(前へ) (碓井の続) 石川有光後裔と関係者 (質問者からの返信) 06.1.23受け 1 石川有光と碓井
「当地の景政の子孫が上記の安積次郎景門の子孫なのか、景門の兄・鎌倉小五郎景次の子の板倉次郎重時(板倉重忠家を継ぐ)の子孫なのかは分かりません。また、何に因って「溝井」の苗字を名乗ったのかも分かりません(鎌田辺りに溝井と呼ばれる井・泉がないでしょうか。溝井氏の居住地はどこだったのでしょうか)。溝井がおそらくは「碓井」に関係するとは思われますが、滋賀県高島郡大溝郷に因んだというのは無理があり、地理的に考えても附会だと考えます。」
という宿題をいただいておりましたが、
その後、拙稿「溝井氏系譜を読む」の中で、下記のようにまとめてみました。
「この景政一族の祭祀と重なる箇所が、前述の『溝井家由来』にある。それは「爰ニ石川三芦城ハ安芸守源朝臣有光公ノ城址ナリ。其南ノ代山ニ、諏訪大明神ノ祠アリ。」と「治歴二年(一〇六六)、太守有光山城ノ国石清水ノ神影ヲ宮中エ移ス、同溝井又信州諏訪ノ神影ヲ郭内エ移シ奉ル」との記述である。
溝井は三芦城の「其南ノ代山」から「諏訪ノ神影」を溝井郭内に勧請したというこの文脈に私が注目するのは、三芦城の南ノ代山と示されているが特定できない場所を、三城目の南代山と読み替えれば、即ち、矢吹町三城目の古刹、南臺山景政寺と特定できることである。この寺の立札には、「先は三論宗、後に天台宗叡山白河永蔵寺の末寺、山号南台山院号東光寺、一一四三年景政の菩提寺となり、景政寺と称す・矢吹町」とあった。
石川氏の初期廟は玉川村岩法寺にあり、その眼下の泉郷川対岸にある諏訪神社の街道は矢吹町三城目に続く。初期石川氏と対岸に遇した景政後裔の族は、何故かこの時期を境に名跡を留めないが、一方の石川氏所伝には、矢吹を邑とし、有光四男の光孚を嗣子(婿)とした平景経の名があった。
この初期石川氏に与力した一族中の某を従えて、有光は沸き出でる井水の山に館を移し、某に命じて郭を造らしめ、谷を割き大溝(三芦城遺構大堀切)、としただろう。「溝井氏系譜」は、この某と目される人物に碓井小金吾貞?とその嫡男溝井六郎貞時の名を宛てている。その譜註には「有光近習為奥州下向」とあった。
2 相模の臼井氏族の苗字と氏名
景政一族が奥州相州の御霊宮で祀った村岡五郎忠道とは、伝説上の人物碓井貞光もしくは、平貞道に比されるという。この相模国高座郡村岡を邑としたから、村岡という苗字であった忠通一族のうじなが平氏で、氏族姓が臼井であったことを明らかにする力量は、あいにく私には無い。ただ現在の神奈川県下の臼井姓は相模一帯に高い密度で分布していると書けば、村岡小五郎忠通が、うすいの平忠道であって、碓井貞光と同人であったことの傍証となるだろうか。
しかしながらそれでもまだ相模の住人臼井忠道は、溝井の言う京の住人碓井貞光とは重ならない。それは溝井が本来の祖の伝承(拙稿では忠道―、景政―、景経)を止めたからだろう。出自遠江国大溝郷という新編の所伝は、主家が主張する主家の所伝に従って、(石川家舊臣の多くの所伝が現地での本籍確認をとれないように)溝井氏もまた関西からの奥州下向説を採ったとの印象をもつものである。
某とは、いまだ特定できません(貞時はまさか下野守基時かとも、板倉重時かとも)ご笑覧ください。
3 質問
石川有光が12世紀前半の人という前提で質問します。
(有光の先妻藤原清衡女、後妻源義業女・有光と佐竹昌義は藤原清衡の相婿「常州古内清音寺蔵書・佐竹家并諸系図」に拠る。)
嘉保2年1095 源有宗を陸奥守に任じる「中右記」(「青森県史」掲載)
