□ 幕藩大名西尾氏二家の系譜 (問い) 織田、徳川家に仕えて横須賀藩主西尾家の祖となった西尾吉次ですが、その西尾家の家伝では彼を東条吉良氏の吉良持広の長男とし、西条吉良氏からの養子義安の存在と、織田に人質に出されていたために家督を継げず独立して西尾姓に改めたとしています。 大名としての地位は失ったものの高家旗本として吉良本家が生き残っている中で、なぜ吉良家の血筋であるという家伝を作成したのでしょうか?
また太田亮博士の『姓氏家系大辞典』では、吉良氏説とともに称清和源氏の籾井氏を祖とする可能性もあることが紹介されています。
西尾吉次は本当に東条吉良氏の御曹司だったのでしょうか?
(宗次郎様より、09.9.18受け)
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(樹童からのお答え) 西尾吉次家の系譜は、同じ西尾を苗字とする江戸初期の大名家の西尾光教家の系譜と同様に難解です。今後の検討点の提示という意味も兼ねて、現段階で分かることを整理して次に記してみますが、新しい資料がなんらかの形で分かった場合には、当然再考を要することを予めお断りしておきたいというところです。(以下は、である体)
1 西尾氏両家の藩祖と吉良氏の概観
諸国に西尾という地名と苗字はいくつかあるが、地名としては三河国幡豆郡西尾村(現西尾市)が著名で、苗字・氏としては美濃の西尾氏が室町中期ごろから現れ、幕藩大名の西尾光教家につながっている。ところが、光教家は江戸前期で除封になったこともあってか、その系譜はかなり不審なものしか残らない。もう一つの大名家の西尾吉次家は、遠江横須賀藩、後に安房花房藩として明治に至り華族に列しているが、初代吉次には成人した実子がなかったので、酒井河内守重忠の二男忠永を養嗣に迎え娘を配しているから、男子実系としては早くに絶えた形となっている。西尾吉次自身も含め父祖についてもこれまで不明な点が多く、『藩翰譜』にも「吉次が事、其の家の系図にも精しからず」と記される。こうした事情もあって、その祖先や光教家との関係も含めて、この関係の系譜については解明にほど遠いものとなっている。
この西尾両家の系譜を考えるためにも、まず藩祖二人の経歴・活動の概略を押さえておく。
西尾光教は、生没年が1544〜1616年で、号を小六郎、与三右衛門といい従五位下豊後守に任じた。はじめ美濃の氏家卜全のもとで斎藤道三に属し、つぎに織田信長に仕えて三千石を知行し、秀吉に仕えて天正十八年(1590)に曽根城で二万石を領し、関ヶ原合戦では西軍の家康方に与して大垣城攻めなどで功があり、揖斐で三万石を領しており、大坂両陣にも軍功があった。
西尾吉次のほうは、生没年が1530〜1606年で光教よりも十四歳年長であり、号を小三郎、小左衛門といい、従五位下隠岐守に任じた。はじめ織田信長に仕えたが、天正十年(1582)に信長が横死すると家康に随行して伊賀越えをしたことで、その後に家康に属し、長久手戦に功があった。家康が関白秀吉に初めて対面するため上洛したときに供奉しており(「家忠日記」)、天正十八年(1590)に家康の関東入りに際して武蔵国足立郡原市等で五千石を賜った。関ヶ原の功で慶長七年(1602)に美濃で七千石を加増されて、合計で一万二千石を封されたという。吉次は慶長十一年に卒したが、その養嗣丹後守忠永は原市から上野白井を経て、元和三年(1617)に常陸土浦に移封されて二万石を領し、子孫は駿河田中、信濃小諸を経て遠江横須賀の藩主となった。
