安房里見氏の系図問題

(問い)戦国時代に安房に栄えた里見氏について質問します。
 安房里見氏は義実の時から、南上総の押さえとして鎌倉公方足利成氏の意向実現のために安房での活動を開始しました。その系譜は新田義重の孫、里見義成の長子義基から始まり、その後裔の家兼−家基−義実−成義−義通・実堯兄弟へと続いたとされますが、この系譜については幾つかの議論がなされて混乱が見られます。整理のために御見解を御教示いただけますと幸いです。
 
1. 里見家兼について
 義実の祖父、家兼は南朝方に与して敗れた没落新田氏族でしたが、「鎌倉大草紙」によると、鎌倉公方足利氏満の代(1379年)に赦免され所領を得たとされます。同書によると、その子、刑部少輔家基は足利持氏の臣下で、永享の乱での敗北の際に自刃し、その子が左馬介義実であるとされます。「永享記」では、稲村公方足利満貞の馬廻りに、同乱で敗死した里見治部少輔をあげています。足利公方家系譜の世代との関係から見て、この里見治部少輔を家兼に比定可能かと考えますが、ご見解を御教示下さい。
 鎌倉公方氏満の恩顧を得た里見家兼が、氏満の子満貞が陸奥稲村に稲村公方として下った際に臣属同行した可能性はないでしょうか?家兼の子、家基には南陸奥(福島県)での活動が史料で確認可能なことも上記推測に矛盾しないように思います。
 
2. 里見義実の出自と美濃里見氏
 里見義実の実系は、義成の長子、義基系ではなく、承久の変で美濃国円教寺に所領を得た義成の第四子、義直の後裔であるという説が提出されていますが、この点についてのご見解を御教示下さい。義基系里見氏が刑部少輔を称しているのと異なり、義実が美濃里見氏にみられる民部少輔を称していることや、永享の乱で敗死した足利持氏の子らが美濃に逃れて土岐氏に保護されたことなどからの発想のようです。
 
3. 里見義実と出羽里見氏
 里見義実は美濃里見氏の民部少輔義宗の後裔であるとする説がありますが、出羽の天童氏もその実系は美濃里見氏義直の後裔とされています。この里見天童氏にも「義景−義宗」という系譜が見られますが、義実の実系が出羽で活動した美濃里見氏とつながる可能性はないでしょうか。
 
. 里見成義の実在性
 義実の子、成義が古河公方足利成氏から一字「成」を賜り、その妻の一人は横須賀流三浦氏の連秀の娘とされ、義通と実堯の二人の男子があるとされます。ところが、この成義は系図作成上の架空の人物で、義実の子が義通と実堯であるとする見解があります。この場合、人物の年代分析の点から、義通と実堯の活動時期と義実の活動時期を周辺史料から見ると、一世代欠落してしまう印象が強く、成義の存在を架空とするには疑問があります。これらの点のご見解を御教示お願い致します。

 (安部川智浩様より。 2013.2.1受け

 (樹堂からのお答え)

 ご提示のように、安房里見氏の系図については、初期段階の活動実績が信頼性のある史料からは不明であり、最近までに諸説が出ているようです。里見氏の初期段階の系図については、問題があるかもしれないとの漠然とした認識が私にもありましたが、今回、調べ直してみると、従来から伝えられてきた安房里見氏の系譜や伝承は、結城籠城と安房進攻時期を除いて、概ね信頼して良さそうだとの認識を得ましたので、管見に入ったところをとりあえず試論として以下に整理してみます。室町期の史料については、まだチェックが乏しい面もありますことをお含み下さい。
 主な問題点は次のようなものだと認識して、検討してみることになります。(以下は「である体」で表記
 @初代とされる義実の事績(実在性、安房入国の時期や活動事績)はどのようなものか。
 A義実の祖系はどうであったのか。具体的に美濃や出羽の里見氏との関係はどうか。
 B二代目とされる成義の実在性はどうか。
 