永長元年1096 源有家を下野守に任じる「中右記」(「青森県史」掲載)
保延4年1138 左大臣源有仁、岩瀬郡司政光に対し、岩瀬郡を左大臣源有仁の荘園とすることを命ず。「伊達世臣家譜・上遠野文書」(「青森県史」掲載) という一連の記述から見れば、@石川有光は、村上源氏一族の人ではないのでしょうか。 A久我家領目録「国学院所蔵久我家文書」に、陸奥国石川庄の名が見えますが、久我家とは、村上源氏を指すのですか。
永保二年(1082)秀郷八代後裔宗行、従五位上下野守国司任、矢吹住「伊達世臣家譜・上遠野文書」久安6年(1150)平政光を白河庄の社、金山二村の預所職に補任「同・上遠野文書」とあり、
一方、有光四男光孚・平景経を継ぎ矢吹に住す。改称、下野守基時「石川町史」とありますが、B平氏を名乗った岩瀬郡司大田大夫政光一族に、同じく矢吹に住した鎌倉一族との姻戚はみえますか。
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(樹童からのお答え) 陸奥国石川郡の石川氏の系図は難解で、これまでも何回か考えましたが、前頁にも記しましたように、よく分からないで困ったものでした。今回のお答えが遅れたのも、その一因となっています。まだ端的なお答えとはいきませんが、貴信を拝見して示唆を受けたことでもあり、とりあえず次のように整理してみました。
1 石川有光とその後裔の系譜
(1) 石川有光という者が信頼性のある史料に出てこないうえに、石川氏の系図には、@有光の前後と、A本宗とみられる基光(幹光)系統の鎌倉後期部分、に欠落・混乱があるようで、きわめて難解なものとなっています。それでも、支流の光家・光盛系統の赤坂・坂地(坂路)・蒲田氏一族が史料に出てくること、及び今回示唆のあった矢吹(屋葺)氏の系図と照らし合わせると、なんとか手がかりが得られそうです。
(2) 石川有光が活動した時代がまず不確定でしたが、西暦1100年前後の人とみてよさそうです。石川氏関係の所伝では、康平五年(1062)に石川荘を賜ったとか、永保三年(1081)年に源義家の代官として石川荘に来たとかいわれ、歴代御法号では応徳三年(1086)に五七歳で卒した、承保年中(1070〜77)に白華山巌峯寺とのことですが(『姓氏家系大辞典』イシカハ条)、それらの後ろのほうに活動年代の前半がかかるくらいとしたほうがどうもよさそうです。それでも、石川有光が佐竹昌義とともに藤原清衡の相婿というのは時代の引き下げすぎのように思われます。
問題は、石川三郎基光・四郎光家兄弟を有光の子とする『尊卑分脈』所載系図に疑問があるということです。治承五年(1181)十一月日の年紀をもつ五輪塔に基光の名が刻まれているとのことで、基光はその少し前くらいの人ではないかとみられます。矢吹氏の系図などと照合させると、基光の祖父くらいに有光があたるようです。そうすると、有光の諸子として、藤田太郎光祐、沢井(和泉)二郎光平、河尻四郎光頼、奈目津五郎光房、祐有、光固(領竜崎)があげられるので、居住地などから沢井(和泉)二郎光平を基光の父祖(父でよいか)とするのが妥当なようです。
基光の子の秀康(前後関係などから考えて、季康の誤記か)が『尊卑分脈』に右大将(頼朝)のときに誅されたと記され、秀康の従兄弟の石川太郎光盛が子の大炊助光重に対して承元三年(1209)に坂地等九村を譲与した文書がありますから、秀康・光盛の世代が頼朝将軍の時の人にあたるとみられます。そうすると、『東鑑』建久六年(1195)三月十日条に将軍家の東大寺供養に随行する供奉人のなかに佐竹別当(秀義)に続いてあげられる「沢井太郎、石河大炊助」が石川一族で、沢井太郎が光義(秀康の兄)、石河大炊助がその従兄弟の光盛に当たるとみられます。光盛の父の四郎光家の母は佐竹進士義業の娘と『尊卑分脈』に記されますから、光義と光盛は佐竹別当(秀義)の再従兄弟(又イトコ)に当たります。