ほぼ同年代の二人であるが、年長の吉次のほうが立身が遅く、複雑な動きをしていたことになる。その経歴や年齢を考えると、三河西尾の出で吉良一族東条左兵衛佐持広の子で織田に入質されたという所伝は疑問に思われ、西尾吉次・光教両家は美濃から出た同族であったとするのが妥当のようである。
そもそも三河西尾城の歴史を考えると、この地に吉良一族以外の西尾氏が起こったことは考えにくい。西尾城の歴史は鎌倉前期に遡り、足利義氏が承久の乱の功で三河守護職となり、幡豆郡吉良荘に築城して西条城(西尾市上町に当初あったという)と名づけ、その東方の旧矢作川対岸にも築城して東条城と呼んだ。長男の長氏は西条城主となって吉良氏を号し、同城は戦国後期まで吉良氏宗家(西条家)十四代の居城となった。吉良氏最後の西条城主・義昭に替わったのが、今川氏配下にあった西三河の牧野新次郎成定であるが、永禄三年(1560)に今川義元が桶狭間で討死すると、その翌四年(1561)、徳川家康は家臣の酒井雅楽助正親に攻略させて西条城主とした。酒井正親は西条を西尾と改め、天正十三年(1585)に父の跡を継いだ酒井与四郎重忠は天守を築くなど大修築している。酒井正親による改名が事実ではないとしても、今川氏真判物に、「永禄四年酉年、六月十一日、西尾走廻」と見えるとのことであり、西尾地名の初出が十六世紀半ば過ぎとなる。
吉良義昭の兄が上野介義安(1536〜69)であり、はじめ東条吉良持広の養嗣となったが、西条の兄・義郷の死去によりその家督を相続し、持広もその後死去したので、西条を弟・義昭に譲って東条に戻った経緯がある。天文十八年(1549)に今川氏が織田信広(信長の兄)を攻めたとき、織田に加担した義安は捕らえられ駿府に送られたが、弟・義昭が三河一向一揆に与して家康に敗れ逃亡すると、義安は家康から東条・西条の併有を許された事情にある。その子孫が幕府高家の吉良氏である。
以上のような吉良氏と西尾城の歴史をみる限り、そこに西尾吉次(及びその一族)が入り込む余地がないといえよう。
2 美濃の西尾氏とその動向
(1) 明治になって西尾忠篤から提出された吉次家の家譜(『西尾家譜(安房花房)』)では、藩祖の「吉次ハ東条左兵衛佐持広ノ男ナリ」で始まるが、これが信頼できないことは先に述べた。次に、天文五年(1536)、兄・義安は吉次を尾張の織田信秀の質としたが、このとき吉次は七歳であったと記事が続くが、義安がこの年の生まれだから、まるで辻褄が合わない。さらに天正二年(1574)に厚見郡上奈良村藪田村で知行五千石を与えられたというのも、石高等には疑問がないでもないが(鈴木真年は、信長から「三千石」と記す)、吉次はもともと美濃の人であったのだろう。同十年(1582)に家康が上洛して堺遊覧をしたときに饗応役となり、信長殺害の際に堺から三河まで家康逃避行のお供をし、その翌年に招きに応じて岡崎に出仕したとあるから、この辺から吉次の運がおおいに開けることになる。ともあれ、吉次についても、美濃の西尾氏の動向を見る必要がある。
(2)
美濃の西尾氏については、光教家も同じく、丹波から来た籾井兵庫頭光秀の子孫とされる。『藩翰譜』では、まず三河に来て西尾に住し西尾と名乗るとあり、さらに美濃に遷ったので、両家は同じ流れだというが、三河来住は西尾の苗字への変更の説明付けにすぎず、動きが不自然である。籾井光秀の三河到来はなかったとするほうが自然であり、西尾の苗字も別の由来を考えねばならない。
光教家の系譜について、『寛政譜』では、「兵庫頭光秀−出雲守信光−豊後守光教−豊後守嘉教、弟主水氏教」と記される。これには若干の異伝もあり、「出雲守信光」が伊豆守とも光信とも記されるし、光秀の外孫ともいう。また、光教の嫡男教次(光氏)が父に先立って二十歳ほどで死んだので、外孫(木下氏の子)の豊後守嘉教が跡を継いだが、嘉教の死で大名家は断絶した。嘉教の実弟で外孫にあたる氏教も養子となり、その子孫は四千余石の大身旗本として残った。
