<更なる応答>
 
□安房里見氏と正木氏との婚姻関係についての私見と質問      安部川智浩様


 はじめに
 前回の「安房里見氏の系図問題」、先回の「平子氏の系譜」への樹堂氏の回答の中で、鈴木真年編集『新田族譜』が提示され、これを検討することで、従来の「定説」では知り得なかった里見氏と正木氏および他氏の系譜、姻族関係が示され大変に意義深かった。「安房里見氏と正木、三浦氏との婚姻関係について」への回答で樹堂氏が示された内容を基に、幾点か考えるところがあったので、さらなる質問と合わせて記したい。

 
1. 正木氏の系譜について

 従来、外房正木氏の初代として正木大膳「弥次郎」「時綱」が定説としてあげられているが、この「時綱」という名については同時代の良質史料に一切見出せない。「弥次郎」「時綱」という記載は、後世、外房正木氏が自らの系譜を正木氏嫡流、さらには三浦介家嫡流に結びつけることを目的に作成した『三浦系図伝』などでの記載に起因すると考えられる。『三浦系図伝』では、正木「時綱」について、要約すると「称弥次郎、大膳亮、古山正範、永正15年(1518)父兄戦死、里見義通寄、義通妹娶、里見義豊欲殺時綱、疵被、山之城で卒、天文2年(1533)」とある。
 外房正木氏の「初代」とされる正木氏について、「時綱」の実体を平通綱「鶴谷八幡宮棟札銘(永正5年(1508)、享禄2年(1529))、正木通綱(大膳亮)奉里見義豊禁制(大永6年(1526))(『房総里見氏文書集』?千葉大学)に比定するのが妥当を考えられるが、こうした一級史料には通称、法名は一切記載されていない。従って『三浦系図伝』にある通称「弥次郎」、法名「古山正範」については検討の余地がある。(父兄戦没を永正5年(1518)と記している点で、永正13年(1516)の事実と異なる点も、記述の正確度の点で気になるところである。)
 この点について手がかりとなるのは、『房総志料』にある「永正13年(1516) 上総長狭郡郡山城城主 正木大膳道種死す、息正九郎也」という記述である。先に見た正木大膳通綱の戦没は天文2年(1533)の里見氏内乱時とされるので、永正13年(1516)死没とされるこの正木大膳道種とは明らかに別人で、通綱の一世代前の人物であると思われる。「安房里見氏と正木、三浦氏との婚姻関係について」への樹堂氏の回答では、道種を通綱と同一人としているが、「正木氏の系譜について」への回答にあったように、大膳道種を通綱の父親とみるのが妥当と考えられる。『新田族譜』において、この道種と同世代と比定される正木氏を探索すると、里見成義の末妹の婿と記される正木大膳通次入道政範が見出される。道種の子と思われる「時綱」(実体は大膳亮 平通綱)を、『三浦系図伝』では「弥次郎、法名古山正範」としているが、系図の史的位置づけから見て、『新田族賦』を優先すると、法名政範の実体は正木大膳通綱の父、大膳通次の法名とするのが妥当と考えられる。あるいは、里見義豊の年齢の点で不自然さがあるが、永正9年(1512)8月21日発給文書写(『房総里見氏文書集』)にある、この時点で「草範」という法名を持つ者が平通綱の父、通次(道種)であり、「古山正範」は平通綱の法名なのかもしれない。いずれにしても、正木大膳道種と正木大膳通次は同一人であり、正木大膳通綱の父に比定するのが妥当と思われる。天文14年(1545)石堂多宝塔霊盤銘には、平通綱の子、大膳時茂とともに、先代国主(里見)義通の時の項に平通綱、弟実茂とともに平通次の名が記されていることも、この比定を支持すると思われる。
 さらに、「時綱」の通称「弥次郎」については、系譜を永承3年(1516)に族滅した三浦介家嫡流三浦義同の「次子」に結びつける目的に起因するものと思われ検討を要する。むしろ正木大膳家嫡流家の通称「弥九郎」に注目したい。先の『房総志料』では、父、正木大膳道種(通次)の息男として「正九郎」を記載している。後に正木大膳家が、憲時の反乱で一時、絶家の危機を迎えた時、里見義頼の子が大膳家に入り「弥九郎時堯」となっている。こうしたことから、正木大膳通綱の父は大膳道種(通次に比定)であり、通綱の通称は大膳家嫡流の「弥九郎」であったと考えたい。
 正木大膳通綱の長子と比定できる正木太郎については、通称が大膳家嫡流の「弥九郎」でないことから、正木大膳通綱その人とは考えにくく、樹堂氏の回答にあるように、大膳通綱の長兄と考えるのが妥当と思われる。この正木太郎の家が内房正木氏の兵部大輔、淡路守らの系譜へと連なるという樹堂氏の指摘は新たな視点として興味深い。前述のように、外房正木氏は既に、通綱の父で里見成義と同世代の道種(通次)の代から長狭郡郡山城に移動、居住していたことが示唆されるが、道種(通次)の先代の系譜については不明である。しかしながら、先学の指摘にあるように、外房正木氏は、既に内房にて一定の地歩を固めていた内房正木氏の庶家を出自とする可能性が高く、この点で通綱の長兄である正木太郎は、父、道種(通次)の長狭郡への移動の後も内房に留まり、兵部大輔、淡路守などの内房正木氏へ連なった可能性がある。

