垣屋氏の先祖と一族系譜

(問い)「桓武平氏概観」拝読いたしました。これによると自分の家の系図が少々疑わしくなってきまして、さてそれならば自分の本当の先祖は誰なんだと思い、問い合わせたものです。
 当家の血統は、龍野脇坂藩家老垣屋駿河守、室町時代では山名家四天王筆頭の家系で、室町時代によく先祖の名前が出てきたので所謂戦国成り上がりではないと思っておりますが、はたしてどこからどこまでが真実なのか分からなくなってまいりました。明徳の乱からの成り上がりなのか、それとももっと昔の古部族なのか。この辺を含め、できれば古くはたどれるところまでたどってほしいものですが、江戸時代以降はきちんとした文献があって菩提寺(龍野普音寺)のものを写したと言われていますゆえ、この時期の調査はしなくてもかまいません。
                                                       <来信の趣旨を記載>
 
 (城闕崇華さんより、2011.10.26受け)

 (樹童からのお答え)

  調べてみると、垣屋氏の系譜は相当に難解であり、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』にも、「但馬の豪族にして、一族山陰諸国に多し」とまず記し、明徳の乱に討死した垣屋弾正から書き起こすくらいであり、桓武平氏としながらも、その出自の具体的な記載がありません。一方、インターネット上では、坂東平氏の土屋氏の一族などという形で記事(播磨屋さんの記事など)がありますので、この辺はご参考になるのではないかと思われます。論拠も含めて書くとたいへん複雑で、文章も長くなりますが、管見に入った関係史料にネット情報なども併せて、一応、とりあえずの形でまとめて整理してみたのが、次ぎに記すものです。
 室町期に幕府の四職家の一を占めた山名氏自体が清和源氏の新田氏庶子家からの成り上がりであったため、主な問題としては、@垣屋氏が鎌倉期に具体的な活動が見える氏の後裔であったのか、Aその氏が古代氏族との関係はどうだったのか、ということになろうかと思われます。 
                                                      (以下は「である体」で記述
 
 
1 垣屋氏の鎌倉期の先祖

 「垣屋」という武士については、鎌倉期の重要史料である『吾妻鏡』にも、南北朝動乱期に活動した武士の名前が多く見える『太平記』にも共に一切見えず、主君として仕えた山名氏の中興の祖・山名伊豆守時氏とその一族関係の記事にも現れないことが系譜探索を困難にしている事情がある。
 山名家四天王(四老)の家では、養父郡の八木氏及び朝来郡の太田垣氏は、但馬に古代から繁衍した彦坐王後裔の日下部宿祢一族であったから、先祖の系譜や地元との関係はあまり問題がないが、気多郡の垣屋氏と城崎郡の田結庄(たゆいしょう)氏は桓武平氏を称したものの、そこには裏付けが必ずしもとれない内容の系譜を伝える。田結庄氏は平清盛の家人・越中前司平盛俊の子の越中次郎兵衛盛継の後裔といい、垣屋氏のほうは坂東平氏の土屋氏あるいは千葉氏の一族から出たと伝える。
 垣屋氏については、主家山名氏同様、清和源氏ともいうが(「高畑垣屋文書」)、これはまるで根拠がなく、また千葉氏一族の出という系図(豊岡市の「垣屋系図」)も訛伝か系図偽造的な要素があり、相模の土屋氏との関係が認められれば、それでよいので、これを中心に検討する。室町期の「土屋越中前司豊春寿像賛」は、臨済宗の僧・天隠龍沢(1422-1500)が現したものだが、そのなかで豊春について「人は垣屋と称するが、自らは土屋を号する。また源氏の山名氏に仕えているが、本姓は平氏だという」と記される。

 土屋氏については、相模国大住郡土屋(現神奈川県平塚市土屋)から起こり、源頼朝に仕えた土屋三郎宗遠を初代とするのが最も著名であり、この系統の土屋氏が検討の対象になるが、土屋氏から垣屋氏につながる系図は現段階では管見に入っていないので、両方の氏を検討する必要がある。
 