また、鈴木真年『華族諸家伝』西尾忠篤条では、源頼信の子の頼清の後裔とし、その孫の四郎清長が丹波に住して十五世が籾井越後守光長で、その子が籾井兵庫頭光秀であって、その孫が西尾吉次だという。この二つを併せると、吉次も光教も籾井光秀の孫であって、互いに従兄弟同士ということになるが、これでよいのだろうか。知行高などからみて、光教家のほうが西尾本家のように取られるが、吉次が十四歳も年長なのである。
(3)
ところで、美濃国中世の諸家についてその系譜を記す『美濃国諸家系譜』という系図集が東大史料編纂所にあり、その第六冊のなかに「西尾氏系図」も記載される。この系図でも、丹波の籾井氏(清和源氏と称したが、源三位頼政後裔など系譜に諸伝あることも記される。他書には藤原姓でも見える)の後裔となっていて、三河遷住の記事も入れられるが、現存するなかでは最も詳しい西尾氏系図となっている。ただし、内容的に十分な検討を要することはいうまでもない。
この系図では、籾井兵庫助(永享八年卒、六十歳ほど)から始まり、その子「五郎左衛門(実は赤井刑部少輔源光家の子)−光宗(太郎左衛門尉、文明十年卒で歳四十余。弟に細野三郎将監)−光秀(兵庫頭、丹波を出て参州に赴。一説に西尾城主西尾小左衛門源信政の婿。大永三年〔1523〕卒。弟に籾井刑部光興があり、丹波に残る)−信光(小右衛門、出雲守或いは伊豆守、初めて号西尾、永正末に遷美濃国。弟に下里小次郎、西尾小三郎信実)−光政(小六郎、与惣左衛門。その子に光教)、弟には吉次(本名忠政、西尾小左衛門、隠岐守)、光村(西尾玄蕃)、某(多芸右近)」とされる。
ここでは、吉次の本名が忠政であって、その兄・光政の子が光教とあるから、両者は叔父・甥の関係であって、これは年齢的にみても無理がない。
信光以降が美濃国で活動することになっており、石津郡牧田城主氏家行隆、その子の安八郡大垣城主氏家卜全に西尾信光は仕え、多芸郡野口村に三百貫文を領したが、天文二年(1533)の牧田合戦で討死した、歳は三七、八。信光の子の光政も氏家卜全に仕えたが、元亀二年(1571)に卜全とともに石津郡太田村で討死にした※、歳は四七(従って、生年は1525)。
※卜全の討死は、伊勢長島の一向一揆討伐戦で、全軍退却の時に殿軍で戦った結果である。
吉次については、享禄三年(1530)に兄と同じ母(宮川但馬守某の娘)で濃州野口村に生まれ、厚見郡藪田村に住んで初めは氏家卜全、次に織田信忠に仕えたが、三河に行って徳川家に仕えたとある。その子に光定、利氏、忠永(養子)、忠永室、某(西尾小十郎、号小倉内記)があり、長子の光定は早世し、その同母弟の藤兵衛利氏は藪田村など千九百石を領したが慶長十六年に歳五二で病死、子に藤兵衛政氏がある。この系図には見えないが、藤兵衛利氏も養子という所伝があり、それ故に家督となれなかったとみられる。利氏の子孫は旗本として存続した。 3 美濃西尾氏の前史
前項までに見たところでは、西尾伊豆守信光が永正の末年ごろ(1520年頃か)に美濃に遷ったと見えるが、それ以前の美濃には「教」を通字とする西尾氏がすでに存在していたことが史料に見える。この「前・西尾氏」と光教家とのつながりがまるで不明となっている。
『姓氏家系大辞典』でも、『船田前記』には西尾直教が斎藤持是院公性に仕えて忠功ありと見えるが、この直教が伊豆守にあたるべしという『新撰美濃志』多芸郡条を引いているが、西尾直教が活動したのが十五世紀末の船田合戦であるから、伊豆守信光よりも一ないし二世代古い人である。西尾直教の娘ないし孫娘に伊豆守信光が入ったか、西尾氏の外孫かという可能性が考えられるが、この辺が不明である。