 
2. 里見氏の系譜について

 里見成義について、最近の論調では、同時代史料に「成義」を見出せないとう事情を理由として、その存在を架空とするものが大勢を占めているが、「横須賀系図」に三浦横須賀連秀の娘婿の一人として「成義」が明記されており、さらに重要な点は、樹堂氏のかねてからの指摘にあるように、生物学的な年代分析から見ての蓋然性から、むしろ里見成義の存在を架空とすること自体が里見氏の系譜関係を著しく不自然にする事情などから、この成義の実在が支持されたことは意義深いものと考える。
質問:『新田族譜』には、里見成義の妻を三浦(横須賀)安芸守連秀の娘とし、その子を嫡子義通と記し、別の妻である家女の子として実堯を記しています。「通字」の点から、『新田族譜』にある義富、義通、通輔は同母横須賀連秀の娘の子達であり、実堯、実倫は同母家女の子らと推測されますが、御印象をお聴かせ下さい。
 
 『新田族譜』は、里見成義の子として男子5名、女子8名を記しているが、実母について明記されているのは、嫡子義通の母として三浦(横須賀)安芸守連秀娘、庶子実堯の母として家女のみであり、他の子らの実母については記載がない。系図の記載順から見て、年長者からあげると、女子(正木太郎妻)、女子(鹿島大宮司中臣則房妻)、義富(織部正)、義通(刑部少輔、上総介)、実堯(左衛門尉、上総介、里見権七郎)、実倫(東條六郎、天津下総守養子)、女子(里見民部少輔義正妻)、女子(烏山左衛門大夫時定妻)、女子(堀内兵部少輔妻)、女子(安西八郎妻)、女子(龍崎内匠妻)、女子(高大炊介)および通輔(里見左京亮、岡本豊前守氏元養子)の諸子である。義通、実堯ら以外のそれぞれの子らの母親がこの三浦(横須賀)氏、家女のいずれであるか、それら以外の女性であるのかを決定する材料はない現状であるが、成義の妻として、三浦(横須賀)安芸守娘と家女の二人以外の女性についての記載が一切ないことから、一応、この二人の女性のいずれかが諸子の実母であるとして、通字および養子、姻族関係の観点を総合して、諸子の実母を暫定的に位置づけてみる。
 まず、「通字」の点から見ると、嫡子義通の名との共通性の点から、義富、通輔らの3名の母は嫡妻三浦氏であり、同様に考えると、庶子実堯と実倫の実母は家女と思われる。天文期の里見氏の内乱において、里見嫡流の義豊に与した者として、中里氏、堀内氏などの里見氏同族や里見氏の主筋である足利公方の奉行衆としての出自を持つ一色氏などがあること、敵対する義堯(実堯嫡子)に与したのは、百首城主をはじめとした内房海岸域に拠点を有する諸氏であったことを考えると里見同族(里見氏、烏山氏、堀内氏)、あるいは主筋足利公方家の家臣(鹿島大宮司家、高氏)に出自を有する諸族と姻族関係を結んでいる者らは、成義嫡妻三浦(横須賀)氏の諸子であり、一方で、里見同族以外の主に内房を拠点とする諸氏(内房正木氏、安西氏、龍崎氏)との養子、姻族関係を結んでいる諸子を成義家女諸子と位置づけたい。里見成義の末子通輔については、先の検討から成義嫡妻三浦(横須賀)氏の子と考えられるが、この者は嫡流家近親者として(里見)左京亮という官職を有し、後に内房海域の岡本城主岡本氏の養子となったと推定され、里見嫡流家の他子らの養子関係、姻族関係とは様相を異にしている。

