平井加賀守定武の系譜

(問い) 平井定武の出自は系譜資料で近江・本佐々木氏となっています、また、本貫地も同国の愛知郡平居(現・愛知川町大字平居)となっていますが、これは偶然にも小生の始祖になる岸下十郎遠綱(言い伝え)と同じです。
 言い伝えにも定武なる人物は無く、当家は元亀二年(1571)まで同地に居住しており、鯰江城の合戦で当主が討死して近江を退散しました、平井定武なる人物は本佐々木・愛知氏流なのか、或いは岸下流なのか御教示のほどお願いします。
 
 (平井卓郎様より、09.10.3受け)


 (樹童からのお答え)

 平井氏は全国各地にありますが、近江についていえば平井(平居)という地は三、四個所あり、それらの地に平井氏があったようです。浅井長政の最初の妻の父、平井定武の系譜は不明ですが、一般に佐々木一族の初期分岐である愛智氏の流れを汲むものとされているようです。
 (以下、である体で記述
 
1 平井加賀守定武という人物
 平井定武は、戦国時代の近江国観音寺城主六角氏(義賢、義治)の重臣でその六宿老(『近江輿地志略』等によると、ほかに後藤賢豊、目賀田綱清、三雲成持、進藤貞治、蒲生賢秀〔氏郷の父〕)と呼ばれる。父祖も生没年も不詳も、子に平井弥太郎高明と浅井長政の正室(先妻)となった娘がおり、永禄十年(1567)四月の『六角氏式目』には子の高明と並んで連署している。
  大永五年(1525)、六角氏と浅井亮政との坂田郡長沢における戦いでは、左翼の八幡に三井氏らと守陣しており、六角義賢の代には、天文二十二年(1553)十一月に、浅井久政、義賢との和議に関する書状を出したり、石山本願寺へは使者として派遣されたことが本願寺側の記録に見えるから、その活動時期は十六世紀の半ば頃から後半と分かる。
 当時、六角氏に従属していた浅井久政の子、長政の烏帽子親であり、娘が長政の妻となったが、浅井家臣団が六角氏から独立する動きのなかで当主に長政を擁立すると、離縁され平井家に送り返されたが、長政との間に嫡子万福丸を産んだという。
 定武の近親には備中守定重(覚雲)がおり、その子かとみられる備中守秀定という一族もいた。
 
2 近江の平井氏諸流
 近江には平井(平居)という地は三、四個所あり、それらに平井氏が居たようであり、その流れも三、四あった。順不同であげると、次のとおり。

(1) 高島郡平井……佐々木宗家信綱の子の高島高信の曾孫・師綱は平井左衛門尉を名乗ったが、この流れは戦国末期まで足利将軍家に属し、後に加賀守秀名は信長に仕えたが、子孫は讃岐高松の生駒氏に仕えた。支流が三河にあって安城譜代として旗本にある。師綱の子の時綱は、貞和元年(1345)の足利尊氏の天龍寺供養の際に守護六角氏に従って先陣随兵を務めたから、この平井氏も有力であった。なお、平井定武とほぼ同時代の平井伊予守貞秀やその子ではないかとみられる伊予守秀政(織田信長や豊臣秀長、真田信幸などに仕えた)は、高島郡平井の一族か。
 
(2) 愛智郡平井現愛知郡愛荘町南部の平居辺り)……清和源氏満季流と称した高屋・岸本一族の出であり、高屋四郎定遠の子の重綱が平井七郎とも岸本十郎とも名乗り、名を遠綱と改めたという。遠綱の子・景綱、その子実綱と続き、以降は「実」を通字として、実綱の子の「景実−実康=実邦−実行−氏重」と続いたことが『尊卑分脈』などの系譜に見える。
実は、この流れも佐々木一族と同様、古代佐々貴山君の流れを汲んでおり、清和源氏というのは系譜仮冒である。佐々木宗家一族が平安後期には源姓を称していたことは、永治二年(1142)四月の『源行真申詞記』により知られるが、これは系譜・姓氏の仮冒である。この一族が宇多源氏であって、佐々貴山君の流れのほうが「本佐々木」だという説は誤解である。(高屋三郎為経の位置づけを参照のこと
 
(3) 栗太郡平井現草津市北部の平井辺り)……平井定武の居地ともいわれる。ただし、他の地の地名を移した可能性も考えられる。
(4) 蒲生郡(?)の平井……佐々木秀義の叔父・愛智源四郎家行の子の家次が平井下野権守と号し、その子の平井六郎家政、その子が蒲生郡の佐々木宮(式内社の沙沙貴神社。蒲生郡安土町常楽寺)の神主となった平井三郎定景であり、その子に平井三郎定能・佐々木宮神主定信兄弟がいた。
愛智源四郎家行の兄・井上三郎大夫(豊浦冠者)行実の曾孫も平井源八家員というが、井上行実・愛智家行兄弟の後裔諸氏は、蒲生郡西部(安土町・近江八幡市)に繁衍したから、現在は確認できないが、平安後期ころには蒲生郡にも平井の地があった可能性がある(後述)。この一族の起った地を太田亮博士は、高島郡平井とするが、後裔の分布からして疑問があり、愛智郡とするのも分布からみて遠いという感じがある。
 
