5-4 掲示板・応答板     


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   05.4〜07.3の掲上分 

  その項目は以下のようなものです。

  □ 碓井貞光の後裔と溝井氏  (附.相模三浦氏の出自)
  □ 房総の正木氏の系譜 
  □ 稲背入彦命の系譜
  □ 石川有光後裔と関係者 (関連性から別の頁に掲載
  □ 伊勢三郎義盛の出自と平姓伊勢氏
  □ 通字について
  □ 甲斐の市川氏
  □ 野与党と秩父党との関連
  □ 伊勢津彦と建御名方命との関係
  □ 石城国造の出自
  □ 志布志の野辺氏の出自
  □ 小笠原備後守成明の系譜
  □ 「足助族譜」の成立
  □ 鹿児島県の奥氏とその関係諸氏
  □ 土岐頼武という人物
  □ 『陸奥話記』の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係
  □ 讃岐の佐伯直                                    
  □ 芦立という苗字の由来・出自
  □ 上総介広常の系譜

  ※ 過去の掲示・応答板の総目次


□ 房総の正木氏の系譜
 戦国時代に房州で活動した称三浦氏後裔正木氏は初代を正木時綱とし、「寛永諸家系図伝」では、この者を三浦義同(道寸)の次息とし、その系譜を三浦氏に関係づけています。この時綱を三浦氏とする説には上記の他に、三浦時高最晩年の末子などの説があります。時綱が死亡した天文二年(1533年)からすると、上記の2説は年代的には一応成立可能です。安房正木氏については、新井城落城以前の、既に1508年の段階で、安房国鶴谷八幡宮の棟札に、「国衙奉行()通綱」の署名が見られます。本HPの「江戸山王社家の系譜」では、正木氏を安房忌部氏の末流と位置づける考えが示されます。
 房州正木氏がその系譜を三浦氏と主張する根拠の可能性について、どう考えますか。

 (tabekawa様より、07.2.13受け)

 (樹童からのお答え)
  房総の正木氏については、戦国期以前はその活動が明らかではなく、一般に相模の三浦氏末流説が通行しています。乏しい史料のなかで考えますと、三浦氏一族の者が正木氏中興の祖となったことは疑問が大きいうえ、仮にそれが史実であったとしても、それは古族末流の家を継いだ可能性があると思われます。詳しくは 房総の正木氏の系譜 をご覧下さい。

  (07.2.19 掲載)



□ 稲背入彦命の系譜

 「稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇等の父であり、針間国造の祖ですが、讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ている」とのことですが、詳しい説明をお願いします。

  (あまのや様より、05.8.15受け)

 (樹童からのお答え)
 これは、応神天皇や息長氏族などの系譜に関係する難解な問題で、簡単に説明することも難しいものですが、 稲背入彦命の系譜 において、概要を記しましたので、ご覧下さい。

  (06.5.14 掲載)



□ 伊勢三郎義盛の出自と平姓伊勢氏

  源義経の家臣の伊勢三郎義盛の出自には様々な説があり、称魚名流藤姓河島盛俊の息子と言う説が一番信憑性が高いと思われますが、どう考えますか。
  合わせて、称季衡流平姓伊勢氏の出自について尋ねますが、室町時代に幕府の政所執事を務めた伊勢氏は初期段階の系譜には分からない事が多く、桓武平氏と言うのは後世の仮冒で、実は伊勢三郎義盛と同じ藤姓河島一族の出ではないのでしょうか。

 (大阪在住の方より、06.2.07受け)

 (樹童からのお答え)
  問題点のご指摘と着眼の良さには敬服します。これまで、あまり検討したことがなかったのですが、乏しい資料のなかで調べていくと、ご指摘にあるような判断に傾きます。詳しくは、 伊勢三郎義盛と政所執事伊勢氏の系譜 をご覧下さい。 

 (06. 4.24 掲載)

 関連して、 北条早雲の出自について の応答もあります。



□ 通字について

  通字についての質問ですが、通字が同じでも一族とは言えないという意見と通字が同じなので同族という意見があり、よく分かりません。ある武将の通字を共用している家臣は、その武将と何らかの繋がりがあると考えてよいでしようか。その武将の通字を、諱の下にしています。 
 また、家臣団のなかで、自分より上位の者の通字(諱の上の字が通字です。)を、下位の者が諱の下に用いることは、名字は異なっていますが、同族と見て良いと思いますが、いかがでしょうか?

