桓武平氏概観


  桓武天皇後裔では葛原親王流の平朝臣が公家・武家として栄えたとされ、この流れと称する苗字が繁多であるが、関東を中心とする武家平氏はその大多数が後述のように仮冒ではないかと考えられる。
  天長二年(825)閏七月を皮切りに数次にわたり平朝臣姓を賜ったのは、葛原・賀陽・萬多・仲野の四親王の後裔であるが、後世に残ったものの殆ど全ては葛原親王の子孫(ないしは、こう称するもの)であり、大きく二流あった。

@その子・平高棟の後は公家として続き、十世紀末頃の権中納言惟仲の従兄弟・親信の流れは有職故実に通じ、「日記の家」と称された。そのなかには親宗流・行親流などもあったが、近世まで残ったのは信範流のみ。
 この流れでは、華族として西洞院、平松、長谷、交野、石井の五家(
このほか、絶家として烏丸、安居院、葛野、桜町、鳴滝)を出し、武家となったものには、若狭国遠敷郡の丹生・長田(永田)がある。
  なお、清盛の義弟・大納言平時忠の後裔と称する能登の時国氏や大谷十二名(
頼兼、則貞、頼政、頼光、兼政などの諸氏)は系譜に裏付けがなく、疑問がある。同地古族の末裔の可能性もあろう。
  高棟の流れと称する武家としては、佐分(越前国佐分利谷に起り、のち尾張に住。実際には身人部姓の模様)、帖佐・平田(薩隅の大族)などあるが、いずれも仮冒とみられる。仲野親王の流れに、美濃国の内記、鷲巣をあげるのもあるが、これも仮冒。

A高棟の甥・高望の後裔からは平清盛一門などを出し、この系統の武家は関東や伊勢などに大いに繁衍したように伝えるが、確実に平姓の武家は極めて少ない。また、伊勢国奄芸郡一身田の高田専修寺法主は、明治になり華族に列して常磐井と号したが、高望の長子国香の後胤と称した下野国芳賀郡の大内氏(実際には当郡の称清原姓芳賀一族か)の出という真仏上人の後の法系、ただし近世では摂家近衛氏の庶子が有栖川宮の養子となり、高田門跡となってもいる。
  源氏に滅ぼされた清盛一門の末裔と称する諸氏については、頼朝に保護された池大納言頼盛の流れが鎌倉末期まで細々と中下級公家として残ったくらいである。池−播州在田荘などの領家、南北朝期に近江の朽木一族の者を養嗣として文書等を伝える。若林〔尾崎〕−仁和寺宮諸大夫家として近世まで存続。なお、頼盛の兄弟経盛の子・経正の子という経菊丸(源勝)を祖と称する生島氏があったが、平家末裔の裏付けがない。生島氏は摂津国河辺郡生島荘を賜ったことに因むといい、京官人の桂宮諸大夫を務めたが、公卿に昇進した者も数名いた。一族に葛野郡大将軍社社人もあり、その支流に有栖川宮諸大夫の豊島。

