□ 碓井貞光の後裔と溝井氏 (附.相模三浦氏の出自) (問い) 福島県南部、福島空港南方近隣の石川郡石川町辺りの「溝井」という姓に関心があって調べたところ、その所伝では、遠い昔「碓井」が分かれて滋賀県高島大溝郷に因んで姓を溝井とし、前九年の役で陸奥国泉の庄に主家石川有光と共に留まったとされます。碓井の祖は頼光四天王の一、碓井貞光(平貞道)と伝えますが、この武者の系譜と後裔についてお尋ねします。
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(樹童からのお答え) 1 磐城地方の溝井姓
「溝井」という苗字は珍しく、『姓氏家系大辞典』には所載がありませんで、主に福島県と大分県に見られるようです。 後者のほうは、杵築市大字溝井(杵築市街地の北西方)に因む苗字とみられます。豊後杵築の付近の国東半島には「溝部」という苗字も見え、紀継雄系と称しましたが、実際には国前臣(古代国前国造の姓氏)の流れの仮冒とみられます。溝部同族には、横手、立野、富来、速見、櫛来、姫島などの苗字があげられますが、溝井という苗字が現在、姫島にもあるとのことで、何らかの関係を示唆するのかも知れません。
一方、福島県では戦国期に磐城石川郡の石川昭光(伊達輝宗の弟で、石川晴光の養嗣)の重臣に溝井氏が見えています。天正十七年豊太閤秀吉が小田原攻めの陣を張ったころ、小田原に参陣せずにいたため、翌十八年(1590)に秀吉の命を受けた軍勢に攻められ、所領を没収されましたが、そのときに溝井六郎右衛門は忠死したとされます。
すなわち、『陸奥國石川風土記』には、同人は「当家の旧臣敏達天皇の後胤として臼井の定光が末葉代々の忠臣なり。溝井諸士へ申けるは、此度の儀外に評議に手間入間敷也雖も、当城は頼義将軍より鎮守府同様にも差置候名城。今一戦にも不及政宗の手に属し可申哉。…(中略)…伜三子を呼て曰、大祖有光公より仕へ君臣共に廿四代五百年来の天命盡て今空城となりぬ、我今爰に生害して代々の先君に見へんと思ふ。汝等父祖の名を辱しめて二君に仕ゆへからすと遺言して自殺す。時に天正十八年庚丑十一月廿四日生年五十九歳法名澄月刄忠」と記されます。
この記事により、お問い合わせの事情と符合して、当地の溝井氏が、@敏達天皇の後胤(=橘氏を称していた)、A臼井の定光(=碓井貞光)の末流であって、B源頼義將軍のころの石川氏の大祖有光より同氏に仕えてきたこと、が知られます。
この辺の事情を手がかりに磐城の溝井氏の先祖について、以下に考察を加えてみることにします。
2 碓井貞光の系譜と三浦氏・石川氏の出自 (1) 碓井貞光については、俗説には次のように語られている模様です。 「源頼光四天王の一人で、碓氷峠付近の生まれ。初名を貞通といい、荒太郎と号した。靫負尉に任じ、大江山酒呑童子討伐に、頼光の従者として参加したと伝えられる。治安元年九月没す、年六十八(954〜1021)」(HP「刀義茶屋 迷々亭」などから引用)
しかし、酒呑童子討伐は伝承上のものにすぎず、生地が碓氷峠付近というのも要検討です。生没年についても確たる史料がなく、確かめようがありません。靫負尉の官職については、後述します。従って、とりあえず、「初名を貞通、荒太郎と号」という点だけ活かして、検討を続けたいと思います。
(2) 頼光四天王の一人として著名な平貞道という武者がいたことは、『今昔物語集』に見えます。同書の巻廿五の第十には、頼光の弟・頼信の指示により駿河で武者を射殺する話が見え、さらに巻廿九の第十九では、大盗袴垂の詭計を見破った深慮の人としても描かれている。『古今著聞集』三三九にも定道と見え、当時著名な武者であったことが知られます。この貞道については、忠道ともいい、「三浦系図」のなかに頼光四天王之其一とも見え、子に為通・章名があったと伝えるものがあります。これが本当で相模の大族三浦氏の遠祖であれば、源頼光の郎等としても符合しますが、この辺も要検討です。