 
2 垣屋氏についての基本的な動向

 垣屋氏について主要なポイントをまず列挙しておく(順不同)。
(1)先祖について、平継遠(高望王の七代後というが、疑問あり)あるいは重教という。
(2)先祖が上総に移り住んで、垣屋を名乗ったともいうが、この地には地名が残らないようであり、現存地名からいうと、丹波国多紀郡に垣屋の地名があり、現在の兵庫県篠山市域になっている。なお、「垣屋」は「柿屋」とも「垣谷」とも書く。
(3)明徳二年(1391)の明徳の乱にあたって、土屋宗貞など土屋一族の大部分が山名氏清・山名満幸方に属して討死したのに対し、山名宮内少輔時熙方に属したのは垣屋氏の先祖となる土屋弾正系統だけだったことが契機で、弾正は二条大宮の戦で討死したものの、これらの働きが基で垣屋氏の系統は家中で躍進を遂げ、山名重臣の筆頭ともされた。
 誰が垣屋を何時、名乗ったのか、その苗字の地がどこなのか等々不明な点が多いが、『明徳記』には弾正について「柿屋」の表記が見られるから、この頃から土屋に併用して垣屋が名乗られたものか。苗字の地は、上記の丹波国多紀郡の垣屋の可能性があるのではなかろうか。
(4)弾正の子が遠江入道であるが、史料からは端的には弾正・遠江入道の実名は不明である。遠江入道は但馬守護代を務め、蓮華寺の古過去帳から諱は義遠だったこと、二十四歳の若さで死亡したことが知られる。その兄弟ではないかとみられるのが「紀州垣屋系図」の越前守熙忠であるが、あるいは同人という可能性もあるのかもしれない。
(5)垣屋氏は弾正の孫世代に越前守家・ 越中守家・ 駿河守家の三系統に分かれ、本宗の越前守家は但馬国三方郡の楽々前城(兵庫県城崎郡日高町佐田)、後に移転して鶴ヶ峰城(日高町観音寺)を居城とし、越中守家は宵田城(日高町岩中)、駿河守家は轟城(城崎郡竹野町轟)を居城とした。
(6)嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職となったとき、その代官として播磨守護代になったのは垣屋越前守熙続(弾正の孫とされる)であり、熙続の名は『但馬大岡寺文書』にも見える。
(7)応仁の乱以降、主家の山名氏を押え、但馬の中央部である城之崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となった。山名氏は垣屋氏によって出石地方に追いやられ、権威はあるものの小土豪同然となった。
(8)戦国時代後期に、垣屋続成が山名氏重臣の田結庄是義(四天王の一)に討たれる。 垣屋播磨守光成(一族で、続成の孫ともいう)はその仇を討ち、秀吉の中国攻めにあって織田氏ついで秀吉に属して、因幡国巨濃郡の桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)で一万石の大名となる。
(9)関ヶ原の戦いでは、西軍にあった垣屋隠岐守恒総(光成の子)は敗走し高野山で自害したが、一族の垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、駿河守の家系は龍野藩脇坂氏の家老になって残った。
(10)「垣屋」の名前は、東大史料編纂所のデータベースでいうと、十五世紀中葉の文安のころから実際に見えており、文安元年(1444)十月の大徳寺文書に「垣屋熙続遵行状案」がある。これ以降、垣屋豊遠、垣屋宗忠、垣屋豊遠、垣屋宗続などが播磨や山城の守護代などで見える。
(11)垣屋氏の系図は数種類伝わるが、内容は相当に異なっており、その取扱いに注意を要する。それらのなかでは、「紀州垣屋系図」(『但馬志料』に所収)が比較的穏当であって、上記データベースの名前ともほぼ合致する。この系図は、江戸時代に紀州徳川家の重臣の垣屋氏により書かれた系図であり、垣屋恒総の孫・吉綱(光重)が紀州藩に仕え、その子孫の手による。これによると、弾正の名は頼忠となっている(時忠とする系図もある)。
 なお、『校補但馬考』には、「因幡垣屋系図」「紀伊垣屋系図」が収められており、前者は桐山城主垣屋恒総の孫・重政が関ヶ原合戦後に因幡に帰農し、その子孫が作成したもので、桓武平氏を称している。この「因幡垣屋系図」は、従来はもっとも信頼がおかれ、但馬の多くの史書に採用されてきたが、上記の第一級古文書史料上にみえる垣屋姓の人物の名前がほとんど見られない事情があって、信頼をおきがたい。「紀伊垣屋系図」は「紀州垣屋系図」とは別物であるが、これも信頼性に欠ける点がある。轟城主垣屋駿河守家の系図は「龍野垣屋系図」(「高畑垣屋文書」)といわれ、本姓源氏で山名氏の支流とするが、本姓はもちろん、歴代の名前も垣屋諸家の人々を混同させており、信頼性に乏しい。
 ここでは、播磨屋さんが整理しているのを基とした「紀州垣屋系図」の部分を参考までに掲げておく。