 安房里見氏の初期段階たる義実及びその子・成義については、信頼性のある現存史料にはまったく登場しないということは、多くの研究者が指摘しているから、そういうことなのであろう。それでは、その場合、どのような検討のアプローチがあるのかということであるが、仮りに彼らが実在していたとした場合の活動年代をまず考えてみる。
 実在性が確認されている里見義通・実堯兄弟の活動時期がおおむね十六世紀の前葉とされており(実堯の活動時期について、1494あるいは1489の生〜1533没と伝える)、その父だと十五世紀後葉から十六世紀初頭頃、さらにその父の世代は十五世紀半ばから後葉頃で応仁・文明期ということになろう。鈴木真年が編纂した『新田族譜』の里見氏の個所では、義実が長享元年(1487)に七三歳で没、その子の成義が「武田信長の娘」を母として永正元年(1504)に四六歳で没(従って、1559生〜1504没ということになる)と記載されており、これらの没年や世代的な活動時期にはとくに齟齬がない。その後も、里見一族では義通などが真里谷武田氏と通婚している事情も見える。なお、『里見分限帳』では、義実(杖珠院殿)が長享二年に七二歳で没、刑部大輔義成が永正二年に五七歳で没とあるが、両者の死没時期は『新田族譜』とほぼ同様としてよかろう。『系図総覧』所収の「里見系図」には長享三年と記すが、大差はない。
 義実については、結城合戦で結城氏が滅びた嘉吉元年(1541)に安房国朝夷郡の白浜に上陸したという伝承があって、この安房到達が時期的にやや早い感じがあるが、応仁・文明期に活動した者とみられる。こうした時期把握の観点からは、成義の実在性を否定することは、一世代分の欠落になるから、不自然である。しかも、成義の弟とされる実次は中里備中守と号し、里見成義及び義通に属したと伝え、天文三年(1534)に主君義豊とともに討死したが、その死後も中里氏は里見一門衆として重んじられ、知行帳などに中里姓の家臣が複数登場するから、この点でも成義の否定はしにくい(もっとも、実次は義豊の側室の父という位置づけもあるという成義の弟には十郎成頼もあって、その娘は従兄の当主義通の室となったと伝える(『新田族譜』等)事情もある。
 里見氏に関する諸々の系図を見ていくと、義実の妻が上総国真里谷に甲斐から入った武田右馬助信長の娘という上記所伝もあって、これが事実なら、信長の上総入りに対応して、ほぼ同じ時期に義実が安房に到来したことも考えられる。信長は古河公方足利成氏に仕え、康正二年(1456)頃に成氏の命を受けて、当時上杉氏が守護を務めていた上総に兵を進めて同国を守護代として支配下におき、長禄二年(1458)頃に庁南城、真里谷城を築いたといわれるから、これらと同じ頃に義実が安房進駐とするほうが年代的に妥当で、説明がつきやすい。
 安房国は当時、神余・安西・丸・東条という四氏ほどの中小豪族で領地支配が細分化されており、各々古河公方派(足利氏)・上杉氏の二派で小競り合いが続いていたから、これら諸氏を押さえて新来者の里見氏が勢力を急拡張したことはありうることであった。『安房実記』には、義実は初め安西家に仕え、孫の義豊に至って四氏を滅ぼしたと見えるから、義実のときに安房全域の平定とまではいかなかった。太田亮博士は、『藩翰譜』に明応五年(1496)に安西を亡し安房国を領したとあることを引いて、同年は義実の死後の九年後ということで、「里見氏の安房平定は義実の子孫の代なり」と指摘する。
 安房の安西氏について見ると、『里見代々記』に安西勝峯について、山下定兼や丸信朝を滅ぼしたものの、里見義実に降ったと見える。その系図(東大史料編纂所蔵の『安西氏系図』)では、義実が嘉吉元年に安房に来て、文安二年(1445)に安西勝峯が義実に降るとの記載があり、これは里見氏の伝承には符合するが、その時期が若干早いのではなかろうか。現実にこの時に安西氏が里見義実に降ったかどうかは不明であるが、安西勝峯の子の景峯が里見成義及び義通に仕えてその家長だと見えるから、この辺はほぼ信頼できそうである。安西氏は滅ぼされずに里見家中に残り、『里見家分限帳』に拠ると、慶長十一年(1606)には百人衆頭で安西中務、船手頭で安西又助、百人衆の一人として安西弥三郎が見えており、これらは上記『安西氏系図』にも記載があるから、同系図の記事はほぼ信頼できそうである。
 義実は左馬助、刑部少輔を名乗り、その嫡系も成義・義通・義堯・義頼が同じく刑部少輔(ないし刑部大輔)を名乗るが(義堯以降は、主に安房守)、安房里見氏の一族には民部少輔を名乗る支系(義実の叔父の家成の系統)もあった。
 