  清盛兄弟の子孫が多少とも勢力をもって後世まで存続したことは、殆ど信じ難い。頼盛の流れと称したものは多く、伊勢国一志郡の本居〔本折〕・稲垣・上林、紀伊国日高郡の汐崎〔塩崎〕、伊賀国山田郡の安村、和泉国大鳥郡の上神・小谷、越後国蒲原郡の山吉・池、讃岐の尾池などがあげられるものの、いずれも古族の末流とみられて、疑問が大きい。
  このほか、清盛一門の後裔と称したが疑問大のものには、小松(
紀伊伯耆伊勢土佐丹後にあり。土佐の小松一族には、専当、岡内、中谷川)や陸奥国名取郡の秋保、武蔵国入間郡の小沢、紀伊国牟婁郡の色川・清水や高瓦〔高河原〕・浅里また玉置、伊勢国飯高郡の中津・黒田、近江国甲賀郡の平松、因幡の門脇、阿波祖谷山の阿佐・久保、土佐の幾井・安丸(一に橘姓)、筑後久留米水天宮祠官の真木〔槙木〕、肥後の緒方、周防の杉、飛騨国吉城郡の江間(江馬)・麻生野(アソヤ)・大島、薩摩国川辺郡七島の長浜、平田・日高など。大隅国肝属郡の小牧、大浦、島子も平家落人の末裔と称。
  また、保元の乱に敗れ清盛に誅された平忠正親子の末裔と称する諸氏もかなり見られ、土佐の安岡・五百蔵、備中の馬屋原、三河の中根、出羽の戸沢(光孝平氏などとも称)などあげられるが、いずれも疑問が大。忠正の兄弟、時盛の後と称する豊前国企救郡の長野・貫〔奴木〕一族も疑問大で、これらも古族の末か。
  なお、桓武天皇以降、仁明、文徳、光孝の各天皇の子孫にも平朝臣姓が与えられた。平氏を称する近世の京官人もかなりあり、その殆どでは系統・真偽が不明だが、それらには、津田(伏見宮諸大夫)、丹羽(三条家諸大夫)、日比野(典薬寮史生)、梶江(中務省史生)、中大路(掃部寮史生で、もと岡松と号)、原(内舎人、縫殿寮史生)、吉村(内舎人)、河合(番長家)、赤尾(滝口)、土橋(蔵人所衆)、並河(滝口、青蓮院宮侍。相馬同族というも疑問、丹波出身か)、林(青蓮院宮侍)、川合(醍醐家侍)、野中(中院家侍)、原田(院雑色)、金子(理性院候人)など。

平姓の武家については、高望の流れと称するものが殆ど全てで、伊勢・越後や東国、あるいは九州に大いに繁衍したように伝えるが、確実な平姓の武家は極めて少なく、系譜仮冒に十分な注意が必要である。
  関東に栄えて坂東八平氏と称された良文流という平姓武家は、その全てといっていいほどが、知々夫・相武・師長など東国諸国造など当地の上古代豪族の末裔が仮冒したものとみられる。なかでも、知々夫国造の流れとしてみられるのが、秩父・河越一族、千葉・上総一族、村山党などで、武総を中心に大いに栄えた。相模国造の流れには三浦一族、師長国造の流れに土肥・土屋一族があったとみられる。ただ、高望末子の後という下野の真岡、上野の和田については詳細不明。
  また、鎌倉幕府執権の北条氏も、阿多美禅師聖範より前は疑問大であり、本来、別流で相模の古族の裔(
師長国造一族宗我部の流れで、平姓を称した曽我氏と同族か)であろう。北条得宗家の内管領長崎氏や同被官の南条、肥後(のち種子島)氏も、その北条一族の早い分岐か。
  陸奥の岩城一族も、実際には古代石城国造の後裔であった。丹波国天田郡の榎原の平姓も疑問。

  平姓の武士としてよさそうなのは、平高望の長子国香の子、貞盛流の伊勢平氏(の一部)、その弟繁盛流の常陸大掾一族・越後平氏、国香の弟・良兼流の尾張平氏、及び鎮西の一部の平氏(国香の弟・良持流と常陸大掾支流)くらいであろうか。
  その主なものをあげると、
@貞盛流の伊勢平氏……平安後期以降現れる伊勢平氏と中世以降の関一族がある。
  前者には、伊勢−京及び備中国後月郡にあり、室町幕府の政所執事家、平氏という系譜には疑問も残ることに留意。北条−相模小田原に遷住した伊勢一族、のち武家華族。富田、梅津〔梅戸〕、加用、南部、大矢知−勢州朝明郡人で富田進士家資の後と伝、但し南部・大矢知は清和源氏とも称。庄田、松本、若菜、岡、河田、御薗、堀、舘など。また、主馬判官盛国の後と称するものには、小平(美作国久米南郡人)、水上(但馬国気多郡人)や、豊後国国東郡の本山、岩男(薩摩に分る)などあるが、少くとも豊後系統は疑問か。石見国邇摩郡の月鎮〔月森、月守〕は伊勢一族の出というも疑問。
  後者の関一族には、関−勢州鈴鹿郡人。神戸−河曲郡人。亀山、宮川、山路、国府、加太〔鹿伏兎〕、奥、坂、小塚、峯、佐田、山河、色川、石井、杉山、久留、山中、西川、小岐須−関の一族で鈴鹿・河曲郡等に繁衍、出羽守平信兼の族裔であり、清盛一門の平資盛後裔とするのは仮冒。関は、信濃の伊那郡に分れて、その一族に金田。織田氏が資盛後裔というのは、全くの仮冒。