 
3. 里見氏内乱における正木氏の位置づけ

 永正13年(1516)7月に新井城の三浦介家義同(道寸)が小田原北条氏に族滅せしめられて以降、北条氏の支配は三浦半島に及び、その地政学的環境から、内房諸族もその影響を免れえない状況となった。後に勝浦、大多喜正木氏へと発展した正木氏の出自と思われる内房正木氏もまた、北条氏支配下に置かれたものと推測する。内房正木氏を出自とする正木大膳道種(通次)も北条氏との関係を深め、嫡子に北条氏綱の「綱」の字を受け正木大膳通綱と名のらせた可能性がある。安房国で勢力を伸ばした里見氏は、成義の諸子の代で、こうした内房諸族との婚姻関係を結ぶ者が多く見られ、これら諸子は多くが、本来里見庶流たる実堯と母を同じくする者達であったことが推測される。一方で、本来の里見嫡流たる義通は母を三浦(横須賀)安芸守連秀の娘として、おそらく同母とする多くの諸子は、嫡流家の女子として里見同族の里見氏、烏山氏、堀内氏、主筋である足利公方家奉行衆に出自を有する鹿島大宮司家、高氏らに嫁いだものと推測される。里見嫡流義通なき後、家督を継いだ義豊は、大永6年(1526)の時点で早くも鎌倉を攻めて北条氏への敵対姿勢を鮮明にしている。一方で、里見庶流実堯は、その同母姉妹を介した姻族関係を主体に正木氏、安西氏、龍崎氏、岡本氏(本来里見嫡流家の者と推測されるが、養子先岡本氏の存続基盤に規定されて行動)などとの間で水軍勢力を有する軍事ネットワークを構築する中で、北条氏との協調関係へと傾いて行ったものと思われる。このような里見嫡流として同族氏族を優先とした婚姻関係構築を志向する、あるいはせしめられた義豊にとっては、庶流ながらも内房諸族と水軍ネットワークを構築し、あまつさえ北条氏との協調関係を志向する婚姻関係を基盤とした実堯-正木氏の一代勢力は里見氏統合にとって危険きわまりないものと位置づけられたであろう。義豊は天文2年(1533)7月、里見実堯、正木弥次郎ら誅殺した。この際に正木氏は既に正木大膳通綱の次代の者らの青壮年期に至っており、弥次郎、時茂、時忠らのみならず、その祖先の出自たる内房正木氏らもまた、里見実堯に加担し、父実堯を討たれた義堯が最初に保護を求めたのが内房百首城であり、ここを拠点に北条氏綱に支援を請うたことも上記推測に矛盾しない。百首城は、里見実堯-姻族正木氏-内房諸族-北条氏軍事ネットワークにおける内房正木氏の勢力下にあったものと推測される。

  (2013年2月23日受け)                 


 
 (樹堂の感触)