頼光の郎等貞道については、ほかにも所伝があり、その苗字を碓氷といい、橘姓ともいわれました。『前太平記』には「信濃国碓氷郡の浪人橘氏、諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞通を生む、のち源頼光に仕へ貞光と改め、靫負尉に補せらる」と記され、『武家系図』にも「橘氏の末葉、碓氷峠の住人なり」と記載があると太田亮博士が引用しています。博士は、下野の宇都宮氏の家臣に碓氷氏があり、その若目田系譜に「左大臣橘諸兄の後裔碓井荒太郎貞光末孫左衛門太郎業秀、宇都宮朝業の婿となり、塩谷領内若目田郷三十町を知行す」と見えるとも記していますが、貞光とその末孫とされる碓氷左衛門太郎業秀との間の具体的な系譜は知られません。若目田氏は下野国那須郡若目田邑より起った氏とされています。宇都宮一族の武茂氏の長臣にも薄井氏がおりますから、下野関係の碓氷・若目田・薄井はみな同族でしょうが、これが碓井荒太郎貞光の末裔である証拠もありません。
そうすると、碓井荒太郎貞光が上野・信濃の境の碓氷峠と関係あるという説は、類似地名により生じた説であって、あまり信拠できないようです。従って、相模の人で三浦氏の先祖という所伝の検討を行うのが順序として妥当だと考えられます。
(3) 相模三浦氏の出自
相模国三浦半島の大族として古代末期から三浦氏があり、その本拠衣笠城の付近、大矢部の青雲寺(本尊は滝見観音で、もと円通寺の本尊)本堂裏の丘上には、その先祖義継・為継・為道の墓と伝えられる三基の五輪塔があります。三浦氏の所伝でも三浦半島に遷ったのは前九年の役ごろの人の為道とされていて、この者が三浦初祖といえそうですが、為道の父祖は史料からわかるのでしょうか。
問題は、@三浦一族は、殆ど全ての三浦系図が主張するように、実際に桓武平氏の出であったのだろうか、A為道が三浦半島を領したのは、果たして前九年の役の戦功に因ってのことだったのだろうか、ということになります。
これらの問題については、これまでも殆どの説が三浦氏の系図所伝を基本的に受け入れているようです。しかし、早くに太田亮博士は、三浦氏系図に多くの混乱が見られることから、桓武平氏という出自に大きな疑問を呈してきており、最近では、田辺久子氏が次のように述べ、疑問を提起しています。
「一方、三浦氏が桓武平氏であるというのは後世の仮託で、実は古代以来三浦半島に根をはっていた豪族(大田部氏・御浦氏など)の出ではないかとする説もある。奈良時代から平安時代にかけての三浦半島の状況から推して、在地豪族の成長も考えられよう。出自に関してはいずれとも決し難いが、おそくとも十二世紀の中頃には三浦氏は平氏を称していたのである」(『日本の名族』四、関東編U所収の「三浦氏」)
為道の父については、三浦氏等の系図に忠道とされていて、その父を村岡五郎平良文(高望王の子)とされており、「忠道−為道」という親子関係については異説を見ませんが、これらの系譜が妥当かどうなのかは検討を要します。というのは、平良文の子として史料で確認される者が誰もいないからです。
次に、忠道に関して、史料に当たってみると、『魚魯愚鈔』巻第六には寛徳三年(1046)に近江掾に任ぜられた平忠道が見えます。この平忠道という人物は、十世紀の中葉頃に死去した平良文(一伝に天暦三年〔949〕あるいは天徳四年〔960〕に67歳で卒去という)の子としては年代的に明らかに無理があります。その一方、三浦氏の祖・為道が前九年の役ごろの人であったという所伝が正しい場合には、その父としてみれば年代的にほぼ自然です。
