識によれば、この神様はオオクニヌシの後裔ですから、天孫族とされる三上祝家の系譜に登場するはずも無いと思われるのですが、それとも、何か明確な根拠がおありなのでしょうか?
 若し、そのような資料があるのでしたら、是非、教えてください。
 
   (「中原中也とダダイズム」 藤田 典 様より、2010.6.15受け)   (質問は一部簡略)

 (樹童からのお答え)

 『古事記』に記載の大国主神の神裔の系譜は、疑問や混乱が大きく、神々のなかになぜか三上祝・額田部連の祖先神の名も数名見られます。詳しくは、額田部連の祖先の系譜 をご覧下さい。

 (10.6.15 掲上)



□ 浅井系図について

 浅井一族を調査中で『古代氏族系譜集成』の1001頁を考えるのですが、『諸系譜』の第2冊と第15冊といいながら、現実には諸系譜の第15冊に在る一番問題の事項は避けて通られた気がします。というのも諸系譜の第15冊にある、次のことは載せずに置かれたようですね。
 
@長政は一にいう高政の子と記すが、この是非。
 
A『諸系譜』第十五冊とあるが、そこにあって『古代氏族系譜集成』の1001頁にない話。
A.久政の末弟に良政がいて良政−政国−政庸(田宮丸)―政重(尾張刈安賀家)
B.『系図纂要』で久政の兄弟にされているはずの女性を一部、長政の兄弟にした話。
C.長政の子の順が万福丸・初子・知也(淀か)・達子・長春の順になっていること、等々。
 以上、こういう問題は1001頁では飛ばされた御様子なので、何か今そちらでこれらに答えられることがあれば、よろしくご教授をお願いします。
 
 (日本歴史研究所 木村様より、2010.5.5受け)          (質問は一部簡略)

(樹童からのお答え)

  江北の浅井氏の系図は様々な混乱が多く見られ、鈴木真年翁採録の系図といえども、疑問なものがあります。佐々木氏関係でも、偽作者が関与した捏造部分があります、信頼できそうな各種史料をもとに総合的に考えていくことが必要です。本問の詳しい応答は、浅井三代の系譜 をご覧下さい。 

  (10.5.9 掲上)



□ 上諏訪社大祝の神氏と下諏訪社武居祝

  質問が2つあり、その一つは、信濃の上諏訪神社大祝の神氏についてです。現状の私の知識では、上社初代大祝有員以前から、上社に神氏の先祖がいたと判断できる材料が見つからないのです。特に「須羽君」についての事情や原典がわかりません。
 三輪→神(みわ)と判断しうる系譜上の根拠、また、有員以前の神氏についての資料があれば、ご教示ください。
 
 もう一つは、下諏訪神社武居祝、武居氏(のち今井氏)についてです。前提として、金刺氏と他氏とのの系統の混淆が激しいことなどの事情は承知していますが、そのなかで、よその系譜に武居祝家の者が入り込んだという痕跡探しです。特に神官家同士の出入りは多々あるでしょうし、一例として木曽御嶽神社の神官家に入ったことだけは把握しています。
 特に気になっているのが、「武井神社」ほか多くの諏訪社にぐるりと取り囲まれている水内の善光寺周辺、中でも武居祝との関係が伝承として伝わる中衆の若麻績氏です。となると、若麻績氏も当然関わってくるのですが……。

 (L.Frog様より、10.1.22受け)                   (質問は一部簡略)

 (樹童からのお答え)

  諏訪社の奉斎は、古来、三輪一族の諏訪氏(神氏、神人部宿祢氏)が主体ですが、多氏族系の科野国造一族も奉斎に関与しており、そのなかで系譜的にも多くの混淆・通婚・養猶子があったようで、このため、ご質問に対するお答えはきわめて難解ですっきりと答えにくい面がありますが、現段階での一応のお答えを 諏訪社の奉斎氏族 で記してみましたので、ご覧ください。

 (10.1.27 掲上) 



□ 永井直勝の先祖 

 小牧長久手の戦いで活躍し、その子孫からは大名三家などを輩出した永井直勝ですが、華族類別、家伝によると永井氏は源義朝を討ち取った長田忠致と同族の尾張平氏流長田一族を称しています。
 ところが、江戸期には大江姓を称しており、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』では、平姓とも大江姓ともとれる記述であり、双方の系図が示してありました。大江姓説では、大江広元の子である那波宗光を祖とし、宗光から六代目の宗元、その五代目の重光が長田平衛門を称し、その子の直時が永井姓を称したとあるものの、直勝の祖父広正と、この直時のつながりが分かりません。また、尾張には古来からの豪族と思われる永井氏がおり、このうち愛知郡の者が大江姓、知多郡の者が平姓長田氏流を称しているとのことで、本姓の共通性からして武家華族永井氏は何らかの形でこの豪族と繋がりがあると思われますが、どのように考えますか。

