05.4〜07.3の掲上分 その項目は以下のようなものです。 □ 碓井貞光の後裔と溝井氏 (附.相模三浦氏の出自) □ 房総の正木氏の系譜 □ 稲背入彦命の系譜 □ 石川有光後裔と関係者 (関連性から別の頁に掲載) □ 伊勢三郎義盛の出自と平姓伊勢氏 □ 通字について □ 甲斐の市川氏 □ 野与党と秩父党との関連 □ 伊勢津彦と建御名方命との関係 □ 石城国造の出自 □ 志布志の野辺氏の出自 □ 小笠原備後守成明の系譜 □ 「足助族譜」の成立 □ 鹿児島県の奥氏とその関係諸氏 □ 土岐頼武という人物 □ 『陸奥話記』の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係 □ 讃岐の佐伯直 □ 芦立という苗字の由来・出自 □ 上総介広常の系譜 ※ 過去の掲示・応答板の総目次 |
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□ 房総の正木氏の系譜
(樹童からのお答え) 房総の正木氏については、戦国期以前はその活動が明らかではなく、一般に相模の三浦氏末流説が通行しています。乏しい史料のなかで考えますと、三浦氏一族の者が正木氏中興の祖となったことは疑問が大きいうえ、仮にそれが史実であったとしても、それは古族末流の家を継いだ可能性があると思われます。詳しくは 房総の正木氏の系譜 をご覧下さい。 (07.2.19 掲載) □ 稲背入彦命の系譜
(樹童からのお答え) これは、応神天皇や息長氏族などの系譜に関係する難解な問題で、簡単に説明することも難しいものですが、 稲背入彦命の系譜 において、概要を記しましたので、ご覧下さい。 (06.5.14 掲載) □ 伊勢三郎義盛の出自と平姓伊勢氏
(樹童からのお答え) 問題点のご指摘と着眼の良さには敬服します。これまで、あまり検討したことがなかったのですが、乏しい資料のなかで調べていくと、ご指摘にあるような判断に傾きます。詳しくは、 伊勢三郎義盛と政所執事伊勢氏の系譜 をご覧下さい。 (06. 4.24 掲載) 関連して、 北条早雲の出自について の応答もあります。 □ 通字について
(樹童からのお答え) 通字などの命名法については一概にいえることはあまり多くなく、個別具体的に考えていかねばならないと思われます。詳しくは、 通字について をご覧下さい。 (06.4.16 掲載) □ 甲斐の市川氏
(樹童からのお答え)
甲斐国八代郡の大族市河〔市川〕氏は、その系譜が複雑であって、橘姓・源姓・藤原姓とも称しており、おそらく実系としては甲斐の古族の末裔ではないかと推されます。その系譜は難解ですが、一応の試案を 甲斐の市川(市河)氏 で記してみましたので、ご覧下さい。
(06.2.1 掲載。その後も追補があります) |
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□ 野与党と秩父党との関連
(樹童からのお答え) 野与党・村山党と千葉一族との関連では、実系と養猶子関係、通婚が入れ混じって、きわめて難解なものとなっております。地域的に考えると、野与党は武蔵国埼玉郡を中心として分布した武蔵国造系、村山党は同国入間郡を中心とした知々夫国造系となると思われますが、男系的にはともに千葉一族と深い関連があったものとみられます。 試論ではありますが、 野与党・村山党と千葉一族との関係 をご覧下さい。 (06.1.29 掲載) |
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□ 伊勢津彦と建御名方命との関係
(樹童からのお答え) 伊勢津彦と建御名方命との関係については、江戸期に当時の著名な国学者の間でも一致せず、本居宣長は同人説、伴信友は異人説を唱えており、『伊勢国風土記』逸文の記事があいまいな部分をもつため、難解なものとなっています。 結論からいえば、両者の子孫を考えて、伊勢津彦は武蔵・相模などの東国諸国造の遠祖であり、建御名方命は諏訪大祝など神氏一族の遠祖であって、別人と考えられます。詳しくは、 伊勢津彦と建御名方命との関係 をご覧下さい。
(06.1.23 掲載) |
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□ 石城国造の出自
(樹童からのお答え) 古代の石城国造については難解な点が多々あり、古代史の学究においても様々な混乱が見られます。その出自・系譜については、「国造本紀」や『風土記』(常陸、陸奥逸文)、『古事記』などで記される記事を踏まえて整合的に考えれば、天孫族系の天目一箇命の後裔で(三上氏族、出雲国造と同族)、常陸国多賀郡から陸奥国石城郡にかけての地域を領域とし、近隣の石背国造・那須国造などと同族関係にあったものとみられます。
以上は、結論的に書きましたが、詳しくは 石城国造の出自 をご覧下さい。 (05.10.31 掲載) |
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□ 志布志の野辺氏の出自
(樹童からのお答え)
HPでは、薩隅の禰寝氏、肥後氏(のちの種子島氏)、牛屎氏とともに、「日向の野辺氏などは、別系からの仮冒とみられる」と記したものですが、桓武平氏はもちろんのこと、小野朝臣姓と称する武蔵の猪俣党に出自するという説も否定しております。実際の出自は、京都でも関東でもなく、日向の古族末裔の日下部宿祢姓とみられます。詳しくは、 志布志の野辺氏と日向の日下部一族 をご覧下さい。
(05.10.24 掲載) |
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□ 小笠原備後守成明の系譜
(樹童からのお答え) 重要なご指摘ありがとうございます。阿波の一宮氏の系譜については、疑問や問題点が多く、私自身考えが転々しております。いま、ご指摘を受けて、再検討したものを 阿波の一宮氏の系譜 という形で整理してみましたが、こちらをご覧下さい。もちろん、これも試論です。