他に平忠道に相当すべき人物は系図史料には見えないので、近江掾になった平忠道とは三浦氏の祖としてもよい可能性も多少あります(年代的にやや下がりすぎのようにも思われるが)。その場合には、少なくとも十一世紀の中葉には三浦氏は平姓を称していたことになります。 忠道の父については、鈴木真年翁関係の史料には、荒太郎貞道をあげるものが多く、この貞道が良文の子とされています。頼朝に仕えた三浦介義澄が荒次郎と号しており、その関連では「荒太郎」という号は祖の称号として自然のように思われます。ところが、三浦氏が平良文流とする系図では、この貞道をあげないものが殆どです。 そのなかで、『埼玉叢書』第四掲載の「開基金子家系譜」には興味深い記述が見られます。それによると、平良文の子に貞道をあげて、「村岡小五郎」「三浦等祖」「本忠通、源頼光朝臣相模守時為郎従、永保二年卒七十余歳」と註されます。しかし、この記事については、貞道が忠通と同人とすることは年代的に疑問が大きく、また、貞道にせよ、忠通にせよ、永保二年(1082)に死没した(その場合、生年は1010年頃)というのも年代が遅すぎて信頼し難いものです。年代などから考えますと、貞道が忠道の親とするのが妥当であり、忠道の子が為道と続くものと思われます(この系譜の場合、忠道が頼光四天王の一と同年代にあたる者とみられる)。
忠道の兄弟には忠輔(桜山の祖)、忠光(長井の祖)がいたと伝えますから、それぞれの起源の地たる逗子市桜山及び横須賀市長井に因む苗字の先祖の兄弟に三浦氏の祖が置かれるのも自然です。 そして、貞道ないし忠道が頼光の家臣であった「碓井貞光」に当たるのなら、この者が桓武平氏良文の子とするのは後世の系譜仮冒と考えるのが自然です。身分的にも不自然な上、碓井貞光の橘姓という所伝からも符合しないからです。だからこそ、多くの桓武平氏関係の系図が良文の子に貞道をあげないのかもしれません。
良文が武蔵箕田に居た源宛と武勇を争ったという『今昔物語』所載の所伝から考えると、良文の居た村岡とは武蔵国大里郡村岡と考えられ、忠道らが居た相模国高座郡村岡とは異なる地です。 三浦氏の祖の貞道が十世紀の後半から源氏に仕えていたということであれば、治承四年八月の三浦義明の討死を覚悟した言に、「われ源家累代の家人として、幸にその貴種再興のときに逢うなり、…」と述べた意味もはっきりしてきます。ただ、源頼光が何故相模の豪族と縁由が生じたかは史料等には見えません。上掲の「金子家系譜」には頼光が相模守のとき郎従となったと記されますが、管見に入った史料でも、頼光の相模守補任は見えず、疑問があります。源頼光の甥の頼義については、長元九年(1036)十月に相模守に補任しており(『範国記』)、この頃から貞道の後裔一族は河内源氏源頼義の郎等になっていき、前九年・後三年の奥州戦役にも従軍したものと思われます。
貞道の孫・為道が前九年合戦で戦功を立てて三浦半島を賜ったというのも、史料になんら見えず疑問ですが、遅くとも為道のときまでには三浦半島に本拠を移したことは認めてよさそうです。そうした事情も、貞道・為道の系統が本来は平姓でも橘姓でもなく、古来からの相模国の豪族(相模国造一族の末流か)であったことに因るものであろうと思われます。
(4) 碓井と碓氷・臼井
もう少し、碓井・碓氷について書きます。