  (bacit様より、10.1.16受け)              (質問は一部簡略)

 (樹童からのお答え)

 永井直勝の家系は平良兼流の尾張国知多郡の長田忠致の族裔とされることが多いのですが、こうした家系が実際につながっているか疑問もあり、かつ、大江姓那波氏や三河大橋氏からの養嗣も入ったと伝えて、きわめて複雑です。詳しくは 永井直勝の家系 をご覧下さい。
 (10.1.27 掲上) 



□ 三菱財閥の岩崎家の系譜

 三菱財閥の岩崎家は甲斐の岩崎一族から出たと言われていますが、そもそも土佐にいた期間があって安芸氏に仕えていたという資料もあり、甲斐の岩崎が土佐に逃れてきたとしても時期的に合わないように思います。渦紋の三階菱も元々小笠原家のものと言われますし、同じ甲斐とはいえ微妙なものがあります。しかし、岩崎という苗字、三階菱という渦紋からやはり甲斐の氏族の可能性も十分考えられます。
 この岩崎氏の出自について、教示していただけたらと思います。(以上の質問は簡略化したもの)
 
  (evta様より 09.11.17など)

  (樹童からのお答え)

  ご質問を受けて調べてみましたら、岩崎家の系図について検討のうえできちんとした見解を示したものが、確かに見当たりません。どの書でも、家伝で甲斐の武田一族岩崎氏の流れというだけです。これでは、系図分析にはならないので、いま検討した結果を試論として 三菱財閥の岩崎家の祖先 を記してみました。
 結論を先にいいますと、清和源氏とは無関係であって、おそらく四国古族の流れで、阿波山奥の祖谷山に居住した菅生一族の流れが岩崎弥太郎の先祖だと思われます。
 
  (09.11.23 掲上)



□ 吉良一族を称する吉川氏

  貴HPの清和源氏概観を拝見していて気になったことなのですが、足利氏の主な一族の吉良氏の列に吉川と挙げられています。そこで、姓氏家系事典を見たのですが、清和源氏の吉川で掲載されていたのは、貴HPの阿倍氏族概観にもある島ケ原党の吉川氏のみでした。
 一方で武蔵国には成田氏の家臣という吉川氏があり、奥州流吉良氏がかつて武蔵国に勢力を持っていたことを考えると、上記の吉川氏は武蔵吉川氏とは別の吉良一族なのでしょうか?
 
 (宗次郎様より、09.10.21受け) 

 (樹童からのお答え)

  吉川(吉河)という苗字は全国に広く分布するので、その起源の地とともに姓氏・由来を考えていく必要があります。吉良一族の吉川氏は三河に起こった氏で、武蔵とは無関係です。詳しくは、 吉良一族という吉川氏 をご覧下さい。
 
 (09.10.23 掲上)  



□ 浅野長政の実家・尾張安井氏

 広島藩浅野氏の祖・浅野長政は養子であり、その実家は安井氏という尾張の豪族のようで、その安井氏の系譜を太田亮博士の『姓氏家系大辞典』で確認したところ、「逸見清光の四男・清隆が安井姓を名乗り隆頼、弥次郎有朝、小次郎光朝と続いてその後裔が尾張に土着した。その系統から浅野長政に実父である安井重継が出た」といった内容でした。
 確かに逸見(源)清光の四男に清隆という人物はいたようですが、実際の清隆自身は安井氏の遠祖というよりは甲斐源氏二宮氏の遠祖として位置付けられているようです。そのうえ小次郎光朝から長政の祖父弥兵衛重幸までが空白になっており、逸見氏の後裔を称する点、系図の空白が多い点など以前ご教授いただいた尾張溝口氏との共通点があるように思いました。
 尾張安井氏は本当に甲斐源氏の流れなのか、それとも現地古族の系統なのかご教授お願いいたします。
 
  (宗次郎様より、09.10.11受け)    ※上記問は記事の一部省略あり。

 (樹童からのお答え)

 いろいろ当たってみましたが、浅野長政の実父系は祖父(それも通称くらい)までにとどまり、それより先は不明というのがほぼ確かなところのようです。とすると、清和源氏の甲斐源氏支流というのはまず疑問だと思われます。この辺について、管見に入ったところなどを整理して 浅野長政の実父系・安井氏 を書いてみましたので、ご覧下さい。
  
