□ 永井直勝の家系 (問い)小牧長久手の戦いで活躍し、その子孫からは大名三家、さらに名奉行として有名な遠山金四郎景元などを輩出した永井直勝ですが、華族類別、家伝によると永井氏は源義朝を討ち取った長田忠致と同族の尾張平氏流長田一族を称しています。 ところが、江戸期には大江姓を称しており、理由として清和源氏末裔を意識し始めた家康の命令で大江姓に改姓させられ、替え紋として大江氏の代表紋として知られる一文字三つ星を用いるようになったとのことでした。さらに貴HPの桓武平氏概観にも「尾張平氏ではなく別の一族の出身」とあります。
気になって太田亮博士の『姓氏家系大辞典』で調査したのですが、平姓とも大江姓ともとれる記述であり、双方の系図が示してありました。大江姓説に着目して読んでみると、大江広元の子である那波宗光を祖とし、宗光から六代目の宗元、その五代目の重光が長田平衛門を称し、その子の直時が永井姓を称したとありました。
しかし、直勝の祖父広正と、この直時のつながりが分かりません。さらに尾張には春日井郡、愛知郡、知多郡に古来からの豪族と思われる永井氏がおり、このうち愛知郡の者が大江姓、知多郡の者が平姓長田氏流を称しているとのことでした。本姓の共通性からして武家華族永井氏は何らかの形でこの古来豪族と繋がりがあると思われますが、お気づきの点があればご教授願います。
(bacit様より、10.1.16受け) |
(樹童からのお答え) 1 永井直勝は、幼名が長田伝八郎で、長田平右衛門直吉(重元)の子であり、生没が1563〜1625で家康の家臣として活躍し、右近大夫従五位下、下総古河七万石の大名まで出世した。その立身の糸口が長久手の戦いで池田勝入(恒興。輝政の父)を討ち取ったことにあり、家康に従い関ヶ原や大坂両度の陣にも参加し、夏の陣の後に加増されて大名となっている。
その家系は平良兼流の尾張国知多郡野間庄(愛知県知多郡の美浜町に野間、その南の南知多町に内海がある)の長田忠致の族裔とされることが多く、主君の源義朝をだまし討ちにした長田忠致の族裔ということを憚って、家康の命により大江姓永井氏を称したともいわれるが、家系が平氏の長田忠致一族から実際につながっているか疑問もあり、かつ、大江姓那波氏や三河大橋氏からの養嗣も入ったと伝えて、きわめて複雑である。
まず、一般に伝えられる家系の概要を見てみると、鈴木真年が『華族諸家伝』の永井直諒条で記したものが比較的分かり易いので、これを示すことにする。
その家系は平五大夫致頼(平高望の子の良兼の孫)の子孫の尾張平氏とされる。致頼の四世孫長田荘司忠致の弟の長田右衛門尉親致の男の長田宮内丞政俊が承久の乱のときに関東の命に応じて軍功があり、その賞で三河国碧海郡志貴庄大浜郷のうちの地を賜り、その八世孫の長田平太夫広常は那波刑部少輔大江宗秀の女を妻としてその間に生まれた子に平太夫政広があり、平太夫政広は子がなかったので大橋中務少輔定広の四男伝八郎広正を養嗣として大浜の荘官を譲ったが、その孫が伝八郎直勝であって、家康に仕えて屡々軍功をたて、家康から、長田氏は源氏の仇であり、汝の祖は大江氏に由縁があるので永井と称すべきといわれて改名したとある。
2
尾張の長田荘司忠致が平致頼の子孫であることは疑いがないようなので、ここまでの系譜の検討は省略する。次ぎに、長田忠致の兄弟として長田右衛門尉親致がいたことも、まず問題がない。というのは、『兵範記』久寿二年(1155)九月廿三日条に「主馬署首右衛門尉平親致」が見えるからで、年代的にも命名的にも妥当であろう。
問題は、平親致の子として長田宮内丞政俊がいたかどうかであり、ここで居地が尾張国知多郡から三河国碧海郡大浜郷(現碧南市大浜上町から南方にかけての一帯)に遷るからであるが、系図では、長田政俊の長子の平太定俊が知多郡野間庄を領して当地の長田・置沢両氏の祖とされ、その弟の平二郎重俊が三河の大浜に住み、以降は歴代が大浜に住んだとされるから、問題がなさそうにも見える。ところが、平親致の子として長忠・長致という二子を伝えるものがあり、名前のつながりからすると、この所伝のほうが妥当に見える。そうすると、永井直勝の祖としては、三河国碧海郡大浜郷にあった長田政俊があげられるものの、この政俊が尾張国知多郡の長田忠致の甥という関係は疑わしいということになる。
平二郎重俊の後の系譜は、子の「俊致−俊広−俊政(仕北条高時、自害)−政道−政継−政俊、弟道俊−広常」と続くが、広常が長田平太夫と名乗るまでは、この一統の苗字は大浜であった模様である。大浜の東北五、六キロの地がいま碧南市長田町と呼ばれ、この地名が何時からあったかは不明であるが、この地に大浜から分かれて来たことで長田と名乗ったものか。この地に近接して東端村(現安城市東端町)があり、『二葉松』には「東端村屋敷は永井右近直勝」と見える。
広常以降は鈴木真年の記すところとほぼ同じであるが、子の平太夫政広は実は大江宗秀の子ともいう。その跡を尾張津島の大橋氏から入った広正が継ぎ、その子が長田平右衛門直吉、さらにその子が永井直勝となる。大橋氏は平姓で清盛の家臣平貞能の後裔を称した鎌倉期からの尾張国海部郡津島の土豪であったが、鈴木真年は、後醍醐天皇の皇子の宗良親王の四世孫が大橋中務少輔定広だと記す。系図では、宗良親王の孫の尹重王が大橋定元の娘を娶り、その間に生まれたのが大橋和泉守信重であって、その子が中務少輔定広だとされる。