A繁盛流の常陸大掾一族……貞盛の猶子で常陸大掾職を襲いだ維幹(繁盛の子。あるいは繁盛の孫で兼忠の子)の後。常州筑波郡を本拠とした多気大掾家滅亡の後、本宗を承けた馬場大掾家は那珂郡の府中を本拠として、一族は常陸南部の茨城・行方・鹿島・真壁・久慈郡などにおおいに繁衍。
 大掾家本宗と同じ那珂郡の吉田、石河〔石川〕、恒富、石崎、青柳、枝川、川和田、河崎〔川崎〕、箕河〔箕川〕、栗田、栗崎、市毛、勝倉、道理山(ウベヤマ)、武田、多良崎〔足崎〕、藤佐久〔藤咲〕、市毛、堀口、袴塚、吉沼、新平(ニヒタイラ)、上阿久津、下阿久津、大野、小泉、平戸、島田、人見、白方、常葉、神生(カノフ)など。          
 その他の主な苗字には、下妻、真壁、長岡、白井、飯塚、本木、田崎、大内、椎尾、小栗、河澄、厚科、横島、金尾屋、大関−真壁郡人。東条、高田−信太郡人。行方、長山(永山)、小高、島崎、矢幡、土子、麻生、富田、玉造、手賀、鳥名木(トナギ)、小幡、芹沢、井上、石神−行方郡人。鹿島、徳宿、烟田(カマタ)、鳥栖、菅谷、神谷戸、用慈〔用次〕、安房(アンバウ)、宮崎、札、中居〔中井〕、大岩、梶山、飯岡、阿玉、立原、春秋、林、中村、菅野谷、神野、沼尾、津賀、持寺〔持地〕、粟生、鉾田−鹿島郡人。方穂−筑波郡人。鳥羽田〔鳥膚〕−茨城郡人。その他常陸に金尾谷、大戸、天神、山本、大窪、田野辺、平出、谷田〔矢田〕、佐谷、河股、宇木、久米、竹原、八辻、田谷橋などや、下総国豊田郡の豊田、石毛、同国猿島郡の長須。

B繁盛流の越後平氏……貞盛の猶子餘五将軍維茂(繁盛の孫で兼忠の子、一に兼忠弟)のの子・秋田城介繁成の後で、越後国蒲原郡奥山荘等に居住。城を本宗に、奥山、豊田、浜、玉虫、百束、加地〔加治〕、今津、白川など。維茂の子孫は中世まで衛府武官としてもある。その庶流に陸奥白川郡の石井が出たというが、これは実は岩城一族か。
  なお、紀伊熊野の松本・鬼城や越前の簗田・大塩、伊勢国では桑名郡の茂福〔
持福〕、員弁郡の上木・白瀬・高松の諸氏が越後の城一族の出というのは疑問が大きく、上野国碓氷郡の安中が維茂の後裔で越後より来たという所伝も疑問大。信濃の仁科氏が繁盛流で維茂弟の高衡の後というのも疑問大。