 (09.10.16 掲上) 



□ 六角氏重臣の平井加賀守定武の本貫地と出自  

 平井定武の出自は系譜資料で近江・本佐々木氏となっています、また、本貫地も同国の愛知郡平居(現・愛知川町大字平居)となっていますが、これは偶然にも小生の始祖になる岸下十郎遠綱(言い伝え)と同じです。
 言い伝えにも定武なる人物は無く、当家は元亀二年まで同地に居住しており、鯰江城の合戦で当主が討死して近江を退散しました、平井定武なる人物は本佐々木・愛知氏流なのか、或いは岸下流なのか御教示のほどお願いします。
 
 (平井卓郎様より、09.10.3受け)

 (樹童からのお答え)

 平井氏は全国各地にありますが、近江についていえば平井(平居)という地は三、四個所あり、それらの地に平井氏があったようです。浅井長政の最初の妻の父、平井定武の系譜は不明ですが、佐々木一族の初期分岐である愛智氏の流れを汲むものとされるようです。詳しくは 平井加賀守定武の系譜 をご覧下さい。
 
 (09.10.4 掲上)



□ 備前児島の中西氏

  先祖に関連して、備前児島氏流で中西家の発祥に関する家系図は如何にして見つけられるかヒントを頂けますと幸いです。「古代氏族三宅氏の研究」にも記述はあるのですが、肝心な系図・由緒書がどこに伝わっているんだか分からない、という状況です。
 この関連の情報をいただけましたらと思います。
 
  (中西泰裕様より、09.9.27受け)    
 

 (樹童からのお答え)

  児島高徳の一族として活動が見える備前の中西氏について、その系譜は難解ですが、明治の鈴木真年は今木連説をとっています。この説の是非も含めて関連するところを、児島高徳と今木一族中西氏 ということで、試案として記述してみましたので、ご覧下さい。
 
  (09.9.28 掲上) 



□ 三河物部と平岩氏

 物部守屋の子の真福が願主となって建立したという真福寺が愛知県岡崎市にあり、明治か大正迄、真福寺の横には物部神社がありましたが、いまは神社としての形はありません。南にはアチワ(謁播)神社(岡崎市東阿知和町)が在りますが、別系統だと子供の時に聞いたように思います。物部神社を管理していたという本家の苗字は、江戸時代前期頃に徳川家より改名依頼がきたので、物部から変わりました。もともと、三河には別の物部がいたのですが、戦火により三河の地を頼り逃げて来たと聞いてます。
 三河物部との関連も含めて、平岩氏について、詳しく教えて頂けませんか。
 
  (jintan様より、09.9.18受け)

  (樹童からのお答え)
 
 三河には三河国造一族とみられる物部氏がおりますが、これと同一系統なのか別系統なのかが不明な弓削氏を名乗る一派が中世の三河にあり、家康の忠臣・平岩親吉につながっています。この関係では、系譜に不明な点がいろいろあって、あまり詳しくはないのですが、 平岩親吉をめぐる系譜 という形で整理してみましたので、これをご覧下さい。

  (09.9.26 掲上)



□ 西尾吉次の遠祖 

 織田、徳川家に仕えて横須賀藩主西尾家の祖となった西尾吉次ですが、その西尾家の家伝では彼を東条吉良氏の吉良持広の長男とし、西条吉良氏からの養子義安の存在と、織田に人質に出されていたために家督を継げず独立して西尾姓に改めたとしています。
 大名としての地位は失ったものの高家旗本として吉良本家が生き残っている中で、なぜ吉良家の血筋であるという家伝を作成したのでしょうか?
 また太田亮博士の『姓氏家系大辞典』では、吉良氏説とともに称清和源氏の籾井氏を祖とする可能性もあることが紹介されています。
 西尾吉次は本当に東条吉良氏の御曹司だったのでしょうか?

 (宗次郎様より、09.9.18受け)

  (樹童からのお答え)

 西尾吉次家の系譜は、同じ西尾を苗字とする江戸初期の大名家の西尾光教家の系譜と同様にきわめて難解です。これらについては、納得のいくお答えからは遠いのですが、今後の検討点の提示という意味も兼ねて、現段階で分かることを 幕藩大名西尾二家の系譜 というテーマで記してみましたので、ご覧下さい。

  (09.9.24 掲上)



