□ 安房里見氏と正木、三浦氏との婚姻関係についての質問・応答 里見義実は、鎌倉公方足利成氏の上総への勢力布石の支柱として南上総へと送り込まれて以降、上総守護管領山内上杉氏に対抗すべく、諸策の一つとして周辺有力氏族との婚姻ネットワークを構築したものと思われます。
以下に安房里見氏と正木、三浦氏との婚姻関係について質問します。
質問1
前回の安房里見氏の系図問題についての質問への回答にある「新田族譜」によると、里見氏と正木氏の婚姻関係は、里見成義の子の代から志向されており、その女子は正木太郎に嫁ぎ、三男実堯は正木大膳の娘との婚姻関係を結んだとされています。この正木太郎と正木大膳がそれぞれ、正木氏の誰に相当するかについて御見解を御教示下さい。
里見氏と正木氏の年代分析から、成義女子の婿とされる正木太郎は正木大膳通綱であると考えられ、この女子の兄である里見宗家義通から一字「通」を拝領したと推測される。一方、成義の三男実堯の妻の父とされる正木大膳であるが、この正木氏はおそらく正木通綱の父である正木大膳道種と考えられる。この実堯の妻の父を正木通綱とすることは、通綱が天文二年(1533)に里見義豊に攻め殺された際に、その三男が13歳とされることから、この三男の姉を実堯の妻とするのは年代的に不可能ではないがかなり無理がある。正木通綱の娘婿の世代としては、実堯の子、義堯と考えるほうが自然である。太田亮の「姓氏家系大辞典」にある正木大膳通次入道政範(通綱)は里見義実の娘婿であるとの記述は世代的に成立困難であり、義実の子、成義の娘婿とするのが妥当と考えられる。
正木氏と婚姻関係を結んだ里見実堯家は里見宗家義通の子、義豊と対立し、その要因の一つは実堯家の親北条の姿勢とされる。そう考えると、実堯家と親族関係を結ぶ正木通綱の「綱」という一字も北条氏綱との協調関係(氏綱を烏帽子親とするなど)を示唆している。
質問2
里見成義の妻として、三浦横須賀連秀の娘、土岐頼元の娘があげられることが多いが、成義の子である実堯と義通それぞれの母親の出身氏族を明らかにする材料はあるでしょうか?
質問3
質問1と関連して、正木大膳通綱の妻は成義の娘と考えられますが、この娘の母親の出身氏族は横須賀流三浦氏、土岐氏のいずれであるのか明らかにする材料はあるでしょうか?
里見実堯が、三浦半島対岸である西上総出身の内房正木氏の分流と考えられる正木氏(通綱の家)と婚姻関係を結び、金谷城(現在、富津市)に拠点を置き、江戸湾およびその湾岸の権益獲得を志向していることが示唆されることから、実堯の母親は、西上総対岸の三浦半島横須賀に所領を有する横須賀流三浦氏の連秀の娘である可能性がある。実堯の母親を横須賀流三浦氏とすると、正木氏、横須賀流三浦氏と重複する婚姻関係を構築しているのは里見義通の家ではなく里見実堯の家であることから、正木通綱妻の母親もまた、実堯の同母である三浦横須賀連秀の娘である可能性がある。
一方で、『新田族譜』には実堯の母親を「家女」としている。さらに同族譜では里見成義の子として実堯、実倫、義通、通輔(岡本氏へ養子)などを記している。「実」、「通」などの通字の観点からは、義通、通輔らの母が三浦横須賀連秀であり、実堯、実倫らの母親が「家女」とも考えられる。
以上、長くて恐縮です御批判、御教示をよろしくお願い申し上げます。
(安部川智浩様より。2013.2.7受け)
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(樹堂からのお答え) 里見氏や正木氏については、十五世紀後半の史料がほとんどないというくらい史料が乏しいので、かつ、正木一族では同人で異名表記があるようであり、そのなかで答を求めるのはかなり難しいところです。いろいろ考えて、お答えが遅くなった事情もその辺にあります。改めて考え直し、とりあえず、現段階でのお答えですが、以前にHPに掲上した正木氏についての拙見(http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/masaki1.htm)も、併せてご覧下さい。
質問1について
(1) 「正木大膳」を名乗って、正木時綱の先代ないし同人とみられる者に@道種、A通次、B通綱の三つの名がある。一般に、鶴谷八幡宮の永正八年(1508)の棟札に里見義通と正木通綱の名が見えることから、「B通綱=時綱」とみられているが、通綱の法名が古山正範であるならば、「通次入道政範」(『諸家系図纂』里見系図には「通次入道正範」と記される)と同人とみられる。そうすると、通綱は時綱ではなくて別人で、時綱の父の位置づけとなり、「@道種、A通次、B通綱」は皆、同人ということになる。この場合、義通と同年輩ということではなくて、老臣として通綱はあったことになる。道種は永正十三年(1516)に死んでいるから、こうした見方は十分できるはずである。
従って、政範(通綱)は里見義実の娘婿、成義の妹婿ということは、年代的に妥当し、『新田族譜』や『諸家系図纂』里見系図の記事は妥当することになる。
(2) 次ぎに、「正木太郎」が誰かという問題については、「正木大膳」の子に位置づけるのが自然である。この者が義通・実堯と世代的に同じ「時綱」に当てる可能性が多分にあるが、三つほど気になる要素(肯定できかねる要素)がある。