上野国と信濃国の国境の碓氷峠は有名で、上野国には碓氷郡もありますから、この地名に因んだ苗字も付近に生じたものと思われます。信濃の碓井はこの関係だとみられます。しかし、それと碓井貞光とは無関係だということです。実は、相模の箱根あたりにも碓氷峠があります。碓氷峠という峠は、いま足柄下郡箱根町の宮城野の北西一キロほどに位置しており、火打石岳・明神ケ岳の南麓にあって南に早川が流れています。この地を宮城野と仙石原とを結ぶ箱根越えの古道である碓氷道が通っていたわけです。
そうしてみると、頼光四天王の坂田公時(足柄山の金太郎)とイメージが重なってくる部分があります。こうした感触を抱いた人はほかにもおられ、前掲HP「刀義茶屋」の管理人は、「碓氷峠の住人。元は荒太郎と称す。なかなか強力。しかし、殆どの設定が金時とかぶるんだよなぁ。山姥の子とかさ。なんたら明神の申し子とか」と指摘しておられます。
碓井貞光が平貞道と同人(ないし近親一族)だったとして、その姓は一体、何だったのでしょうか。碓氷は碓井・臼井とも書きますが、三浦氏とその同族とされる鎌倉党(為道の弟・甲斐権守章名の後裔で、大庭・梶原・長尾・梶原など)の諸氏にはなにか手掛かりがないだろうか、とも考えられます。 こうした観点で、いくつかの関係系図にあたってみると、『長尾正統系図』には村岡権五郎と号した忠通には興味深い註が見られます。それによると、「忠通、始めは相州村岡の住人なり、故あって同国長尾乃郷へ移る、ここに九曜乃井とて名水あり、涌き出る水は左旋して巴の如し、故に巴乃井という」と記されており、井戸に関係した所伝があったことがわかります。長尾郷の中心地で、御霊神社を鎮守とする長尾台村(現・横浜市戸塚区長尾台町)には、臼井分の田があったことは永正六年(1509)十一月の長尾幸春寄進状から知られます。これらはやや弱い傍証ですが、碓氷貞光は平貞道と同人(ないし近親)としてよさそうです。
実際、「ウスイ、すなわち臼井・碓氷・碓井・薄井」という苗字は相模東部にかなり多く分布しています。例えば、高座郡上郷村(海老名市域)の江戸期宝暦頃の名主に碓井文右衛門がおり、その末裔も現存します。大住郡田村(平塚市域)には三浦義村の別荘がありましたが、この地の大工碓氷友蔵は安政四年(1857)に京の白川家に入門して、橘真彭を名乗りました(県史別編1)。これは橘姓碓氷貞光を想起するものでもあります。
『陸奥國石川風土記』に臼井定光と見えますが、臼井姓は碓氷・碓井に比べ相模においてさらに多く見られ、三浦郡の西浦賀村(横須賀市)・山野根村(逗子市)、鎌倉郡の上野庭村(横浜市)、大住郡の落幡村(秦野市)・徳延村(平塚市)、高座郡の下寺尾村(茅ヶ崎市)・磯部村(相模原市)、愛甲郡飯山村(厚木市)などの江戸期の名主・有力者として臼井氏がありました。足柄上郡でも苅野岩村(南足柄市)の矢倉明神社神主に臼井氏があったとされます。(以上のウスイの分布は、『神奈川県姓氏家系大辞典』の記述に基づく)
碓井貞道の父祖については、これ以上分かりません。良文の別名的なものとして「重門」という名も見えますが、重門が実在で、かつ良文と別人であれば、貞道の父祖であったことも考えられます。
この一族がなぜ平姓を称したかも不明です。ただ、「井(井戸)」に因み橘姓を称した例は、遠江国引佐郡に起った井伊氏が著名ですし、この一族から出た日蓮の生家貫名氏も橘を紋章としていました。いずれも、実際の出自は物部氏族遠江国造の族裔とみられます。駿遠の諸氏で古代国造の末流とみられるものに橘姓を称するものが多く、また伊予の物部氏族越智氏一族にも橘姓を称したもの(橘朝臣遠保が代表例)が見られます。 相武国造も、物部氏族と同族の氏族(出雲国造系武蔵国造族)の出自でした。その遠祖は、神武東侵の際に畿内から東国に逃れた一派とみられます。 3 陸奥石川郡の碓井貞光後裔