光重の子の坂地八郎光信は甥の大炊助光行と相論に及んだことが弘長元年(1261)三月二二日付けの北条重時下知状に見え、光行の子の光広は永仁六年(1298)に越後国刈羽郷半分を譲り受けており、その子の兼光は建武時の文書に石川蒲田五郎太郎(左近大夫)兼光と見えますから、この辺は年代的に符合します。
(3) こうして位置づけていくと、石川有光が『尊卑分脈』や「石川系図」に大和源氏の頼親の子の福原三郎頼遠の子(一伝に蔵人仲綱の子)におくことが疑問大となります。ふつうに考えれば、清和源氏の出ではなく、当地の古族の末裔とするのが穏当なところです。ましてや、公家の村上源氏の出のはずがありません。石川一族が石都和気神(石都都古和気神)のほか、諏訪神も奉斎した事情はよく分かりませんが、本来の出自が石城国造支流だとすると、その遠祖が東遷したときに諏訪神族と同行し、母系の祖先に諏訪神族が入っているのかもしれません。
石河荘の中世の領主は村上源氏の久我家ですが、また陸奥守源有宗は村上源氏の別流で為平親王の曾孫であり、その子に下野守有家や式部大輔有元(イ有光。大江匡房の養子で大江姓を名乗るも帰本姓、1124年没)がおりますが、石川有光はこれらとは無関係な在地の武士です。
2 平姓とも称する矢吹氏と鎌倉権五郎景政
(1)
石川有光の四男光孚が平景経を継ぎ矢吹に住み、下野守基時と改称したと矢吹氏の系図に見え、基時の七世孫が矢吹下総守頼通と系図にありますが、矢吹頼通は建武三年七月に石河七郎義光が討死したときの軍忠状にある屋葺平二頼道に当たる者です。その系図は『姓氏家系大辞典』に歴代の名が見えており、矢吹氏は代々石川氏の家臣として続いたこと、建武当時は矢吹氏は平姓を称していたことが分かります。
なお、石川氏本宗は、鎌倉後期から『尊卑分脈』と一致せず、南北朝争乱期に活動した石川太郎美作守貞光、千石六郎大和守時光、石川駿河権守光義などの系譜関係が判然としません※1。貞和頃の駿河権守光義(活動年代などからみて、石河七郎義光とは別人も、混同されがちの模様)の子の詮持が本宗とみられる太郎美作守貞光の跡を継いだようで、この系統が室町期は本宗として続き、昭光の時に秀吉に領地没収されて仙台伊達藩の重臣となります。
※1 石川系図の1つに『源流無尽』というのがあり、そこではかなり詳しい系図と記事が記載されるが、年代や続柄等で疑問もみられる。同系図では、文保二年(1318)に卒した小太郎盛光の子に又太郎家光、その弟に六郎時光をあげ、家光の子に貞光と板橋二郎高光をあげ、時光の子に義光その子に詮持をあげて、家督は家光→時光→貞光→義光→詮持と受け継がれたと記される。この例に見るように、石川系図に総じて世代が多いのは、家督と実子関係が混在している故かもしれない。 さて、矢吹氏の祖となる基時が実際に石川有光の男子だったのかどうかは分かりません。建武の屋葺平二頼道から考えると、平景経の実子で石川有光の猶子なったとしたほうが自然のようにも思われます。 (2)