 史料が乏しいながらも、試行錯誤のなかで少しずつ整理もできてきているように思われますが、ご見解の提示を受けて、さらに以下のように考えてみました。
 
安房里見家第二代の「成義」の名が「横須賀系図」に三浦横須賀連秀の娘婿の一人としてが明記されているという安部川様の指摘は、その通りだと思われる。私が当たった系図でも、例えば東大史料編纂所蔵(神奈川県鎌倉郡浄明寺村の報国寺原蔵)の『三浦氏外十四氏系図』のなかに「横須賀系図」があり、そのなかには横須賀安芸守連秀の子女が五人、女子(里見左エ門佐成義妻)、某(小次郎)、義為(平太郎)、連直(又四郎)、義清(右エ門佐)があげられていて、「義」を名につけている者が二名いることにも留意される。
 さて、 義通の母は横須賀連秀の娘で、実堯の母は家女とされるが、それ以外のこれらの兄弟・姉妹の母については、推測するほかないが、ご提示のように、その活動や命名で考えるしか、現時点での方法はないように思われる。ただ、成義の妻妾は、当時のことだから系図史料に見えるほかにもあった可能性があるので、次のような点を考えておきたい。
 @織部正義富は、家督を継いだ義通の兄におかれており、しかも成長して縫殿助義信や某(山野氏)・義氏(里見弥惣五郎)という子たちを生んでいるので、嫡母(義通と同母)ではなかった可能性があるとみられる。
 A通輔が、「通」の名を兄たる主君から拝領したとすれば、これも同母ではなく、母が卑母であったことも考えられる。
 
 正木大膳道種が通次と同人で、時綱の父として位置づけられるが、「通綱」が道種に当たるか時綱に当たるかの問題がある。時綱が天文二年(1533)に死んだとして、平通綱鶴谷八幡宮棟札銘の永正五年(1508)に見えるのが、いま一つ伝えられる明応元年(1492)が時綱の生年というのに比して、若すぎる問題があるとも思われた事情があった。しかし、先の掲示に見たように、同世代の義通の生年が1475年頃、実堯のそれが「1485年頃以前」と考え直して、これと同世代の時綱の生年が実堯とほぼ同様だとすれば、名前のつながりからすれば、「通綱=時綱」としたほうが自然になるのであろう。
 
 正木時綱の通称は、『諸家系図纂』の「正木系図」などいくつかの系図に「弥次郎」と見えており、これが天文二年(1533)に里見実堯とともに稲村城で殺害された長子の弥次郎に受け継がれたとみられる。一方、相模三浦氏の通称については、先祖の義村(その先祖の先祖の為継・義継の通称もそうだという)などに代表される「平六」あるいは「六郎」、義澄に代表される「荒次郎」というのが家督者に多く見られるようであり、永正十三年(1516)の三浦氏滅亡のときの義意(当時二一歳という)にも「荒次郎」という通称が記される。正木時綱の生没年と活動から、その直接の父を三浦宗家の時高とか義同に結びつけるのは妥当ではなく、三浦氏関係の系図のなかで比較的穏当だとみられる駿河の三浦氏に伝えられた『三浦系図』(東大史料編纂所蔵。別題:三浦八右衛門家譜〔寛政11年9月編〕)には、三浦氏から正木氏の分岐は見られない。
 このように、正木氏はすくなくとも滅亡期の三浦氏本宗からの分出でもなく、義意の「荒次郎」とも競合する「弥次郎」は外房正木氏の通称ではないか、とみられる。正木時綱の次子で正木家督を継いだ大膳亮時茂は、弥九郎を名乗っており、しかも、時綱の先代の道種のときに正木氏本宗から分かれたとしたら、「正木太郎」は道種の兄の子であった可能性もある。また、記事内容の裏付けはとれないが、和歌山市の三浦権五郎原蔵(東大史料編纂所蔵)の『三浦系図伝』には、時綱の弟としてあげる「某 道喜」というのが、実際には時綱の兄で、正木宗家だったのかもしれない。同書には、大膳亮時茂の子としても弥次郎(号酒楽斎)・弥九郎・平七郎(いずれも実名は不記載)という通称のみの三人があげられるから、外房正木氏にとって「弥次郎、弥九郎」は由緒のある通称であったとみられる。 

  (2013.2.24 掲上)

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