(1) 石川郡の溝井氏の先祖は十一世紀中葉の前九年の役のころ、当地の石川氏の始祖有光に従って同郡に落ち着いたように伝えますが、その具体的な名前を伝えません。三浦・鎌倉一党にそうした事績の該当者がいるのでしょうか。 これについては、上掲『長尾正統系図』に興味深い記事があります。それによると、前九年の役に源頼義・義家親子に副将として随ったのは忠通(忠道)であり、その子におかれる鎌倉権五郎景政(実際は孫で、景成の子)の譜註に「嘉保元年(1094)御霊乃宮、奥州石川郡」とあり、その子に安積次郎景門をあげ、安積郡只野郷に保安二年(1120)、御霊乃宮を勧請したと記されます。
この「御霊乃宮」は御霊神社ともいい、相模国内では村岡郷の鎮守など三浦・鎌倉一族が多く奉斎した神社で、相模に分布が多くあります。この辺を手がかりに石川・安積郡の忠道後裔を考えてみます。
(2) まず、安積郡只野郷は多田野村とも書かれ、現在の郡山市逢瀬町多田野に当たりますが、『安積集覧』に多田野氏の記事が見えます。すなわち、「本郷館には、多田野大炊頭景連、同主水忠保・居る。景連は鎌倉権五郎景政十代の孫也。四本松にて伊達政宗と戦ひて討死」と記されます。多田野村の字宮南の多田野本神社はもと御霊明神といい、源義家に従い前九年の役に戦功のあった鎌倉権五郎景政と平忠道を合祀したといわれます(「相生集」)。
次に石川郡関係では、西白河郡矢吹町三城目の景政寺があげられます。同寺はもと永福寺と称しましたが、鎌倉権五郎景政の廟があるところから景政寺と改められ、境内には御霊社があります。その祭神は村岡忠通とされ、景政が没したときその霊を合祀したと伝えます。このように、安積郡でも石川郡でも御霊宮には平忠道が祀られますが、この忠道は年代的に考えて前九年の役には参加していないとみられますし、系譜的には景政など鎌倉党の祖でもあって、碓井貞光と同人ないし近親ではないかとみられます。
所伝では、景政は石川郡竹貫の鎌田(現・同郡古殿町の西部)の城主となり、御霊宮を三城目の南台山に勧請したといいます。この「景政」は実際には権五郎景政の子孫とするのが妥当と考えられますが、いずれにせよ、鎌倉権五郎景政の子孫が陸奥の石川郡に居て御霊宮を奉斎し、中世は当地随一の勢力石川氏に従って戦国末期に至ったものと考えられます。鎌田のすぐ東方の山が鎌倉山(標高669M)と呼ばれるのも、こうした縁由ではないかと思われます。
当地の景政の子孫が上記の安積次郎景門の子孫なのか、景門の兄・鎌倉小五郎景次の子の板倉次郎重時(板倉重忠家を継ぐ)の子孫なのかは分かりません。また、何に因って「溝井」の苗字を名乗ったのかも分かりません(鎌田辺りに溝井と呼ばれる井・泉がないでしょうか。溝井氏の居住地はどこだったのでしょうか)。溝井がおそらくは「碓井」に関係するとは思われますが、遠く離れた滋賀県高島郡大溝郷に因んだというのは無理があり、地理的に考えても附会だと考えます。
4 陸奥石川郡の石川氏
(1) 石川郡の石川氏についても附記しておきます。 石川氏は清和源氏頼親流の氏として『尊卑分脈』にも見え、福島県内に古く土着した氏の一つとされます。その祖・源有光は、前九年の役(1051〜)、後三年の役(1083〜)を鎮圧した源頼義・義家親子に従軍して奥州に赴いたといい、康平六年(1063)頃に河内国石川荘から石川郡藤田城(現・玉川村か。石川町中野辺りともいう)に移り住んだといわれます。その後、承保年間(1074〜77)頃には、泉荘(石川荘ともいい、石川郡石川町の下泉を中心とする地域)に三芦城(ミヨシ城。石川町役場背後の八幡山に所在)を築いてここに移り、これより25代、約530年間代々の当主は同城を拠点としてきました。