 里見氏の起源については、始祖の新田太郎義俊が上野国碓氷郡里見郷(現・群馬県高崎市里見)に移り、その地の名を苗字としたことには異伝がない。
 義実の祖については、一般に伝えられるところでは、貴見でお示しの@里見義俊の子の 「A義成の長子のB太郎義基から始まり」、その子の「C竹林義秀−D忠義−E五郎義胤−F義連−G基義」を経て、その子の「H家兼−I家基−義実」ということでは、ほぼ所伝が一致している(白浜の杖珠院所蔵の『里見系図』〔寛永十三年写〕では、D忠義からH家兼の四代の部分が欠落しているが)。一伝には、C義秀の兄の「C氏義−D重氏−E大炊助時義−F義氏−G義道−H義継−I家基−義実」ともあるが、義実の父が刑部少輔家基だという点では変わらないし、世代数にもとくに問題がない。義胤・時義の頃が南北朝初期に新田義貞と共に活動した世代であり、『太平記』にも見えて、越前金崎で義貞と共に里見時義は自害している。時義の子のG義氏は、金崎から越後国魚沼郡に逃れてきて城峰城を築いたというから、上記一伝の系のほうは越後里見氏の系の模様である。
 
 南北朝争乱期には南朝方に属して奮戦した新田・里見の一族は、そのなかで没落したり、最後には足利氏に従ったりしたが、鎌倉公方足利満兼に召し出されて常陸国に所領を得た人物に里見家兼がいた。『新田族譜』では家兼について、「常陸国小原住」と記載があるが、その叔父の氏連(基義の末弟)には仁田山右馬允とあり、仁田山は上野国山田郡仁田山邑(群馬県桐生市)であるから、このあたりの世代まで、里見一族は上野国に居たものであろう。『上野国志』の仁田山旧塁条には、安房から里見上総介実堯入道が当地の里見蔵人家連を頼って来たが、天文廿四年(1555)に家連は上杉謙信により滅ぼされたことが見える。この「実堯」は、実際には実堯の子の上総入道勝広だとみられるが、その子の随見勝政・平四郎勝安兄弟は天正六年(1578)に由良国繁の攻撃を受けて死んでいる。ともあれ、安房里見氏のほうから仁田山の里見氏が一族と知られていたことが分かり、ひいては現在の安房里見氏の系図の所伝の正しさが裏付けられる。
 話しを戻して、応永三四、五年(1427,8)頃には、公方持氏の近臣として里見刑部少輔という者が現われるが、これが家基とみられている。
 常陸の小原については、那珂郡小原(現・笠間市小原)とされており、現地には小原城(JR友部駅の北東約二キロ)があって、多賀郡手綱郷(高萩市手綱)の地頭里見家基が、鎌倉公方足利持氏より那珂西郡宍戸荘のなかの小原の地を与えられて小原城を築き、弟の満俊に当地を治めさせた、との所伝が残る。元の手綱郷については、鎌倉公方の奉公衆の里見兵庫助基宗は、朝香神社(上手綱に鎮座)造営の応永五年(1398)五月十日棟札及び応永廿三年(1416)棟札によると、同郷の一分の地頭だと見える(『新編常陸国志』)。基宗の続柄については、『新田族譜』に応永十一年(1404)に卒去したと見える里見刑部少輔基義の子だったか。そうすると、家兼の兄弟に当たる者となる。里見氏の小原領有については、渡辺世祐の常陸古文書の考証により、応永末から永享にかけての佐竹山入氏の叛乱鎮圧における家基の功績による賜与だとされている(『群書解題』第一)。
 『続群書類従』所収の「里見系図」では家基の弟に満俊をあげており、『新田族譜』では家兼の弟に満俊をあげて「民部少輔、小原住。常州小原祖」と見える。満俊の位置づけが両者で若干違うが、その子孫は後まで続いて、文亀二年(1502)に里見義俊は養堂禅師の道風を慕い小原に広慶寺(曹洞宗)を建立した。笠間市大田町の養福寺(JR宍戸駅の北西近隣で、小原の南西三キロほど)の縁起には、小原領主里見義俊、子息義治、三郎里景、里元らの名が見える。この常陸の里見氏は、天正十九年(1591)に佐竹氏により滅ぼされて、小原城も廃城となった。安房に行った義実の父祖が常陸の小原に居たことは認めてよさそうである。義実とともに安房に行ったとされる叔父・家成の子孫が上総の小原に住んだというから、これは常陸の地名を遷した可能性もある。
 家兼の子とされる家基は、関東公方持氏に仕えたが、持氏とともに永享の変のとき(1439)に自害したといわれる。その二年後の結城合戦で討死したともいわれるが、結城合戦で討死したのは「里見修理亮」との記録があるから、一族の別人だったか。『里見代々記』等の後世の軍記ものによると、里見家基は、結城合戦のとき持氏の遺児安王・春王を奉じた結城氏朝に与して篭城し、嘉吉元年(1441)の結城落城の際に討死したが、その子の義実と二男家氏の兄弟は安房に逃れて、義実は安房里見氏の祖となったという。しかし、この辺の展開には裏付けがなく、義実の年齢からも疑問が大きいと整理されよう。
 『系図総覧』所収の「里見系図」では、家基が永享十一年に持氏に従い損命と見えており、同じく所収の「本系里見系図」(房州延命寺所蔵本の謄写)では、父・家基が鎌倉没落の時に義実が母と共に常州に落ち行くが、そのときには「幼稚」であって、後に成氏が四位下左兵衛督に叙任してから、これに鎌倉で仕えたと記事に見えるから、家基・義実親子は結城に籠城しなかったとするのが自然である。足利成氏の関東公方就任については、文安四年(1447)説が有力とされており、従四位下左兵衛督の叙任は宝徳三年(1451)とされ(『喜連川判鑑』など)、享徳四年(1455)には成氏が下総古河に到着した(『赤堀文書』足利成氏感状)、という事情もある。