 
 
 
3 垣屋氏に関連する土屋一族

 土屋氏についても、垣屋氏に関連する主要なポイントを列挙しておく(順不同)。甲斐での土屋一族の動向も、円都検校・直規・直村の周辺が複雑で判じがたい面もあるが、一応の整理であることにご留意。
(1)土屋氏は、坂東八平氏にあげられる土肥氏の先祖、相模国の中村荘司宗平の子、土屋三郎宗遠が大住郡中村荘の土屋郷司となったことに起る。宗遠の兄弟には、中村太郎重平、土肥次郎実平、二宮四郎友平などがおり、頼朝の創業にあたりこの中村荘司一族がおおいに貢献した。
(2)鎌倉時代には、出雲国持田荘や同国大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭なども出し、各地に勢力を伸して一族を配置した。宗遠の長子の弥次郎忠光は石橋山の旗挙げで命を落としたが、忠光の系統は、その子の次郎忠綱を通じて出雲の土屋氏となった。この系統から垣屋氏が出たという見方もあるが、忠綱以降の歴代は知られず、命名法から見ても、疑問があるかもしれない。
 なお、観応の擾乱(1352)のころ、出雲国の法喜・末次両庄が京都東福寺領であるとの請文を出した土屋秀遠がおり、年代的には本宗の備中守秀遠であろう。
(3)土屋本宗は、宗遠の子の新三郎宗光からその子の「弥三郎光時−三郎遠経−新左衛門尉貞遠−右衛門尉貞包−三河守宗将……」とつながるが、本国相模の土屋郷を本拠とした。
(4)南北朝争乱の初期に土屋三河守宗将・備中守秀遠の親子がおり、鎌倉幕府に離反して後醍醐天皇方になり、元弘三年(1333)の鎌倉攻めには三浦義勝に従い参陣した。その後、暦応元年(1338)には一族の土肥・二宮・小早川の諸氏とともに足利尊氏に従った。子の備中守秀遠は、山名時氏の執事となったとされる。土屋三河守は天竜寺供養のとき(1345年)に参加したことなどが『太平記』に見える。
(5)明徳の乱の後の室町時代前期には、土屋豊前守氏遠・備前守景遠父子の時に一族の土肥氏とともに上杉禅秀の乱(1416年)に加担して、父の土屋氏遠は戦死し、相模国の本領を没収されたことで(大森氏にその跡地が与えられた)、子の景遠は上総国を経て甲斐国に行き武田氏に仕えた。
(6)甲斐の土屋一族では、本宗の土屋刑部少輔信遠の子、右衛門尉昌遠は武田信虎が追放されると信虎に従って駿河国駿東郡大平郷(沼津市域)に移り住んだ。その子弟とみられる土屋右衛門尉直村(円都の近親か)も信虎と一緒に武田家中を離れた模様であり、昌遠の子の円都も武田信虎上洛に供奉して在京中に失明し、後に今川氏・後北条氏に仕えた。惣検校円都は、小田原城攻めのとき徳川家康の配慮で討死を免れ、その子・忠兵衛知貞が徳川氏に仕え、子孫が旗本となって残った。