鎌倉期は北条得宗家の御内人としての存在であり、南北朝動乱期には足利尊氏方にあり、室町期には南に勢力圏が隣接する白河の結城氏や太田の佐竹氏に圧迫され、一族のなかにはこれらに臣属するものもありました。 しかし、上記の所伝は出自については疑問が大きいものです。もともと石川郷は十世紀の『和名抄』に白河郡石川郷とあげられる古い地名であり、この地に古代から在った(移遷があったとしてもその近隣からとみられ、藤田郷も『和名抄』に見える古い地名)のが石川一族とみられます。初祖の石川冠者有光はもと柳津源太と号したといわれ、「柳津」は会津の河沼郡柳津町との関連も考えられます。また、上泉の城主福田安芸守有光とも『石川風土記』に見えますが、この上泉は河内の地名ではなく、石川郡泉村(玉川村を西流する泉郷川の流域)のことをいうものとみられます。
その父の名や系譜についてもいくつか異伝があります。石川氏の所伝では、有光の父とされる頼遠が前九年の役で戦死したと伝えますが、そうした記録は信頼される史料には見えません。石川一族河尻氏の祖について、『中興系図』には、福原三郎頼遠男、石川次郎季康と記されていて、有光あたりが省略されており、また、有光の父を蔵人仲綱(源頼親の子に置く)と伝えるものもあります(佐竹氏の『御家譜』所収の上館系図)。総じていえば、八幡太郎義家の頃の人とされる先祖の有光と頼朝頃の人々の世代との間の世代数が少ないものと考えられます。 太田亮博士も、「此等(:石川氏のこと)の系図には種々の疑義あり」と『姓氏家系大辞典』で記しています。これに加え、南北朝の頃の人々についても、系譜上に混乱が見られます。 石川一族は、石川荘すなわち現・石川郡の石川町・浅川町・古殿町・玉川村・平田村及び西白河郡矢吹町、東白川郡鮫川村の一帯に分布して、多くの苗字を分出しました。また、常陸国多賀郡や美濃国池田郡に分出した一族も見られます。鎌倉権五郎景政の子孫が居たという鎌田にも、石川一族が居りました。 (2) 私は、次のように石川一族を整理しております。 陸奥の石川氏は陸奥石川・白河郡を中心に繁衍して、惣領家居城本丸の西側に鎮座の石都々古和気神社(高田八幡社。同社神主は一族の吉田。その別当寺たる青龍寺の石川別当も一族)や、川辺八幡神社(玉川村鎮座。神主は一族の板橋)、泉八幡社など八幡神を氏神とした。早くに分かれた藤田氏の居住した南須釜(玉川村域)の八幡には鎮守である古社・都々古和気神社が鎮座する。
一族には、陸奥に藤田、泉、竜崎、大寺、坂地〔坂路〕、河尻、矢沢〔谷沢〕、小高、沢井、小平、永田、赤坂、塚田、中田、須鎌〔炭釜、次鎌〕、牧、高貫〔竹貫タカヌキ〕、大島、松河〔松川〕、蒲田〔鎌田〕、千石、板橋、小貫、田口、中畠〔中畑〕、面川、白川、曲木、白髭、上館、蓬田、奥山、宮内、浅川、奈目津、矢吹〔矢葺〕、吉村、塩沢、赤羽、八俣、前田河など。 また、常陸国多賀郡の大窪〔大久保〕や美濃国池田郡居住の成田、鏡島〔加々島〕、市橋(武家華族)、尾張徳川家重臣の石河(男爵家)。三河出身の武家華族石川(義家流河内源氏の後裔とするのは仮冒*)、その一族に旗本の村越。 面川氏は棚倉馬場の都々古別神社(陸奥一宮。近津明神)の神官にも見えており、これら一族の祭祀状況や三芦城跡には巨岩奇岩が多い事情などからみて、石川一族には系譜仮冒の色彩が濃く、その場合には白河国造(ないし石城国造で、いずれにせよ、同族。天目一箇命の後裔)の族裔か。 *義家流河内源氏の後裔と称する幕藩大名の石川氏は、下野小山から来た所伝をもち、それ自体は妥当であるが、通行する系図には仮冒があり、小山新左衛門泰信以降しか信頼できない。その子の石川下野権守政康が三河国碧海郡小川に住んで、三河石川党の祖となった。『姓氏家系大辞典』には、イシカワの第10項に「三河藤姓石川氏」をあげ、「石川氏は奥州石川の族とも云ひ、又その実、秀郷流藤姓なりと」とも記している。 この実系は、『尊卑分脈』に見える石川弥太郎光房の後であり、その子左近大夫義成が上野国に住んで世良田左馬助に属したといい、その四世孫が泰信である。小山氏に着目して秀郷流とされたようだが、陸奥石川郡の出とするのが自然。 (03.12.16 掲上、12.21や24.7.17などに追補記) |