C良兼流の尾張平氏……尾張東部の春日井・愛知・丹羽郡等に繁衍。一族には長田、水野、志談、那古屋、門真、岡田、大田、師桑、立木田など。ただし、武家華族の水野や永井〔もと長田〕は実際にはこれとは別流か。加茂、宮地は三河住か。また、肥前の安住は良兼後裔と伝える。
D鎮西の一部の平氏……肥前の伊佐・福田や薩隅の伊作平氏など、鎮西でも肥前や薩隅日向に繁衍した平姓諸氏があったが、これらの平氏にも十分な検討を要する。肥前国彼杵郡の伊佐・福田などの諸氏は、貞盛流で刀伊入寇の際に活躍した平為賢(常陸大掾維幹の子)の流れ。福田一族には、隈、久間、熊野、石川、沢田、福井、柳川、江東、山下などの諸氏、なかには彼杵郡の古族大村一族も混じるか。

  伊作平次貞時(
平良持あたりの〔猶子〕か?)の流れも鎮西に繁衍し、その子大宰大監貞基(一に良元)の子が平季基で万寿年間、島津荘を開発しており、その流れに、薩摩南部に繁衍した伊作平氏や同国出水郡の莫禰一族等がある。
  伊作平氏としては、薩摩の川辺〔河辺〕、多祢、給黎、頴娃、福本、奥、揖宿〔指宿〕、山川、原田、知覧、川上、木佐木、若松、阿多、薩摩、山口、串木野、森、信時、中島、上野、高野、別府、宮原、大浦、坂本、加世田、谷山、鹿児島、成枝、成松、青木、是枝、成岡、田代、橋口、小牧、上床、久米などに、大隅の中俣で、一族きわめて多し。薩摩の長浜、床次も同じ一族か。
  出水・高城郡の莫禰一族としては、阿久根〔英禰〕、神崎、田代、湯田、大平、大石、牧野、松崎、浜田、久保、遠矢、中尾、山崎、楠田、池之上、鶴島、渕上、山下などで、これも一族多し。莫禰に移転する前に薩摩郡高江に居り、この地にも一族は残って、樋脇、岩元、山口など。
  季基の弟良宗の後に、大隅国肝属郡姶良庄の姶良、得丸、牧山、末次などの一族があった。刀伊入寇時に活躍した大宰少弐平致行(
宗行)も貞時の孫で、この流れには薩摩の山門院〔山門〕・市来崎・木上、日向国諸県郡の救二院・安楽・串間、筑後国三瀦郡の諸富などの諸氏があり、大隅の帖佐・平田も平致行の流れに出たとみられる。薩摩の牧、石塚も良持流という。
 以上は、桓武平氏としても一見よさそうであるが、南方神社の奉斎者としてみれば、問題もかなり残る。〔補論〕薩摩平氏と南方神社について も参照されたい。

  なお、薩隅の禰寝氏(
もとは建部姓)、肥後氏(のちの大隅の種子島氏。その出自は難解だが、伊豆北条氏の支族か。三上氏族を参照のこと)、牛屎氏や日向の野辺氏などは、別系からの仮冒とみられる。


●その他、平氏として疑わしいもの、裏付けのないものをあげると、次の通り。
  伊勢・伊賀の平氏にも古族の末流が混入・仮冒した可能性がある。とくに、平正度の子とされる安濃津三郎貞衡の系統は伊勢北部や三河に栄えたが(伊勢の安濃津・桑名・鷲尾・富津・渡津などや、三河の吉良・多米・尾崎など)、桑名首などの古族の跡を伊勢平氏一族が襲ったか古族末裔が平氏を仮冒したか、判じ難い。現段階では、古族の色彩の濃い苗字が多いことから、仮冒説の立場に傾いている。桑名氏の後というものに、室町幕臣の大和・三重・坂田もいる。その一族という備後国東南部の大族杉原氏については、『尊卑分脈』桓武平氏に記載あるも疑問大きく、和邇氏族吉備穴国造の記述を参照のこと。伊勢南部の称平氏には、壱志君・飯高君などの和邇氏族の流れもあったとみられる。
  同じく、正度の子とされる駿河守貞季の流れに伊賀の平氏が出るとされ、清盛第一の家人といわれた筑前守貞能の一族(平田、山田荘司、伊賀)がそうであるが、山田郡に住んだ伊賀臣か伊賀国造の族裔ではないか(前者にやや傾いている)とみられる。筑前守貞能は平家滅亡のとき、下野の宇都宮氏に預けられており、子孫はその家臣となって山田党と呼ばれ、「貞」を通字として見える事情は、その出自を傍証しよう。
  また、丹波国多紀郡酒井荘に繁衍した酒井党は、平貞能の後とも秀郷流波多野氏の後とも称するが、仮冒であり、尾張の千竈氏の後裔である。酒井党としては、當野、波賀野、初田、矢代、栗栖野、油井、宮林などの諸氏。酒井氏は、のち上総に分れて発展した。