十五世紀後半の応仁文明の乱後に美濃国安八郡大井庄に登場するのが西尾氏であり、西尾直教は大井庄の学侶方のいくつかの代官職となって年貢納入を請け負っていた(延徳二年〔1490〕11月21日付西尾直教請文)。これに続いて、船田合戦絡みで、明応三年(1494)には、石丸利光の反逆の謀みを秘かに斎藤持是院公性に告げてその危難を免れせしめたという。『船田前記』には、「西尾氏・前駆となり、西尾氏某等戦死三人」とも記される。
いま美濃には「西尾」の地名が見えないから、西尾直教の素性や起源の地は不明なままである。この辺の探索ができないものかと思っている。
(09.9.24 掲上)
<宗次郎様より来信> 09.9.26 仮に西尾吉次が本当に吉良家の出身だとするのならば、吉良氏ゆかりの引両紋を用いていてもおかしくないと思うのですが、実際の横須賀藩西尾家は西尾光教と同じ櫛松紋を用いていたらしく、両家は美濃発祥の同族ではないかという樹童様のご意見を証明しているように感じました。 また、実在が疑わしいと言われているものの、吉良一族であり元駿河守護の高家・今川氏真の子という安信なる人物が西尾姓を用いたということが姓氏関係の本、他のホームページに掲載されており、横須賀藩西尾家もこの人物に着想を得て、家祖吉次が吉良一族の出である家伝を作成したのかと勘繰りたくなるところです。 (09.10.4 掲上)
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<高樋孝助様からの来信> 09.10.12受
幕藩大名西尾二家の系譜につきまして、簡単に補足させていただきます。
1 美濃の西尾氏につきまして、岐阜県在住の研究者である私としては、前々から関心のあるところでした。それは、私の居住する中津川市には、隣接する恵那市共に西尾姓の世帯が多い地域だからです。
西尾直教については、『岐阜県史』の記載や東大のデータベースで容易に見出せます。西尾光教が直教の系譜に連なる者であることは、その通字から想像することができます。その通字をもつ西尾氏は、岐阜県史史料編古代中世一953ページの寛正3年(1462)の文書に西尾右京亮廣教の名を確認できます。西尾直教が兵庫助を名乗ったことから、廣教は別人だと思われます。
2 美濃周辺の西尾氏としては、尾張の大草城(小牧市大草)の西尾式部道永が知られています。大草城は、文安年間(1444〜1449)の築城とされています。大草城の近辺には、春日井市に西尾地名がありますが、「さいお」と呼ぶようです。西尾道永は、その後美濃の萩の島城に移ったとされます。萩の島城は、東美濃の恵那市と瑞浪市との境に所在します。文明年間に小笠原氏と木曽氏連合軍の美濃攻めの攻撃対象であった「大井城・萩の島城」の萩の島城です。その際の城主が西尾道永であったかは、不明ですが、その可能性はあるのではないでしょうか。
道永の東濃進出は、岩倉織田家の関係と東濃の桔梗(土岐氏)の後退と密接な関係があるものと想像できますが、それが西濃の西尾氏といかなる関係があるかは分りません。ただ、木曽川を境とした美濃と尾張については、他の戦国武将の系譜をみたときに相互に移動している事は知られているとことであり、犬山や楽田の人的な動きを考えると西美濃と犬山周辺とは割りと近いのかも知れない。
萩の島城の西尾氏は、天文年間に岩村遠山氏の遠山景前の支配下に組み込まれたものとみられます。そして、その後萩の島城の周辺は遠山佐渡守信光(延友信光)が天正年間まで支配しました。