(05.10.23 掲載) |
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□ 「足助族譜」の成立
(樹童からのお答え)
問い合わせを突き詰めれば、「足助族譜」の成立とその採集の過程についての見方ということになりますが、記事内容等から見て、『分脈』を基礎にしたとはあまり思われません。とりあえずの見解で恐縮ですが、 「足助族譜」の成立など をご覧下さい。
(05.8.23 掲載) |
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□ 鹿児島県の奥氏とその関係諸氏
(樹童からのお答え)
薩摩・大隅及び日向三州の中世武家の苗字については、鈴木真年翁関係の諸系図史料には殆ど見えず、私もこの地域にあまり詳しくはなく、必ずしも明確な説明ができません。
ここでは、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』や角川書店の『鹿児島県姓氏家系大辞典』等を踏まえて説明しますと、江戸初期に島津氏に仕えた奥氏が数名(島津忠恒に仕えた小者の奥関助入道休安など)見えますが大身ではなく、奥氏としては有力な武家はいなかった模様です。その系譜としては、薩南に繁衍した伊作平氏一族とするものがありますが、その活動は殆ど知られませんので、関係する諸氏のうち有馬氏を主に取り上げ、 薩隅の有馬氏と執印氏・伊作平氏 という項目で、とりあえず概略の記述をしておきます。 (05.8.15 掲載、同8.16補訂) |
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□ 土岐頼武という人物
(樹童からのお答え)
ご提示のように、土岐頼武と頼純については、同人説と親子説とがあり、圧倒的大多数が同人説といえますが、地元では親子説もかなり強いようですね。ただ、これは数の問題ではありませんので、十分な検討を要します。
結論的には、多数説のいう同人説でよいと考えますが、その思考過程・論拠については 土岐頼武と政頼、頼純との関係 をご覧下さい。
(05.6.26 掲載) |
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□ 『陸奥話記』の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係
(樹童からのお答え)
両者はほぼ同時代の人のように見えますが、全くの別人で、姓氏も異なりますので、同人とするのが不思議なくらいですが、藤原景通は加藤氏の祖(頼朝に仕えた加藤次景廉の祖)であり、鎌倉景道は梶原氏の祖(同じく梶原平三景時の祖)です。
詳しくは、『陸奥話記』所載の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係 をご覧下さい。 (05.6.19 掲載) |
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□ 讃岐の佐伯直
(樹童からのお答え)
(1)については、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』サヘキ条の記事にありますが、その基礎となっているのが『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。
すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫ら十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に貫したという記事ですが、この賜姓にあたり、当時正三位中納言兼民部卿の地位にあったあった伴善男が、書博士豊雄の系譜の主張を家記に照らして検討するに偽りではないと奏言したので、これに従った措置であると同書に記されております。
(2)については、空海の母が阿刀氏とされますが、それ以外に通婚などの関係があったかどうかは不明です。京都国立博物館には阿刀家文書が所蔵されており、そのなかに無題の一枚紙に空海関係系図が記されております。
これら讃岐の佐伯氏と阿刀氏については、 讃岐の佐伯直とその一族 をご覧下さい。
(05.6.5 掲載) |
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□ 芦立という苗字の由来・出自
(樹童からのお答え) 1 伯耆・因幡地方の物部連一族のなかであげた該当記事「伯耆国日野郡楽々福神社旧神主の入沢・名沢〔那沢〕氏は、大矢口宿祢を同祖とし、物部姓という。日野郡の楽々福明神奉斎に関与した三吉、田辺や芦立〔蘆立〕も同族か。」の芦立関係部分については、いまただちに出典を明確にできませんが、『式内社調査報告』や地域史、『姓氏家系大辞典』などの資料を踏まえて整理・推定したものと記憶しております。
2 宮城・山形県の芦立氏については、山陰地方と起源が別ですが、背景を含めてかなりの説明・検討が必要ですので、 奥羽の芦立氏の起源試論 をご覧下さい。
(05.5.29 掲載) |
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□ 上総介広常の系譜
(樹童からのお答え) 詳しくは、 上総介広常の系譜と初期房総千葉一族の相続制 をご覧いただければと思いますが、かつて様々な角度から初期の千葉一族の系譜を考えたことがあり、結論的には問いで引用される一般に通行する系譜でよいと考えます。
常時と常晴とは、どちらが正しい表記か判断がつきませんが、いずれにせよ、一方は他の一方の誤記か変更後の名前ということです。
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