次に平景経の素性ですが、石川郡とその周辺には鎌倉権五郎景政に関係する地があり、その子孫が現にあったことを考えると、鎌倉権五郎景政の近親としてよさそうです。すなわち、ご提示のように矢吹町の三城目には景政寺(境内に景政廟や御霊社)があり、権五郎館が石川町の赤羽(もと沢田村大字赤羽)にあったと伝え、景政は竹貫の鎌田(現石川郡古殿町)の城主であったと伝えます。景政は、三城目の南台山に嘉保元年(1094)、御霊宮を勧請したといわれますが、安積郡にも上御霊という地名(郡山市街地の南西方)があり、その西北近隣の多田野には景政の子孫が残りました。
景政の子の安積次郎景門の子孫が只野(多田野)を名乗って戦国期まで続いたわけです。『安積集覧』には、本郷館にいる多田野大炊頭景連は、鎌倉権五郎景政の十代(注:十数代の誤記か)の孫で、天正十七年(1589)に伊達政宗と戦って討死したと記されます。(これらの事情は前頁にも記載)
鎌倉党関係の系図を見ると、景政の子や弟などに景経が見え、同人とみられますが、系図により位置づけが多少異なります。年代的に考えると、鎌倉権八郎景経のことで、鎌倉権守景成の子、権五郎景政の弟とするのが妥当ではないか(養猶子関係にあったかもしれないが、不明)※2、と私は考えます。御霊宮で祀られる平忠通とは、その実体が碓井貞道(貞光)と同人ではないか※3、と私は見ており、その子孫にあたる景経が貞時にあたるのかもしれません。そう考えれば、景経の子の基時の名前につながります。 なお、板倉氏は相模にあったようで、天正本『太平記』に板倉平次、次いで『鎌倉大草紙』に板倉美濃守・板倉式部などが見えるとのことです(『姓氏家系大辞典』)。
※2 権八郎景経については、『尊卑分脈』は鎌倉権五郎景正の子におき、その子に景忠(大庭景親の父)と景長(梶原景時の父)をあげるが、鎌倉党諸氏の系図から考えると疑問がある。また、権五郎景政の子におき、甲斐の古屋(降矢)三郎景縄の父とする系図もあるが、景政と景経の関係は、権五郎・権八郎という呼称から考えて、兄弟とするのが妥当とみられる。 ※3 碓井貞道(定道)は源頼光の四天王の一で法性寺関白以来、世人は忠の字を改めサダ道を称すと伝えられるから、これによると、もと忠道、改めて貞道という名であったことになる。貞光と貞道との関係については、貞の次の漢字の読解の問題ではなかろうか。すなわち、道の字を「~(兌)」と書いたのが、字体の似ている「光、、充」(いずれも訓はミツ)と混同された可能性が考えられる。 3 岩瀬郡司平政光なる者
上遠野(カドノ)氏は小山氏の一族藤井氏から出たと称する菊多郡の武家ですが、その所伝の系図は大きな差異があるもので、どこまで信拠できるか分かりません。
永保二年(1082)に藤原宗行が下野守国司任というのも、永保三年七月に惟宗忠重が下野守で在任していることが『朝野群載』に見えるので、疑問があります。『尊卑分脈』には「下野介」と記されます。
小山氏の先祖の政光は、頼朝の時期の小山朝政(1158〜1238)・結城朝光(1167〜1254)兄弟の父ですが、小山朝政が頼朝方についた養和元年(1181)当時は在京して皇居警備に当たっていたことが知られますので、岩瀬郡司政光が1138年当時に実在していたとしても、小山四郎政光にあたる可能性は年代的に少ないと考えられます。そもそも、小山・結城一族は藤原秀郷流の嫡流的な存在ですから、その当時に平姓を名乗ることがありうるのかとも疑問に思います(もっとも、秀郷流藤原氏の大半が実際には毛野一族の末流とみられますから、藤原姓にこだわらなかったのかもしれませんが)。
以上に見るように、「伊達世臣家譜・上遠野文書」の取扱いは慎重にしたほうがよさそうです。 (06.5.5掲上。5.27補訂)
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