大隅の税所一族の川畑氏

(問い))「霧島神宮 税所一族の川畑氏」についての資料が有りましたら、提示してください。
 当方の調べでは、「川畑左近将監」が始祖のようで、同族重久氏の文献に「川波田」等の文献は有りますが、以降の資料が見当たりません。

  (福岡市の川畑祐二郎様より)12.12.28受け

 (樹童からのお答え)

 
 様々な制約がいまあって、ここでは要点を掲げますが、詳しくは以下の記事で示す論考や史料、またそれらを整理した添付系図をご覧いただいて、ご検討・調査を願います。
 
 大隅の税所氏については、五味克夫氏の論考「大隅国御家人税所氏について」(『鹿大史学』第9号、昭和36年11月)があり、『地誌備考』に税所氏古系図二種、『備忘抄』に一種、所載の税所氏系図を整理して掲げるとともに、税所氏の動向について記している。ここで記載する記事も、同論考や太田亮博士の説などを踏まえたものとなっている。
 
 税所氏が藤原姓とも宇多源氏とも称するが、いずれも信頼できない。その本姓は檜前部(ヒノクマベ)姓であったことは、台明寺文書の文治三年四月十一日付古文書等から太田亮博士が指摘し、五味克夫氏も大治五年宗岡重武田地売券等の史料も加えて検討し、これを妥当としている。
 
 税所氏の先祖で知られるのは、平安中期、治安元年(1021)三月に大隅国曽於郡に流され、正八幡宮霧島神社の大宮司になったと伝える檜前部篤如からであり、その五世孫の篤守・篤用兄弟が税所検校職になったことで、篤用の子孫が大隅大介兼税所職を代々世襲して、職名を苗字としたものである。
 
 川畑氏については、篤用の兄・重久篤真(後に改めて篤道)の子孫とされ、添付系図の右側に書き込まれているように、篤真の後は、その子の「河股左衛門尉大夫篤義─篤家─川畑左近将監敦政─敦照」というところまで管見に入っているが、この系図部分については上記の五味氏論考には見えなかったようで、どこで採集したのかは今、記憶にない。
 活動年代は、篤道が安元二年(1176)八月二九日付の文書に「散位藤原篤道」と見えており、この兄弟は頼朝時代の人であり、篤家には「天福二年(1234)」と記されているので、川畑左近将監敦政は十三世紀後半の人と推される。
 この辺及び一族の系図の詳細は、添付系図を参照して、そのうえでご検討下さい。
 
 檜前部姓の起源は、おそらくは肥後南部の葦北国造(吉備臣一族の出だと「国造本紀」に見える)ではないかと思われる。肥後南部及び薩摩には、檜前部姓の諸氏が分布しており、水俣・田浦・湯浦や篠原・永里などの一族の苗字が知られるが、やはり平安中期頃の人ではないかとみられる檜前部政麻呂(政丸)以降の系図しか知られず、現在のところ、篤如と政麻呂との接点は不明である。
 こちらの檜前部姓についても、五味克夫氏の論考「薩摩御家人牛屎・篠原氏について」(『鹿児島大学法文学部紀要』文学科論集第3号、昭和42年12月)があり、また『肥後国誌』『葦北郡誌』などにも田浦氏の系図が掲載されている。
 
 以上、大隅及び薩摩・肥後の檜前部姓の概略を記したものです。

  (13.1.7 掲上)

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