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<質問者からの追伸>
1 碓井姓を「電話帳」でみると、長野(碓氷峠)から、北陸、中部、群馬、関東に放射状に広がる系があり、滋賀、福井、石川各県を空白地帯として、
もう一方に、京都49、大阪91、兵庫71、広島76という、西にのびる別系が見えます。この西進系は、碓井姓2119件中の少数系のようです。
福岡の60、は太宰府近くにある、筑前国嘉麻郡碓井庄の地に因む方々でもあると思います。
想像ですが、碓氷峠放射状系は、仮に「桔梗」紋だとして、峠の東で、千葉士族「臼井」縁者なのかもしれません。?
西進系は「橘」紋であり、主たる源氏の事情に従って西国へ「碓井縁者溝井」の移動もあった?ように思います。
2 私の見る限り、溝井姓、全国600件中、九州についての件数は、長崎2、福岡3、大分8、他4県0、四国4県及び鳥取・島根・和歌山が0、愛知4、岐阜4、奈良10、三重10、滋賀21、京都5、大阪8、兵庫14、岡山1、広島8、山口2、合計100件。
それぞれの親戚の方がみれば、たちどころに誰だか判るくらいの数なので、歴史上みるところはありません。ほどんとこれは「家史」です。だだ、兵庫・広島あたりで、主家かなにかあって「碓井縁者溝井」両者ともに「入植」したのかもしれません。
溝井姓の「大分8」の内、3は姫島、5は内陸の東国東郡小熊毛でした。そこまで足をのばした一人の溝井が、いたかもしれません。
白河結城氏と陸奥国石川氏は阿武隈川を挟んで隣接し、南朝、北朝の関係にありました。溝井姓の「三重10」の内、伊勢 5、になにかあるかもしれません。
※応答にはさらに続編 石川有光後裔と関係者 がありますので、併せてご覧下さい。 <大阪在住のkurikan様よりの返信> 05.10.13受け
三浦氏の系譜に見える「公義」なる者 相模三浦氏の出自に関して質問が有ります。
相模三浦氏の系譜に関しては、「三浦為通−為継−義継−義明−義澄−義村−泰村」とするのが一般的常識ですが、『尊卑分脈』のみは三浦氏の初代を公義としています。唯、『尊卑分脈』は樹童様が仰せの通り、公家関係としては最良の資料ですが、武家関係特に「桓武平氏」となると到底信頼出来る物ではありません。三浦氏が桓武平氏を称したのは後世の偽造だとするのなら尚更です。
三浦氏の系譜に関しては、公義の遺児の為継が為通の養子となって跡を継いだと言う説も有りますが、この説は三浦氏が桓武平氏出身と言う立場からのものであり、到底信頼出来ません。年代・称号から考えますと、為通−為継と言う系譜でやはり正しいと思います。
公義に関しては、為通の次男為俊、その養子・公俊−公義となっており、公俊の息子の公義と同人とすればそれまでですが、別人だとすると、出自は如何なる人物で尚且つ三浦為通一族とはどの様な関係を持っていたかが気になる所です。
三浦公義が桓武平氏の者では無いとするのなら、それこそ太田亮氏が『姓氏家系大辞典』で述べてる古代・御浦氏の末裔の者だと考えられます。そして女系を通して為通は公義の血を引いていたのでは無いのでしょうか。