 (imokawa様より。06.3.30受け)


 (樹童からのお答え)
  通字などの命名法については一概にいえることはあまり多くなく、個別具体的に考えていかねばならないと思われます。詳しくは、 通字について をご覧下さい。

  (06.4.16 掲載)



□ 甲斐の市川氏 

  市川氏の出自について調べています。

  甲斐国八代郡の市川氏の本家は、現在の市川三郷町に所在する表門神社(御崎明神・市川文殊)の神主を代々務めております。ただし、平安時代末期に新羅三郎源義光の子息覚義・刑部三郎源義清の子息清房が婿入りしてますので、現在は源姓を称しているようです。管見の資料では、覚義以前の甲斐国八代郡市川庄の市川氏の先祖が分からないので、ご教示ください。

 (はっち様より。06.1.12受け)


 (樹童からのお答え)
 甲斐国八代郡の大族市河〔市川〕氏は、その系譜が複雑であって、橘姓・源姓・藤原姓とも称しており、おそらく実系としては甲斐の古族の末裔ではないかと推されます。その系譜は難解ですが、一応の試案を 甲斐の市川(市河)氏 で記してみましたので、ご覧下さい。

 (06.2.1 掲載。その後も追補があります)


□ 野与党と秩父党との関連

 野与党の祖・基永は千葉氏の常永と兄弟であって、この者が武蔵国造の系に連なる際に、基宗(元宗)へと改名し、野与党・村山党へ連なるという可能性があろうかと考えております。
いくつかの系図や実録人物の活動年代の検討からの推測ですが、野与党と秩父系の忠常との系譜関連について御教示ください。

  (安部川様より。05.11.21受け)


  (樹童からのお答え)
  野与党・村山党と千葉一族との関連では、実系と養猶子関係、通婚が入れ混じって、きわめて難解なものとなっております。地域的に考えると、野与党は武蔵国埼玉郡を中心として分布した武蔵国造系、村山党は同国入間郡を中心とした知々夫国造系となると思われますが、男系的にはともに千葉一族と深い関連があったものとみられます。
  試論ではありますが、 野与党・村山党と千葉一族との関係 をご覧下さい。

  (06.1.29 掲載)


□ 伊勢津彦と建御名方命との関係

  伊勢津彦と建御名方は同一人物ですか?
  また、伊勢津彦が出雲健子と呼ばれる要因は何でしょうか?

 (やもすけ様より。05.12.19受け)

 (樹童からのお答え)
  伊勢津彦と建御名方命との関係については、江戸期に当時の著名な国学者の間でも一致せず、本居宣長は同人説、伴信友は異人説を唱えており、『伊勢国風土記』逸文の記事があいまいな部分をもつため、難解なものとなっています。
 結論からいえば、両者の子孫を考えて、伊勢津彦は武蔵・相模などの東国諸国造の遠祖であり、建御名方命は諏訪大祝など神氏一族の遠祖であって、別人と考えられます。詳しくは、 伊勢津彦と建御名方命との関係 をご覧下さい。

  (06.1.23 掲載)


□ 石城国造の出自

  中世の岩城氏は、石城国造の末裔である事は確かなように思われますが、石城国造の出所(出自)はどう考えるとよいのでしょうか?
 大国魂神社は岩城氏の氏神の様ですが、そうすると流れとしては、「大物主−神武天皇−神八井耳・・・」といった流れを連想するのですが、天目一箇命の末裔という事になると出所がよく解らないのですが、・・・・。 謎の岩城氏の出自を教えてください。
 