広常の弟・平内左衛門信広は甲州に行って武田信綱に仕え永正五年(1508)に七一歳で死去したというから、広常の活動時期が十五世紀の後葉ごろであったことが分かる。信広の孫の永田徳本(号は知足斎。「長田」とも書く)は、「甲斐の徳本」「十六文先生」とも呼ばれ、「医聖」とも称された戦国後期の有名な医者であり、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者であった。武田信虎の侍医となったといわれ、信虎の領国追放後は信濃国諏訪に住み、武田家滅亡後は東海・関東諸国を巡ったが、将軍徳川秀忠の病も治癒したともいう。一伝に長田重元の弟、すなわち永井直勝の叔父とも伝えるが、一族(再従兄弟ということ)の訛伝であろう。徳本の著作には『梅花無尽蔵』(同名の書が三種類ある)が知られ、その生没年は一般に永正十年(1513)〜寛永七年(1630)とされるが、「長田系図」(後記)では生年が十年遅い大永三年(1523)となっていて、こちらのほうが妥当か。
3 こうした永井氏の先祖について、どこまでが確かなのかが不明とみたのであろうか、東大史料編纂所所蔵の『永井家譜(大和櫛羅)』は、明治六年に調査のうえで提譜された系図であるが、直勝・白元(永井監物)の兄弟から系譜を始めて、その祖父を長田喜八郎平広正、父を長田平右衛門重元(後に直吉)と記すのみである。この辺の系譜記載は『藩翰譜』でも同様である。
父の長田重元は松平広忠・家康に属し、本能寺の変の直後の家康の三河への逃避行にあたっては、伊賀越えの後は伊勢湾を渡海して常滑→成岩→大浜というコースのなかで、重元も関与した模様である。
三河国碧海郡大浜郷の長田氏の一族とする大浜氏は、江戸幕臣にもあり、『寛政譜』にも見えて、その祖を長田宮内丞政俊という名ではなく、大浜太郎政俊とし、「長田忠致の兄、長田親致の子」で源頼朝に仕えたといい、家紋は長田氏と同じく「柏葉」とする。大浜政俊が承久の乱のときの功で大浜を領したというのは『東鑑』の裏付けもなく、疑問である。この者は、中田憲信『諸系譜』第二冊の所収の「長田系図」では、政信という名で見えており、文治元年賜三州大浜地頭と記すが、このほうが妥当のようである。
この辺の事情からみて、鎌倉前期の大浜太郎政俊(政信)が大浜・長田一族の祖としてよさそうである。この一族が平姓を称したからといって、しかも長田という苗字をもったからといって、尾張国知多郡の長田氏の族裔とは限らない。上に見たように、長田親致の子として大浜太郎政俊をみることは無理ではないかとみられる事情にある。
しかも、直勝の父・長田平右衛門重元の兄の甚助白重及び弟の喜八郎重吉は、大浜下宮の神主をつとめ、喜八郎重吉の子孫は代々、下宮こと熊野権現神主をつとめたというから、こうした神職の家柄は古族末裔と考えたほうがよさそうである。上記の「長田系図」では、室町前期頃の宮内少輔政継が大浜下宮神主になったといい、その長子の和泉守政俊も同神主であって、文明五年(1473)八月に死去している。 大浜下宮はいま大浜熊野大神社といい、碧南市宮町に鎮座するが、長田白正なる者が紀州熊野権現より勧請したと伝える。碧南市にあるもう一つの熊野社、すなわち「上の宮」と呼ばれる大浜上町の熊野神社が北側にあって、南側の「下の宮」は上の宮から西南に三キロ余の地点に位置する。
大浜の地は、平安中期の『和名抄』では幡豆郡大浜郷と見え、後に碧海郡に属したが、こうした地域で天孫系の熊野権現の神主として続いたということから考えると、物部氏族から出た三河国造の族裔とみるのが穏当なところか。熊野神社は安城市では藤井町・尾崎町にあり、岡崎市では羽栗町などに十社を超える数の同名社がある。延喜式内社の糟目犬頭神社(岡崎市宮地町)でも熊野三所権現を合祭する。
やはり三河国造末裔が奉斎したとみられる知立神社の両神主の一に永井氏があり、宝飯郡の名族にも永井氏があった、と『姓氏家系大辞典』ナガヰ第13項に見える。これを考えると、長田・永井はもともと同族の苗字としてあったのではなかろうか。つまり、源氏の仇だとして長田を忌んだという伝承は疑問となってくる。大江広元の後裔の名族として「長井」氏があったことで、これに因んで大江姓とも名乗ったものであろう。これら三河の永井氏と尾張の永井氏との関係は不明であるが、知多郡緒川村(知多半島の付け根に位置する愛知県知多郡東浦町大字緒川)の永井氏がもと長田氏というから、これは水野氏と同族で長田忠致の族裔であった可能性がある。
なお、『姓氏家系大辞典』オサタ条に見える第12項の大江氏流には、「宗元の五代目の重光が長田平衛門を称して三州大浜庄宮にあり、その子が永井直時」と記載があるが、これは重光が重元の誤記で、永井直時が永井直勝の誤記であることは、その譜註からも分かる。こうした誤記は往々にして系図に見られることにも留意しておきたい。 (10.1.27掲上)
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