(7)その一族では、駿河に行った土屋氏の名跡(直村の跡という)を、主君晴信の命により同じ武田家臣団の金丸虎義の次男平八郎昌次(昌続)が継承し、武田信玄・勝頼期に近習として仕えた。昌次の実弟・惣蔵昌恒は、兄の昌次及び養父の土屋豊前守貞綱(元は岡部氏。一に直規)を共に天正三年(1575)の長篠合戦で失い、この双方の家臣たちを継承したが、勝頼自殺の時に織田方の兵と戦い天目山で討死した。甲斐武田氏の滅亡後には、遺臣となった土屋惣蔵忠直(昌恒遺児)は武田遺領を支配した徳川家康に召出され、大名家(常陸土浦藩)として明治維新に至る。
(8)光時の弟の光康の系統は、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭となり、光康の曾孫の孫次郎宗直のとき建武年間に尊氏に従い感状を受け、子孫は室町期まで続き文書も残した。明徳の乱のときには宗能は、参陣しなかったものの、いったんはその領地を奪われ、後に回復した。
(9)光時の子の常秀の系統は、その子の「重秀−重時−重久・重連兄弟」と続くが、このうち治郎左衛門重時は建武の時に足利尊氏に仕えて丹後の領地を賜り、その子(孫の可能性もあるか)の重連は藤倉三郎として明徳の乱に活動したという。その子(子孫?)の重詮は美濃に行って土岐成頼に仕え、子孫はまた丹後に戻ってきて坪倉を名乗った。
 この近い一族とみられるのが明徳時に土屋党にあげられる丹後守護代の大葦次郎左衛門尉宗信であり、そのすこし前に同職にあって山名義幸に仕えた大葦遠江信貞も見え、両者はおそらく兄弟で、「重秀の弟・光秀−宗経−宗義」と続く系統にあったのではなかろうか(宗義の子が宗信・信貞兄弟か)。
 これら建武時や明徳の乱のときの一族の世代比較をすると、宗能・重連の世代に比べ、土屋本宗の平左衛門宗貞への世代数が多いので、親子とされる「貞遠と貞包」「宗弘と宗貞」は実際には兄弟であったのかもしれない。『明徳記』には土屋党五十三人が討死したと見えるが、その実名が分かったなら、もう少し系譜のチェックができる可能性があろう。
(10)垣屋氏の先祖が重教という名を伝えるところを重視すると、重久・重連兄弟の近親に重教が位置づけられる可能性があり、その子の弾正が初めて垣屋祖となったものか。重時が丹後の地を賜り、垣屋が丹波国内であったのなら、通字の「重」に加え、地域的にも近縁となる。
(11)『太平記』でみると、南北朝争乱期には、相模本国の土屋一族は土屋三河守や土屋備前入道範遠・土屋修理亮らが見える(備前入道範遠は三河守の子で、備中守秀遠の兄弟か)。その一方、神南合戦のときには山名伊豆守時氏・右衛門佐師氏親子を大将とする配下手兵のなかに丹波の波多野・足立などに続いて土屋も見えるから、この土屋のほうは丹波住人で垣屋氏の祖先にあたるのかもしれない。
(12)土屋氏の系図は、『諸家系図纂』巻十三の二及び『群書類従』続巻のなかに見えており、これらを踏まえた系図で播磨屋さんが整理しているのを基とした試案を、ここに引用しておく。

 
 
 以上に見るように、始祖の土屋宗遠以降は、垣屋氏一族に到るまで系譜がほぼ連続しているとみられ、但馬の垣屋氏が相模の土屋氏の丹後・丹波方面に展開した支族からでたことは認められよう。
 