 (やもすけ様より。05.9.20受け)

 (樹童からのお答え)
  古代の石城国造については難解な点が多々あり、古代史の学究においても様々な混乱が見られます。その出自・系譜については、「国造本紀」や『風土記』(常陸、陸奥逸文)、『古事記』などで記される記事を踏まえて整合的に考えれば、天孫族系の天目一箇命の後裔で(三上氏族、出雲国造と同族)、常陸国多賀郡から陸奥国石城郡にかけての地域を領域とし、近隣の石背国造・那須国造などと同族関係にあったものとみられます。
  以上は、結論的に書きましたが、詳しくは 石城国造の出自 をご覧下さい。

  (05.10.31 掲載)


□ 志布志の野辺氏の出自

  HPの「桓武平氏概観」で野辺氏が出ていました。野辺氏は埼玉県岡部町の猪俣党小野氏の庶流と思われます。鎌倉期に北条氏の代官となり、宮崎県の串間市一円の地頭職を獲得したそうです。
 その後、島津氏の勢力に押され衰退しましたが、本家は、志布志町に落ち着きました。その志布志の野辺氏ですが、本系図は、平宗実(平重盛の七男)を養子として迎え、平姓に改姓したとされ、桓武平氏の系図となっています。また、我が家では、平家の正統家と言い伝えられてきており、代々、男子は盛の字を通字としています。始祖を平宗実とすると私で32代目になります。信憑性のほどや経緯を詳しく知りたいのですが、教えて頂けないでしょうか。

 (nobem様より。05.10.19受け)

 (樹童からのお答え)
 HPでは、薩隅の禰寝氏、肥後氏(のちの種子島氏)、牛屎氏とともに、「日向の野辺氏などは、別系からの仮冒とみられる」と記したものですが、桓武平氏はもちろんのこと、小野朝臣姓と称する武蔵の猪俣党に出自するという説も否定しております。実際の出自は、京都でも関東でもなく、日向の古族末裔の日下部宿祢姓とみられます。詳しくは、 志布志の野辺氏と日向の日下部一族 をご覧下さい。

  (05.10.24 掲載)


□ 小笠原備後守成明の系譜

  『相国寺供養記』に見える明徳の小笠原備後守成明については、本HPでは、「おそらく盛明の誤記で、盛衡の弟かとみられる」という記述がありますが、次の例からみて疑問があり、どう考えますか。
  小笠原備後守成明は丹波守護代としての活動が見られます。すなわち、成明は明徳五年頃に「元成」と改名したとみられ、応永二年には「一宮入道栄正」と名乗っています。
  これらより、「成」字は一宮氏の通字であり、小笠原成明は、一宮成宗(小笠原長宗の子)の子孫ではないかと考えられます。小笠原長宗か成宗が、阿波一宮大宮司家に入嗣したことにより、一宮氏が「小笠原」を名乗るようになったと思われます。
  他の例では、明徳四年の「小笠原次郎九郎」と、明徳五年の「一宮次郎九郎」はどちらも小笠原成明の部下であり、同一人物と思われます。

 (川部様より。05.9.14受け)

 (樹童からのお答え)
 重要なご指摘ありがとうございます。阿波の一宮氏の系譜については、疑問や問題点が多く、私自身考えが転々しております。いま、ご指摘を受けて、再検討したものを 阿波の一宮氏の系譜 という形で整理してみましたが、こちらをご覧下さい。もちろん、これも試論です。

  (05.10.23 掲載)


□ 「足助族譜」の成立

 貴HPで度々紹介されておられる「足助族譜」について、御執筆の「将軍源頼家の子女とその生母」では、「『東鑑』や『分脈』とは関係のないところで成立したといってよさそうです」と評価しておられます。これは「足助族譜」全体について云えることなのか、重長の女子に限ってのことなのかについて、もう少し詳しくご説明願えませんでしょうか。
 小生は、「足助族譜」は『分脈』を基礎に置いてその上に足助枝流の系図を嵌め込んで作られたという印象を受けました。