 以上のように見ていくと、義実の安房進攻時期も一四五〇年代前半以降だと自ずと特定されてくるし、安房里見氏は美濃や出羽の一族とは無関係ということになろう。
 
 他の里見一族について簡単に附記しておくと、美濃のみならず、出羽や越後、陸前にも里見氏の支族が居た。美濃里見氏は、里見義成の弟(『尊卑分脈』に義成の子に置くのは誤り)の次郎義直が承久の乱の功で美濃国円教寺の地頭となったことに始まる。南北朝時代には、里見伊賀守時成・大膳亮義益親子は宗家新田義貞に従って越前金崎で奮戦しており、『太平記』に見える。
 出羽里見氏は、美濃里見氏の祖・義直の子の三郎義貞にはじまる家系で、子孫が出羽国村山郡の成生庄(現・山形県天童市)を拠点に勢力を扶植したが、出羽への移住の経緯などははっきりしない。南北朝時代、成生庄の里見十郎義景、その子の蔵人義宗が活動したことが『太平記』に見える。蔵人義宗には子がなく、その跡には最上直家の弟・頼直が入って、天童氏となった。この氏は、里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大させたが、最上氏家中には下筋八館の一に成生氏も見える。最上義光の家臣には長崎城主里見民部がおり(『最上分限帳』)、関ヶ原合戦のときには出羽で上杉景勝軍を破った。出羽里見氏の傍流は、水戸藩に仕えている。陸前の里見氏は、大崎氏の四老の一であった。
 また、持氏の叔父で篠川殿満貞の近臣に「里見治部大輔義胤」が「本系里見系図」の記事に見えるが、その系譜は不明である。
 
  (2013.2.5 掲上)
 
 さらに、里見氏と正木氏についての応答が続きます→ 安房里見氏と正木氏等との婚姻関係の質問・応答
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