 
4 土屋一族の先祖

 土屋宗遠は、高望王の子・村岡五郎平良文の六代孫とする系図が多く通行している。すなわち、良文の孫・上総介忠常(千葉氏の祖)の弟の山辺律師頼尊が山伏になって、上総国山辺郡に住み、その孫の笠間六郎恒宗の子が中村庄司宗平であるとされ、酒匂川の下流域には中村氏一族が繁衍した。中村庄司宗平の子が土屋宗遠である。
 本HPの「相模の中村・土肥一族の系譜」で、中村庄司一族の先祖の系譜を取り上げたが、その要約を踏まえつつ、以下に記しておく。
(1) 中村庄司の先祖という笠間六郎恒宗が押領使となって常陸国新治郡笠間に住んだというのに、その子の代になって何故に相模に遷ったのかという経緯はきわめて不自然であり、中村庄司宗平の父祖は具体的には不明であるとしか言いようがない。ちなみに、『尊卑分脈』では平良文の子の忠頼の子の忠恒の兄弟に頼尊を記さず、忠頼の兄弟に直接、中村庄司宗平をあげて、その子の土肥次郎実平―遠平と続けるが、これは明らかに年代が合わず、一般にも混入とみられるようなおかしな系譜記事が見える。
 さて、中村庄司宗平の長男・太郎重平は父の後を継いで中村郷に住んで、比較的早世した模様であり、その子・太郎景平及び次郎盛平が、石橋山合戦に頼朝方とし見えるが、その後は殆ど現れない。
 重平の弟・次郎実平は、足柄下郡土肥郷に住んで土肥氏次郎と名乗り、源平合戦の時に活躍する。その嫡男の遠平は土肥郷の東隣の早川荘(現小田原市早川)の地頭に任ぜられ、小早川弥太郎と名乗った。この子孫が土肥氏(相模、越中、近江などにあり)と備後で大きく展開する小早川氏である。
 宗遠の弟・四郎友平は、余綾郡二宮郷に住んで二宮氏の祖となった。その弟に堺五郎頼平もいるという。
 
(2) 相模の中村一族の系譜について、本来は平氏ではないという問題提起を具体的に行った論考としては、『神奈川県史』の記事があげられる。具体的には、十一世紀後葉の『水左記』に見える記事を踏まえたものであるが、同書には、承暦三年(1079)八月に相模の権大夫為季と押領使景平との間で合戦が行われ、景平は敗れて首をとられたので、景平の一族は弔い合戦として数千の軍兵を動員して為季を攻撃した、と記される。
 この記事に見える「為季」はその名前と年代、地域からいって、三浦氏の一族で平大夫為次の兄弟ではなかったかと推される。中田憲信編の『皇胤志』には、為通の子として為季を記載する。一方の「景平」については不明であるが、名前からみて、鎌倉党の一員か相模西部の中村荘司宗平の祖ではないかとみられている(私見では、前者のほうの可能性のほうが大きいか)。
 石井進氏も、相模の中村氏について、十二世紀半ばに現れる中村荘司宗平までは一種の闕史時代で、それ以前は詳しいことは何もわからないと述べ、承暦三年に権大夫為季に討たれた押領使景平があるいは中村氏の祖先であったかも知れない、と記述する(「相武の武士団」)。
 
(3) 余綾郡には式内社が一社のみあり、川勾神社かわわ。神奈川県中郡二宮町山西)があげられる。二宮明神社ともいい、二宮全町の氏神、相模の二の宮といわれ、一の宮寒川神社(相模国造が奉斎か)につぐ格付けの古社である。その創建は大和朝廷が余綾・足柄両郡の地を師長国とした時代、第11代垂仁天皇の勅命を奉じて創られたと伝えられる(実際には、創祀は早くとも成務朝か)。中村荘司一族からは、上記のように二宮氏も出ており、二宮四郎友平の四世孫には河勾四郎左衛門尉資忠も見えるから、この点からも古族後裔が傍証される。川勾神社の祭神はもとは級津彦命・級津姫命とみられ、磯長の国を開拓された神だと伝えるが、この夫婦神は風の神であり、鍛冶部族の神であった。磯長は「息長」と同義であって、川勾神社の地が『和名抄』の余綾郡磯長郷であり、その隣に中村郷があった。
 師長国造は鍛冶神天目一箇命の後裔で、建許呂命の子の意富鷲意弥命(大鷲臣命)が成務朝に任じられたのが初祖という系譜をもつから、風神はそれに相応しい祭神といえよう。川勾神社の西側を流れる押切川(中村川ともいい、「川勾」の地名は同川の川曲に因む)の対岸の地域が現在、小田原市大字中村原という地名で残っており、これが中村庄の遺名地であって、この辺りから現中井町にかけての地域が『和名抄』の中村郷の後身として中村庄がおかれたものか。
 
