□ 児島高徳と今木一族中西氏 (問い) 拙宅は中西武兵衛周徳を先祖と仰いでおり、古代より中世の系と現代から遡った系の接合点を探究しております。備前児島氏流中西家の発祥に関する資料への示唆を頂ければ幸いです。 (中西泰裕様より、09.9.27受け)
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(樹童からのお答え) 『太平記』に南朝方で活動した児島高徳について、明治期以降、実在説と非実在説の争いがありますが、ここではその問題が本論ではないこと、重野安繹らは同書以外にその徴証を見出しえないとして非実在説を説きましたが、その場合には、児島高徳の一族として活動が見える備前の中西氏、今木氏などかなりの人数の武者がやはり非実在とされることになり、おかしなことになりますから、以下では実在説の立場で記述します。
(以下はである体)
1 児島高徳とその一族
児島高徳は、児島(小島)備後三郎とも三宅備後三郎ともいったとされ、『太平記』には元弘元年の元弘の乱に際して後醍醐天皇方に呼応した動きが記されており(巻四)、伯耆船上山には父・和田備後守範長とともに参陣し、千種忠顕のもと京都六波羅を攻撃するなどめざましい動きを見せる。
その一族が具体的に出てくるのは、『太平記』巻十六の「児嶋三郎熊山挙旗事」(建武三年・延元元年〔1336〕)であり、そこには、赤磐市熊山で挙兵した児島高徳に従う一族として、今木太郎範秀・舎弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家(後二者は高徳の甥とある)などが見える。このほか、同書に見える射越・大富・原などもその一族とされよう。和田備後守範長については、今木の一族から和田(三宅)氏に養嗣として入ったとも、こうした形の養嗣は範長の祖父がそうだったとも伝え、系譜はたいへん複雑で難解である。従って、その系譜について確定的なことはいいがたいが、明治期の鈴木真年の記事などを基に以下に記してみる。
まず、鈴木真年が記した『百家系図稿』(静嘉堂文庫所蔵)の巻八所載「小嶋系図」では、上記の中西四郎範顕について、今木連説をとっている。すなわち、今木連範久を祖として、その子の「今木大夫範守、その弟・今木二郎重範−大富又二郎重元−大富隼人允守範−大富二郎親経−中西四郎範房(一に範顕)」ということである。和田備後守範長の曾祖父が重範で、祖父が範守とも伝える系譜(「三宅氏伝記」)もあるから、どちらかの系譜が先後逆転しているが、中西氏が今木氏一族に出たことはありそうである。
※以上の詳細は、『古代氏族系譜集成』下巻の「(参考)称三宅連系図」(1662〜70)をご覧下さい。
この今木氏について、真年の『苗字尽略解』では、天日鷲命の後裔にあげ、「今木 今木連姓、備前国下道郡人」と記載する。
ところで、児島高徳の実在した場合には、その本拠地が邑久郡豊原荘あたりとみられているが、今豊原村と今木村との周辺近隣には、和田、射越、今木、中西、大富といった地名が見られ、上記の高徳一党の苗字と一致している。この辺の事情から見ても、高徳を『太平記』が創り上げた虚構というのには無理がある。
これに限らず、多くの人々を創作的に作り出して、全体のなかで整合性をもった活動をさせることはきわめて困難なことであり、『太平記』にあっては、多少の修飾や訛伝があっても、それだけで全否定という姿勢は慎んだほうがよいと思われる。 2 備前の三宅氏の系譜
児島高徳の本姓は、三宅氏であって、新羅王子という天日槍の後裔とされることが多い。この三宅氏とは、多遅摩毛理の子孫の三宅連であるが、播磨の飾磨屯倉を管掌したことに因む姓氏とされる。ところで、吉備には白猪屯倉という美作地方まで含む大きな屯倉があり、児島屯倉とも記されるが、この管理者とみられるのが三宅臣である。三宅氏には諸国に数流あって、すべてが三宅連というわけではなく、中国の周王朝の霊王の太子晋の子孫という三宅史や多臣氏の一族という筑紫の三宅連などが史料に見える。備前の三宅氏については、臣姓からいっても、太田亮博士のいう吉備臣の一族とするのが妥当とみられる。美作にも勝北郡小畑村の庄屋など三宅氏が多いし、備中の連島城主にも三宅和泉守国秀があり、同国浅口郡西浦の豪家にも三宅氏があって高徳の後裔と伝える。これらは高徳後裔はともかく、古代からの同族ではなかろうか。