□ 畑時能の系譜   

 『太平記』に新田義貞の家臣に畑時能と言う人物が出てきます。畑氏の出自に関しては畠山重忠の子孫と言われていますが、詳しいことは分かりません。
 ここで参考になるのは重忠の兄・重光を祖とする伊地知氏です。伊地知氏の伝承では重光の曾孫である時季が越前の守護になったとされています。伊地知氏が越前の守護になったことは史実に反しますが、その主筋である島津氏は越前に分家を残していますので、伊地知氏も越前に分家を残し、それが畑氏になった可能性はあります。“時”と言う名を共有しているのも証拠になります。以上のことから、畑氏の出自は平姓畠山氏であるかは別として、伊地知氏の分家であることは確かだと思われますが、いかが考えますか。
 
 (大阪在住の方より、09.9.19受け)

 (樹童からのお答え)

  畑時能は新田義貞に従い越前に行き、そこの伊知地の地で奮戦して討死しますが、もともと武蔵の人であり、畠山重忠の子孫でも薩隅の伊地知氏支流でもありません。詳しくは 畑時能の系譜 をご覧下さい。
 
 (09.9.23 掲上)
 


□ 武家華族脇坂氏の遠祖

 賤ヶ岳の七本槍として知られた脇坂安治に始まる武家華族脇坂氏ですが、他のホームページを見ていると、脇坂氏は定紋の「輪違い紋」を秀吉から賜る前は「桔梗紋」を用いていたとありました。
 しかし、江戸初期に『寛永諸家系図伝』が編纂された際には、安治の父・安明以前は不明としながらも藤原氏が本姓であると届け出をしており、明治の華族類別にも神別藤原朝臣として登録されていたようです。
 安治自身は佐々木一族を称する田付氏からの養子だったことや、桔梗紋を用いていることが伝わっているのにも関わらず、なぜ近江源氏でもなく土岐一族でもなく藤原氏をもって遠祖としたのかがよくわかりません。何かお気づきの点があればご教授願います。

  (宗次郎様より、09.9.10受け)

 (樹童からのお答え)

 幕藩大名家脇坂氏の系譜はかなり複雑であり、養猶子関係が複雑に絡み合っていて、端的には言いがたいのですが、「脇坂氏」という父系の流れは、江北に古来あった物部系浅井一族支流とするのが妥当とみられます。詳しくは、 幕藩大名脇坂氏の祖先系譜 をご覧下さい。
 
 (09.9.17 掲上)



□ 物部守屋の諸子

  物部守屋の長男と三男は戦死したのか何処かで恩情で生かされたのか、その辺りを知りたいと思います。四男は唐松神社だったかと思いますが合ってますか?
 
 (jintan様より、09.9.2受け)

 (樹童からのお答え)

 物部守屋大連の子孫については、史料には明確に見えず、僧道鏡がそうだと伝えたり、各地の守屋氏などがあげられ、出羽国仙北郡の唐松神社の物部氏の家伝でもそのように伝えますが、多くは疑問なものです。詳しくは、 物部守屋大連の子孫 をご覧下さい。
 
 (09.9.8 掲) 



□ 平子氏の系譜 

 「吾妻鏡」に見られる武蔵国の平子氏の系譜については、当初、 武蔵七党横山氏から出たとされ、「武蔵七党系図」によれば、横山時広の嫡子広長が、平子野内を称し、その子に平子有長、石川経長があるとされます。ところが、「越後平子系図」では、武蔵国久良岐郡に進出した、三浦為通の子、通継を祖とすると主張しています。鎌倉時代、周防に移動した平子氏は、仁保氏を苗字とし、後年、元忠の代に三浦姓に復しています。
  平子氏の本来の系譜について、どのように考えたらよいでしょうか。

  (安部川様より、09.9.3受け)

  (樹童からのお答え)

 平子氏は、本来は三浦氏の初期分岐支族ですが、小野姓横山党とも養猶子関係があったようで、系譜はかなり複雑です。詳細は、 平子氏の系譜 をご覧下さい。

  (09.9.5 掲) 



□ 大鹿首の祖「若子命」

  中臣連一族の大鹿首氏の系譜には、相鹿津臣命の子に若子命をあげて「大鹿首・川俣連の祖」と記し、その後は系図史料に見えません。
 この「若子命」は、『大若子命=大幡主大神』とは別の方でしょうか?
また、『乙若子命』『小若子』など、伊勢に関係すると伝える方々と「若子命」とは無関係なのでしょうか?

  (大鹿様より、09.8.28受け)

 (樹童からのお答え)

 中臣連一族・大鹿首等の祖とされる若子命については、ほかに情報がありませんが、度会神主の祖と伝える「大若子命=大幡主」とは活動年代も異なり、別人と考えられます。詳しくは、 「若子命」と大幡主との関係 をご覧下さい。

  (09.9.2 掲
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