(4) 確実な中村荘司一族では、中村荘司平宗平が史料初見といってよく、宗平は、天養元年(1144)十月、源義朝の部下と相模在庁官人が鎌倉党の根拠地たる大庭御厨に約一千騎で侵入したとき、三浦吉次・吉明親子らとともにその主力兵となっている。中村宗平はかなりの長寿を保ったようで、頼朝の治承(1180)の挙兵に応じて、子の土肥実平・土屋宗遠ら一族挙げてこれに従った。
 
(5)二宮川勾神社の現宮司二見家の家系記によれば、六十五代一条天皇の御宇永延元年(987)、粟田中納言の次男、次郎藤原景平が当社の初代神官となり、爾来今日まで相続き、第三十九代の現宮司に及ぶというが、藤原姓はともかく、先祖に「景平」の名が見えることに留意される。この二見家の家系も、実際には二宮一族に出て、上記の河勾四郎左衛門尉資忠かその弟の渋見六郎左衛門尉行忠の後とみられる。渋見は『和名抄』の霜見郷に通じ、それが旧二見村塩見(現二宮町東部)につながるとともに、第三十三代宮司が二見忠良というように、「忠」の通字を伝えたことも考えられるからである。
 中村庄の西方近隣に位置する足柄上郡曽我庄(現小田原市北部)に起る曽我氏は、中村荘司一族と同様に平姓を称するが、その系譜に諸伝があって、どれも信頼性に欠けており、自然に考えれば、師長国造一族の宗我部の後裔ではないかと考えられる。
 
 以上の諸事情に加え、房総の千葉一族と相模にあった「景平」や中村庄司宗平一族との間での通婚がとくに見られない以上、宗平ないしはその父祖が常総にあって相模の古族後裔と通婚し、これに因んで常総から相模へ遷住したと推測することは、現段階では無理ではないかと考えられる。その場合、一族の二宮奉斎とも相まって、当地の古族後裔とみるのが自然である。残念ながら、師長国造の系譜については、上古の始祖の名を伝えるだけで、その古代系譜はいっさい伝わっていない。
 
   (2011.11.3 掲上)
 

 <土屋 亨様からのご教示・ご連絡>  2011.12.19受け

 たまたま、応答板「山名家重臣垣屋氏の系譜」を拝読。関連しそうな管見資料を、断片的かつランダムにメモしてみます。
 
(1) 山名氏は上野国に名字地をもつ関東武士で、山陰地域へ進出した時期はよくわからない。
 鎌倉末期には、一族らしき人物が山陰で使節を勤めている。出雲国加賀庄持田村の領家職に対する押領を退けるよう命じた山名讃岐守あての奉書があり、その日付は元徳元年(一三二九)十一月十日である[『鎌倉遺文』三〇七七四 左衛門佐奉書案]。承久の乱後以来、加賀庄地頭は土屋一族だったとみられ、山陰の山名氏と出雲土屋が鎌倉時代から交渉の機会をもっていたことを示す史料である。
 
(2) 大葦一族を主力とする武士団が土屋党と呼ばれていたのは何故だろうか。この疑問は、森幸夫氏から指摘いただいた史料により氷解。
 『洞院公定公記』の応安七年二月四日条に「山名金吾禅門青侍土屋大葦女性来 是元西面官女也存旧好来歟」とあり、山名右衛門佐入道師義の下に、土屋大葦という被官がいたとわかる。『大日本史料』(応安七年雑載 贈答・往来)は「土屋大華」と活字化しているが、印影本(増補続史料大成)では「土屋大葦」と判読できる。
 他の史料では「土屋」か「大葦」のいずれかが使われている。「土屋」が本来の名字で、「大葦」は在所名だったらしい。土屋姓の武家が多数おり、在所名で区別していたようである。鎌倉時代から土屋一族の所領だった加賀庄に、大葦(おあし。松江市の島根町加賀、島根町大芦)という村名があった。土屋大葦は、加賀庄大葦を在所とした一族なのではあるまいか。
 