その第一がたんに「太郎」とあることであり、成人してその後も活動している者ならば、例えば「大膳時綱」と書かれるべきではなかったか。そうでなかったのは、成人後はあまり存命せず、官職を通称として名乗らなかった者だったのではないかという可能性である。第二が、時綱が里見義豊に討たれて長子・弥次郎(大膳大夫)とともに、天文二年(1533)に稲村城で討死したが、長子の通称が「弥次郎」とあることである。ということは、時綱の通称は「次郎」だったのではなかったろうか。兄の太郎が早世したので、弟の時綱が家督を継いで大膳と名乗ったものと推される。
第三に、内房正木家の存在である。これまでの諸説でも、時綱・時茂の系統は外房正木氏とされ、先に発生した内房正木氏の支流のようにみられてきた。内房正木氏で活動が見られるのは、十六世紀半ば頃の弥五郎、兵部大輔時治(おそらく弥五郎と同人か兄弟)とされており、時茂兄弟とは争っている面もあるから、前者は時茂の兄弟には当たらないと考えられる。兵部大輔時治らは、「正木太郎」の子ではなかったか。
なお、内房正木家は、「太郎−兵部大輔時治−淡路守−源七郎」と続いたものか。また、これらのように考えていけば、正木氏は時綱が初代ということではなく、通次などの先祖が安房に在ったことが知られるから、相模の三浦氏支流という系譜は仮冒であることも明らかになる。桓武平氏を称していても、早くから安房に在った三浦一族の佐久間氏や真田氏の同族か、あるいは「大膳」という通称に拘る点からは、古代の安房の膳大伴部の流れを汲む氏(安房忌部か安房国造という古族の後裔)ではなかったか、とも考えられる。
以上の諸事情から見て、「正木太郎」は「大膳時綱」の長兄ではないかと推される。「大膳時綱」の姉妹が里見実堯の妻となっていることで、実堯方についたものであろう。
質問2について
成義の子である実堯と義通のそれぞれの母親については、義通の母が三浦横須賀連秀の娘と系図に見えるので、これを信頼するしかないと思われる。一方、実堯の母親については、『新田族譜』などに「家女」とあるから、豪族の娘ではなく、奥奉公にあがった中小武士の娘ではないかと推され、これ以上の検討材料がない。
質問3について
正木大膳通綱の妻については、成義の妹だと考えられることは先に述べたが、「正木太郎」の妻たる成義の娘については、系図に記事がないので、これ以上の検討はできない。ただ、敢えて推測を重ねると、内房正木氏はその後に「里見の逆乱」を起こしたとされるので、実堯系統ではなく、義通系統に近かった可能性があり、その場合、義通の母と同母で横須賀流三浦氏の出であった可能性につながる。
その他留意すべき点−実尭殺害の前に義豊が家督を継いでいたか?
最近、里見氏の研究のなかで、義通・実堯兄弟の父が初代義実ではないかとみる説(成義の存在を否定する説)がかなり有力になっているとの説明を目にする。その理由としてあげられるのは、義豊が叔父・実尭を倒した原因が父義通の若死した後を実尭が預かり、義豊が成人しても家督を返さなかった事情があったとされることが誤りだとされることがある。
義豊が生まれたとされてきた「永正十一年(1514)」の二年前には、義豊自身が高野山宛で証文を出していること、大永七年(1527)に房州鋳物大工を任命したり、享禄二年(1529)に鶴谷八幡宮を修造しており、これらは里見当主としての行為だとみられることが、義豊は既に家督を継いでいた裏付けとされる。
以上の事情は、実尭殺害の前に義豊が家督を継いでいたことを裏付けるとしてよい。しかし、これは直ちに成義の存在を否定することにはならない。
というのは、義実から義康に至る里見氏歴代当主の生没年の所伝を見ると、死没年は概ね問題がないとみられるが、生年については疑問が大きい(阿部猛編『戦国人名事典』の記事でも同様)。そこで、生物学的な要素を加味して考え、一案を推計で示してみると、義実の生年が1425年頃(所伝よりも十年ほど遅れる)、成義が1450年頃(所伝よりも十年ほど早いが、一伝に1449年説もある)、義通が1475年頃(所伝よりも十年ほど早い)、義豊が1500年頃以前(所伝よりも十数年ほど早い)、実堯が1485年頃以前(所伝よりも十年ほど早い)、義堯が1510年頃以前(所伝よりも数年ほど早い)と修正したほうが妥当ではなかろうか。
このように考えれば、上記義豊の高野山宛証文の年代もとくに矛盾を生じることがない。『諸家系図纂』の里見系図の記事では、義豊が実堯を殺害した天文二年(1533)時には、義豊が三五歳(従って、1499年生まれ)、実堯が五〇歳(従って、1584年生まれ)と見える。これは先に示した推計案とほぼ符合しており、これらはほぼ妥当な年代といえるのではなかろうか。
ここまで見てきたように、安房里見氏や正木氏の系譜・活動年代については、総じて史料が乏しいものの、総合的に考えていけば、一応の考えは示せるのではないかといえそうに思われる。
(2013.2.18 掲上)
これに続く応答(13.2.24掲上)もあるので、併せてご覧下さい。 |
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