肥前の益田氏の系譜

(問い)私の父の本籍は佐賀市東与賀町大字飯盛です。 
 増田氏の系譜関係ではここに昔、豪族の館があったと、昔、ある歴史書(『吾妻鏡』?)を読んだ事があります。菩提寺は本籍から直ぐ近くの佐賀市東与賀町の「地蔵院」です。昔の増田の墓も残っています。
 私は専門ではないのですが、暇を見つけて肥前?増田氏を調べたいので、適当な文献をお分かりでしたら教えて下さい。
 
 (京都市在住 増田 茂様より。2012年10月21日受け)

 (樹童からのお答え)

 マスダという苗字は、増田、益田、沙田、舛田、升田などと書かれますが、そのなかでは増田という表記が抜きんでて最も多く、分布は東日本に多いとされます。なお、豊臣五奉行のうちの「増田長盛」は近江出身とされ、これは「マシタ」と訓みます。次ぎに多い、益田は近畿以西に多く、なかでも石見発祥で柿本朝臣人麻呂の子孫という系譜を伝える益田氏が最も有力で、江戸期は毛利氏の重臣として残りました。また、阿波徳島藩蜂須賀家の重臣に益田氏もありました。
 九州では、肥前の大族高木氏の一族に益田氏がありますが、お問い合わせの「増田」はこれと同じではないかと思われますので、ここでは主にこの肥前益田氏について書いてみます。(以下は「である体」で書きます
 
 肥前の益田氏の系譜関係は不明なことが多く、太田亮博士の大著『姓氏家系大辞典』でも、「肥前の豪族にして、中関白道隆の裔と称す。太郎大夫宗貞の後也、高木条を見よ。」とだけ記されます。
その高木条ではかなり詳しく、その系譜や由来についての記事があるが、益田氏についての記事は見えない。まず、高木氏については、中関白道隆の子、大宰帥藤原隆家の後と多くが伝えており、肥前国佐賀郡高木邑(佐賀市域)から起こって、菊池、竜造寺、草野、上妻などの諸氏と同族で、鎮西屈指の大族とされる。その系譜所伝はいくつかあるが、上記大辞典では、『太宰管内志』に「関白道隆−太宰帥文家−太宰帥文時−中将文貞−太宰大弐季貞−貞永−宗貞」とあり、『菊池国風土記』に所引の「菊池系図」には「道隆−隆家−経輔−文時−文定」とあると記される。この対比で分かるように、初期段階でこの系統は系図を多様に伝えており、もちろん京の藤原摂関家の流れではなく、太宰府の在庁官人たちの後裔が高木氏や菊池氏の一族諸氏であったわけである(具体的な姓氏は確認しがたい面もあるが、火国造や筑紫国造の同族の日下部君姓だったか)。
 
3 高木氏の一族についてはあまり良質な系図は伝わっていないが、例えば、鈴木真年編著の『百家系図』巻31には「藤家高木氏系図」が比較的詳しいようであり、それでは、高木氏の祖・文時と菊池氏の祖・政則を兄弟として、ここから系図が始まる。
 高木氏の系図部分は、文時から宗貞までの五代はほぼ異説がないようであり、これが平安後末期にあたる。宗貞の諸子には宗家・宗綱・宗朝などが見えるが、これらの者が源平争乱期・鎌倉初期に活動したことと史料に見える。うち長男の宗家が肥前国押領使となって本宗を継ぎ、高木太郎大夫・肥前守を称した。宗家は文治二年八月の源頼朝下文により深溝北郷内の甘南備峯地頭職を安堵されている(「高城寺文書」)。また、建久六年八月の「肥前国御家人交名注進状」(「大友文書」)は肥前国押領使大監の藤原宗家により注進されており、高木氏が藤原姓を称したことが分かる。この一族から肥前一宮の河上大宮司に就任も知られ、これら諸事情から古族末裔と知られる。
 次男の宗綱は益田新次郎大夫と称し、これが肥前の益田氏の初祖とされるが、その子たちには成導寺太郎貞益、於保次郎宗益、尻河六郎宗康(嫡子の模様で、子に平野六郎宗季が見える)、笠寺忠益らが見えており、この系統の有力者に於保次郎宗益があったが、同系図では益田の苗字が誰に受け継がれたかは不明であって、系図にはこれ以降で益田の苗字は見えない。
 高木の主な一族では、宗家末弟の宗朝が河上七郎と号し、その父・高木宗貞の弟たちに北野次郎貞家・草野三郎永経がおり、これらの父・貞永の弟たちには上妻四郎顕定や竜造寺の祖・季平、日向花木氏の祖・実遠がいたと伝える。しかし、竜造寺や花木の祖については確認ができず、竜造寺氏には肥宿祢姓という異伝もあり、草野氏も草野常門後裔という所伝もある。
 
 瀬野精一郎氏には『鎮西御家人の研究』という名著(吉川弘文館、一九七五年刊)があるが、そこには「肥前国における鎌倉御家人」という節(第三章第一節)があり、益田氏をあげて、高木氏一族であり、「山代文書」寛元二年(一二四四)四月二三日の関東裁許状に「肥前国御家人通広 益田六郎入道子息」と見えると記される。この記事から年代を考えると、「益田六郎入道」とは先にあげた尻河六郎宗康と同人だとみられる。
 また、弘安の蒙古合戦のときに肥前国守護の北条時定により同合戦の証人として起請文を注申することを命じられた者のなかに益田大夫道円が見えており、この者はおそらく上記御家人通広かその子息くらいの近親にあたるとみられる。この後の益田氏の動向はよく分からない。
 一族を見ると、於保氏では上記の於保次郎宗益の孫の於保四郎種宗が弘安頃の人として知られ(多久文書)、戦功により肥前国執行職に任ぜられた。河上氏では河上七郎宗朝の曾孫の家次が同時代の人とされる。
 なお、『東鑑』(『吾妻鏡』)の建長二年(一二五〇)三月条には、京都の閑院内裏造営のさいに築地三本を供出した「益田権介が跡」という記事が見えるが、これは石見の大族益田氏のことであり、肥前の益田氏については同書になんら見えないことに留意される。
 
 以上に見てきたように、肥前の高木・於保などの一族諸氏や肥前一宮河上神社に関する史料を丁寧にあたっていくと、益田氏関係も出てくるのではないかと思われるところです。佐賀県立図書館には「佐賀県史編纂資料」として関係する系図類も所蔵していますので、鍋島氏や松浦党に関係するものが多そうですが、高木一族についてもなんらかのものがある可能性があるかもしれません。
 
  (12.11.4 掲上)

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