  (加藤潮比古様より。05.8.22受け)

 (樹童からのお答え)
 問い合わせを突き詰めれば、「足助族譜」の成立とその採集の過程についての見方ということになりますが、記事内容等から見て、『分脈』を基礎にしたとはあまり思われません。とりあえずの見解で恐縮ですが、 「足助族譜」の成立など をご覧下さい。 

  (05.8.23 掲載)


□ 鹿児島県の奥氏とその関係諸氏

  私の家系関係で次の四家のルーツを教えていただきたいのですが。

 奥家.......鹿児島県加世田市又は川辺町の移住者(江戸時代
 有馬家......鹿児島県枕崎市(鹿籠)より江戸期に薩藩小林市に殿様と転封。家紋(有馬桐
 宮司家......鹿児島県新田神宮内にあり、元々神主
 若松家......鹿児島からの移住
 
 (奥みどり様より。04.11.18受け)

 (樹童からのお答え)
 薩摩・大隅及び日向三州の中世武家の苗字については、鈴木真年翁関係の諸系図史料には殆ど見えず、私もこの地域にあまり詳しくはなく、必ずしも明確な説明ができません。
  ここでは、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』や角川書店の『鹿児島県姓氏家系大辞典』等を踏まえて説明しますと、江戸初期に島津氏に仕えた奥氏が数名(島津忠恒に仕えた小者の奥関助入道休安など)見えますが大身ではなく、奥氏としては有力な武家はいなかった模様です。その系譜としては、薩南に繁衍した伊作平氏一族とするものがありますが、その活動は殆ど知られませんので、関係する諸氏のうち有馬氏を主に取り上げ、 薩隅の有馬氏と執印氏・伊作平氏 という項目で、とりあえず概略の記述をしておきます。

  (05.8.15 掲載、同8.16補訂)


□ 土岐頼武という人物

 美濃守護の土岐氏家督に関して、土岐頼武の問題が、どうしてもはっきりしません。
 『岐阜県史』は横山住雄説の「土岐頼武−頼純」(親子説)をとっていますが、すでに樹童指摘のごとく、私も土岐政頼、盛頼、頼純、頼武は同一人物であろうと考えております。また、地元岐阜県の方でも、考え方は二分されております。
 どのように考えれば良いのか、ご教示頂きたいと思います。
 
   (林正啓様より。05.6.17受け)

  (樹童からのお答え)
 ご提示のように、土岐頼武と頼純については、同人説と親子説とがあり、圧倒的大多数が同人説といえますが、地元では親子説もかなり強いようですね。ただ、これは数の問題ではありませんので、十分な検討を要します。
 結論的には、多数説のいう同人説でよいと考えますが、その思考過程・論拠については 土岐頼武と政頼、頼純との関係 をご覧下さい。

  (05.6.26 掲載)


□ 『陸奥話記』の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係

 『陸奥話記』に記載のある修理少進藤原景通と鎌倉党の一族とされる鎌倉権大夫景道との関係について、教示いただきたく思います。
  両者を同一人物とする仮説があり、また仮説にとどまっているはずのわりには、歴史書等では、同一人物として記載されている場合が少なくありません。これらをどう考えたらよいのでしょうか。

  (安部川様より。05.3.22受け)

(樹童からのお答え)
 両者はほぼ同時代の人のように見えますが、全くの別人で、姓氏も異なりますので、同人とするのが不思議なくらいですが、藤原景通は加藤氏の祖(頼朝に仕えた加藤次景廉の祖)であり、鎌倉景道は梶原氏の祖(同じく梶原平三景時の祖)です。
  詳しくは、『陸奥話記』所載の藤原景通と鎌倉権大夫景道との関係 をご覧下さい。