(3) 土屋大葦の一族は、応安頃から約二十年にわたり山名氏領国で守護代を勤めていた。
 史料での初見は、応安五年(一三七二)大葦入道が守護代として但馬へ下向したという記録である[『大日本史料』応安五・一二・七条 祇園執行日記]。
 当時の但馬守護は、山名時氏の長男師義で、丹後・但馬の守護も歴任していた。丹後の守護職は、山名師義からその子義幸・満幸の兄弟に継がれ、大葦一族が守護代を勤めている。
  大葦遠江守[遠江守奉書案 康暦二・二・二五「西大寺文書」](守護山名義幸)
  大葦遠江前司信貞[義幸書状 永徳一・二・二三「西大寺文書」ほか](守護山名義幸)
  土屋土佐守[遵行状案 至徳四・閏五・六「醍醐寺文書」ほか](守護山名満幸)
  大葦左衞門尉宗信[宗信遵行状 至徳四・閏五・六「醍醐寺文書」](守護山名満幸)
 明徳の乱で土屋党を統率していたのは、末尾の大葦宗信だろう。
 土屋党の後裔らしき一族の系図が、江戸幕臣系図集などに収録されている (『寛永諸家系図伝』へ土屋知貞が提出したもの)。
 ちなみに、『太平記』に現れる「土屋修理亮」は甲斐に所領を有していたようである。
鎌倉円覚寺「帰源世代略記」の死亡記事に「土屋修理 甲州人 法号帰源院蘭室聖春居士 相州帰源開基」と見える[『日本禅宗年表』永和一・九・六条]。土屋党遺族らの一部は、この甲斐土屋を頼ったのではあるまいか。
 
(4) 明徳の乱により山名一族の領国は大幅に減らされ、但馬・因幡・伯耆のみになる。そこでも土屋一族が守護代を勤めている。
  土屋次郎[氏冬遵行状 応永五「楞厳寺文書」 ほか](因幡守護山名氏冬)
  土屋遠江入道[時煕遵行状 応永八「醍醐寺文書」](但馬守護山名時煕)
 この一族は垣屋とも呼ばれているが、その由来はわからない。明徳の乱のとき幕府方だった山名時熙の下に垣屋弾正という武将がおり、激戦の中で時熙を守って討ち死にしたという。山名一族を敵味方に分裂させたこの乱では、土屋一族も大葦と垣屋に二分して戦ったのである。
 垣屋氏は、のちに但馬山名氏の四天王の筆頭として活躍しており、その系譜については宿南保氏「但馬山名氏と垣屋・太田垣両守護代家」に詳述されている。
 
…ということで、石井進(編)『中世の村と流通』(吉川弘文館/1992/12/20 出版) 所収の論考・宿南保「但馬山名氏と垣屋・太田垣両守護代家 -垣屋・太田垣両氏の系譜究明から迫る-」の「一 垣屋氏系図」や「三 明徳の乱-山名被官組織の再編成-」が参考になると存じます。
 
 <樹童の感触>
○土屋一族について、適切なご教示、ありがとうございます。
 たしかに、明治の頃の出雲国八束郡には、「…御津村、大蘆村、加賀村…」という村名が見えますが、これらが現在の地名では、松江市の市街地の北方、加賀の潜戸の近隣海岸に南から鹿島町御津、島根町大芦、島根町加賀とならんで配置されます。この「大蘆」が「土屋大葦氏の起源の地」ということのようで、太田亮博士も「大蘆」という地名が出雲にあることをあげていますね。
  
  (2011.12.20 掲上)

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