現にそれを裏付ける様な記述が、房総千葉氏が執筆したとされる『源平闘淨録』に記されています。同書に拠りますと、駿河守忠光が「三浦青雲介」の娘を娶って為通が生まれたの事ですが、忠光は碓井貞光或はその息子の忠通、青雲介は公義の事を指していると考えられます。又は為通が直接公義の娘を娶ったとも考えられます。現に、為通の弟で鎌倉党の祖となった章名は古代の鎌倉氏の娘を妻としています。
何れにせよ相模三浦氏は父系では物部氏に属しますが、母系では古代・御浦氏の血を濃く引いていたのではないかと思われます。
<樹童からのお答え> 1 たしかに『尊卑分脈』の桓武平氏系図では、下野介良正の子で公雅の兄弟に三浦太郎公義をあげ、この公義を同二郎為次の父におき、以下は「同(三浦)庄司義次−同介義明……」として三浦氏の系譜を記載しますから、三浦太郎公義が三浦氏の初代的な位置づけをされています。その一方、同書では村岡五郎良文の子に忠道、その子に三浦平太郎為通、その甥に三浦平太郎為継を記載しますから、為継(=為次)の父としての位置づけに三浦平太郎為通(三浦太郎公義)が当たります。 多くの三浦氏関係系図を見る限り、三浦太郎公義なる者は他に見えず、また平公雅は実際には良兼の子で武蔵守となった実在の人物ですが、この公雅の子孫系統は尾張方面にあるうえ、その兄弟に公義という者は管見に入っていません。三浦為継の父としては一般に為通とされますが、世代数などを考えると、両者の中間に平太郎為直(為名)を入れるのが妥当な模様です(この関係は、宝賀論考「坂東平氏と伊勢平氏(二)」『旅とルーツ』第63号をご参照下さい)。
以上のことから、三浦太郎公義とは、三浦氏を桓武平氏に接合させるために案出された人物(おそらく非実在)と考えられます。「三浦青雲介」なる者は命名からしても、実在の人物とは思われません。三浦氏の菩提寺「青雲寺」からくる名前のようですが。 なお、三浦一族で「公」の字を名に持つ者は、三浦為継の甥(為継の兄弟の駿河守為俊の子)に公俊が見られるくらいで、公俊は十二世紀中葉頃の者とみられますが、その子の「左衛門尉宗俊−為国−国俊−為基(宮沢平太郎)−公綱−為頼−頼俊……」という系図が『信濃系譜草稿』所載の「平姓宮沢氏」に見えています。ただ、公俊は秀郷流藤原氏から養子となったものと伝え、また信濃の宮沢氏には別系もあるようで、実際に三浦一族から出たものかどうかの確認もし難いものがあります。
2 三浦氏の本来の出自がどうであったかは不明な点が多いのですが、平安中期には平姓ないし橘姓を名乗り、とくに平姓は朝廷などからも認められていたこと(駿河守平為俊や傍系祖先にあたる伊作平二貞時、その子孫の大宰大監平季基などの例)は確かなようです。
その実系は、おそらく相武国造の末流であったとみられ、その場合、武蔵国造や出雲国造、物部氏族の同族としてよさそうです。太田亮博士が『姓名録抄』等に見えるとする「御浦氏」がどのような系譜をもっていたかはまったく不明ですので、この氏と三浦氏との関係は分かりませんが、御浦氏がもともと三浦半島の住民(その場合には相模国造一族で直姓か)であったのなら、その子孫が三浦氏の祖系のなかにある可能性があります。
3 『尊卑分脈』は、公家関係としては最良の史料であり、武家関係でも鎌倉末期頃までの系図集としてはその当時までの系譜所伝を知るうえで貴重なものといえましょう。ただ、武家関係には疑問なものが多々あり、なかでも「桓武平氏」の武家となると、清盛につながる系譜以外の地方武家は信頼性がかなり弱いことに十分注意したいものです。
(06.5.14 掲上)
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