3 『武功夜話』に武田勝頼の夫人になった遠山勘太郎の娘について、「西尾氏女の事」として記載されています。『武功夜話』の真偽については議論がありますが、川並衆の元締め的存在であった生駒家、苗木貫太郎の苗木城、先の萩の島城の西尾氏いずれも木曽川の中下流域に関係しています。これらの関係が、『姓氏家系大辞典』で太田氏が、西尾氏の条で「6 美濃源姓 ……。遠山條参照。……」としていることと関係しているのかもしれない。
4 中津川市の指定文化財に「樫原文書」というのがあり、中津川市福岡に存在した遠山氏の系譜をうける樫原氏の系譜に続けて西尾姓が記載されています。この系図は、天文年間以降に西尾安昌・高昌と続き、通字を昌ないし勝としている。木曽氏配下の西尾昌弘(宮越丹波守)もこの縁者とみられます。これに関連しては、中津川宿の本陣市岡氏の祖とされる飯田城主京極高知配下の金場奉行を務めた西尾勝永・西尾正勝(昌勝)親子もそれに連なるものとみられます。
5 これら西尾氏の関係について、現在史料を収集しているが、早晩論文にしてまとめるつもりです。
<樹童の感触など>
情報等のご連絡ありがとうございます。東海地方の西尾氏については、総合的に検討する必要性を感じます。
ところで、
1 美濃の西尾氏についていえば、謎が多く、その苗字の起源の地は不明ですし、土岐氏家臣団のなかでの地位からすれば、しかるべき出自ではないかと思われるものの、それがまったく不明であり、西尾右京亮廣教・西尾兵庫助直教の流れを引くとみられることは、西尾光教らの「教」通字からも窺われますが、この関係も分かりません。西尾光教が丹波の波多野一族の籾井氏から出たという系図は、ほかでも見られます。
2 阿波徳島藩重臣の西尾氏
三河出自という西尾氏が阿波徳島藩蜂須賀氏の家中に二千石余取りの重臣としてあります。その系譜・事歴が東大史料編纂所に『西尾家成立書并系図』(文久元年〔1861〕成立)として所蔵されます。その初代が西尾理右衛門正吉(初名安)で、参州に生まれ父母不詳で、西尾隠岐守に従ったと記されます。また、後に蜂須賀小六正勝・家政親子に従い、徳島藩家中にあって、徳島で没したと記されます。
この西尾氏の系図が中田憲信編『諸系譜』第四冊に「西尾系図」として所収され、そこでは足利一族吉良氏から出たとされ、吉良持助の弟・右馬助義幸を祖として、その子の「義英(中務大輔)−義景(越後守)−義福(源五郎)」と続いて、義福の子に安・義任(吉良刑部)の兄弟をあげ、安には、「吉良源次郎、西尾理右衛門。母奥平監物貞勝女、西尾に生まれ、……(中略)……元和三年五月十五日阿波徳島に卒す」とあって、系図が明治期まで及んでいます。
これを上記の『西尾家成立書并系図』と照らしたとき、西尾理右衛門が吉良一族から出たというのは疑問な面もありますが、吉良持助より古い時代の吉良傍系に西尾を名乗る者も記載されており、三河の西尾氏はなんらかの形で吉良氏と関係があったのかもしれません。
もう一つ、「西尾系図」には、吉良持助の四代後の持広の子に小左衛門吉次と義安とをあげるという注目点があります。『西尾家成立書并系図』の記事からいうと、西尾理右衛門が西尾隠岐守に従った経緯があることが分かりますから、実際には西尾理右衛門も西尾隠岐守吉次の同族であって、ともに三河の吉良氏に系譜を接ぎ木したのではないかとも推されるところです。
こうした意外なところに西尾氏があった例もありますから、多くの関係資料を集めて総合的に考えていくことが必要だと感じる次第です。 (09.10.14 掲上)
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