  武家華族として桓武平氏の系譜をもつと称するものは、岩城、相馬、土屋、戸沢、平野、北条、三浦、水野の諸氏と意外に少ない。しかも、これらもその殆ど大多数が、おそらく冒姓で古族末裔であろう(北条氏が伊勢氏庶流の出とするのは妥当なくらいか。ただし伊勢氏も桓武平氏として疑問がある。他は各々関係する項で記述)。また、木下は桓武平氏の流れで杉原一族(吉備穴国造の末流か)の出のような系譜ももつが、美濃の出であって、疑問もあり、秀吉の妻高台院の縁で後世まで豊臣朝臣姓を称した。
  明らかに別系の織田、鳥居も冒姓で平氏を称している。


  このほか、大和国の城上郡の戒重(開住)、吉野郡の津風呂や山辺郡大和神社宮座の森岡どが平姓を名乗ったことが文書に見えるが、おそらく仮冒も、詳細は不明。

  (総括)

 以上のように見ていくと、高棟流の公家平氏及び武家の常陸大掾一族を除くと、桓武平氏という系譜は疑問が大きいといえそうである。武家系図としても比較的信頼できる『尊卑分脈』が桓武平氏の武家について、極めて混乱する簡単な系譜しか掲載しないのは、南北朝期当時のこうした事情を反映したものか。
  これらの見方に関し、具体的な古族後裔という系図が根拠としてあるわけではなく、同時代史料も当然ないが、中央の貴紳家が国司になって任地に根付いたというこれまでの定説的な見方は、仔細に系図を見ると、系図のなかで具体的につながりがないことが殆どであり、俗説に惑わされずに冷静かつ合理的に検討する必要がある。古代から在地の豪族が荘官・名主や牛馬牧の牧監などになり、あるいは追捕使・押領使となって武力化した例は多く、これらが武士の起こりと考えたほうがよい。その過程で、藤原・源・平などの貴紳の姓氏を仮冒したものである。

  (07.9.12、10.5.16 追補)



  武家平氏については、かって『旅とルーツ』誌第62〜68号(1992/6〜95/4)に武門平氏の諸流として、「坂東平氏と伊勢平氏」「鎮西平氏の流れ」というテーマで論考を掲載した。その後さらに検討を進めるうち、上掲記事のように、伊勢でも坂東でも、多くの武家平氏には疑問が大きいことが明らかになってきた。その意味で、『尊卑分脈』など武家平氏については、多面的総合的な系図検討が望まれるところである。桓武平氏の武家系図については、良質のものがほとんどないと事情にあることを十分、認識したうえで、厳しい系図検討が必要なのである。総合的合理的に判断していくと、系図内容の是非はおのずと分かってくるものであり、一般に系図史料があまり良く残らなかったとか訛伝・誤伝も生じがちだして、流布する俗説を受け入れるのは科学的とはいえない。桓武平氏に限らず、古族末裔とみられる武家がきわめて多かったことを認識すべきである。

  この関係では、「相模の平姓武士団の起源」として、 1 鎌倉党の諸氏、2 三浦氏とその一族、3 中村庄司一族と曽我氏、4 伊豆北条氏の系譜、という内容の論考を書き、また、「秩父氏・千葉氏と妙見信仰」という論考も、ほぼ完成させているが、現在まで雑誌等には未掲載の状況である。桓武平氏に関する上掲記事は、これら論考も踏まえて記述したものである。
  

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