 以上の三、四流の平井氏のなかでは、平井下野権守家次の流れが通字などからみて、平井定武の父祖として妥当ではなかろうか。平井三郎定景の母は佐々木宗家定綱の娘ということで、しかも氏神たる佐々木宮神主の職ももったから、佐々木氏族のなかでも有力な支族であったといえよう。定景の子の世代で、おそらく武家と神職家とに分かれたとみられ、平井三郎定能の六世孫の九郎家綱・五郎高定兄弟まで「佐々木系図」に見える(『姓氏家系大辞典』平井第三項)。家綱・高定兄弟の曾孫世代くらいにあたるのが平井定武ではないかとみられる。
 
  (09.10.4 掲上・追補)



 <平井卓郎様からの返信> 09.10.4受け
 
 さっそくのご教示有難う御座いました。
 
 近江に平井(平居)の地名は、次の四ヶ所あります。
  @高島郡、2愛知郡(当郡のみ平居)、B栗太郡、C蒲生郡の豊浦(安土町付近
 
 新版の『愛知川町史』では、同地にある生蓮寺(現在は浄土宗)が平井定武の開基となっておりますが、もともとは禅宗で平居氏の菩提寺だ言い伝わって(私どもでは)います、それに平居城に定武氏が居住していたと記されています。
 同城には平井備前弥四郎(安兵衛とも)が、鯰江城にて討死するまで居住していたと伝わり、子孫は増田長盛公に500石・池田輝政公に360石で仕え、鳥取市で明治を迎えました、近江と言えば、すべてが佐々木氏に結びつけられるのが残念でなりません。
 
 先祖の系譜調査のため、今後ともご指導のほど宜しくお願い申します。
 
 
 (樹童の検討・感触など)
 
(1)調べてみると、たしかに蒲生郡安土町大字下豊浦には現在でも平井公民館があり、この付近一帯が平井とみられますが、これは平井氏の一系の祖が「豊浦冠者」と名乗ったこととも符合します。
 
(2)内藤佐登子著『紹巴富士見道記の世界』では、平井氏の一族について記事がありますので、次に紹介します。
 すなわち、戦国末期から安土桃山時代にかけての高名な連歌師、里村紹巴1525生〜1602没)が永禄十年(1567)春に富士見物に旅立ったときの道中記録を綴った紀行文が「紹巴富士見道記」であるが、そのなかに、紹巴が出会った六角家家臣の中に孝子平井加州(加賀守)・同威徳院(加州の弟か)の名が見えるということです。
 同書によると、平井加賀守定武の父は高好(右兵衛尉、加賀守)であり、大永六年(1526)十二月に右兵衛尉高好、翌七年正月に平井右兵衛尉と『宗長日記』に見え、次に天文十三年(1544)十月に平井加賀守、平井右兵衛尉と『東国紀行』に見えており、さらに『天文日記』には天文二三年(1554)二月に平井加賀入道と見えるとされます。これらのうち、天文十三年の平井右兵衛尉だけが定武で、残りは父の高好であって、「右兵衛尉→加賀守→加賀入道」と呼称が変化しています。息子の定武も、父を踏襲して「右兵衛尉→加賀守」となったことになります。
 このほか、@加賀守を称した高好・定武系が平井氏三流のなかで、守護家に最も重く用いられたこと、A『東国紀行』に平井氏知行の地が「豊良(豊浦)の里」と記され、現安土町下豊浦に平井の地名が残ること、下豊浦小字神楽のうちの刑部は平井刑部の邸跡、小字十七のうちの蛭子は平井氏が蛭子神を祀ったという伝承が残ること、B定武は宗養と両吟を巻くほどの文化的教養の持ち主だったこと、なども内藤氏は記しています。
 田中政三氏の『近江源氏』には、永源寺文書・東寺文書に大永・天文の頃には加賀守平井高好がいて、はじめ右兵衛、後に平井加賀入道宗和と称したとあることを紹介し(ただし、典拠は確認できなかったとも記す)、この高好が永禄四年(1561)に没したとすれば、光岳和尚とも符合すると内藤氏は記しています。

 紹巴が永禄十年(1567)に出会った者のなかに、蒲生左兵衛大夫賢秀・鶴千代(氏郷の幼名)という親子の名も挙げられるのは、興味深いと思われます。
 
 (09.10.4 掲上)



 <平井様からの再信> 09.10.5受け

 再度にわたる貴重なご教示に感謝致します、

 愛知流・平井氏の本拠地を蒲生郡下豊浦、岸下流・平井氏を愛知郡平居と結論づけしてよろしいでしょうか。
 まだまだ、ご教示戴くことがあるやもしれません、特に平井と同族関係にある小椋氏のことがお尋ねしたく思っています、その節には宜しくお願いします。 

 (樹童の感触など)
 最初にも書きましたが、そのように受け取るのが自然だと思われます。太田亮博士も、この辺の地理事情には疎かったようです。結局、栗太郡の平井が平井氏との関係でよく分からないことになりました。

 近江の小椋・小倉氏も数流あるようで、あまりよく分かりません。後世、「実」を通字として見える源姓の小倉氏が、愛智郡小椋庄から起こった岸本氏同族ではないかと思われます。

 (09.10.8 掲上) 

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