  (05.6.19 掲載)


□ 讃岐の佐伯直

  讃岐の佐伯直について、次の二点の質問があります。
 (1) 伴善男がその勢力拡張のため、讃岐の佐伯氏に大伴氏の末裔であると名乗ることを許したという説があります。佐伯有清著「伴善男」から「姓氏家系大辞典」の太田亮氏の説のようですが、この説を裏付ける史料等があるのでしょうか。
 (2) 讃岐の佐伯氏と阿刀氏とはかなり密接な関係にあったようですが、その関係を示唆するような系図等はありませんか。

  (あまのや様より。05.4.16受け)

(樹童からのお答え)
 (1)については、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』サヘキ条の記事にありますが、その基礎となっているのが『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。
 すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫ら十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に貫したという記事ですが、この賜姓にあたり、当時正三位中納言兼民部卿の地位にあったあった伴善男が、書博士豊雄の系譜の主張を家記に照らして検討するに偽りではないと奏言したので、これに従った措置であると同書に記されております。

 (2)については、空海の母が阿刀氏とされますが、それ以外に通婚などの関係があったかどうかは不明です。京都国立博物館には阿刀家文書が所蔵されており、そのなかに無題の一枚紙に空海関係系図が記されております。
 これら讃岐の佐伯氏と阿刀氏については、 讃岐の佐伯直とその一族 をご覧下さい。
 

  (05.6.5 掲載)


□ 芦立という苗字の由来・出自

  芦立と申しますが、自分と同じ苗字が少ない為、過去(系統)を調べられるのではと、調べたところ、「古樹紀之房間」にたどり着きました。
  芦立の苗字に関し、@貴HP物部氏族概観に見える伯耆の芦立について、出典資料は何か、A当方の系統である宮城・山形県の芦立について何か分かることはないか、という点について教示願えればと思います。

  (芦立敏之様より。05.4.16受け)

 (樹童からのお答え)
 
1 伯耆・因幡地方の物部連一族のなかであげた該当記事「伯耆国日野郡楽々福神社旧神主の入沢・名沢〔那沢〕氏は、大矢口宿祢を同祖とし、物部姓という。日野郡の楽々福明神奉斎に関与した三吉、田辺や芦立〔蘆立〕も同族か。」の芦立関係部分については、いまただちに出典を明確にできませんが、『式内社調査報告』や地域史、『姓氏家系大辞典』などの資料を踏まえて整理・推定したものと記憶しております。
2 宮城・山形県の芦立氏については、山陰地方と起源が別ですが、背景を含めてかなりの説明・検討が必要ですので、 奥羽の芦立氏の起源試論 をご覧下さい。 

  (05.5.29 掲載)


上総介広常の系譜

  初期房総千葉氏一族、なかでも上総介広常の先祖の系譜を考えますと、相馬小次郎常時と相馬五郎常晴は兄弟であり、常時が先ず惣領となり、その後を常晴が襲ったとのではないかと言う結論を私は出していました。
  しかし、上総介広常の世代関数を考えてみますと、相馬小次郎常時は相馬五郎常晴の息子ではないかとの結論に達していますが、これらの系譜関係についてどう考えますか。
  なお、一般に、上総氏の系譜については、「千葉太郎常長−相馬五郎常晴−上総権介常澄−同八郎広常−能常」が正しいとされており、広常は又従兄弟とされる千葉介常胤と同世代だと言われています。私も当初はそう考えていました。

  (大阪在住の方より。05.5.22受け)

 (樹童からのお答え) 
 
  詳しくは、 上総介広常の系譜と初期房総千葉一族の相続制 をご覧いただければと思いますが、かつて様々な角度から初期の千葉一族の系譜を考えたことがあり、結論的には問いで引用される一般に通行する系譜でよいと考えます。
 常時と常晴とは、どちらが正しい表記か判断がつきませんが、いずれにせよ、一方は他の一方の誤記か変更後の名前ということです。 
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