また、今木氏というのも、おそらくは地名の今木に因むもので、本姓の今木連というのではなく、苗字の今木ではなかろうか。吉備地方に天日鷲命の後裔の今木連一族が居住したとみるのも、やや不審がある。こうした諸事情を考えると、三宅・児島・和田・今木・中西などの一党はすべて古代三宅臣の末流だとしたほうがよいとみられる。現存の史料では、「今木範久」より先は知られないが、邑久郡和田村の和田氏から鎌倉前期頃に分かれた可能性を考えておきたい。
3 備前三宅一族の後裔と称する諸氏
児島高徳の後裔として、備前の大族の宇喜多(浮田)氏があり、高徳の長男太郎高秀から出たという系譜を伝える。宇喜多氏の先祖・宗家は、文明二年五月廿二日付けの宇喜多修理進宗家下知状に名前が見えるから、この辺から同家の歴史が始まっている。宇喜多宗家の先祖は京都の藤原姓公家だという系譜もあり、この辺の採択は難しいが、高徳の根拠地とみられる豊原村の東北に大ケ島山があり、その山麓には宇喜多能家が居城とした砥石城があるから、高徳の血がなんらかの形で入った可能性もありえよう。
また、高徳の三男三郎高貞が信州を経て三河国加茂郡に下向し、伊保を拠点として活動して三河国田原藩主家三宅氏となったという系譜も伝える。しかし、こうした長距離の遷住はあまり説得的とは言えない。三河にも古くから三宅氏があり、加茂郡式内社の猿投神社の神主家などに見えることなどからいうと、三河古族の衣君の一族で庵(イホリ)君後裔とみるほうが自然であろう。
中西氏に関連がありそうな点を見れば、上記の和田四郎範氏は、『太平記』には児島高徳の甥と記され、その場合には和田備後守範長の孫となるが、範長の甥とも系譜に伝える。その子の左馬允範久はまた徳久とも書くようで、この子孫は摂津国島下郡の三宅氏で江戸幕府の旗本に残ったというが、名前が「範」と「徳」の文字を互いに同じものとして用いた傾向が見られる。そうすると、貴指摘にある「備前児島氏流の中西武兵衛周徳」の徳も、「範」に通じるのかもしれない。
以上、あまり確かな史料がないなか、関連しそうなことを述べてきた。かえって貴研究を混乱させることのないことを願うが、多くの史料に着実にあたっていくなかで、分かってくることもあるのではないかと期待するところである。
(09.9.28 掲上)
<中西様よりの返信> 09.10.4受け
1 「児島高徳の実在した場合には、その本拠地が邑久郡豊原荘あたりとみられているが、今豊原村と今木村との周辺近隣には、和田、射越、今木、中西、大富といった地名が見られ、上記の高徳一党の苗字と一致している。この辺の事情から見ても、高徳を『太平記』が創り上げた虚構というのには無理がある。
」
に付きまして、「備前国邑久郡豊原荘」の資料をご教示下さい。中西家は備前国邑久郡今城村大字北島字北地中西谷の出と聞き及んでおります。
<樹童の感触>
(1) 児島高徳については、宝賀会長がかつて「児島高徳の虚実」という論考を家系研究協議会の会誌『家系研究』第25,26号(1991/12,93/2)に掲載しています。現在、これを見直せば見解が若干変わっているかもしれませんが、一応の検討・説明はなされているのではないかと思われます。
(2) 具体的な地名についていうと、岡山県の旧の豊村・今木村辺りの地名については、立石定夫氏の『戦国宇喜多一族』(1988年刊)あたりに書かれていた可能性もあります。これに限らず、現実に少し詳しい地図に当たられると、岡山県の瀬戸内市邑久町大富がすぐ見つかりますし、その西南近隣に岡山市東区西大寺射越という地名が見えます。邑久町大富のすぐ近くに邑久町向山があって、そのなかに今城小学校など「今城」が見えますから、この辺りがもとの今木となると思われます。邑久町向山のすぐ南に邑久町北島(小字中西)が見えますね。邑久町大富の近くには邑久町豊原もあります。 岡山市東区の西大寺射越の東南近隣には、千町川をはさんで長沼・邑久郷という地名(ともに東区)があり、和田は邑久郡長沼郷射越村の和田(現在の長沼の一部)とされます。
もう少しいうと、かつての豊原荘から吉井川を隔てて対岸の上道郡には松崎村(現岡山市東区の西大寺松崎)があり、この地域に松崎・原氏が居住していたとのことです。
この辺の地理事情については、岡山県関係の大きな地名辞典、例えば角川や平凡社が詳しいと思いますが、に当たってみられれば、事情もより詳しく分かると思われます。
(09.10.8 掲上。10.3.31修補)
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